黙示録講解

(第376回)


説教日:2019年3月31日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(129)


 黙示録2章27節前半には、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばが記されています。今は、このみことばとの関連で、19章15節で栄光のキリストのことを、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記しているみことばについてお話ししています。
 ここでは、まず、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われています。ここで、栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」の「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。
 この「」(ロムファイア)は、ローマ帝国において皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものでした。このことが背景となって、黙示録では栄光のキリストが長い両刃の「」(ロムファイア)をもっておられる方として示されています。これによって、栄光のキリストこそが、究極的な生殺与奪の権をもっておられるということが示されています。
 このこととの関連で、これまで3回にわたって、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されているみことばについてお話ししました。今日もそのお話を続けます。そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

と記されています。
 いつものように、これまでお話ししたことをまとめておきたいと思います。
 19節ー20節前半には、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と記されています。
 ここで、

 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

と言われていることは、御子イエス・キリストが行われることはすべて父なる神さまのみこころから出ているということを意味しています。
 それとともに、これに続いて、

 すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

と言われています。この場合の、

 すべて父がなさること

と訳されている部分は、

 父がなさることを何でも

というような言い方です。これによって、父なる神さまがなさることで御子イエス・キリストにできないことはないということが示されています。それで、これは、御子イエス・キリストが父なる神さまと等しい方、まことの神であることを意味しています。
 さらに、これに続いて、

 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と言われています。
 ここでは、父なる神さまが御子イエス・キリストにご自身がなさることをすべてお示しになることは、父なる神さまの御子イエス・キリストへの愛から出ているということが示されています。父なる神さまが御子イエス・キリストをとおしてなさるあらゆることにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの間には愛による一致があるのです。
 そのことは、これまで繰り返しお話ししたように、特に、御子イエス・キリストが、私たちご自身の民のために十字架におかかりになったことに表されています。御子イエス・キリストが十字架におかかりになったことは、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛に基づくみこころから出たことでしたし、御子イエス・キリストの父なる神さまへの愛によることでした。
 繰り返しの引用になりますが、ヨハネの福音書14章31節には、イエス・キリストが、十字架の上で死なれることについて、

それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。

と言われたことが記されています。イエス・キリストが私たちご自身の民のためにご自身のいのちをお捨てになったのは、父なる神さまを愛しておられたからです。
 また、ヨハネの福音書10章17節ー18節には、

わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここで、イエス・キリストが、

 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。

と言われたように、イエス・キリストが十字架におかかりになったのは、ご自身の主権的な意志によることでした。そして、

わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

と言われたように、私たちご自身の民のためにご自身のいのちをお捨てになるイエス・キリストを父なる神さまは愛してくださっていたのです。
 少し話がそれて回り道になりますが、ここで、イエス・キリストが、

 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てる

と言われたことは、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえることを指しています。けれども、それはご自身のためのことではありません。
 私たち人間の限界のあることばで言うことしかできませんが[注]、イエス・キリストご自身は永遠に生きておられるまことの神であられ、その栄光は永遠に無限の豊かさに満ちています。その無限の栄光が何らかのことで増えたり減ったりすることはありません。

[注]私たち人間の限界のあることばで言うことしかできないというのは、私たちがあらゆる点において被造物としての限界の中にあることによっています。私たちは神さまがお造りになったこの世界の時間と空間の枠の中にあって存在し、すべてのことを考え、理解しています。私たちは「無限」とか「永遠」ということばを使っていますが、それは、いつまでも(限りなく)続き、どこまでも(限りなく)広がっているというような、量的な「無限」であり「永遠」です。しかし、神さまには、被造物世界の存在の形式である空間的な広がりや時間的な経過はありません。神さまに当てはまる「無限」や「永遠」は、量的な「無限」や「永遠」をはるかに越えていて、私たちには、それがどのようなものであるかを知ることはできません。

 ですから、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえることは、私たちご自身の民をご自身の栄光にあずからせてくださるためのことです。言うまでもなく、これは御子イエス・キリストがお取りになった人としての性質においてお受けになった栄光です。


