黙示録講解

(第368回)


説教日:2019年1月27日
聖書箇所:ハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(121)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に、終わりの日に再臨される栄光のキリストについて、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記されているみことばについてのお話を続けます。
 これまで、これに先立つ11節以下に記されていることをお話ししてきて、今は、14節に、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼[栄光のキリスト]に従っていた。

と記されている「天の軍勢」についてお話ししています。そして、先主日まで、この「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を支持するとされているみことばの一つであるヨシュア記5章13節ー15節に記されていることと、それに関連することについてお話してきました。
 そこに記されていることは、イスラエルがモーセの後継者であるヨシュアに率いられて、「」がアブラハムと結んでくださった契約、アブラハム契約に約束されていたカナンの地に侵入したこと際のことです。それで、このことと関連して、イスラエルがカナンの地に侵入したことが、「地上的なひな型」として二つの意味をもっているということについてお話しました。一つは、いわば積極的なことで、アブラハムとアブラハムの子孫たちが、アブラハム契約に約束されていた相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことを指し示していたということです。もう一つは、いわば消極的なことで、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている地のすべての民を、最終的におさばきになることを指し示しているということです。
 今日は、すでにお話ししたことを踏まえて、大ざっぱなことになりますが、より広く、神さまのご計画の全体的なつながり、初めと終わりが対応していることについて、これまで詳しくお話ししていなかったことにも触れながら、お話ししたいと思います。
 私たちにかかわるすべてのことの出発点は、無限、永遠、不変の神ご自身にあります。
 すでに繰り返しお話ししてきたことですが、ヨハネの福音書1章1節ー2節には、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されています。
 簡単にまとめますと、

 初めにことばがあった。

と言われているときの「初め」は、創世記1章1節に、

 はじめに神が天と地を創造された。

と言われているときの「はじめ」に当たります。そして、この「天と地」は、この世界に存在する「すべてのもの」を指しています。それで、この「はじめ」は絶対創造の「はじめ」を指しています。ですから、

 はじめに神が天と地を創造された。

というみことばは、この世界に存在する「すべてのもの」には「はじめ」があり、それは、神さまの創造の御業によっているということを示しています。これは、この世界は神さまによって時間的、歴史的な世界として造られていることを示しています。
 また、時間や空間は神さまがお造りになったこの世界の時間であり空間ですので、神さまが創造の御業を遂行される前に時間や空間があったのではありません。時間は創造の御業とともに始まっており、空間は創造の御業とともに存在し始めました。
 このことを背景として、ヨハネの福音書1章1節では、

 初めにことばがあった。

と言われています。この場合の「あった」は、過去[この場合は、絶対創造の「はじめ」]における継続[ありつづけた]を表す未完了時制で表されています。これは、その絶対創造の「はじめ」において、すでに「ことば」が存在していたことを示しています。それで、この「ことば」は永遠に存在しておられる方です。
 そして、1節で、

 ことばは神とともにあった。

と言われているときのは「神とともに」ということば(プロス・トン・セオン)は、「ことば」が「」すなわち父なる神さまの方を向いているという意味合いを伝えています。そして、ヨハネの福音書では1章1節ー18節が序論(プロローグ)ですが、その最後の18節では、「ことば」のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われています。ですから、

 ことばは神とともにあった。

ということは、「ことば」が父なる神さまとの愛の交わりのうちにあることを伝えています。そして、このことは大切なことなので、2節でも、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われていて、その父なる神さまとの愛の交わりが絶対創造の「はじめ」にすでにあったこと、それで、永遠の交わりであることが示されています。
 そして、3節には、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されています。これは、天地創造の御業が、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる「ことば」によって遂行されたことを示しています。ですから、天地創造の御業は、父なる神さまが「ことば」すなわちすなわち、「父のふところにおられるひとり子の神」をとおしてご自身の愛を現された御業です。
 このように、父なる神さまは愛する御子によって遂行された創造の御業において、ご自身の愛を現されました。そして、その神さまの愛を受け止め、愛をもって神さまに応答する存在が、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人です。人は神さまを礼拝することを中心として神さまとの愛の交わりに生きるために、神のかたちとして造られました。
 その神さまとの愛の交わりは、真空の中でなされるものではありません。神さまが備えてくださった環境の中でなされるものです。
 創世記1章2節には、神さまが最初に造り出された「」の状態が、

