黙示録講解

(第372回)


説教日:2019年2月24日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(125)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に、終わりの日に再臨される栄光のキリストについて、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記されているみことばについてのお話を続けます。
 先主日には、この節の冒頭に、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた

と記されているみことばで、栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」についてお話ししました。まず、それをまとめておきましょう。
 ここに出てくる「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。このことばは、新約聖書の中には7回出てきますが、黙示録に6回出てきます。具体的には、1章16節、2章12節、16節、6章8節、19章15節、21節に出てきますが、6章8節で「青ざめた馬」に「乗っている者」がもっている「」以外は、栄光のキリストの「」を表しています。また、栄光のキリストの「」については、ペルガモンにある教会に対して語られた栄光のキリストのみことばを記している2章12節で栄光のキリストのことが「鋭い両刃の剣を持つ方」と言われている以外は、栄光のキリストの「」と関連しています。
 具体的には、栄光のキリストの顕現を記している1章16節では、「口から鋭い両刃の剣が出ていて」と言われています。2章16節では、栄光のキリストがペルガモンにある教会の中に誤った教えを持ち込んできて、信徒たちを惑わしている人々がいることに対して、悔い改めるように戒めておられますが、もし悔い改めることがなければ「わたしの口の剣をもって彼らと戦う」と警告しておられます。次に出てくるのは、今お話ししている19章15節で、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。

と言われています。そして、同じ、19章の21節には、

残りの者たちは、馬に乗っている方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が彼らの肉を飽きるほど食べた。

と記されています。
 これは、この前の19節ー20節に、

また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た。しかし、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた者たちと、獣の像を拝む者たちを惑わした偽預言者も、獣とともに捕らえられた。この両者は生きたまま、硫黄の燃える火の池に投げ込まれた。

と記されていることを受けています。
 栄光のキリストの「口から出る剣」のことを理解するための助けとなると思われるので、まず、ここに出てくる「」に関連することをお話ししたいと思います。
 この「」は13章に記されている「海から」上って来た「」のことで、「」すなわちサタンが呼び出したものです。
 これに先立って、12章1節ー5節には、古い契約と新しい契約をとおして存在する「主」の契約の民を表象的に表す「」が「男の子」を産んだことと、この子が「神のみもとに、その御座に引き上げられた」ことが記されています。この「男の子」は創世記3章15節に記されている「最初の福音」に約束されていた「女の子孫」のかしらとして来られた御子イエス・キリストです。「大きな赤い竜」はその「」が「男の子」を産んだら、その子を食べてしまおうとしていましたが、その子は贖いの御業を成し遂げてから、父なる神さまの右の座に着座されたのです。これに続く、6節には、

 女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。

と記されています。「荒野」は人が住むのには適していない場所です。しかし、そこには「神によって備えられた場所」があると言われています。古い契約の下では、イスラエルの民が「荒野」を通って約束の地であるカナンに向かって進んでいきました。そのイスラエルをマナをもって養い、約束の地まで導いてくださったのは、彼らの間にご臨在された契約の神である「主」、ヤハウェでした。私たちの主イエス・キリストは、公生涯の初めに「荒野」でサタンの試みにあわれました。イエス・キリストは一貫して、神である「主」に信頼して、サタンの試みを退けられました。「男の子」を産んだ「」、すなわち、新しい契約の下にある教会は「神によって備えられた場所」のある「荒野」で神である「主」によって養われるのです。
 これに続いて7節ー12節には、「男の子」が神さまの御許の御座に引き上げられたことに基づいて、天において「ミカエルとその御使いたち」と「竜とその使いたち」の戦いが始まったことが記されています。「竜とその使いたち」はその戦いに敗れて、地上に投げ落とされてしまいました。10節ー11節には、天において「大きな声」が言ったことばが、

 今や、私たちの神の救いと力と王国と、
 神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。
 彼らは死に至るまでも
 自分のいのちを惜しまなかった。

