黙示録講解

(第374回)


説教日:2019年3月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(127)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に、終わりの日に再臨される栄光のキリストについて、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記されているみことばについてのお話を続けます。
 これまで3回にわたって、この節の冒頭において、栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」についてお話ししました。
 これまでお話ししたことで、今日お話しすることと関連することをまとめておきましょう。
 ここに出てくる「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。この「」(ロムファイア)は、ローマ帝国において皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものでした。この生殺与奪の権はローマ帝国に害をもたらす者たちをさばいて死刑に処する権威です。このことが背景となって、黙示録では栄光のキリストが長い両刃の「」(ロムファイア)をもっておられる方として示されています。栄光のキリストこそが、究極的な生殺与奪の権をもっておられるということです。
 聖書は、そのような究極的な権威は造り主にして歴史の主であられる「」ヤハウェに属しているということを示しています。マタイの福音書10章28節に記されている、

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

というイエス・キリストの教えはこのことを示しています。このように教えられたイエス・キリストは、また、ご自身がこの究極的な権威をもっておられることをも教えておられます。
 このこととの関連で、先主日には、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されていることについてお話ししました。
 改めてそのみことばを見てみましょう。そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

と記されています。
 ここに記されているイエス・キリストの教えには、父なる神さまと御子イエス・キリストの関係が示されています。ここでは、御子イエス・キリストがそのお働きにおいて、父なる神さまから遣わされたメシアであり、父なる神さまのみこころにまったく従っておられることとが示されつつ、ご自身が父なる神さまと等しいまことの神であり、主権者であられることが示されています。
 19節ー20節前半では、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

と言われています。
 ここでは、御子であるイエス・キリストが「自分から」は何も行われないで、父なる神さまがなさっておられることを見て行われることが示されています。これは、御子イエス・キリストが行われることはすべて父なる神さまのみこころから出ているということを意味しています。
 さらに、ここでは、御子イエス・キリストは父なる神さまのなさることのある部分を見て行われるのではなく、

 すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。

と言われています。この場合の、

 すべて父がなさること

と訳されている部分は、

 父がなさることを何でも

というような言い方です。しかも、ここでは、この「何でも」(新改訳「すべて」)が最初に置かれて強調されています。これによって、父なる神さまがなさることで御子イエス・キリストにできないことはないということが示されています。それで、これは、御子イエス・キリストが父なる神さまと等しい方、まことの神であられることを意味しています。
 そればかりでなく、これに続いて、父なる神さまは御子イエス・キリストを愛しておられて(現在時制)、「ご自分がすることをすべて」御子イエス・キリストにお示しになる(現在時制)と言われています。ここでも、「すべて」ということばが最初に出てきて強調されています。
 これによって、父なる神さまが御子イエス・キリストにご自身がなさることをすべてお示しになることは、父なる神さまの御子イエス・キリストへの愛から出ていることが示されています。決して、父なる神さまが無理やり御子イエス・キリストを従わせておられるのではありません。あらゆることにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの間には愛による一致があるのです。
 これには、御子イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったことも含まれています。もちろん、これは、父なる神さまが十字架におかかりになって、それを見ておられる御子イエス・キリストが十字架におかかりになったという意味ではありません。父なる神さまが苦難をお受になったという「天父受苦説」はみことばに反する教えですので、退けられなければなりません。御子イエス・キリストが十字架におかかりになったことは、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛に基づくみこころから出たことでしたし、御子イエス・キリストの父なる神さまへの愛によることでした。この意味において、父なる神さまと御子イエス・キリストは一つとなっておられるのです。


 今日はこのことについて、少し時間を取ってお話しします。
 イエス・キリストが十字架におかかりになったことが、父なる神さまの愛に基づくみこころによることであったということは、いろいろなことから分かりますが、今日はおもに二つのみことばを取り上げます。
 まず取り上げるのは、弟子たちが、イエス・キリストは約束のメシアであることを告白したときのことを記している、マタイの福音書16章に記されていることです。15節ー18節には、

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

と記されています。
 そして、これを受けて、21節ー23節には、

そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

と記されています。
 イエス・キリストは弟子たちの「キリスト告白」を受けて、弟子たちに「ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを」お示しになりました。このことは、これ以前には示されてはいません。
 しかし、それはその当時のユダヤ人たちと同様に、弟子たちが考えているメシア像には、まったく当てはまらないことでした。それで、ペテロは、

 主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。

と言って、イエス・キリストをいさめました。
 これに対して、イエス・キリストは、

下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。

という強いことばをもって、そのペテロの考えていることが、サタンから出ているということをお示しになりました。確かに、ペテロが言っていることは、荒野の誘惑のことを記している4章8節ー9節に、