 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。

と記されています。神さまは「」がいまだ「茫漠として何もなく、闇が大水の面の上に」あった状態の時、すでに、御霊によってご臨在しておられました。「」は初めから、神さまがご臨在される所として聖別されていました。そして、3節に、

 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

と記されているように、神さまがその御臨在の御許から発せられるみことばによって、「」をご自身がご臨在される所として形造り、ご自身の御臨在に伴う豊かな世界として整えていかれました。それで、この「」には、神さまの御臨在を映し出し、証しするものが満ちています。この「」は明るく温かな世界であり、適度に潤い、さまざまな植物や果樹が生い茂っています。また、それによって養われ、育まれている多種多様な生き物たちが生息しています。それらはすべて、創造の御業の初めからこの「」にご臨在してくださっている神さまが、みことばをもって造り出してくださり、みことばをもって、さらに豊かな実を結び、さらに豊かないのちが育まれるように支えてくださり、導いてくださっているものです。
 神さまはこのように、ご自身がご臨在される所として聖別し、それにふさわしく形造り、整えられた「」に、神のかたちとして造られている人を住まわせてくださっています。人はこの神さまがご臨在される「」において、神さまの御臨在を映し出す豊かさに触れながら、神さまとの愛による交わりのうちに生きることができるのです。
 しかも、神さまがお造りになったこの世界は、歴史的な世界です。そして、27節ー28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

と記されているように、神さまは神のかたちとして造られている人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。
 この歴史と文化を造る使命を果たすことの中心は、この「」にご臨在してくださっている神である「」の御前に近づいて、「」の愛を受けとめ、「」を神として愛して礼拝することにあります。それとともに、そのようにして、ともに心を合わせて神である「」を礼拝するものとして、神のかたちの本質的な特質である愛をお互いの間で通わし合いつつ、神さまから委ねられたものたちに対する愛といつくしみを注ぐことによって、神さまがどのようなお方であることを証しし、神さまの栄光を現すことにあります。


 私たちが「」を神として礼拝することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすことは、飲んだり、食べたりするという、ごく日常的なことにまで及んでいます。今日はこのことについて、少し詳しくお話ししたいと思います。
 歴史と文化を造る使命を果たすことは、コリント人への手紙第一・10章31節に、

 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

と記されているように、食べることや飲むことにおいても果たされます。というのは、私たちが飲む水は、神さまがこの「」を豊かに潤う「」としてお造りなって、「」を豊かに潤う「」として保ち続けてくださっていることによって、もたらされているものだからです。私たちは一杯の水を飲むことにおいても、この「」を豊かに潤う「」としてお造りなった神さまの御臨在を身近に感じることができるのです。
 しかし、人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後においては、人のあり方が根本的に変わってしまっています。
 創世記3章17節ー19節に記されているように、神である「」はご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人に対するさばきを、

 あなたが妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 大地は、あなたのゆえにのろわれる。
 あなたは一生の間、
 苦しんでそこから食を得ることになる。
 大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、
 あなたは野の草を食べる。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついにはその大地に帰る。
 あなたはそこから取られたのだから。
 あなたは土のちりだから、
 土のちりに帰るのだ。

と宣告しておられます。
 神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。

と記されているように、「神はいない」ということを大前提として、ものを見、考え、理解し、生きています。そのために、食べる物を得るために労苦して生きるものになってしまっています。
 しかし、本来はそうではありません。先ほど引用した1章28節で、神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命が委ねられたことが記されていることに続いて、29節ー30節には、

神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。

と記されています。
 ここでは、神さまが歴史と文化を造る使命を委ねられた人と、人が治めるようにと委ねられた生き物たちに食べ物を与えてくださっていることが記されています。ただ、それには、違いもあります。人には「種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木」が与えられています。これに対して、生き物たちには「すべての緑の草」が与えられています。その違いは、人の場合には「」のことが取り上げられているのに対して、生き物の場合には、「」のことが取り上げられていないということです。このことは、マタイの福音書6章26節に、

