黙示録講解

(第373回)


説教日:2019年3月3日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(126)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に、終わりの日に再臨される栄光のキリストについて、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記されているみことばについてのお話を続けます。
 先主日と先々主日には、この節の冒頭に、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた

と記されているみことばにおいて、栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」についてお話ししました。
 まず、これまでお話ししたことを、補足しつつ振り返ってから、さらにお話を続けます。
 ここに出てくる「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。
 これは、基本的に、兵士たちが戦いの時に使う小さい剣や短い剣(短刀)を表す「」(マカイラ)とは区別されます。この「」(マカイラ)は、新約聖書には29回出てきますが、そのうちの13回がイエス・キリストが十字架につけられるために捕らえられたことを記す記事の中で用いられています。それは、「祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ」(マルコの福音書14章43節)た群衆が「剣や棒」を手にしていたと言われているときの「」、その時、大祭司のしもべに切りかかったイエス・キリストの弟子の一人[ヨハネの福音書18章10節にはそれがペテロ出あったことが示されています]がもっていたと言われている「」、また、その時、イエス・キリストが、

 剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

と言われた教えに出てくる「」などです。
 そのほか、使徒の働き12章2節には、ヘロデ王がヨハネの兄弟ヤコブを「」で斬り殺したこと、16章27節には、ピリピの牢獄の看守が囚人たちが逃げてしまったと思い、「」で自害しようとしたことが記されています。また、ローマ人への手紙8章35節には、「」も私たちをキリストの愛から引き離すことができないと記されていますし、13章4節には、上に立つ権威は神のしもべであって、無意味に「」を帯びてはいないと言われています。
 黙示録の中では、3個所に出てきます。まず、6章4節には、

すると別の、火のように赤い馬が出て来た。それに乗っている者は、地から平和を奪い取ることが許された。人々が互いに殺し合うようになるためである。また、彼に大きな剣が与えられた

と記されています。また、先主日お話しした海から上って来た獣のことと関連していることを記している13章10節には、

捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。

と記されています。さらに、同じ章の14節には、地から上って来た獣の働きのことが、

また、この獣[地から上って来た獣]は、あの獣[海から上って来た獣]の前で行うことが許されたしるしによって、地に住む者たちを惑わし、剣の傷を受けながらも生き返ったあの獣[海から上って来た獣]の像を造るように、地に住む者たちに命じた。

と記されています。
 今お話ししていることとの関連で注目されるのは、エペソ人への手紙6章13節ー17節に、霊的な戦いにおける「神のすべての武具」のことが記されていることです。その「神のすべての武具」の最後に「御霊の剣、すなわち神のことば」が出てきます。この場合の「御霊の剣」の「」が基本的に、兵士たちが戦いの時に使う「」(マカイラ)です。
 これに対して、栄光のキリストの口から出ていたと言われている長い両刃の「」を表すことば(ロムファイア)は、新約聖書の中には7回出てきますが、黙示録に6回出てきます。そして、新約聖書に出てくる7回では、比喩的(ルカの福音書2章35節)か、黙示録での黙示文学的な表象として用いられています。この点でも、新約聖書の中では、長い両刃の「」(ロムファイア)は、基本的に、兵士たちが戦いの時に使う「」(マカイラ)と区別されます。[注]

[注]EDNT(vol.2, p.397b)によると、ヘレニズムの時代には「」を表す三つのことば[ロムファイアとマカイラと細くて長い両刃の「」を表すクスィフォス]の意味は厳密に区別しがたいものとなっていたようです。そのために、EDNTでは、黙示録とヨハネの福音書では明らかにロムファイアとマカイラが区別なく用いられていると言われて、6章4節[「赤い馬」に乗ったものに与えられた「」(マカイラ))]と19章21節[栄光のキリストの「口から出る剣」(ロムファイア)]が挙げられています。しかし、詳しく論じる余裕がありませんが、今お話ししたことを含め、いくつかのことから、この見方には賛成できません。

 先々主日にお話ししたように、この長い両刃の「」は、ローマ帝国において皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものでした。このことが、特に、黙示録の背景となっていると考えられます。
 この生殺与奪の権はローマ帝国に害をもたらす者たちをさばいて死刑に処する権威です。ローマ帝国においては、皇帝や総督たちが、裁判において告発された人を、自分たちの判断で死に処することができました。しかし、聖書は、そのような権威は究極的には、造り主にして歴史の主であられる神である「」に属しているということを示しています。
 先主日にも引用しました、マタイの福音書10章28節に記されている、

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

というイエス・キリストの教えはこのことを示しています。
 このように教えられたイエス・キリストは、また、ご自身がこの究極的な権威をもっておられることをも教えておられます。


 このこととの関連で、ヨハネの福音書5章19節ー29節に記されていることを見てみましょう。そこには、

イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。それは、すべての人が、父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。子を敬わない者は、子を遣わされた父も敬いません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。また父は、さばきを行う権威を子に与えてくださいました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

