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説教日:2019年2月3日 |
これらのイエス・キリストの教えにおいて、イエス・キリストはご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。 これはダニエル書7章記されている預言としてのみことばを背景としています。 ダニエル書7章には、ダニエルが夢の中で示された幻とその意味について記されています。これについては5年以上前にお話ししたことがありますが、黙示録に記されていることの背景となっていますので、それを、まとめながら、いくつか補足したいと思います。 ダニエル書7章2節ー8節には、 ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、なんと、天の四方の風が大海をかき立てていた。すると、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から身を起こされて人間のように二本の足で立ち、人間の心が与えられた。すると見よ、熊に似た別の第二の獣が現れた。その獣は横向きに寝ていて、その口の牙の間には三本の肋骨があった。すると、それに『起き上がって、多くの肉を食らえ』との声がかかった。その後、見ていると、なんと、豹のような別の獣が現れた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。その後また夜の幻を見ていると、なんと、第四の獣が現れた。それは恐ろしくて不気味で、非常に強かった。大きな鉄の牙を持っていて、食らってはかみ砕き、その残りを足で踏みつけていた。これは前に現れたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。私がその角を注意深く見ていると、なんと、その間から、もう一本の小さな角が出て来て、その角のために、初めの角のうち三本が引き抜かれた。よく見ると、この角には人間の目のような目があり、大言壮語する口があった。 と記されています。 これら4頭の獣たちは、ダニエルが仕えていたバビロンの時代から始まって、それに続いて登場してくるこの世の帝国を表しています。それで、これら4頭の獣が、実際に歴史に登場してきたどの帝国であるかということについては、見方が大きく二つに別れています。しかし、それぞれの見方に言い分があり、決着はついていません。 おそらく、これらの帝国がどの国を指しているかはっきりしていないことは、ダニエル書の意図するところであると考えられます。そして、それによって、この世の帝国というものがどのようなものであるかについて、いくつかのことが示されていると考えられます。 第1に、注意すべきことは、これらの帝国が「獣」の表象によって表されているということです。その権力は軍事力や経済的な力などの血肉の力によって支えられています。それは、また、罪の自己中心性によって動かされ、自らを神の位置に据えて、いっさいのものを支配しようとする特徴をもった権力です。そして、このことを実現するために、血肉の力を使って、力ずくで人を支配し、抵抗する者を抹殺します。 このことの根底には、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていることがあります。人は自らの罪の力に縛られてしまっており、罪の自己中心性を現してしまいます。それは、おごりや高ぶり、その裏返しの、ねたみやそしりや憤りという内側の状態から始まり、それを表す暴力的なことばや行いが生まれてきます。それは社会的な形としては、力のある者が弱い立場の人々を搾取し、自らを肥やし、貧しい人々がますます貧困の中に追いやられること、権力者が抵抗する人々を弾圧することなどに現れてきます。さらに、それが、強大な帝国が弱小国を搾取し、虐げることに現れてきます。人類の歴史の中で、これらのことが絶えたことはありません。 第2に、ここに記されている、4頭の獣たちの幻によってダニエルに示されているのは、架空の国々のことではなく、実際に、この世の歴史の中に登場してくる国々のことであるということです。それで、バビロンに続くいくつかの帝国の特徴がこれら4頭の獣に見られる形で記されています。 第3に、これら4頭の獣の「4」という数字は完全数です。特に、2節に出てくる「天の四方の風」ということばや、より一般的な「四方」あるいは「地の四隅」というように、空間的あるいは地理的な広がりの全体性を表します。それで、これら4頭の獣の表象によって、この世の国々全体が表されていると考えられます。 しかも、これら4頭の獣が次々と現れてくるということから、これら4頭の獣の表象によって表されているのは、ダニエルが仕えていたバビロンの時代から世の終わりに至るまでの歴史の中に登場してくるこの世の国々であると考えられます。 第4に、このような意味をもっているこれら4頭の獣についての描写を見ると、だんだんとその凶暴性が増していき、第4の獣において頂点に達しています。