と記されています。
 ここでは、サタンのことが、

 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者

と言われています。今お話ししていることを理解するためにも、このことについて少しお話ししたいと思います。
 マタイの福音書10章28節には、

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

というイエス・キリストの教えが記されています。人はからだを傷つけ殺すことができますが、たましいを滅ぼすことはできません。これに対して、サタンはもともと優れた御使いとして造られたものですから、物質的な面がありません。それで、剣のような血肉の武器を取って人を肉体的に殺すことはできません。また、霊的にも自分の力で人を滅ぼすことはできません。人や、悪魔と悪霊たちをその罪のゆえに滅ぼされる方は、すべてのものをお造りになった神おひとりです。
 自分の力で人を肉体的にも霊的にも滅ぼすことができないサタンは、人が神さまに対して罪を犯すように、そして、罪を犯して神さまの御前に堕落してしまっている人が、さらに罪のうちを歩み続けるようにと、あらゆる偽りと欺きをもって、最初の人アダムとその妻エバの時代から働いています。それによって、人が最終的には、自分の罪に対する神さまのさばきを受けて滅びに至るように仕向けているのです。その意味で、偽りと欺きこそがサタンの武器であり、サタンの力の源です。ヨハネの福音書8章44節には、

悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

という、イエス・キリストの教えが記されています。
 かつての私たちは、自らの罪が生み出している霊的な闇の中にあり、罪をとおして自分たちを支配している暗闇の主権者の働きにも気付くことができないで、最終的には、滅びに至る道をそれと知らずに歩んでいました。エペソ人への手紙2章1節ー3節に、

さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されているとおりです。しかし、続く4節ー5節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

と記されているように、「あわれみ豊かな」神さまは「その大きな愛のゆえに」またイエス・キリストにある恵みによって、私たちをイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、死者の中からのよみがえりにあずからせてくださり、私たちを死と滅びの道から救い出してくださり、ご自身との愛の交わりにある永遠のいのちに生きる者としてくださいました。このことが、コロサイ人への手紙1章13節ー14節には、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

と記されています。
 このイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、サタンとその力は打ち砕かれてしまっています。ヘブル人への手紙2章14節ー15節には、

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

と記されています。


 このように、父なる神さまが私たちを愛してくださり、私たちのためにご自分の御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださって、その十字架の死によって私たちのすべての罪を完全に贖ってくださったということを、私たちは、私たちに伝えられた福音のみことばによって知ることができました。私たちが福音のみことばに証しされている十字架につけられたイエス・キリストを贖い主として信じることができたのは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によっています。御霊が、私たちを栄光のキリストと一つに結び合わせてくださり、新しく生まれさせてくださったことによって、そして、その私たちの心を照らして、福音のみことばを理解させてくださり、福音のみことばに証しされているイエス・キリストを信じるように導いてくださったのです。
 今、サタンは、人々がこの福音のみことばを信じることがないようにとあらゆる偽りと欺きをもって働いています。コリント人への手紙第二・4章1節ー4節に、

こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めについているので、落胆することがありません。かえって、恥となるような隠し事を捨て、ずる賢い歩みをせず、神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。それでもなお私たちの福音に覆いが掛かっているとしたら、それは、滅び行く人々に対して覆いが掛かっているということです。彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。

と記されているとおりです。
 もう一つ注目したいのは、2節で、

 神のことばを曲げず、真理を明らかにすることで

と言われていることです。サタンの偽りと欺きによって、人々が福音のみことばを理解し、悟ることができないようになるだけではありません。サタンの偽りと欺きによって、福音のみことばがさまざまな形で曲げられてしまうようになることがあるのです。すでにその兆しは初代教会の時代に見られました。使徒の働き20章18節ー35節には、パウロがエペソにある教会の長老たちに語ったことばが記されています。その中の、29節ー30節には、

私は知っています。私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、容赦なく群れを荒らし回ります。また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。

と記されています。テモテへの手紙第二・4章1節ー4節には、

神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

と記されています。そして、終わりの日に現れる「不法の者」すなわち反キリストのことを記している、テサロニケ人への手紙第二・2章9節ー12節には、

不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。それで神は、惑わす力を送られ、彼らは偽りを信じるようになります。それは、真理を信じないで、不義を喜んでいたすべての者が、さばかれるようになるためです。

