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説教日:2019年1月20日 |
アブラハムの約束の子であるイサクが生まれてからのことを記している21章9節ー13節に、 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、イサクをからかっているのを見た。それで、アブラハムに言った。「この女奴隷とその子を追い出してください。この女奴隷の子は、私の子イサクとともに跡取りになるべきではないのですから。」このことで、アブラハムは非常に苦しんだ。それが自分の子に関わることだったからである。神はアブラハムに仰せられた。「その少年とあなたの女奴隷のことで苦しんではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。というのは、イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ。しかし、あの女奴隷の子も、わたしは一つの国民とする。彼も、あなたの子孫なのだから。」 と記されています。 12節に記されている、 イサクにあって、あなたの子孫が起こされるからだ。 という「主」のみことばは、新約聖書でも引用されていて、ローマ人への手紙9章7節ー8節には、 アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。 と記されています。 ここでは、アブラハムの血肉のつながりが、そのまま、アブラハム契約の祝福を受け継ぐアブラハムの子孫であるわけではなく、イサクを典型とする「約束の子ども」がアブラハムの子孫であることが示されています。 また、ヘブル人への手紙11章17節ー19節では、このことをさらに越えたこととのかかわりを示して、 信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。 と記されています。 ここでは、創世記22章に記されている、神さまがアブラハムにその「約束の子ども」イサクを全焼のいけにえとしてささげるように命じられたとき、アブラハムがそれに従ったことに触れています。創世記22章に記されていることは、アブラハムの子孫のことを考える上で大切なことを示しています。 ヘブル人への手紙11章19節では、その時、アブラハムの中にあったのは、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる」という考えであり、それに基づく信仰によって、イサクを献げたと言われています。17節に記されている、 信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。 というみことばには、同じ動詞(プロスフェロー)で表されている「献げました」(完了時制)と「献げようとした」(未完了時制)が出てきます。アブラハムがイサクを「献げようとした」ということは、実際に、アブラハムがイサクを「祭壇の上の薪の上に載せ」て「手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」(9節ー10節)時に、「主の使い」が天から呼びかけて、それ以上のことをすることを止めたことを受けていると考えられます。しかし、それはアブラハムがイサクを献げなかったということを意味してはいません。ヘブル人への手紙の著者は、 アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。 と証ししています。この場合の「献げました」が完了時制で表されていることは、アブラハムのしたことが卓越したこと、模範となるべきこと(参照・ヤコブの手紙2章21節ー23節)であることを表していると考えられます。それは、アブラハムがイサクを献げたことが中途半端なことだったのではなく、真実なことであり、神さまが確かにイサクを受け取ってくださったことを意味しています。神さまはそのことを明確にしてくださるために、雄羊を備えてくださいました。創世記22章13節に、 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。 と記されているとおりです。 ですから、アブラハムは自分の子であるイサクを神さまに献げました。そして、神さまはそのイサクを受け取ってくださいました。これによって、イサクはアブラハムのものではなく、神さまのものとなりました。その意味で、このイサクはアブラハムとの血肉のつながりを断たれています。これは、2節において、神さまがイサクのことを「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサク」と呼んでおられることと対比されます。その上で、神さまは、ご自身のものとなったイサクを、主権的で一方的な恵みによって、いわば「新しいイサク」をアブラハムに与えてくださったのです。ヘブル人への手紙11章19節には、 それで彼[アブラハム]は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。 と記されています。このことは、アブラハムの子孫であることにおいて大切なことはアブラハムとの血肉のつながりではなく、神さまの一方的な恵みによって、神さまがアブラハムに与えてくださった契約の祝福にあずかっていること、その意味で、神さまの民となっていることにあることを意味しています。 