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」

と記されていること、十字架の死を回避してこの世の主権を掌握しようと勧めることに通じることでした。この荒野の試みでは、このような誘惑をしたサタンに対して、イエス・キリストは、

 下がれ、サタン。

と叱責されました。これは、イエス・キリストがペテロに言われた、

 下がれ、サタン。

ということばを思い起こさせます。ただ、新改訳は、

 下がれ、サタン。

と訳していますが、文字通りには、

 わたしの後ろに下がれ、サタン。

です。この「わたしの後ろに」ということばについては見方が別れていますが、これはペテロに対する叱責のことばですし、イエス・キリストはさらに、

 あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。

と言われて、ペテロの言っていることが父なる神さまのみこころに反していることを示しておられるので、先ほど引用した17節ー18節に記されている、

バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

と言われたこと、すなわち、ペテロが幸いな状態にあるということとは逆の状態になっていることを示しておられると考えられます。ただし、この時は、そのように言われても、ペテロには言われていることの意味が分からなかったと考えられます。
 このようなことを受けて、17章1節ー5節に、

それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

と記されています。これは、父なる神さまが、イエス・キリストに栄光をお与えになって、イエス・キリストが父なる神さまから遣わされたメシアであることを弟子たちに啓示されたことを記しています。今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、父なる神さまの御臨在を表示する「光り輝く雲」の中から、父なる神さまが、

 これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け

と言われたということです。これは、御子イエス・キリストが、この時に初めて、ご自身が多くの苦しみを受けて殺されることを予告されたことと、それを聞いた弟子たちが、メシアにとってそのようなことがあるわけがないと応じたことを受けて語られたことです。
 父なる神さまは、

 これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。

と言われて、ご自身がエルサレムに行って、多くの苦しみを受けて殺されることを弟子たちに予告され、十字架への道を歩み始められたイエス・キリストこそが、父なる神さまの「愛する子」であり、喜ばれる方であることを証しされたのです。そして、

 彼の言うことを聞け

と言われたことによって、ご自身がエルサレムで多くの苦しみを受けて殺されることを教えているイエス・キリストの言うことを聞くようにと命じておられます。弟子たちにとって受け入れがたい、メシアの苦難と死についての教えこそ、弟子たちが聞くべきことであるというのです。
 このことも、父なる神さまから遣わされたメシアであるイエス・キリストが、私たちご自身の民のために十字架にかかって死なれることにおいて、父なる神さまは御子イエス・キリストを愛してられることを示しています。

 これと同じことは、ヨハネの福音書10章17節ー18節にも、

わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

と記されています。
 このこととの関連で、もう一つのことに触れておきましょう。
 イエス・キリストが十字架におかかりになったのは、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださるためでした。そして、父なる神さまは私たちの罪に対する聖なる御怒りをすべて余すところなく御子イエス・キリストに注がれました。その時、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛はどうなったかということです。
 これについては、今から36年前(1983年)に発行した「えるぴす」第9号の最後の部分に記したことを、今お話ししていることに合わせて整えて、お話ししたいと思います。
 繰り返しになりますが、イエス・キリストは私たちご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りを私たちに代わって受けてくださいました。それは、ヨハネの福音書10章18節に記されている、

だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。

というイエス・キリストの教えに示されているように、イエス・キリストが、ご自分の主権的な意志でなさったことであって、何かの成り行きでそうなってしまったということではありません。イエス・キリストがご自身の権威によって、長老、祭司長、律法学者たちの思いや、ローマの総督ピラトの思惑を用いて、十字架におかかりになったということです。
 マルコの福音書15章25節に、

 彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

と記されているように、イエス・キリストが十字架につけられたのは、午前9時のことでした。そして、マタイの福音書27章45節ー46節に、

さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

と記されているように、12時から3時まで、暗闇が全地を覆いました。この暗闇は、神である「」のさばきが執行されていることを表すものです。聖書の中では、いろいろな個所で暗闇が「」のさばきと結びつけられています。
 そして、3時頃、イエス・キリストは、

エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)。

と、大声で叫ばれ、その後、霊を父なる神さまにお渡しになりました。
 それで、午前9時から12時までは、イエス・キリストは十字架刑がもたらす激しい痛みに襲われていますが、まだ、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきは執行されていなかったと考えられます。このことは、その9時から12時の間には、イエス・キリストは、十字架刑がもたらす激しい痛みと人々のあざけりとののしりの中で、十字架から降りるようにと試みられていたことを意味しています。イエス・キリストにとって十字架から降りること自体はたやすいことでした。しかし、その時、イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従われて、ご自分の意志で十字架の上にとどまり続けられました。そのことに、

