黙示録講解

(第371回)


説教日:2019年2月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(124)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に、終わりの日に再臨される栄光のキリストについて、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記されているみことばについてのお話を続けます。
 これまで、これに先立つ11節以下に記されていることをお話ししてきて、先主日まで、14節に、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼[栄光のキリスト]に従っていた。

と記されている「天の軍勢」についてお話ししてきました。今日は、これまでお話ししてきたことをを踏まえて、15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

というみことばを取り上げます。
 ここでは、まず、

 この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた

と言われています。
 ここで栄光のキリストの口から出ていたと言われている「鋭い剣」の「」ということば(ロムファイア)は、長くて、幅が広い両刃の剣を表しています。このことばは、新約聖書の中には7回出てきますが、黙示録に6回、1章16節、2章12節、16節、6章8節、19章15節、21節に出てきます。[注]

[注]黙示録以外ではルカの福音書2章35節に出てきます。34節ー35節には、シメオンが幼子であるイエス・キリストを連れてエルサレム神殿に来たマリアに語った、

ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。それは多くの人の心のうちの思いが、あらわになるためです。

ということばが記されています。ここで、

 あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります。

と言われているときの「」がこのことばです。これは比喩的に、激しい苦しみがもたらされることを表しています。

 黙示録においては、1章10節ー20節に栄光のキリストの顕現のことが記されています。黙示録は、ここでご自身をヨハネに現してくださった栄光のキリストの啓示のみことばです。それで、この栄光のキリストの顕現において示されたことは、黙示録の根底にあることです。
 そのうちの12節ー16節には栄光のキリストの御姿が、

私は、自分に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。また、その燭台の真ん中に、人の子のような方が見えた。その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた。その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬された、光り輝く真鍮のようで、その声は大水のとどろきのようであった。また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。
 ここでは、栄光のキリストは「七つの金の燭台」の「真ん中に」おられる「人の子のような方」としてご自身を現しておられます。この「七つの金の燭台」については20節に、

 七つの燭台は七つの教会である。

と説明されています。栄光のキリストは黙示録2章ー3章に取り上げられている「七つの教会」の「真ん中に」ご臨在してくださっているのです。この「七つの教会」の「」は完全数で、歴史をとおして存在するキリストのからだである教会を代表的に表しています。栄光のキリストは歴史をとおして存在するキリストのからだである教会の「真ん中に」ご臨在してくださっています。
 このように示されている栄光のキリストの御姿の描写の最後の16節には、

 また、右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。
 ここで、

 右手に七つの星を持ち、

と言われているときの「右手」は聖書の中では力と権威を表しています。「七つの星」については、やはり20節に、

 七つの星は七つの教会の御使いたち、

と説明されています。
 この「七つの教会の御使いたち」についてはいろいろな見方がありますが、2章ー3章においては、栄光のキリストがこの「御使いたち」に語りかけておられます。それで、この「御使いたち」が「七つの教会」を代表的に表していると考えられます。そして、「七つの教会」は地上にありますが、それが本質的に天に属するものであることを表していると考えられます。そうではありますが、この「御使いたち」は、今は地にある「七つの教会」のそれぞれを代表的に表わしているので、それぞれの教会が抱えている問題が、この「御使いたち」それぞれに示されています。
 実際に、地上にあるキリストのからだである教会に属している私たちは、本質的に、天に属しています。ピリピ人への手紙3章20節には、

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

と記されています。また、ヘブル人への手紙10章19節ー20節には、

こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

と記されています。ここで、

 私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

と言われているときの「聖所」は、9章24節で、

キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。

と言われている「本物の」聖所、すなわち、「天そのもの」、23節のことばで言うと「天上にある本体そのもの」としての聖所です。私たちは今、地上にあって、御霊に導いていただいて、神さまを礼拝していますが、この天にあるまことの聖所で仕えておられる私たちの大祭司である栄光のキリストが司っておられる礼拝に参与しています。
 栄光のキリストが力と権威を表している「右手に」「七つの星を」もっておられるということは、イエス・キリストが「七つの教会」をご自身のものとして所有しておられることとともに、「七つの教会」をその「右手」で支え、守り、導いてくださっていることを表しています。
 黙示録1章16節では、続いて、