これによって、世の終わりに至るまでの歴史の中に登場してくるこの世の国々は、だんだんとその凶暴性を増していくことが示されています。そして、終わりの日に登場してくる帝国、すなわち、8節に出てくる「人間の目のような目があり、大言壮語する口」がある「もう一本の小さな角」によって表されている反キリストの帝国においてその頂点に至ることが示されています。 ここでは、反キリストのことが「人間の目のような目があり、大言壮語する口」があるけれども「小さな角」と呼ばれているます。「人間の目のような目があり、大言壮語する口」がある人の目には強大な帝国であるのですが、「主」の御前には「小さな角」でしかありません。 その意味では、ここに示されていることは、歴史はおのずと進歩して、よくなっていくという自然主義的、楽観的な進歩思想とは対立することです。この場合の「自然主義」というのは、この世界は自然とそうなる(この場合は、進歩する)ようになっているのであって、神の働きなどは関係ないとする見方です。 第5に、これは、たまたまダニエルがこのような幻を見たということではなく、ダニエルが信じ、仕えている「いと高き方」、すなわち、契約の神である「主」、ヤハウェがダニエルにお示しになったものです。この方は、ご自身がこれら4頭の獣によって表象的に表されているこの世の帝国すべてを治めておられる、歴史の主です。 この第5の点について、もう少し注釈しておきましょう。 ここでダニエルが述べていることは、この世の歴史を摂理の御手をもって導いておられる、歴史の主である方がお示しになったことであって、単なる、予知や予告、いわゆる、お告げではありません。 いわゆるお告げは、この先起こることを見通したとして、それを告げるものですが、それを告げた人がこの先起こることに働きかけることができるわけではありません。それで、そのお告げが本当のことであれば、それはもう運命であるということになります。 ここで「主」がダニエルにお示しになったことは確かなことであり、この世の歴史は「主」がお示しになったようになっていきます。それでは、これは運命論的(宿命論的)なものの見方を生み出すのでしょうか。そのようなことはありません。これは、人の罪の深刻さを決して薄めることなく見据えています。それで、歴史はおのずと進歩して、よくなっていくという自然主義的、楽観的な進歩思想は幻想であると考えます。また、人の罪の深刻さを割り引くことなく受けとめるので、罪のもたらす報酬が死であり、歴史の主である方が終わりの日に執行されるさばきによる滅びに至るということを証しし続けます。 しかし、それは運命論的な絶望で終るものではありません。ダニエル書2章において、歴史の主である「大いなる神」は、ダニエルに、7章に記されている幻において示された4頭の獣が表している四つの帝国に相当する四つの帝国のことを示されました。 それらは、ダニエルが仕えていたバビロンの王ネブカドネツァルが見た夢の中に出てきた巨大な像を構成する四つの帝国です。それとともに、「大いなる神」はもう一つの国、すなわち、人手によらずに切り出された石によって表されている国をお示しになりました。44節ー45節には、 この王たち[四つの国々]の時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国はほかの民に渡されず、反対にこれらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼし尽くします。しかし、この国は永遠に続きます。それは、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのを、あなたがご覧になったとおりです。大いなる神が、これから後に起こることを王[ネブカドネツァル]に告げられたのです。その夢は正夢で、その意味も確かです。 と記されています。言うまでもなく、この人手によらずに切り出された石によって表されている国はメシアの御国です。これは、 天の神は一つの国を起こされます と言われているように、神さまが起こされる国であり、血肉の力によって支えられているこの世の国々と本質的に違っています。そして、 その国はほかの民に渡されず、これらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼし尽くします。 と言われているように、この御国の王であるメシアがこの世のすべての国々に対するさばきを執行されます。このことは、マタイの福音書21章44節に記されている、 また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。 というイエス・キリストの教えの背景になっています。このイエス・キリストの教えに出てくる「この石」は、その前の42節に記されている、 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」 というイエス・キリストのみことばに出てくる「家を建てる者たちが捨てた石」であり「それが要の石となった」と言われている「石」のことです。 