黙示録講解

(第375回)


説教日:2019年3月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(128)


 先主日は、私が北四日市キリスト教会で礼拝説教を担当させていただいたために、黙示録からのお話はお休みしました。今日は黙示録のお話を続けます。今は、2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節で栄光のキリストのことを、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記しているみことばについてお話ししています。
 これまで4回にわたって、ここで栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」についてお話ししました。
 ここに出てくる「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。この「」(ロムファイア)は、ローマ帝国において皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものでした。この生殺与奪の権はローマ帝国に害をもたらす者たちをさばいて死刑に処する権威です。
 このことが背景となって、黙示録では栄光のキリストが長い両刃の「」(ロムファイア)をもっておられる方として示されています。これによって、栄光のキリストこそが、究極的な生殺与奪の権をもっておられるということが示されています。
 このこととの関連で、前回と前々回は、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されていることについてお話ししました。今日も、このみことばについてお話しします。
 そのみことばを見てみましょう。そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

と記されています。
 これまでお話ししたことをまとめておきます。
 19節ー20節前半では、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と言われています。
 ここで、

 子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

と言われていることは、御子イエス・キリストが行われることはすべて父なる神さまのみこころから出ているということを意味しています。これに続いて、

 すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

と言われています。この場合の、

 すべて父がなさること

と訳されている部分は、

 父がなさることを何でも

というような言い方です。しかも、ここでは、この「何でも」(新改訳「すべて」)が最初に置かれて強調されています。これによって、父なる神さまがなさることで御子イエス・キリストにできないことはないということが示されています。それで、これは、御子イエス・キリストが父なる神さまと等しい方、まことの神であられることを意味しています。
 さらに、これに続いて、

 それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と言われています。このみことばでは、父なる神さまがなさる「愛し」、「する」、「お示しになる」ことがすべて現在時制で表されています。これによって、父なる神さまが御子を愛しておられることも、ご自分がなさることをすべて御子にお示しになることも、変わることがない事実であることを示しています。そして、ここでも、「すべて」ということばが最初に出てきて強調されています。
 ここで大切なことは、父なる神さまが御子イエス・キリストにご自身がなさることをすべてお示しになることは、父なる神さまの御子イエス・キリストへの愛から出ているということです。父なる神さまが御子イエス・キリストをとおしてなさるあらゆることにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの間には愛による一致があるのです。そのことは、前回お話ししたように、特に、御子イエス・キリストが、私たちご自身の民のために十字架におかかりになったことに表されています。御子イエス・キリストが十字架におかかりになったことは、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛に基づくみこころから出たことでしたし、御子イエス・キリストの父なる神さまへの愛によることでした。


 ここで、前回お話ししたことの最後の方の部分を、ほぼそのまま繰り返しますが、マルコの福音書15章25節に記されているように、イエス・キリストが十字架につけられたのは、午前9時のことでした。その時、人々は、イエス・キリストが十字架から降りられないと言ってあざけり、十字架から降りたら信じるとも言ってあざけりました。
 そして、マタイの福音書27章45節ー46節に、

さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

と記されているように、12時から3時まで、暗闇が全地を覆いました。この暗闇は、神である「」のさばきが執行されていることを表すものです。
 午前9時から12時までは、イエス・キリストは、十字架刑がもたらす激しい痛みと人々のあざけりとののしりの中で、十字架から降りるようにと試みられていたのです。イエス・キリストにとって十字架から降りること自体はたやすいことでした。しかし、その時、イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従われて、ご自分の意志で十字架の上にとどまり続けられました。
 ヨハネの福音書10章17節ー18節には、

わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここに記されているように、イエス・キリストが十字架におかかりになったのは、ご自身の主権的な意志によることでした。そして、そのように、私たちご自身の民のためにご自身のいのちをお捨てになるイエス・キリストを父なる神さまは愛してくださっています。また、同じヨハネの福音書14章31節には、イエス・キリストが、十字架の上で死なれることについて、

それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。

と言われたことが記されています。イエス・キリストが私たちご自身の民のためにご自身のいのちをお捨てになったのは、父なる神さまを愛しておられたからです。
 このように、イエス・キリストがご自身の主権的な意志によって、十字架につかれ、そこにとどまられ、私たちの罪へのさばきとのろいをお受けになったのは、父なる神さまへの限りない愛の中で、私たちの罪を贖い、私たちを死と滅びから救い出すという、父なる神さまのみこころに従われたからです。ですから、十字架につけられて、あの暗闇の中で私たちの罪への父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきとのろいをお受けになったイエス・キリストの中には、父なる神さまへの愛があふれていました。
 そして、この父なる神さまへの愛の中で、またこの愛のゆえに、御子イエス・キリストは、苦しみの極みの中から、