このことを受けて、創世記22章では、15節ー18節に、 主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う――主のことば――。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」 と記されています。 「主」は、この時までは、アブラハムによって「地のすべての部族」(12章3節)、「地のすべての国民」(18章18節)は祝福されると約束してくださっていました。しかし、アブラハムがその約束の子であるイサクを神さまに献げた後には、これが初めてのことですが、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 と約束してくださっています。この「あなたの子孫」は、アブラハムが神さまに献げてしまい、神さまのものとなったイサク、そして、その上で、新たにアブラハムに与えられた「新しいイサク」を典型としているアブラハムの子孫です。 この神さまの約束は、アブラハムの子として来てくださった御子イエス・キリストにおいて私たちの現実になっています。異邦人であるガラテヤ人への手紙3章27節には、 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。 と記されており、29節には、 あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と記されています。 これらのことの出発点は、創世記15章において、「主」がアブラハムに、相続人としてのアブラハムの子孫が、アブラハム自身から生まれてくることを示してくださったこと、そして、アブラハムの子孫が天の星のように多くなることを約束してくださったこと、さらには、アブラハムがそのように約束してくださった「主」を信じた時、「主」がアブラハムを義と認めてくださったことにあります。 アブラハムの子孫は、その時アブラハムが信じて義と認められた「主」の約束に示されていた子孫です。そして、その子孫が与えられるためにアブラハムにできることはありませんでした。アブラハムはただ「主」と「主」の約束を信じて、相続人としての子孫を与えていただいたのです。それで、相続人としてのアブラハムの子孫は、信仰によって義と認められたアブラハムの子孫です。そのアブラハムの子孫は、信仰によって義と認められて、ご自身の契約に基づいてご臨在してくださる「主」の御前に立って、「主」との愛によるいのちの交わりに生きるようになる祝福にあずかっています。 先ほど引用した、ローマ人への手紙9章7節ー8節には、 アブラハムの子どもたちがみな、アブラハムの子孫だということではありません。むしろ、「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」からです。すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもなのではなく、むしろ、約束の子どもが子孫と認められるのです。 と記されていました。ここでは、アブラハムの「約束の子ども」が「神の子ども」であることが示されています。神さまがアブラハムに与えてくださった契約の祝福にあずかって、神さまのものとなって、神さまとの愛によるいのちの交わりに生きている民は「神の子ども」であるのです。 創世記15章では、アブラハムが「主」とその約束を信じて義と認められたことを記している4節ー6節に続く、7節ー21節には、「主」が、アブラハムにアブラハムが滞在しているカナンの地を与えてくださることを約束してくださったことが記されています。 7節には、 主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主である。」 と記されています。 その際に、「主」は当時の契約締結の儀式に従って、アブラハムと契約を結んでくださいました。そこことは、8節ー10節に、 アブラムは言った。「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。 と記されています。 その当時の契約締結の儀式においては「「真っ二つに切り裂」かれた動物の間を通ることによって、もし契約に違反することがあれば、その切り裂かれた動物のようになるようにという制裁を自らに科して契約を結びました[これが契約締結の儀式であるという理解には、学者たちの反論がありますが、私にはその反論が、今一つ、腑に落ちません]。 その契約締結の儀式が行われる際に、「主」はアブラハムに、アブラハムと相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐべきカナンの地にかかわるご計画をお示しになりました。12節ー16節には、 日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」 と記されています。 ここで「主」は、アブラハムの子孫がエジプトの地で寄留者になり、「四百年の間、奴隷となって苦しめられる」こと、その後、「主」は彼らを奴隷としていたエジプトをおさばきになり、アブラハムの子孫たちがエジプトを出て、カナンの地に帰って来ることを示しておられます。 これは、アブラハムの子孫たちが約束の地であるカナンに住むようになることを約束してくださっているものですが、同時に、16節に それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。 