黙示録講解

(第370回)


説教日:2019年2月10日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(123)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に、終わりの日に再臨される栄光のキリストについて、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記されているみことばについてのお話を続けます。
 これまで、これに先立つ11節以下に記されていることをお話ししてきて、今は、14節に、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼[栄光のキリスト]に従っていた。

と記されている「天の軍勢」についてお話ししてきました。今日は、これまでお話ししてきたことを、まとめてから、この「天の軍勢」についてのお話を終わりにしたいと思います。
 これまのお話では、まず、「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を支持するとされているみことばの1つである、イスラエルがモーセの後継者であるヨシュアに率いられてカナンの地に侵入したことを記している、ヨシュア記5章13節ー15節についてお話しました。
 そして、このみことばとの関連で、イスラエルがカナンの地に侵入したことは、アブラハム契約に約束されていた、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことを指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっていたことをお話ししました。また、その消極的な面として、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている状態にある人々に対する最終的なさばきの執行がなされることをも指し示す「地上的なひな型」としての意味があったこともお話ししました。
 神である「」がアブラハムと結んでくださった契約に約束されていた、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことの中心には、その新しい天と新しい地にご臨在してくださる栄光のキリストにあって、父なる神さまとの愛によるいのちの交わりに生きるようになるという、神の子どもとしての祝福と特権があります。
 そのことは、神さまがアブラハムに与えてくださった契約を記している創世記17章7節ー8節に記されているみことばの中で、

 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。

と言われた後、

 わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

と言われています。続いて、

 わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。

と言われており、続いて、

 わたしは彼らの神となる。

と言われていることに表されています。
 そして、神である「」は、エジプトの奴隷の状態にあった、アブラハムの子孫であるイスラエルをエジプトから贖い出してくださいました。レビ記25章38節には、

わたしはあなたがたの神、である。わたしは、あなたがたにカナンの地を与えてあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したのである。

と記されています。
 そして、イスラエルを導いてくださって、シナイ山の麓に宿営させ、ご自身がシナイ山にご臨在されて、イスラエルと契約を結んでくださいました。その契約に基づいて、「」は、ご自身がイスラエルの間にご臨在するための聖所としての幕屋を造るように命じられました。出エジプト記25章8節に、

彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

と記されているとおりです。
 これによって、「」の契約の祝福の2つの面が、「地上的なひな型」としてですが、アブラハムの子孫であるイスラエルの間の現実になりました。
 「」の契約の祝福の2つの面は、レビ記26章11節ー12節に記されている、

わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。わたしの心は、あなたがたを嫌って退けたりはしない。わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という「」のみことばに示されています。これは2017年版の訳ですが、12節の、

わたしはあなたがたの間を歩み、あなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

ということばは、より直訳調に、

わたしはあなたがたの間を歩む。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と訳した方がよいと思われます。というのは、

 わたしはあなたがたの間を歩む。

ということは「」の契約の祝福の1つの面を表しており、

 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

ということは「」の契約の祝福のもう1つの面を表しているからです。そして、この「」の契約の祝福の2つの面は、1つのことの裏表のようになっていて、切り離すことができません。
 また、この「」の契約の祝福の2つの面が、

 わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。

ということによって、「」の契約の民の間の現実になります。そして、ここで、

 わたしは、あなたがたのただ中にわたしの住まいを建てる。

と言われていることを、一言で言い表すと「インマヌエル」という、アブラハムの子として来てくださった御子イエス・キリストの預言されていた御名となります(マタイの福音書1章22節ー23節)。
 そして、真の愛の交わりにおいては、自分が愛している人を自分を肥やすための手段とすることはありません。自分が愛している人自身が目的となります。それで、私たち神の子どもが栄光のキリストにあって受け取る相続財産の中心は、父なる神さまご自身にあります。聖書の中には、神である「」ご自身が、相続財産であることを示すみことばが繰り返し出てきます。詩篇16篇5節には、

 は私への割り当て分また杯。
 あなたは私の受ける分を堅く保たれます。

と記されています(詩篇ではそのほか、73篇25節ー26節、119篇57節、142篇5節)。また、哀歌3章24節にも、

 「こそ、私への割り当てです」と
 私のたましいは言う。
 それゆえ、私は主を待ち望む。

と記されています。
 また、父なる神さまも、私たち自身を愛してくださっています。そのことは、ヨハネの手紙第一・4章10節に、

 私たちが神を愛したのではなく、
 神が私たちを愛し、
 私たちの罪のために、
 宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。