と記されています。
 ここに記されているイエス・キリストの教えには、父なる神さまと御子イエス・キリストの関係が示されています。
 19節前半の、

まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。

という教えは、イエス・キリストがとても大切なことを語られるときに用いられる、

 まことに、まことに、あなたがたに言います。

ということばによって導入されています。そして、御子であるイエス・キリストが「自分から」は何も行われないで、父なる神さまがなさっておられることを見て行われることが示されています。
 同じことは、30節に記されている、

 わたしは、自分からは何も行うことができません。ただ聞いたとおりにさばきます。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたしは自分の意志ではなく、わたしを遣わされた方のみこころを求めるからです。

という教えにも示されています。
 これらの教えに示されているように、御子は、完全に、父なる神さまのみこころに従っておられます。御子がなさっておられることは、すでになさったことも、今、父なる神さまの右の座に着座されてなさっておられることも、この後、終わりの日に至るまでなさることも、さらには、新しい天と新しい地においてなさるであろうことも、すべて、父なる神さまのみこころによることであり、父なる神さまのみこころと完全に一致しています。
 このことには、もう一つの面があります。それは、19節後半ー20節前半に記されている、

すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。

ということです。ここでは、父なる神さまがなさることで御子イエス・キリストにできないことはないということが示されています。

 すべて父がなさること

と訳されている部分は、

 父がなさることを何でも

というような言い方です。それで、これは、御子イエス・キリストが父なる神さまと等しい方、まことの神であられることを意味しています。
 そして、父なる神さまは御子を愛しておられる(現在時制)ので、ご自分がなさることを「すべて」御子にお示しになると言われています。ここでは、「すべて」ということばが最初に出てきて強調されています。このすべてのことは、父なる神さまの御子に対する愛から出ているというのです。当然、御子も父なる神さまを愛しておられるので、父なる神さまがなさることを何でも行われるのです。
 ですから、御子がなされることのすべてにおいて父なる神さまの御子への愛と、御子の父なる神さまへの愛が映し出されています。
 そして、それは、私たち「」の民と無関係のことではありません。
 これら二つのことが、1章18節に、

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されていることや、14章6節ー7節に、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。

と記されており、9節に、

 わたしを見た人は、父を見たのです。

と記されているイエス・キリストの教えの根底にあります。14章では、この教えに続いて、10節に、

わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

と記されています。
 これらの教えに示されているように、御子イエス・キリストは私たちにご自身とご自身がなされた御業を示してくださいました。それによって、私たちは御子イエス・キリストを知り、御子イエス・キリストをとおして父なる神さまを知るようになりました。それも、父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちへの愛から出ていることです。ですから、私たちは、父なる神さまと御子イエス・キリストの私たちへの愛に触れることなくして、父なる神さまと御子イエス・キリストを知ることはできませんし、父なる神さまと御子イエス・キリストを愛することなくして、父なる神さまと御子イエス・キリストを知ることはできません。

 20節後半には、

 また、これよりも大きなわざを子にお示しになるので、あなたがたは驚くことになります。

というイエス・キリストの教えが記されています。ここでは、父なる神さまが「これよりも大きなわざ」を御子イエス・キリストにお示しになると言われていますが、当然、その「これよりも大きなわざ」も、父なる神さまが御子を愛してお示しになりますし、御子がその「これよりも大きなわざ」を行うことになります。
 その「これよりも大きなわざ」のことは、続く、21節ー22節に、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。

と記されています。
 これは、父なる神さまが御子イエス・キリストに、先ほど触れた、究極的な生殺与奪の権を与えておられることを意味しています。
 旧約聖書においては、神である「」こそが「死人をよみがえらせ、いのちを与えられる」方であるとともに、最終的にさばきを執行される方であることが示されています。
 申命記32章39節には、

 今、見よ、わたし、わたしこそがそれである。
 わたしのほかに神はいない。
 わたしは殺し、また生かす。
 わたしは傷つけ、また癒やす。
 わたしの手からは、だれも救い出せない。

という神である「」のみことばが記されています。
 ここで、

 今、見よ、わたし、わたしこそがそれである。

と言われているときの、

 わたし、わたしこそがそれである。

と訳されていることば(アニー・アニー・フー)は、はヘブル語で記されていますが、これのギリシャ語訳である七十人訳では、「エゴー・エイミ」つまり、

 わたしはある。

と訳されています。このことから推察されますが、この、

 わたし、わたしこそがそれである。

という、契約の神である「」、ヤハウェのみことばは、出エジプト記3章14節に出てくる、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という神さまの御名に相当します。出エジプト記3章14節では、この、

 わたしは、「わたしはある」という者である。

という御名は、

 わたしはある

に短縮されています。
 ここ申命記32章39節では、

 わたし、わたしこそがそれである。

というみことばは、続く、

 わたしのほかに神はいない。

というみことばとつながっていて、「」に比べられるものはないことが示されています。そして、これに続く、

 わたしは殺し、また生かす。
 わたしは傷つけ、また癒やす。
 わたしの手からは、だれも救い出せない。

ということばによって、「」が「殺し、また生かす」方、「傷つけ、また癒やす」方であることはもとより、それ以上の方であることが示されています。「」おひとりが、歴史の主として、この歴史的な世界のすべてのことを治めておられる方であるということ、そして、そのような方として、「」が救いとさばきの御業を遂行されることが示されているのです。これは、「」ヤハウェこそが最終的な生殺与奪の権をもっておられることを意味しています。
 また、イザヤ書26章19節には、