 まことの神にして無限、永遠、不変の栄光の主である御子が人としての性質を取って来てくださったのは、私たちご自身の民の契約のかしらとなってくださり、私たちと一体となってくださるためでした。
 ガラテヤ人への手紙4章4節ー6節には、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されています。
 ここで、「女から生まれた」と言われているのは、御子イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださったこと、その意味で、まことの人となられたことを意味しています。
 そして、「律法の下にある」というときの「律法」は、ユダヤ人に与えられているモーセ律法というより、そのさらに奥にある、神のかたちとして造られている人の心に記されている「律法」を指していると考えられます。
 このことの背景となっている事情をお話ししておきますと、神のかたちとして造られている人は、初めから、神である「」との契約関係に入れていただいていて、人の心には契約の神である「」との関係のあり方を示す律法が記されています。それで、マタイの福音書22章37節ー39節に記されている、

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」これが、重要な第一の戒めです。「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という第二の戒めも、それと同じように重要です。

というイエス・キリストの教えに示されているように、「」の律法は、「重要な第一の戒め」と「第二の戒め」に集約されます。その「第一の戒め」は、

 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

という戒めです。これは、旧約聖書の申命記6章5節に記されている、
 あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。
という戒めの引用です。申命記6章5節に出てくる、「あなたの神、」の「」は、契約の神である「」ヤハウェです。そして、この「」ヤハウェが「あなたの神」とも呼ばれていて、この戒めを与えられている者が「」ヤハウェとの契約関係にあることが踏まえられています。それで、神である「」との契約関係のうちにないなら、この「重要な第一の戒め」を守ることはできません。また、何よりもまず、神である「」ご自身を愛することなくして、「」の戒めを守ることはできません。
 このように、神さまの律法は、神である「」との関係のあり方を示すものです。このことは、モーセ律法だけでなく、神のかたちとして造られている人の心に初めから記されている神さまの律法にも当てはまります。ですから、神である「」の律法は、「」の契約の枠の中にあるものです。
 神のかたちとして造られている人の心に初めから記されている神さまの律法は、「創造の契約」にかかわる律法です。この契約は一般に「わざの契約」と呼ばれている契約ですが、私たちは、これが創造の御業とともに与えられた契約であり、人はこの契約のうちにあるものとして造られたということから、また、その他いくつかのことから、「創造の契約」と呼んでいます。
 先ほど引用したガラテヤ人への手紙4章4節ー6節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されていることは、すべての人が人類の契約のかしらである最初の人アダムにあって、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、「創造の契約」の違反者となってしまったために、契約違反へののろいの下にあるということを踏まえています。というのは、

それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されているときの「私たち」はユダヤ人だけでなく、「あなたがた」と呼ばれている、異邦人であるガラテヤの教会の信徒たちをも含んでいるからです。というより、これがガラテヤの教会の信徒たちに宛てて記されているということによっていますが、3章からの流れでは、「私たち」ということで一貫しているのでなく、わざわざ「あなたがた」、「異邦人」と言われていていて、異邦人や異邦人であるガラテヤの教会の信徒たちのことに触れられています。3章8節には、

聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。

と記されており、13節ー14節には、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されています。
 ここ3章14節で、

それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と言われていることは、3章29節で、

 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と言われていることを経て、4章6節で、

そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と言われていることにつながっています。

 ここには二つの問題があります。
 一つは、4章4節ー5節では、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。

と言われていて、「律法の下にある」ということが取り上げられていて、契約のことは出てこないと言われるかも知れないということです。
 けれども、先ほどお話ししたように、「」の「律法」は「」の契約の枠の中にあり、「」との契約関係のあり方を示すものです。それで、「」の「律法」に背くことは、「」に背くことであり、「」の契約に違反することです。
 ですから、ここでは、ユダヤ人だけでなく異邦人も含めたすべての人が律法ののろいの下にあることが示されています。そして、この場合の律法は、神さまが創造の御業において、神のかたちとして造られた人の心に記してくださっている律法のことです。これは、すべての人が最初の人アダムにあって、「創造の契約」の違反者になっていて、「」の契約への違反に対するのろいの下にあることを踏まえています。
 もう一つの問題は、この、神さまが創造の御業において、神のかたちとして造られた人の心に記してくださっている律法とモーセ律法の関係はどうなっているかということです。
 神さまは創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになりました。神さまご自身が愛であられるように、神のかたちの本質的な特質は愛です。それで、神のかたちとして造られている人の心に初めから記されている律法は愛の律法です。また、最初に、神のかたちとして造られたときの人には、罪がありませんでした。それで、神のかたちとして造られている人の心に初めから記されている律法には、禁止の戒めはありませんでした。神のかたちとして造られている人の心に愛の律法が記されていたということは、人が考えることもなすことも、常に、神である「」への愛と隣人への愛を動機としており、目的としていたということです。また、具体的な状況において、どうしたら、神である「」への愛と隣人への愛をより豊かに現すことができるかの判断ができたということです。
 これに対して、モーセ律法は、この神のかたちとして造られている人の心に初めから記されている律法を、罪によって堕落してしまった後の人の状態に当てはめる形で与えられています。それで、モーセ律法には、禁止の命令が多く含まれています。
 モーセ律法は十戒に集約され要約されますが、代表的に二つの戒めを取り上げますと、第一戒において、