と記されている、父なる神さまの私たちへの愛において最も鮮明に示されています。
 そして、自分が愛している人自身が目的となることは、続く10節に、

 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。

と記されており、7節に、

 愛する者たち。
 私たちは互いに愛し合いましょう。
 愛は神から出ているのです。
 愛がある者はみな神から生まれ、
 神を知っています。

と記されている、私たちの愛にも当てはまります。


 これらすべてのことの出発点は神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになり、ご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださったことにあります。創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事において、すべての植物と生き物は、その「種類ごとに」造られたと言われています。しかし、人はその「種類ごとに」ではなく、「神のかたちとして」造られたと言われています。人は1つの「種類」として完結しているのではなく、むしろ、基本的には、神さまとの交わりに生きるものとして造られています。そのことは、具体的には、創造の御業において、神さまから委ねられた、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、現実になっていきます。
 そして、神である「」はこのことを実現してくださるために、エデンの園を設けてくださり、そこに特別な意味でご臨在してくださり、神のかたちとして造られている人をそこに置いてくださいました。エデンの園は神である「」の御臨在の場として聖別されていましたが、そこは「」の御臨在に伴う豊かさに満ちあふれていました。人はそこを耕すことにおいて、「」がお造りになったものをとおして現されている「」の知恵と力、愛といつくしみに接して、いっさいの栄光を神である「」に帰して、「」を神として礼拝することができたのです。
 さらに神である「」は、創造の契約(一般に「わざの契約」と呼ばれています)の祝福として、人が歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、「」のみこころに従いとおしたなら、そのことへの報いとして、最初に神のかたちとして造られた時の栄光より豊かな栄光に満ちたものに造り変えてくださる約束を与えてくださっていました。それは、人が神のかたちとしての栄光において、エデンの園にご臨在される神である「」の御許に近づくことができたときの「」との愛の交わりより、さらに豊かな栄光の状態における愛の交わりにあずかるようになることを意味していました。
 しかし、人に先立って神である「」に背いて堕落していた暗闇の主権者であるサタンは、「蛇」を用いて、エバを誘惑して神である「」に対して罪を犯させ、さらに、エバを用いて、最初の人アダムをそそのかして罪を犯させました。このようにして、最初の人アダムとその妻エバは神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまい、犯した罪に対するさばきに服して、滅ぶべきものになってしまいました。これによって、神さまが創造の御業において示されたみこころは実現することなく、暗闇の主権者が仕掛けた霊的な戦いにおいてサタンが勝利したように思われました。
 しかし、神である「」はサタンに対するさばきの宣告において、「女」と「女の子孫」の共同体が、サタンとその霊的な子孫の共同体に勝利し、最終的には、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方が、サタンとその霊的な子孫の共同体の「かしら」であるサタンを滅ぼされるというみこころを示されました。
 注意すべきことは、これは神さまが創造の御業において示されたみこころの実現をめぐる霊的な戦いであるということです。それで、サタンが滅ぼされても、神さまが創造の御業において示されたみこころが実現しなければ、神である「」の勝利ということにはなりません。
 しかし、神である「」は、「女の子孫」の「かしら」として、また、第二のアダムとして来てくださった御子イエス・キリストをとおして、創造の御業において示されていたみこころを実現してくださいました。イエス・キリストは、その十字架の死によって、私たちご自身の民の罪を完全に贖ってくださいました。これによって、私たちを死と滅びから贖い出してくださいました。そればかりではありません。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、その完全な従順に対する報いとして栄光を受けて、死者の中からよみがえってくださいました。
 私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を完全に贖っていただいているばかりでなく、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれています。それは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によることです。御霊は私たちを栄光のキリストと1つに結び合わせてくださり、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれるようにしてくださり、私たちを神の子どもとして歩むように導いてくださっています。
 その神の子どもとしての歩みの中心は、ローマ人への手紙8章14節ー15節に、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

と記されているように、父なる神さまに向かって「アバ、父」と叫ぶことにあります。ここで、

 「アバ、父」と叫びます。

と言われているときの「叫びます」は、それが思いを込めた、切なる祈りであり、交わりであることを表しています。
 このように、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父」と叫ぶことは、まことの神の御子であるイエス・キリストの特権です(マルコの福音書14章36節)。それは、最初の人アダムにも、御使いたちにも与えられていない特権です。私たちは「子とする御霊」(「養子とする御霊」)によって父なる神さまの養子としていただいているので、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父」と叫ぶことができるのです。この意味で、私たちはエデンの園においてアダムとエバが享受していた神である「」との愛の交わりより、さらに豊かな栄光にある愛の交わりにあずかっています。
 これによって、私たちは、アブラハム契約に約束されている祝福である相続財産の中心にある神である「」ご自身を、私たちの受ける分として受け取っているのです。
 このことにおいて、創造の御業において表されている神さまのみこころは原理的・実質的に実現しており、霊的な戦いにおける神である「」の勝利が確かなものとなっています。
 ただ、黙示録12章7節ー9節に記されているように、天における戦いに敗れて、その使いたちとともに地に投げ落とされたサタンは、自分の滅びの時の近いことを知って、文字通り、死に物狂いになって地上にあるキリストのからだである教会を迫害しています(13節ー17節)。オリーブ山でなされた、終わりの日についてのイエス・キリストの教えのことを記している、マタイの福音書24章9節ー12節に、

そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。

と記されているとおりです。
 これらのことは、今は、霊的な戦いの主戦場が地上にあり、「多くの人の愛が冷えます」と言われている状況にあって、キリストのからだである教会が、この霊的な戦いに参与していることを示しています。そして、その霊的な戦いの勝利は、私たち「」の契約の民が御霊によって導いていただいて、父なる神さまに向かって「アバ、父」と叫ぶことのできる親しさにおいて、父なる神さまを愛して礼拝し、お互いの間で愛の交わりを深くしていくことを中心として歩むことによってもたらされます。
 そうであれば、黙示録12章11節に、

兄弟たちは、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜[サタン]に打ち勝った。彼らは死に至るまでも自分のいのちを惜しまなかった。

と記されている、地上の歩みにおいて「子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに竜に打ち勝った」と証しされている「兄弟たちは」霊的な戦いにおける「女」と「女の子孫」の共同体の勝利を告げる存在として地上の生涯を歩み、天にある故郷に帰った聖徒たちです。
 終わりの日に、栄光のキリストがこれらの聖徒たちを、ご自身の証人として引き連れて来られることは容易に考えられます。

 先主日は、終わりの日に再臨される栄光のキリストが御使いたちを伴って来られることを示している福音書に記されているみことばをいくつか見てみました。
 そのうちの1つであるマタイの福音書16章27節には、

人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

と記されています。
 また、先主日には引用しませんでしたが、テサロニケ人への手紙第二・1章6節ー7節には、

神にとって正しいこととは、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることです。このことは、主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れるときに起こります。

と記されています。
 このようなみことばの教えから、黙示録19章14節に出てくる栄光のキリストに従っていた「天の軍勢」には御使いたちが含まれていることが分かります。
 それとともに、黙示録19章14節では、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。

と言われています。
 ここには「白くきよい亜麻布」が出てきます。これは、同じ19章の8節に、

 花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。

と記されている中に出てくる「輝くきよい亜麻布」を思い起こさせます。どちらも「きよい亜麻布」(ビュッシノス・カサロス)です。この「亜麻布」ということば(ビュッシノス)は新約聖書には4回出てきて、19章8節と14節の他には18章12節と16節に出てきます。すべて、18章と19章に出てきます。18章には、16章19節で触れられており、17章からそれに対するさばきが記されている「大バビロン」のことが記されています。この「大バビロン」は17章1節では「大水の上に座している大淫婦」と呼ばれており、5節には、その「秘められた名」が「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」であると言われています。この「大バビロン」は19章6節ー10節に出てくる「子羊」の「花嫁」と対比されています。その「大バビロン」のことを記している18章12節では、「大バビロン」が「地の商人たち」と取り引きした商品の中に「金、銀、宝石、真珠」に次いで「亜麻布」(ビュッシノス)が出てきます。また、その章の16節ー17節には、「大バビロン」について、

わざわいだ、わざわいだ、大きな都よ。亜麻布(ビュッシノス)、紫布、緋色の布をまとい、金、宝石、真珠で身を飾っていたが、あれほどの富が、一瞬にして荒廃に帰してしまった。

と記されています。このことは、この「亜麻布」が高価な贅沢品であったことを示しています。
 これらの個所では「大バビロン」も「子羊」の「花嫁」も「亜麻布」をまとっていたと言われていますが、「子羊」の「花嫁」は「輝くきよい亜麻布」であると言われています。
 また、先ほど引用した19章8節には、

 花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。

と記されていて、「子羊」の「花嫁」がまとっている「輝くきよい亜麻布」は、「聖徒たちの正しい行いである」と言われています。この場合の「正しい行い」(タ・ディカイオーマタ)は複数形で、さまざまな「正しい行い」を指しています。
 このことは、私たちが信仰によって義と認められていることは矛盾しません。ここで、2つのことに注意したいと思います。
 1つは、は、この「正しい行い」は「聖徒たち」の行いであるということです。それは、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に、神さまの一方的な愛と恵みによってあずかって、「聖徒たち」としていただいている者たちのなしていることです。
 もう1つのことは、「花嫁」はその「輝くきよい亜麻布」を「まとうことが許された」と言われていることです。その「輝くきよい亜麻布」を「まとうこと」は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に、神さまの一方的な愛と恵みによってあずかって、「聖徒たち」としていただいている者たちに与えられている特権であるのです。それで「聖徒たちの正しい行い」も、「聖徒たち」自身の力によるものではなく、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊に導かれて歩むことによって初めてなしうるものです。[注]