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。

と記されているイエス・キリストの教えを思い起こさせます。
 神さまは、人が食べ物を食べることにおいて、これを与えてくださっているご自身の御臨在を身近に覚えることができるようにしてくださっているのです。そればかりではありません。人は神さまが与えてくださっている「」を蒔く時、その生長を見守る時、その実を刈り取る時、そのすべてにおいて、神さまの御臨在を身近に覚えることができるようにしていただいています。
 さらに、そればかりではありません。
 先ほど引用したイエス・キリストの教えに示されているように、人は歴史と文化を造る使命において自分たちに委ねられている生き物たちが、神さまからいただいている食べ物で養い育てられていることに触れることによっても、生き物たちを養い育ててくださっている神さまの御臨在を身近に覚えることができるようにしていただいています。神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、地を耕し、多くの実がなるようにすることによって、神さまが生き物たちのいのちを養い育ててくださっていることに用いられていきますが、そのことをとおして、生き物たちを養い育ててくださっている神さまの御臨在を身近に覚えることができるようにしていただいているのです。
 このことは、たとえば、今日において、食料品を取り扱っているお店で働いている人は、自分が食料品を取り扱い、販売していることにおいて、神のかたちとして造られている人を養い育ててくださっている神さまの御臨在に触れることができるということを意味しています。
 それは、私たちが花を見て「きれいだ」と感じることにも当てはまります。先ほど引用したマタイの福音書6章26節の少し後の29節には、

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。

というイエス・キリストの教えが記されています。人が花を見て「きれいだ」と感じることができるのは、神さまが花を美しいものとしてお造りになったことによっているだけではありません。神さまが歴史と文化を造る使命を委ねてくださった人に、美しいものを美しいと感じる感性、美的なセンスを与えてくださっているからです。信仰によってこのことをわきまえ知っている人は、花を栽培する人も、それを販売する人も、花を観賞する人に劣らず、その花をきれいに「装って」くださっている神さまの御臨在を身近に覚えることができます。
 このような祝福は、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、「神はいない」ということを大前提として、ものを見、考え、理解し、生きている人には、思いもよらないことです。
 私たちは父なる神さまがその一方的な愛と恵みによって遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦していただき、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって打ち立ててくださった義にあずかって、義と認めていただいています。そして、イエス・キリストの復活にもあずかって新しく生まれています。このことによって、私たちは神さまの御臨在の御前に近づき、御前に立つことができるようになっています。それで、ごく日常的な飲むこと、食べることにおいても、私たちを養い育ててくださっておられる神さまの御臨在を身近に覚えることができる祝福にあずかっているのです。またそれで、繰り返しの引用になりますが、

 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

と戒められています。ですから、私たちが食前の祈りをすることは、ただ食べ物を前にしてのことではありません。私たちを子として愛してくださり、養い育ててくださっている父なる神さまの御臨在を身近に覚えてのことです。
 確かに、今地上に生きている私たちは、食べ物を得るために労苦しなければなりません。そうであっても、食べ物を得ること自体が目的となっているわけではありません。私たちは食べ物を得るために労苦しなければならない状況にあって、父なる神さまに、

 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

と祈り求めます。しかし、私たちが、父なる神さまに、

 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

と祈り求めるのは、食べ物を得るために労苦しなければならないから、食べ物を得るのが難しい状況にあるからではありません。
 最初の人アダムとその妻エバは、エデンの園において常に思いのままに食べ物を得ることができた状況にあっても、これに相当する祈りをしていたと考えられます。というのは、最初に造られた状態にあったアダムとエバにとっては、神である「」が、日々に、食べ物を与えてくださるから、そして、そのために、日々、エデンの園をエデンの園として真実に保ってくださっているから、自分たちが日々に食べ物を得ることができているということは、心に深く刻み込まれているわきまえであったからです。そのわきまえをもって、食べ物をいただくことは、目で見ることができない「」の御臨在を覚える機会でしたでしょう。また、その度に、「」への感謝とともに、「」信頼を表す祈りをしていたことでしょう。
 私たちの場合も、そうです。その上で、さらに、私たちは食べ物を得るために労苦しなければならない状況にあるからこそ、愛とあわれみをもって私たちを顧みてくださっている父なる神さまに信頼するように導かれますし、弱い私たちが「日ごとの糧を」与えてくださる父なる神さまの御臨在を身近に覚えることができるようにしていただいているのです。
 このように、私たちが「」を神として礼拝することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすことは、飲んだり、食べたりするという、ごく日常的なことにまで及んでいます。

 それだけではありません。創世記2章2節ー3節には、

神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

と記されています。
 神さまは天地創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださいました。[注]