これは、先ほど触れたマタイの福音書16章13節ー19節に記されている弟子たちのキリスト告白を受けて、27節で、イエス・キリストが語られた、 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。 という教えに先立って、21節で、 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。 と記されていることに当たります。イエス・キリストが「エルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され」ることは、イエス・キリストが「家を建てる者たちが捨てた石」であることに当たります。そして、イエス・キリストが「三日目によみがえ」られたことは、その「家を建てる者たちが捨てた石」が「要の石となった」ことに当たります。 イエス・キリストはにせメシアであるとして「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され」ました。確かに、イエス・キリストは彼らが思い描いていたメシアではありませんでした。彼らが期待していた神から遣わされたメシアであれば、その力を発揮して、ダビデの王座に着座し、その当時、最強の帝国であり、自分たちを支配し苦しめているローマを打ち破り、ユダヤ人を中心とする王国を築き上げるはずでした。しかし、イエス・キリストはそのようなメシアではなかったのです。また、彼らにしてみれば、イエス・キリストが異邦人であるローマ人の手によって十字架にかけられて、神にのろわれたものとして殺されたことこそが、イエス・キリストがにせメシアであることの証拠でした。申命記21章23節には、「木にかけられた者は神にのろわれた者」であると記されています。 しかし、みことばは、十字架にかけられて、神にのろわれたものとして殺された方こそが栄光の主であられ、父なる神さまの栄光を最も豊かに現された方であると証ししています。私たちの罪が贖われるためには、まことの神にして無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが、私たちに代わって神にのろわれたものとして、神の聖なる御怒りによる刑罰をすべて受けて、死の苦しみを味わわなければならなかったのです。このイエス・キリストの十字架の死においてこそ、人の罪の深刻さが最も鮮明に示されています。そして、このイエス・キリストの十字架の死においてこそ、ご自分の愛する御子をも遣わしてくださり、十字架において私たちの罪を完全に贖ってくださった父なる神さまの愛の深さと恵みの豊かさが、この上なく鮮明に示されています。 ダニエル書7章1節ー8節に記されているように、「獣」によって表象的に表されているこの世の国々においては、歴史の流れが終わりの日に近づくにつれて、人の罪の自己中心性がますます鮮明に現れてくるようになります。先ほどのことばを繰り返せば、その罪の自己中心性が、力のある者が弱い立場の人々を搾取し、自らを肥やし、貧しい人々がますます貧困の中に追いやられること、権力者が抵抗する人々を弾圧することなどに現れてきます。さらに、強大な帝国が弱小国を搾取し、虐げることに現れてきます。 しかし、メシアの御国においては、父なる神さまの愛と恵みが現されます。それで、私たちはこの父なる神さまの愛と恵みにあずかっているものとして、父なる神さまの愛と恵みを写し出すものとして歩むように召されています。このメシアの御国では、その王である栄光の主が、その民である私たちのために十字架におかかりになって、私たちが味わうべき、私たちの罪に対する神の聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わってすべて受けてくださいました。このことに、メシアの御国の本質が現されています。 ダニエル書7章においては、2節ー8節に記されている4頭の獣の描写に続いて、9節ー14節には、 私が見ていると、 やがていくつかの御座が備えられ、 『年を経た方』が座に着かれた。 その衣は雪のように白く、 頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。 御座は火の炎、 その車輪は燃える火で、 火の流れがこの方の前から出ていた。 幾千もの者がこの方に仕え、 幾万もの者がその前に立っていた。 さばきが始まり、 いくつかの文書が開かれた。 そのとき、あの角が大言壮語する声がしたので、私は見続けた。すると、その獣は殺され、からだは滅ぼされて、燃える火に投げ込まれた。残りの獣は主権を奪われたが、定まった時期と季節まで、そのいのちは延ばされた。私がまた、夜の幻を見ていると、 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。 その方は『年を経た方』のもとに進み、 その前に導かれた。 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、 この方に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、 過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。 