 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。

と叫ばれ、父なる神さまを求められたのですが、父なる神さまからの応えは得られませんでした。
 このように、御子イエス・キリストが十字架におかかりになり、最後までそこにとどまられて、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を余すところなくお受けになったのは、私たちへの愛によることですが、それよりさらに深いところでは、父なる神さまへの愛のゆえであったと言うことができます。
 そうであれば、父なる神さまが御子イエス・キリストの上に、私たちの罪に対する刑罰を余すところなく下されたのも、苦しみの極みの中からご自分に向って叫ばれた御子イエス・キリストにお応えにならなかったのも、聖なる怒りの現れですが、それよりもさらに深いところでは、父なる神さまが、ご自身に対する、御子イエス・キリストの愛にお応えになったからであると言うことができます。
 このように、御子イエス・キリストの十字架の死においては、私たちの想像を絶する高さと深さにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛にある一体性が現実となっています。そして、そこから、私たちへの愛と恵みが溢れ出てきています。

 ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節には、父なる神さまの私たちご自身の民への愛のことが、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されています。
 また、同じヨハネの手紙第一の3章16節には、御子イエス・キリストの私たちご自身の民への愛が、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

と記されています。さらに、黙示録1章5節後半ー6節前半には、イエス・キリストのことが、

私たちを愛し、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、ご自分の父である神のために、私たちを王国とし、祭司としてくださった方

と言われています。
 これらのみことばに示されている父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちご自身の民への愛は私たちの思いをはるかに越えたものです。そして、このような父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちご自身の民に対する愛のさらに奥深くには、父なる神さまと御子イエス・キリストの間に無限、永遠、不変の愛が通わされているという、限りなく高く、限りなく深く、限りなく広く、限りなく豊かな神さまの愛の現実があります。御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いは、そのような、私たちの思いを絶する神さまの愛に基づいており、そのような神さまの愛から出ています。それで、私たちは御子イエス・キリストの十字架の死において表されている父なる神さまの愛の高さ深さ広さを永遠に知り尽くすことはできません。
 私たちは終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、私たちを栄光あるものとしてよみがえらせてくださることを知っています。栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造してくださることと、私たちご自身の民をそこに住まわせてくださることを知っています。
 その時、ヨハネの手紙第一・3章1節ー2節に、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

と記されているように、私たちはすべての点において「キリストに似た者」になり、「キリストをありのままに見る」ようになります。それは、やはり、愛のことを記しているコリント人への手紙第一・13章12節に、

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

と記されていることが、私たちの現実になるということです。
 そうではあっても、新しい天と新しい地も歴史的な世界です。そこにはさらなる成長と成熟があります。
 終わりの日には、私たちが「キリストをありのままに見る」ようになるといっても、また、

 そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

といっても、それで御子イエス・キリストとその愛がすべて分かってしまうわけではありません。その点における私たちの完全さは、私たちの成長と成熟のそれぞれの段階における完全さです。
 このそれぞれの段階における完全さがどのようなことかについてお話しするために、二つのことを取り上げたいと思います。
 まず、これを人間の成長に譬えてみましょう。
 生まれたばかりの赤ちゃんは、話すことも、歩くこともできません。産声を上げ、お母さんのおっぱいに吸いつくことくらいしかできません。しかし、生まれたばかりの赤ちゃんとしては、それで十分であって、何かが欠けているということはありません。そこには、その意味での「完全さ」、生まれたばかりの赤ちゃんとしての「完全さ」があるのです。このことは、人としての成長における、それぞれの段階に当てはまります。
 もう一つ、新しい天と新しい地にも成長、成熟があるということとの関わりで、御使いたちのことを考えてみましょう。
 御使いたちのことをお話しするのは、ルカの福音書20章35節ー36節に、「復活があることを否定しているサドカイ人たち」に対してイエス・キリストが、

次の世に入るのにふさわしく、死んだ者の中から復活するのにふさわしいと認められた人たちは、めとることも嫁ぐこともありません。彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。

と言われたことが記されているからです。ここでは、新しい天と新しい地においては、私たちは「御使いのようであり、復活の子として神の子なのです」と言われています。それで、御使いたちに当てはまることには、新しい天と新しい地における私たちに当てはまることもあると考えられます。
 ペテロの手紙第一・1章9節ー12節には、

この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

と記されています。
 今お話ししていることとの関係で注目したいのは、最後の、

 御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

というみことばです。
 ヘブル人への手紙2章7節ー8節前半には、詩篇8篇5節ー6節を引用して、

 あなたは、人を御使いよりも
 わずかの間低いものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。御使いたちに注目しますと、御使いたちは神のかたちとして造られている人よりも「わずかの間」高いものとして造られました。また、御使いたちは罪を犯したことはなく、御使いとしての完全性をもっています。そうではあっても、