[注]これに関連して、ガラテヤ人への手紙に基づいて、もう少し補足しておきたいと思います。
 パウロは、私たちが義と認められるのは信仰によるということを力説しています。ガラテヤ人への手紙2章16節には、

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。

と記されています。
 また、2章最後の21節には、

私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

とも記されており、これに続く、3章1節ー2節には、

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

と問いかけています。
 そして、6節ー9節には、

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。

と記されています。この「信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受ける」ことがどのようなことであるかについては、13節ー14節に、

キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

と記されていて、「アブラハムへの祝福」は「信仰によって約束の御霊を受けるようになる」ことにあるということが示されています。そして、そのことの実現が、4節4節ー6節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

と記されています。このようにして、神さまは「子としての身分を受け」た「私たちの心に」「『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を」遣わしてくださいました。
 それで、私たちはこの御霊に導かれて、父なる神さまとの愛の交わりに生きる神の子どもとしての自由を与えられています。そして、この自由にあって愛のうちを歩むように召されています。5章13節ー14節には、

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。

と記されており、16節には、

 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

と記されています。
 私たちが御霊に導かれて愛のうちを歩むときに、神の子どもとしての私たちの内に芽生えていた愛がより豊かなものに育っていき、22節ー23節において、

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。

と言われている、9つの人格的な特質をもつ「御霊の実」すなわちイエス・キリストに似た人格が成長していきます。
[以上が注]

 また、黙示録17章3節では、「大淫婦」と呼ばれている「大バビロン」が「七つの頭と十本の角」をもつ「緋色の獣」に乗っていると言われています。この「」のことが8節において、

 昔はいたが、今はいません。やがて底知れぬ所から上って来ますが、滅びることになります。

と記されています。これは御使いが説明していることばですが、ここで、

 昔はいたが、今はいません。やがて底知れぬ所から上って来ます

と言われていることは、1章4節や8節などで、神さまのことが、

 今おられ、昔おられ、やがて来られる方

と言われていることをもじったものです。これによって御使いは、サタンもその使いである「」も神さまの真似をするけれども、それは一時的なことで空しいことであるということを示しています。それと同じことですが、

 やがて底知れぬ所から上って来ます

と言われていることも、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことをもじったものです。
 12節ではその「十本の角は十人の王たちです」と言われています。そして、13節ー14節には、

これらの王たちは一つ思いとなり、自分たちの力と権威をその獣に委ねます。彼らは子羊に戦いを挑みますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。」

と記されています。
 ここで、「十人の王たち」から「力と権威」を委ねられた「」は、「彼らは子羊に戦いを挑みます」と言われているように、「十人の王たち」とともに「子羊に戦いを挑みます」。しかし、

 子羊は彼らに打ち勝ちます。子羊は主の主、王の王だからです。

と言われています。それとともに、ここには、

 子羊とともにいる者たちは、召されて選ばれた忠実な者たちです。

と言われています。ここで「召されて選ばれた忠実な者たち」と呼ばれているのは、キリストのからだである教会に属する聖徒たちのことです。最初の2つの「召された」(クレートス)と「選ばれた」(エクレクトス)ということばは、黙示録ではここに出てくるだけですが、その他の個所、特に、パウロの手紙などに出てきます。この2つのことばは、「召された」ことと「選ばれた」ことが神さまの一方的で主権的な愛と恵みによることを示しています。そして、最後の「忠実な」(ピストス)は、黙示録にも出てきて、イエス・キリストについて[1章5節、3章14節、19章11節(2017年版では、すべて「確かな」と訳されています。この訳が適切であるかどうかはおいておきますが、ピストスが忠実で、信頼できることを表すためでしょう。)]も、聖徒たちについて[2章10節(「忠実な」)、13節(「確かな」)]も用いられています。その意味において、父なる神さまのみこころに従いとおされた御子イエス・キリストに倣うあり方です。
 これらのこと、特に、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命をめぐる霊的な戦いにかかわる「」の贖いの御業の歴史という視点から考えられることは、「白くきよい亜麻布を着て」栄光のキリストに従っていた「天の軍勢」の中心に聖徒たちがいることを示しています。


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