 口から鋭い両刃の剣が出ていて

と言われています。ここでは、この「」が「両刃の剣」であることが明記されています。
 先ほどお話ししたように、この「」ということば(ロムファイア)は新約聖書には7回出てきますが、そのうちの6回が黙示録に出てきます。そして、その6回のうち5回は栄光のキリストがもっておられる「」です。もう1回は、6章8節に出てくる「青ざめた馬」に「乗っている者」がもっている「」です。
 この「青ざめた馬」に「乗っている者」については、その名は「」で「よみがそれに従っていた」と言われています。この「青ざめた馬」に「乗っている者」は6章1節ー8節に記されている、四つの馬に乗っている者の一人です。第1の者は「白い馬」に「乗っている者」、第2の者は「赤い馬」に「乗っている者」、第3の者は「黒い馬」に「乗っている者」で、この後に、「青ざめた馬」に「乗っている者」が出てきます。これらの馬に乗った者が誰であるかについても見方が別れていますが、人間の戦争をしようとする欲望とそれがもたらす悲惨な結果を表象的に表していると考えられます。それで、「青ざめた馬」に「乗っている者」がもっている「」は、この世の主権と結びついています。この点で、この「」は栄光のキリストの口から出ている「」と本質的に違っています。
 いずれにしても、この「」のほとんどが黙示録に出てきます。そして、そのほとんどが栄光のキリストの口から出ている「」です。この栄光のキリストの口から出ている「」について理解するために、数年前にお話ししたことをいくらか補足しながら、振り返っておきます。
 この「両刃の剣」は、ローマ帝国において皇帝とその下にある総督たちがもっていた生殺与奪の権を象徴するものでした。それはローマ帝国に害をもたらす者たちをさばいて死刑に処する権威です。
 死刑のような、究極的な刑罰にかぎらず、あらゆる刑罰を執行することは、裁判をとおして決定されることです。ただ、ローマ帝国においては、その裁判は今日私たちが考える裁判とは違っていて、皇帝や総督たちが自分たちの判断で告発された人を死に処することができました。
 そうであっても、裁判の根底には義があります。その義は、本来、普遍的なものであって、あらゆる時代のあらゆる社会に共通しているはずですが、現実的には、国家や社会の利害、特に支配者たちの権益と深く結びついています。現実の国家や社会では、自分たちを脅かすものは悪とされます。より大きなスケールでは、国家間の争いでは、相手が悪であるとされます。また、その利害にかかわらないとされる、弱い立場の人々は無視されたりします。そのような社会では、不当な抑圧と搾取が生み出されますが、合法的とされる形での抑圧と搾取さえも生み出されます。それが、今日においては、市場経済のグローバル化にともなって、過酷な競争社会が登場してきて、世界の至るところでの現実となっています。


 これに対して、イエス・キリストを主としていただく神の国、メシアの国においては、主であられ王であられるイエス・キリストがご自身の民である私たちのために、ご自身のいのちをお捨てになられました。このことが、メシアの国のあり方を根本的に特徴づけています。
 マルコの福音書10章42節ー45節には、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 これは、37節に記されているように、ヤコブとその兄弟ヨハネがイエス・キリストのもとに来て、

あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。

とお願いした時に、41節に、

 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。

と記されているような状況になったことを受けて、イエス・キリストが語られた教えです。

 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。

と言われていることから分かるように、この時は、イエス・キリストが十二弟子を教えておられます。また、このみことばから、「ほかの十人」もヤコブとヨハネと同じことを考えていたことが分かります。十二弟子たちは、イエス・キリストが王として治められるメシアの国を、この世の国々の最上位にあるものとして理解し、そのメシアの国において、王であるメシアの次の位に就きたいとして争っていました。
 しかも、ヤコブとヨハネがイエス・キリストのもとに行ってこのように願ったことは35節以下に記されていますが、その前の32節ー34節には、

さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」

と記されています。
 その十二弟子の争いは、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかって死なれることと、ご自身の民を新しく生まれさせてくださるために栄光を受けてよみがえってくださることをお話しになったことを受けて始まっています。
 これはこの時だけのことではありません。この時のことは10章に記されていますが、その前の9章31節ー32節には、イエス・キリストが弟子たちに、

 人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる

と教えられたことと、

 弟子たちにはこのことばが理解できなかった。

ことが記されています。これに続く33節ー35節には、弟子たちが「だれが一番偉いか論じ合っていた」ことと、イエス・キリストが、

 だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。

と教えられたことが記されています。
 弟子たちはイエス・キリストが人々に捨てられて、殺されることと、3日の後によみがえることの意味を理解することができなかったために、お互いの序列をめぐる争いをしていました。そして、それを受けて語られた、

 だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。

という、イエス・キリストの教えを理解することができませんでした。それで、この後しばらくして、再び、10章32節ー34節に記されている、イエス・キリストの苦難とよみがえりについての教えを聞いた後、メシアの国における序列をめぐる争いが生じたのです。
 イエス・キリストは彼らに、「異邦人の支配者」たちや「偉い人たち」の支配の仕方と、メシアの国の王であられるご自身の支配の仕方とが本質的に異なっていることを示しておられます。
 イエス・キリストはまず、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

と語られました。「異邦人の支配者」たちや「偉い人たち」は人々の上に権力を振るって、支配するということが示されています。ここで用いられている「横柄にふるまう」と訳されていることば(カタキュリエウオー)は「支配する」(新改訳第3版)ことを表わしていますが、悪い意味で支配するという意味合いを伝えています。同じように、「権力をふるう」ということば(カテクスーシアゾー)も、悪い意味で権力を振るうという意味合いを伝えています。「異邦人の支配者」たちや「偉い人たち」は、人々の上に立って支配し、自分たちの権益を守るために、人々を搾取したり、抑圧したりするというのです。
 これは異邦人の国々だけに見られるものでありません。古い契約の下にあってメシアの国をあかしする「地上的なひな型」としての意味をもっていたイスラエルの民の支配者たちが、この世の権力者と同じ特質をもつようになってしまっていました。契約の神である「」、ヤハウェは、預言者たちをとおしてこのことを繰り返し糾弾しておられます。
 その典型的な事例がエゼキエル書34章1節ー6節に記されています。2節ー6節に記されている「」のみことばを引用すると、そこには、

人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、牧者である彼らに言え。『である主はこう言われる。わざわいだ。自分を養っているイスラエルの牧者たち。牧者が養わなければならないのは羊ではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠るが、羊は養わない。弱った羊を強めず、病気のものを癒やさず、傷ついたものを介抱せず、追いやられたものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した。彼らは牧者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となった。こうして彼らは散らされた。わたしの羊はすべての山々、すべての高い丘をさまよった。わたしの羊は地の全面に散らされ、尋ね求める者もなく、捜す者もない。

と記されています。
 ここに出てくる「イスラエルの牧者たち」の「牧者たち」は、古代オリエントにおいて、古くから民の支配者たちを表すことばでした。これは、考え方として、支配者たちの理想的なあり方を示しています。しかし、実際には、権力に物を言わせて民を搾取し、抑圧することが絶えることはありませんでした。
 それは、異邦の王たちのあり方に倣っているイスラエルの王たちも同じでした。それで、「」は預言者たちをとおして、イスラエルの王たちを糾弾されました。ここエゼキエル書34章2節ー6節で神である「」は、イスラエルの王たちが羊の「脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊を屠る」と言って糾弾しておられます。「牧者たち」にたとえられるイスラエルの王たちは、「」にたとえられている民を搾取して、自らを肥やし、「力ずくで、しかも過酷な仕方で彼らを支配した」のです。
 イエス・キリストが、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