 御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。

と言われているように、御使いたちも新たに知ることがあり、その意味での成長や成熟性があります。
 このことは、そのまま、終わりの日に再臨される栄光のキリストのお働きによって、栄光ある状態によみがえる私たち「」の民にも当てはまります。

 このことを踏まえて、御使いたちのことにもう少し注目してみましょう。
 御使いたちは「キリストの苦難とそれに続く栄光」のことを「はっきり見たいと願って」いました。その御使いたちは、自分たちの主であり、無限、永遠、不変の栄光の神の御子イエス・キリストが、私たちご自身に対して罪を犯して背いていた者たちの罪を贖ってくださるために、十字架の上で、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをすべてお受けになったことと、私たちが栄光あるいのちに生きるようにと、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことを知って、どれほど驚嘆したことでしょうか。何とかことばを探してみたのですが、「どれほど驚嘆したことでしょうか」ということしか出てきません。
 そのことを伺わせるのは、黙示録4章ー5章に記されている、天において御座についておられる方と「屠られた子羊」に対する礼拝と讃美の様子です。
 5章11節ー12節には、御使いたちが「屠られた子羊」、すなわち、十字架にかかって死なれた御子イエス・キリストに対する讃美の声を上げていることが記されています。そこには、

また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。彼らは大声で言った、
 「屠られた子羊は、
 力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と讃美を
 受けるにふさわしい方です。」

と記されています。
 ここで、御使いたちは「力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と讃美」というように、七つの讃美のことばを重ねて「屠られた子羊」、ご自身に対して罪を犯して背いた者たちのために十字架におかかりになった方を讃えています。これはいっさいの栄光を「屠られた子羊」に帰する、この上ない讃美です。これに対応する讃美は、7章11節ー12節に記されている、御使いたちの父なる神さまに対する讃美です。そこには、

御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物の周りに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を礼拝して言った。
 「アーメン。賛美と栄光と知恵と
 感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に
 世々限りなくあるように。アーメン。」

と記されています。ここでも「賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢い」というように、七つの讃美のことばを重ねて父なる神さまが讃えられています。
 注目したいことですが、5章11節ー12節において、「その数は万の数万倍、千の数千倍であった」と言われている御使いたちがこぞって、「大声で」これほどの讃美をもって「屠られた子羊」となられた栄光の主イエス・キリストを讃えていますが、イエス・キリストは御使いたちのために「屠られた」わけではありません。
 御使いたちは、その御業が自分たちのためになされたということで、「屠られた子羊」を讃えているのではありません。ここには、罪の自己中心性や、これほどの愛が注がれている私たち「」の民へのねたみの影はみじんもありません。それはひとえに、御使いたちが、御子イエス・キリストの十字架の死においては、私たちの想像を絶する高さと深さにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛にある一体性が現実となっていて、そこから、私たちへの愛と恵みが溢れ出てきているということを汲み取っているからであると考えられます。このことは、ルカの福音書15章10節に、

あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです

と記されている御使いたちのあり方にも表れています。
 これに対して、父なる神さまと御子イエス・キリストのこれほどの愛を注がれている私たちの現実はどうでしょうか。先ほど引用したヨハネの手紙第一・3章16節には、

キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。

と記されていましたが、これに続いて、

 ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。また、4章9節ー10節には、

 神はそのひとり子を世に遣わし、
 その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって
 神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されていました。これに続く11節には、

愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

と記されています。
 しかし、私たちの内にはなおも罪の性質が残っています。そのために私たちの愛も罪が生み出す自己中心性によって歪められてしまっています。また、そのために、私たちは父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を十分に受けとめることさえできないでいます。それで、私たちは自らの愛の足りなさに打ちのめされて、うめいています。ローマ人への手紙8章23節に、

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。

と記されているとおりです。
 私たちは、その後の26節に、

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。

と記されている、御霊の「ことばにならないうめき」によるとりなしによる助けに支えられています。また、34節に、

だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

と記されている御子イエス・キリストのとりなしに支えられています。
 そのような私たちにとって、ヨハネの手紙第一・3章2節に、

愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

と記されていることは希望の光です。
 私たちは、終わりの日には、先ほどの御使いたちのようでありたいと願うでしょうか。しかし、私たちは御使いたちのあり方ではなく、御使いたちのあり方をはるかに越えて、御子イエス・キリストの栄光のかたちに似た者となると言われています。それによって、私たちは御子イエス・キリストの十字架の死において現された父なる神さま愛を、より豊かに受けとめることができるようになります。それによって、私たちは真実な愛をもってお互いに愛し合うことができるようになるばかりか、御子イエス・キリストと父なる神さまを愛することができるようになります。
 そして、その愛の交わりは、永遠に続く新しい天と新しい地の歴史の中で、常に、また、決して絶えることなく、私たちの成長と成熟とともにますます深く豊かになっていきます。


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