と記されています。
 いずれにしても、御子イエス・キリストの十字架の死によって、サタンはその力を砕かれてしまっています。そして、私たちは十字架につけられたイエス・キリストこそが、父なる神さまが遣わしてくださった贖い主であることを福音のみことばに基づいて信じるようになったことによって、神さまの御前に義と認められ、神の子どもとして受け入れていただいています。これによって、私たちはサタンの支配の下から、御子の御国へと移されています。黙示録12章11節で、

 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。

と言われているのは、このような事情によっています。
 そうであっても、私たちはまだ完全にはきよめられてはいません。私たちの本性はなおも罪によって腐敗しています。それで、私たちは思いとことばと行いにおいて罪を犯します。それで、サタンは神である「主」の御前に、私たちを訴えています。黙示録12章10節で、サタンのことが、

 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者

と呼ばれています。しかし、福音のみことばは、私たちが罪を犯す者であることと、私たちがその罪を告白するなら、神さまが、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいて、その罪を赦してくださるとともに、私たちをきよめてくださることを証ししています。ヨハネの手紙第一・1章8節ー9節に、

もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

と記されているとおりです。
 このように、父なる神さまは私たちのために、いわば「万全の備え」をしてくださっています。そして、私たちのために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けてよみがえってくださった御子イエス・キリストご自身が、父なる神さまの右の座に着いて、私たちのためにとりなしてくださっています。ローマ人への手紙8章33節ー34節には、

だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。

と記されています。

 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者

の訴えは、「神の御前」では、もう空しいことになっているのです。

 このようなことによって、「」すなわちサタンは「自分の時が短いことを知って激しく憤り」、地に下りました(黙示録12章11節)。
 黙示録12章13節ー18節には、

竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒野にある自分の場所に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われるためであった。すると蛇はその口から、女のうしろへ水を川のように吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。しかし、地は女を助け、その口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。

と記されています。
 「地へ投げ落とされた」「」すなわちサタンは「男の子を産んだ女」すなわち新しい契約の下にある教会を追いかけました。しかし、「」は神である「主」が与えてくださる恵みの備えによって「荒野にある自分の場所」に行って、「そこで一時と二時と半時の間、蛇の前から逃れて養われる」ようになります。その間に、「」は「」がもたらすさまざまな誘惑と試練に会うことになりますが、「主」が与えてくださる恵みの備え、特に、荒野でイスラエルを養ったマナの本体であるイエス・キリストの恵みによって養われ、育てられるのです。ペテロの手紙第一・1章5節ー9節には、

あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

と記されています。
 この「荒野」での歩みは、いつまでも続くものではありません。黙示録12章14節ではその期間は「一時と二時と半時」であると言われています。この「一時と二時と半時」は、ダニエル書7章25節と12章7節に出てくる期間を受けています。代表的にダニエル書7章を取り上げますが、そこにはダニエルが夜の幻で見た、「四頭の大きな獣」が次々と「海から上がって来た」ことが記されています。それらの獣はだんだんとその狂暴さが増して行き、第4の獣で頂点に達します。その第4の獣には十本の角がありましたが、その間から「小さな角」が生えてきたとき、その3本が抜けてしまいました。その「小さな角」には「人間の目のような目があり、大言壮語する口」がありました。これが、歴史に登場してくるこの世の帝国、特に、終わりの日に現れてくる反キリストの帝国を指し示しています。7章25節ー26節には、この「小さな角」が、

いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを悩ます。彼は時と法則を変えようとする。聖徒たちは、一時と二時と半時の間、彼の手に委ねられる。しかし、さばきが始まり、彼の主権は奪われて、彼は完全に絶やされ、滅ぼされる。

と記されています。
 このことを背景として黙示録12章14節に記されている「一時と二時と半時」は3年半を表し、ひと月を30日とすると、6節に出てきた「千二百六十日」になります。これは、黙示録では、イエス・キリストがメシアとしてのお働きを始められてから世の終わりまでの期間を示す黙示文学的な表象です。
 「」はさらに「」に対する怒りを現していきます。黙示録12章17節ー18節には、