と記されています。 9節に出てくる「年を経た方」は神さまのことを擬人化して表すもので、神さまを知恵に満ちている人になぞらえています。 ここでは、この「年を経た方」方が「座に着かれた」と言われていますが、10節で、 さばきが始まり、 と言われているように、これはさばきの座です。 この方については、 その衣は雪のように白く、 と言われています。これは、義と聖さを表象的に表しています。また、 頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。 と言われていることは、この方が「年を経た方」と言われていることと相まって、この方の知恵を表象的に表していると考えられます。 この方が座しておられる、 御座は火の炎、 その車輪は燃える火で、 火の流れがこの方の前から出ていた。 と言われています。「その車輪」と言われているように、この方の「御座」には「車輪」があります。これは焼き尽くす火の戦車です。聖書では、火は神さまのさばきとかかわっています(詩篇18篇6節ー8節、21篇9節、97篇1節ー3節)。 続く11節には、 そのとき、あの角が大言壮語する声がしたので、私は見続けた。すると、その獣は殺され、からだは滅ぼされて、燃える火に投げ込まれた。 と記されています。「あの角」とは第4の獣の「十本の角」の間から出てきた「小さな角」で「大言壮語する口」があったものです。これは終わりの日に現れてくる反キリストに対するさばきが執行されることを預言的に示すものです。 13節ー14節には、 私がまた、夜の幻を見ていると、 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。 その方は『年を経た方』のもとに進み、 その前に導かれた。 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、 この方に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、 過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。 と記されています。 ここでは 見よ、人の子のような方が 天の雲とともに来られた。 と言われています。 こに出てくる「人の子のような方」は、メシアのことです。イエス・キリストはこの「人の子のような方」を背景として、ご自身のことを「人の子」と呼んでおられます。 ダニエル書7章では、この「人の子のような方」と「年を経た方」は神のかたちとして造られた「人」の表象で表されていて、その前の2節ー8節において、この世の帝国が4頭のどう猛な「獣」の表象によって表されていることと対比されます。 この「人の子のような方」が「天の雲とともに来られた」ということは、聖書の中にしばしば出てくる、神である「主」が霊的な戦いを戦い、さばきを執行される「戦士」であられることとかかわっています(詩篇68篇4節ー6節、104篇1節ー4節、イザヤ書19章1節、ナホム書1章3節)。 それで、「天の雲とともに来られた」方は神であり、契約の神である「主」、ヤハウェです。ですから、ダニエル書7章13節に出てくる「天の雲とともに来られた」「人の子のような方」は人と同じような方でありつつ、神であられます。 14節には、 この方に、主権と栄誉と国が与えられ、 諸民族、諸国民、諸言語の者たちはみな、 この方に仕えることになった。 と記されています。これは、 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、 この方の民となることを預言的に記しています。 それは、創世記12章3節に、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 と記されているアブラハムに与えられた約束が成就することを示しています。 また、続いて、 その主権は永遠の主権で、 過ぎ去ることがなく、 その国は滅びることがない。 と記されていることは、神である「主」がダビデに与えてくださった契約が成就することを示しています。 ダニエル書7章に記されている、幻において示された4頭の獣の表象は、世の終わりに至るまでの歴史の中に登場してくるこの世の国々がだんだんとその凶暴性を増していくことを示しています。そして、終わりの日に登場してくる反キリストの帝国においてその頂点に至ることも示しています。しかし、それは、この世界の絶望的な運命(宿命)を告げているのではありません。終わりの日に至るまでのこの世界の歴史の中に、神である「主」の主権的で一方的な恵みによって、「人の子のような方」の御国がとこしえの御国として打ち立てられていき、終わりの日における完成に至るのです。 これは、単なるお告げではなく、神である「主」が与えてくださった契約に基づき、「人の子のような方」をとおして、必ず実現してくださることです。 |
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