と言われるのは、このような支配者たちの現実です。

 イエス・キリストの弟子たちは、そのような特質をもつ王たちが支配するこの世の国の中で、メシアが支配する国がその頂点にあって、他の国々を支配するようになると考えていました。そして、メシアの国においては、王であるメシアがすべての権力の序列の頂点に立って支配し、その家来たちがそれに次ぐ権力を持つようになっていると考えていたのです。
 その当時であれば、ローマ帝国が地中海世界のあらゆる国々の頂点にあって、君臨していたのですが、メシアの国がローマ帝国に代わって君臨し、すべての国々を支配するということです。
 もしメシアの国が、弟子たちが考えていたようなものであるとすると、メシアの国もこの世の国々の序列の頂点に立つ国として、その主権のもとにある国々を支配し、搾取することになってしまいます。なぜなら、この世の権力のあり方は、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人が生み出したものであるからです。もしメシアの国がそのようなものであれば、暗やみの主権者であるサタンの働きによって強大な権力を握って、反乱を起こす者が現れた時には、血肉の力である武力をもって制圧する他はなくなってしまいます。
 自らの本性が罪によって腐敗してしまい、罪の力によって縛られてしまっている人が生み出す権力は、罪の自己中心性を現すものになってしまいます。
 イザヤ書14章12節ー15節には、

 明けの明星、暁の子よ。
 どうしておまえは天から落ちたのか。
 国々を打ち破った者よ。
 どうしておまえは地に切り倒されたのか。
 おまえは心の中で言った。
 「私は天に上ろう。
 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
 北の果てにある会合の山で座に着こう。
 密雲の頂に上り、
 いと高き方のようになろう。」
 だが、おまえはよみに落とされ、
 穴の底に落とされる。

と記されています。
 これはバビロンの王の高ぶりについて記しているものですが、古代オリエントの神話的な表象によって、人間をはるかに越えた存在の高ぶりを示しています。その意味で、このバビロンの王の高ぶりは暗闇の主権者であるサタンの高ぶりを映し出しています。この世の権力者が権力を極めれば極めるほど、暗やみの主権者であるサタンの主権を映し出すようになっていきます。そのように、この世の権力の序列の頂点には、暗やみの主権者であるサタンがいます。ヨハネの手紙第一・5章19節に、

 私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。

と記されているとおりです。また、コロサイ人への手紙1章13節ー14節に記されている、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

というみことばは、私たちが御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって救われる前には、「暗闇の力」の下にあったことを示しています。
 これに対して、暗やみの主権者であるサタンのさらに上にはメシアがおられると言われるかも知れません。しかし、もしこれが、この世の権力の序列の頂点にこの世で最強の国があり、その上にサタンの暗やみの主権があるけれども、さらにその上に、メシアの主権があるというような、一連の権力構造の中でのことであれば、それは、メシアの国をこの世の国々の権力と同じ本質をもつ国であるとしてしまうことになります。
 マタイの福音書4章1節ー11節には、イエス・キリストがメシアとしてのお働きを開始されたときに、サタンの誘惑に会われたことが記されています。その第3の誘惑のことが、8節ー10節に、

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

と記されています。これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、ここでサタンはイエス・キリストをこの世の権力の序列のうちに取り込もうとしています。もちろん、イエス・キリストはそれを退けられました。
 メシアの主権は、この世の権力者の主権と本質的に異なったものです。そのことは、先ほど引用したイエス・キリストの、

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

という教えに示されています。また、イエス・キリストはご自身の権威について、ヨハネの福音書10章18節で、

だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。

と教えてくださっています。メシアの国においては、王であるメシアがそのしもべたちの罪を贖うためにいのちを捨ててくださいました。メシアは、この世の権力の序列から言えば、最も低いところに立たれたのです。このことに、メシアの主権の本質的な特質が表わされています。
 それで、黙示録において繰り返し出てくる、メシアである栄光のキリストの口から出ている「」も、このようなメシアの主権と深くかかわっていると考えられます。これについては、日を改めてお話しします。


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