すると竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、竜は海辺の砂の上に立った。

と記されています。
 ここに出てくる「女の子孫の残りの者」は新しい契約の下にある教会のことです。その意味で、この「女の子孫の残りの者」は「荒野にある自分の場所」で養われる「」と同じですが、ここでは、その新しい契約の下にある教会が「神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保っている者たち」によって構成されているということ、そして、終わり日に至るまで「神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保って」「竜」との霊的な戦いを戦うことが示されています。
 そして、この「女の子孫の残りの者」と戦うために「」が呼び出したのが13章1節ー2節に、

また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒 する様々な名があった。私が見たその獣は豹に似ていて、足は熊の足のよう、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と自分の王座と大きな権威を与えた。

と記されている、海から上って来た「」です。この「」についての描写は、この「」がダニエル書7章に出てきた「四頭の大きな獣」を総合するような「」であることを示しています。
 5節には、

この獣には、大言壮語して冒 のことばを語る口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。

と記されています。この「四十二か月」はひと月を30日とすると「千二百六十日」、「一時と二時と半時」になります。これも、イエス・キリストがメシアとしてのお働きを始められてから世の終わりまでの期間を示しています。この期間は、「」すなわち新しい契約のもとにある教会が「荒野にある自分の場所」で養われる期間であり、「女の子孫の残りの者」が「神の戒めを守り、イエスの証しを堅く保って」「」と「」が呼び出し権威を与えた、海から上って来た「」と、11節ー18節に記されている、地から上って来た「」と霊的な戦いを戦うことになります。
 11節ー13節には、地から上って来た「」のことが、

また私は、別の獣が地から上って来るのを見た。それは、子羊の角に似た二本の角を持ち、竜が語るように語っていた。この獣は、最初の獣が持っていたすべての権威を、その獣の前で働かせた。また、地と地に住む者たちに、致命的な傷が治った最初の獣を拝ませた。また、大きなしるしを行い、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。

と記されています。この地から上って来た「」は、この後は「偽預言者」と呼ばれています。「偽預言者」はサタンがあらゆる偽りと欺きをもって人々を惑わし、罪の闇の中に閉じ込めて滅びに至らせようとしていることを具体的に映し出しています。
 これらから、「」と、「」が呼び出した、海から上って来た「」と地から上って来た「」が、三位一体の神さまを真似していることと、それがが神さまの三位一体とは似ても似つかないものであることが汲み取れます。
 ここでは、地から上って来た「」が、

 地と地に住む者たちに、致命的な傷が治った最初の獣を拝ませた。

と言われていて、海から上って来た「」のことが「致命的な傷が治った最初の獣」と呼ばれています。これは、1節に、海から上って来た「」には「十本の角と七つの頭があった」と言われていますが、3節ー4節前半に、

その頭のうちの一つは打たれて死んだと思われたが、その致命的な傷は治った。全地は驚いてその獣に従い、竜を拝んだ。

と記されていることを受けています。これは、海から上って来た「」が十字架にかかって死んでよみがえられたイエス・キリストの真似をしたことを示していると考えられています。
 「」は父なる神さまを、海から上って来た「」は御子イエス・キリストを、地から上って来た「」は、御子イエス・キリストを証しし、私たちを御子イエス・キリストを信じるように導いてくださる聖霊を真似しています。
 先ほどお話ししたように、サタンは、御子イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架にかかって死なれたことによって、天における霊的な戦いにおいて敗北し、地に投げ落とされてしまっています。サタンの敗北は決定的なものとなっています。それでも、サタンはその武器であるあらゆる偽りと欺きによって、人々を罪の暗闇に閉じ込め、人々が福音のみことばに証しされている十字架につけられたイエス・キリストを信じることを阻止しようとして働いています。そして、「偽預言者」をとおして、さまざまなしるしを行って、人々が「」を拝むように仕向けています。
 これが、終わりの日に至るまでの霊的な戦いの様相であれば、御子イエス・キリストと私たち「主」の契約の民の霊的な戦いにおける武器は福音のみことばであるということになります。これが、栄光のキリストの「口から出る剣」を理解することの根本にあります。


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