 あなたの死人は生き返り、
 私の屍は、よみがえります。
 覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。
 まことに、あなたの露は光の露。
 地は死者の霊を生き返らせます。

と記されています。
 これはこれに先立つ部分に記されている、「」の懲らしめによる苦難によって「死人」「」に等しい状態になっている中で「」を待ち望み、「」を呼び求めてい民に、契約の神である「」ヤハウェをが望みをもたらしてくださるという約束のことばです。ここで、

 あなたの死人は生き返り、

と言われているときの「あなたの死人」は、「」が心に留めてくださっている「死人」です。契約という観点から言うと、「」が覚えてくださっている「死人」です。それゆえに、

 あなたの死人は生き返り、
 私の屍は、よみがえります。

と言われているばかりでなく、そのことに伴う喜びのことが、

 覚めよ、喜び歌え。土のちりの中にとどまる者よ。
 まことに、あなたの露は光の露。
 地は死者の霊を生き返らせます。

と言われています。
 「」は地を潤すものであり、「」は植物の生長と生き物たちのいのちを支えるものです。この二つはいのちの豊かさと深くかかわっています。
 イザヤ書26章ではこれに続く20節ー21節に、

さあ、私の民よ。あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。憤りが過ぎるまで、ほんのしばらく身を隠せ。それは、がまさにご自分のところから出て、地に住む者の咎を罰せられるからだ。地は、その上に流された血をあらわにし、そこで殺された者たちを再びおおうことはない。

と記されていて、「」が生き返らせ、よみがえらせてくださる「」の民が、「」が執行されるさばきから守られることが示されています。ここで「うしろの戸を閉じよ」と言われていることは、ノアの時代に大洪水によるさばきが執行された時に、ノアとその家族と彼らとともにいた生き物たちが箱舟に入った後、

 は彼のうしろの戸を閉ざされた。

と記されていること(創世記7章16節)を思い起こさせます。
 このように、死者を生き返らせ、よみがえらせるとともに、最終的にさばきを執行されるのは「」おひとりです。そのことを踏まえた上で、ヨハネの福音書5章21節ー22節において、イエス・キリストは、

父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子に委ねられました。

と教えておられます。
 21節に記されている、

 父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

ということは、御子が父なる神さまのみこころにしたがっておられることを示しています。それとともに、「子もまた、与えたいと思う者に」ということは、その父なる神さまのみこころがそのまま御子のみこころであるということを示しています。
 このように、イエス・キリストは「与えたいと思う者にいのちを与え」られる方です。それがどのようになされるかということが24節に、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

と記されています。
 イエス・キリストがいのちをお与えになる人は、イエス・キリストのみことばを聞いて、イエス・キリストをお遣わしになった父なる神さまを信じる人であるというのです。ここでは、イエス・キリストのみことばが決定的に大切であることが示されています。これはある特定のイエス・キリストのみことばではなく、イエス・キリストの教えの全体を指しています。そのイエス・キリストのみことばを聞いて父なる神さまを信じる人は、当然、イエス・キリストのみことばを受け入れており、それゆえに、イエス・キリストを父なる神さまが遣わされた方であると信じている人でもあります。その人は、

 永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく

と言われています。これは現在時制で表されていて、このことが今の、また、常に変わることがない現実であることを示しています。そして、

 死からいのちに移っています。

ということは、完了時制で表されていて、新改訳の訳が示しているように、すでに起こったことが、今もずっと続いていることを示しています。
 これは、霊的ないのちであり、その本質は、父なる神さまと父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じることによって、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛に触れ、その愛のうちに生きることにあります。
 続く25節には、

まことに、まことに、あなたがたに言います。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。

と記されています。ここでも、

 まことに、まことに、あなたがたに言います。

ということばが繰り返されています。ここで、

 死人が神の子の声を聞く時が来ます。

と言われているときの「」がいつであるかについては、

 今がその時です。

と言われています。それで、これはすでに御子イエス・キリストのお働きによって起こっていることです。それで、この場合の「死人」は霊的に死んでいる人です。エペソ人への手紙2章1節ー2節に、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。

と記されている、かつての私たちと同じ状態にある人です。ここでは、その「死人」が「神の子の声」を聞くと生きるようになると言われています。コリント人への手紙第一・2章14節には、

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらはその人には愚かなことであり、理解することができないのです。御霊に属することは御霊によって判断するものだからです。

と記されています。ですから、「死人」が「神の子の声」を聞くことができるのは、「神の御霊」の働きによることです。
 これは現在すでに起こっていることですが、終わりの日に「」の民の現実となる、イエス・キリストにある死者の復活を指し示し、保証するものです。
 ヨハネの福音書5章では、その終わりの日の死者のよみがえりについては、28節ー29節に、

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために、悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

と記されています。ここには、

 今がその時です。

ということばがありません。それで、これは終わりの日における死者のよみがえりのことを記しています。
 これらについては、日を改めてお話しします。


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