と記されているように、「主」がカナンの地に帰ってくるアブラハムの子孫たちをとおして、「アモリ人」によって代表的に示されているカナンの地の住民たち対するさばきを執行されるということをも示しています。 そして、このことが、イスラエルが約束の地であるカナンに侵入することが「地上的なひな型」としての消極的なことを指し示しています。それは、終わりの日に神さまが、アブラハムの子孫として来てくださった栄光のキリストをとおして、暗闇の主権者とその霊的な子孫たちに対するさばきを執行されることを指し示している「地上的なひな型」であるということです。 ここには、今日お話していることとのかかわりで注目したいことがあります。 7節ー8節では、「主」がアブラハムに、 わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主である。 と言われたことが記されています。そして、アブラハムも、 神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。 と応じています。ここでは、「アブラハムが」彼の滞在している地であるカナンを所有するようになることが取り上げられています。ところが、これに続く契約締結の儀式に際して、「主」がアブラハムに語られたのは、アブラハムの「四代目の」子孫たちが、この時アブラハムが滞在している地であるカナンに帰ってくるということでした。そして、アブラハム自身については、15節に、 あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。 と言われています。これでは、7節ー8節に記されている「主」とアブラハムのやり取りにかかわることが取り上げられていないのではないかという気がします。15節において「主」が、 あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。 と言われたのは、アブラハムが自分の晩年のことを心配していたからだという見方があります。しかし、この時、アブラハムが自分の晩年のことを心配していたことを示すものは見当たりません。 このことを理解する鍵は、やはり、13章にと14章に記されていることです。 13章には、甥のロトとアブラハムの家畜などの財産が増えて、二人の住む地域が狭すぎて、別れて住むほかなくなった時に、アブラハムはどこに住むかを選ぶための選択権を甥のロトに与えたことが記されています。また、アブラハムは自分たちの住む所を広げようとして、カナンの地の住民たちから奪い取ることもしませんでした。 また、14章には、メソポタミアの地からケドルラオメルとその連合軍が攻めてきて、ソドムやゴモラの王たちを打ち破り彼らの財産や甥のロトを含めた人々を奪い去った時、アブラハムは同盟者たちとともに、ケドルラオメルとその連合軍を追撃して、巧みな作戦を展開して彼らを打ち破り、ロトとその財産ばかりでなく、カナンの地の民とその財産を取り返しました。しかし、それによって自らを肥やし、富ませようとはしませんでした。そればかりでなく、ケドルラオメルとその連合軍をカナンの地から追い払っています。アブラハムはカナンの地の平穏のために労しています。 これらのことがあった後に、15章のことが記されています。 その時、カナンの地にはすでにカナンの住人たちが住んでいて、彼らの偶像が満ちあふれており、道徳的にも腐敗していました。アブラハムにとってはそのような地が相続財産ではなかったのです。 この時、「主」は偶像に仕え、腐敗している文化を生み出しているカナンの地の住民たちに対して、400年にわたる、深い忍耐を示しておられます。その間に、アブラハムは地上の生涯を終えることになります。さらに、アブラハムの子孫たちが奴隷として虐げられるようになることも示されています。そうであっても、アブラハムはそれに対して、「アブラハムが」カナンの地を受け継ぐことはどうなったのかと問いかけてはいません。また、アブラハムの子孫たちが奴隷として虐げられるようになることに異議を申し立てることなく、むしろ、カナンの地の住民たちに対して深い忍耐を示しておられる「主」のご計画を受け入れています。 ですから、 神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。 と「主」に問いかけた時、アブラハムは自分の地上の生涯を越えた将来のことを望み見ていましたし、地上のカナンの地を越えたはるかに祝福に満ちた相続地を望み見ていたのです。 ヘブル人への手紙11章9節ー10節に、 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。 と記されているように、アブラハムは地上のカナンの地を自分と自分の子孫のものとすることを目指してはいませんでした。ただ、神さまが一方的な恵みによって備えてくださる「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた」のです。そこは、「主」の一方的な恵みにあずかって、信仰によって義と認められ、ご自身の契約に基づいてご臨在してくださる「主」の御前に立って、「主」との愛によるいのちの交わりに生きることができる、豊かな恵みと祝福に満ちた都です。 |
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