[注]新改訳2017年版は、第3版が「休まれた」と訳していることば(シャーバト)を「やめられた」と訳しています。
K=B, p.1407bは、ここでは、一般的な用例に見られる「やめられた」の可能性とともに、直接的あるいは間接的に安息日に関連している場合には「休まれた」の可能性があることを示しています。また、3節において、「やめられた」(2017年版)ことが第7日を祝福して聖別されたことの理由となっているとすると、その意味が分かりにくくななります。さらに、出エジプト20章11節には、神さまが創造の御業の第7日に「休まれた」(ヌーァハ)ことを明示しています。それで、ここでは「休まれた」の方がよいのではないかと思われます。

 この、神さまが創造の御業においてご自身の安息の日として祝福し聖別された第7日が、この歴史的な世界の歴史となっていて、創造の御業以来、現在まで続いており、やがて、終わりの日に至ります。これによって、この世界の時間は無機的でただ流れていくものではなく、造り主である神さまがご自身の安息の時として祝福され、聖別された時間となっています。神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、このように造り主である神さまによって祝福され、聖別されている第7日において、委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行するように召されています。
 この、神さまがご自身の安息の時として祝福され、聖別された第7日にかかわる神さまのみこころは、神のかたちとして造られている人がそのような意味をもった歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、ご自身のみこころに従いとおすことに対する報いとして、人をより豊かな栄光の状態にあるものとしてくださり、ご自身とのより豊かな栄光にある愛の交わりに生きるものとしてくださることでした。
 無限、永遠、不変の栄光の主であるイエス・キリストが人としての性質を取って来てくださったのは、私たちの契約のかしらなる贖い主となってくださるためでした。そして、十字架の死に至るまで父なる神のみこころに従いとおされ、その人としての性質において、栄光をお受けになり死者の中からよみがえりました。それは、私たちご自身の契約の民をご自身の栄光にあずからせてくださるためでした。
 これを契約論的に考えると、イエス・キリストは神さまが創造の御業とともに結んでくださった創造の契約の下にある人としての性質を取って来てくださったということです。人類は最初の人アダムにあって神である「」に対して罪を犯したことによって、創造の契約に違反したものとなり、創造の契約ののろいの下に置かれています。イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架にかかって死んでくださったことは、創造の契約ののろいとしての刑罰を、私たちに代わって受けてくださったということを意味しています。また、イエス・キリストが十字架の死に至るまでの完全な従順に対する報いとしてお受けになった栄光も、創造の契約に約束されている祝福としてお受けになった栄光です。それは、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた最初の人アダムが、歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神のみこころに従いとおしていたら、その従順に対する報いとして受けていたであろう栄光です。それは、人が最初に造られた時の、神のかたちとしての栄光より豊かな栄光です。
 もし、最初の人アダムが、歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神のみこころに従いとおして、その従順に対する報いとしてより豊かな栄光を受けていたとしたら、そして、人類がアダムにあってそのより豊かな栄光の状態に入っていたとしたら、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福して、聖別された神さまの安息は完成されていたはずです。
 しかし、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、そして、私たち「」の契約の民がイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれ、神の子どもとしていただいたことによって、神さまの安息は実質的・原理的に実現しています。それで、私たちは週の第7日ではなく聖書において新しい出発を表す8日目[創世記17章12節(8日目に割礼を施すこと)、レビ記22章27節(新しく生まれた動物をいけにえとすることができたのは8日目から)、9章1節(8日目にアロンが最初のいけにえをささげたこと)、14章1節ー32節(ツァラアトがきよめられた人は8日目から宿営に入ることができた)]、すなわち、週の初めの日を神さまの安息の日としています。
 そして、この神さまの安息は、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を再創造される時に完成します。その終わりの日において創造の御業の第7日は閉じます。そして、新しい天と新しい地も歴史的な世界ですので、それが第8日としての意味をもっています。私たち「」の契約の民は、その第8日の歴史と文化を造る使命を委ねられることになっています(ヘブル人への手紙2章5節ー10節[これは創造の契約にかかわるみことばです])。
 これによって、創造の御業において現された神さまの愛がより豊かに現され、私たちと神さまとの愛の交わりが、この上なく豊かな栄光に満ちたものとなり、神さまの安息が完成するようになります。
 これが、イスラエルがカナンの地に侵入したことが、「地上的なひな型」として指し示していた、アブラハムとアブラハムの子孫たちが、アブラハム契約に約束されていた相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことの成就ということになります。


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