 わたしが自分からいのちを捨てるのです。

というイエス・キリストの教えの真実さが表されています。
 そして、イエス・キリストが、

わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

と教えておられるように、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために十字架につけられて、そこにとどまっておられる御子イエス・キリストの上には、父なる神さまの限りない愛が注がれていたのです。
 この、御子イエス・キリストへの限りない愛の中で、あの暗闇の3時間において、父なる神さまは私たちの罪に対する聖なる御怒りによる刑罰を余すところなく御子イエス・キリストの上に下されました。そして、愛する御子が苦しみの極みからご自身を求められた時にも、御顔をお隠しになって、その罪の刑罰を執行されました。この時の父なる神さまの御思いを、私たちはとても想像することはできません。限りない愛を注いでおられる御子イエス・キリストの上に、私たちの罪に対する聖なる御怒りを注がれた父なる神さまのうちには、私たちの想像をはるかに越えた、深い痛みがあったのです。
 このことを、私たちはどのように考えたらよいのでしょうか。父なる神さまの私たち人間に対する愛が御子への愛にまさったと言うべきでしょうか。一見するとそのように見えますが、それは、正しくありません。
 このことを理解するためには、御子イエス・キリストの父なる神さまへの愛について理解しなくてはなりません。
 言うまでもなく、イエス・キリストが苦難と死への道を歩まれ、十字架につけられ、そこにとどまり続けられたこと、そして、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りを私たちに代わってすべて受けてくださったことに、イエス・キリストの私たちへの愛がこの上なく豊かに表されています。しかし、それはまた、御子イエス・キリストの父なる神さまへの愛の現れでもあります。
 ヨハネの福音書14章31節には、イエス・キリストが、十字架の上で死なれることについて、

それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。

と言われたことが記されています。
 イエス・キリストがご自身の主権的な意志によって、十字架につかれ、そこにとどまられ、私たちの罪へのさばきとのろいをお受けになったのは、父なる神さまへの限りない愛の中で、私たちの罪を贖い、私たちを死と滅びから救い出すという、父なる神さまのみこころに従われたからです。ですから、十字架につけられて、あの暗闇の中で私たちの罪への父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきとのろいをお受けになったイエス・キリストの中には、父なる神さまへの愛があふれていたのです。
 そして、この父なる神さまへの愛の中で、またこの愛のゆえに、御子イエス・キリストは、苦しみの極みの中から、父なる神さまを求められたのですが、父なる神さまからの応えは得られませんでした。そのような中から、イエス・キリストは、

 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。

と叫ばれました。このように叫ばれたのは、そこに、父なる神さまへの限りない愛があったからに他なりません。また、この愛のゆえに、父なる神さまを求めても応えられないことに対する苦しみは、底知れず深いものとなったと言う他ありません。
 このように、御子イエス・キリストが十字架におかかりになり、最後までそこにとどまられて、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を余すところなくお受けになったのは、私たちへの愛によることですが、それよりさらに深いところでは、父なる神さまへの愛のゆえであったと言うことができます。御子イエス・キリストは父なる神さまを愛しておられるからこそ、ご自分のいのちの値をもって、私たちの罪を贖うという、父なる神さまの愛のみこころに従われたのです。
 そうであれば、父なる神さまが御子イエス・キリストの上に、私たちの罪に対する刑罰を余すところなく下されたのも、苦しみの極みの中からご自分に向って叫ばれた御子イエス・キリストにお応えにならなかったのも、聖なる怒りの現れですが、それよりもさらに深いところでは、父なる神さまが、ご自身に対する、御子イエス・キリストの愛にお応えになったからであると言う他ありません。
 ですから、父なる神さまが御子イエス・キリストの上に、私たちの罪に対する聖なる御怒りによるさばきを下されたその時にこそ、父なる神さまは御子イエス・キリストへの愛にあふれておられたと言うべきでしょう。父なる神さまは、その愛したもう御子イエス・キリストが苦しみの極みからの叫びをもってご自分を求めておられる時に、それにお応えになりませんでした。それが実際にどのようなことであるかは、私たちが想像することもできません。しかし、そのことの中で、父なる神さまは御子イエス・キリストのご自身への愛に応えておられたのです。
 このように、イエス・キリストの十字架の死においては、私たちの想像を絶する高さと深さにおいて、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛にある一体性が現実となっています。そして、そこから、私たちへの愛と恵みが溢れ出てきています。
 イエス・キリストが究極的な意味で生殺与奪の権を持っておられるということも、このような父なる神さまと御子イエス・キリストの愛にある一体性を離れて考えることはできません。
 神である「」に罪を犯している人が「」のさばきを受けて滅びることは、当然の報いを受けることです。しかし、神である「」に罪を犯している人が罪を赦されて、救われることは、当然のことではありません。父なる神さまはそのような私たちのために、十字架におつきになった御子イエス・キリストの上に聖なる御怒りを注がれて、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、そのことには、父なる神さまと御子イエス・キリストの間に愛による完全な一致と一体性がありました。


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