 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。

と戒められているのは、罪によって堕落した後の人は、造り主である神さまを神としないで、自分たちの考え出した神、自分たちに都合のよい神を神として、それに仕えるようになってしまっているからです。また、第六戒において、

 殺してはならない。

と戒められているのは、殺人を犯すだけでなく、心の中で、憎しみやねたみなどで神のかたちとして造られている人を抹殺したりするようになっているからです。
 それで、モーセ律法においては、人の罪が明らかになるようになっています。
 このことは、モーセ律法において、典型的に見られることですが、神のかたちとして造られている人の心に初めから記されている律法が堕落後の人において果たしている役割にも当てはまります。
 ローマ人への手紙2章14節ー15節には、

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。

と記されています。
 これは、モーセ律法をもっていない異邦人の心には「律法の命じる行い」が記されているということを示しています。この場合の「行い」は単数形で集合名詞として、さまざまな行いが「律法の行い」(直訳)としての性格とまとまりをもっていることを表していると考えられます。
 このことは、神のかたちとして造られている人の心に初めから律法が記されていることを踏まえています。けれども、人が神である「」に罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、その心が腐敗してしまったために、その心に記されている律法も罪によって歪められ、神である「」を神として愛することを中心としたものではなくなってしまっています。
 そうではあっても、その律法に照らして良心が働いて、「彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえする」という状態にあると言われています。その意味で、罪によって歪められてしまっている、心に記されている律法によっても、罪の意識が生じることが示されています。ただし、それは造り主である神さま、契約の神である「」に対して罪を犯したという自覚ではありません。
 より明確には、3章19節ー20節に、

私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

と記されています。ここでは、「すべての口がふさがれて、全世界が」とか「人はだれも」というように、ユダヤ人に限らず、すべての人に当てはまることが記されています。
 ここで「人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない」と言われているときの、「律法を行うこと」は直訳では「律法の行い」で、この場合の「行い」は複数形で、さまざまな「行い」を表しています。それがどのような「律法の行い」であっても、「神の前に義と認められない」ということでしょう。ここでは、むしろ、

 律法を通して生じるのは罪の意識です。

と言われています。
 これでは人には絶望しかないように思われます。

 これらのことは、イエス・キリストが究極的な生殺与奪の権をもっておられるということにかかわっています。
 イエス・キリストが究極的な生殺与奪の権をもっておられるということは、イエス・キリストが最終的にすべての人をおさばきになるということを意味しています。イエス・キリストが神さまに対して罪を犯した人に対する刑罰を執行されるということは、人が当然の報いを受けるということです。それは、神さまの律法の根底にあり、神さまの律法がよって立つ神さまの義に基づくことであり、律法が要求していることです。やはり、これでは人には絶望しかないように思われます。
 しかし、福音のみことばは、イエス・キリストは、神さまに対して罪を犯したご自身の民を、その当然の報いである刑罰からお救いになるということも証しし、約束しています。これは当然のことではありません。
 その場合には、神さまの義はどうなるのかという問題が生じてきます。
 これに対して、父なる神さまは、ご自身が愛しておられる御子を私たちの罪を贖うためにお遣わしになりました。これが無限、永遠、不変の栄光の主である御子でなければならなかったのは、私たちの罪が無限、永遠、不変の栄光の主である神さまに対する罪であり、その重さは無限であるからです。神さまの義に照らすと、私たちの一つの罪でも完全に償うためには、無限の償いがなされなければなりません。それで、父なる神さまはご自身が愛しておられる御子を私たちの罪を贖うためにお遣わしになったのです。
 そして、御子イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべてお受けになりました。それは、また、父なる神さまが私たちの罪に対する聖なる御怒りによる刑罰を余すところなく御子イエス・キリストに下されたということです。これによって、神さまは人の罪をすべて清算され、ご自身の義を表されました。
 それとともに、みことばはこのすべてのことにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの間には愛による一致があったことを示しています。御子イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架にかかって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をすべて受けてくださったことによって、神さまの義がまっとうされただけでなく、神さまの愛がこの上なく豊かに表わされたのです。


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