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説教日:2019年1月13日 |
15章では、続く7節以下では、7節に、 主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主である。」 と記されていることから分かるように、アブラハムと相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐべきカナンの地にかかわることが記されています。これを受けて、8節ー10節には、 アブラムは言った。「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。 と記されています。 ここで「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊」を「真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした」と言われていることは、その当時の契約締結の儀式に従ってなされたことです。「「真っ二つに切り裂」かれたものの間を通ることによって、もし契約に違反することがあれば、その切り裂かれた動物のようになるようにという制裁を自らに科して契約を結んだのです。 その契約締結の儀式が行われる前に、「主」はアブラハムに、アブラハムと相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐべきカナンの地にかかわる契約をお示しになりました。それが12節ー16節に、 日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」 と記されています。 ここで、「主」はアブラハムの子孫が、エジプトの地で、寄留者になり、さらには、「四百年の間、奴隷となって苦しめられる」ことをお示しになりました。この「四百年の間」はアブラハムに預言として語られたための概数で、実際には430年(出エジプト記12章40節ー41節)です。そして、「主」は彼らを奴隷としていたエジプトをおさばきになり、彼らは「多くの財産とともに、そこから出て来る」ということをお示しになりました。それによって、「四代目の者たち」がカナンの地に帰って来ると言われています。この場合の「四代目」の「一代」(ドール)は、その当時の人々の数え方による人の「寿命」で、アブラハムの時代は百年ほどでした。 「四代目の者たち」がカナンの地に戻って来ることには理由がありました。それは、16節に それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。 と記されているように、「四百年の間」に「アモリ人の咎」が「満ちる」ようになるからです。そして、このことは、「主」が「四代目の者たち」をとおして「アモリ人」に対するさばきを執行されるということを意味しています。この場合の、「アモリ人」はカナンの地の住民全体を代表的に表しています。 このことが示された後、「主」は契約締結の儀式に従って、契約を結んでくださいました。17節ー21節には、 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」 と記されています。 この時は、 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。 と記されているように、「主」の栄光の顕現が「切り裂かれた物の間を通り過ぎ」ましたが、アブラハムが「切り裂かれた物の間を通り過ぎ」ることは求められませんでした。このことも、相続人としてのアブラハムの子孫が約束の地であるカナンの地を受け継ぐことは、「主」がその契約によって保証してくださったことであり、「主」がその一方的な恵みによって実現してくださることであることを示しています。 これと同時に、ここでは、アブラハムの子孫がエジプトの地において奴隷として過ごす「四百年の間」に「アモリ人の咎」が「満ちる」ようになり、「主」が「四代目の者たち」をとおして「アモリ人」に対するさばきを執行されるというみこころも示されています。 ですから、イスラエルがヨシュアに率いられてカナンの地に侵入したことには、「アモリ人の咎」すなわちカナンの住民の咎が満ちてしまったので、「主」がイスラエルの民を用いてそのさばきを執行されるという意味がありました。そして、このことは、終わりの日に神さまが、アブラハムの子孫として来てくださった栄光のキリストをとおして、暗闇の主権者とその霊的な子孫たちに対するさばきを執行されることを指し示している「地上的なひな型」としての意味をもっています。 このように、イスラエルがモーセの後継者であるヨシュアに率いられてカナンの地に侵入したことには、「主」がアブラハムと結んでくださった契約に約束されていた、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことを指し示す「地上的なひな型」としての意味がありましたが、このことには、もう一つの意味がありました。それは、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことに先立って、その罪の咎を満たしてしまう、暗闇の主権者とその霊的な子孫たちに対するさばきを執行されることを指し示している「地上的なひな型」としての意味をもっていたのです。 そうすると、ヨシュア記5章13節ー15節に、 ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。 と記されていることは、イスラエルがヨシュアに率いられたことのもう一つの意味、すなわち、その罪の咎を満たしてしまったカナンの地の民たちへのさばきが執行されるということとのかかわりで理解すべきことです。そして、そのさばきの執行の主体は、イスラエルの民にあります。もちろん、それは、ここで「主の軍の将」としてご自身を現され、ヨシュアが礼拝した「主」が、イスラエルの民の間にご臨在してくださって、「主の軍の将」として、先に立ってくださり、ともに戦ってくださるということです。申命記31章7節ー8節に、 それからモーセはヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの目の前で彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の父祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」 と記されているとおりです(さらに、20章1節、4節も見てください)。 このことには、さらなる背景があります。それは、最初の「女」を神である「主」に対して罪を犯すようにと誘惑した「蛇」の背後にあって働いていたサタンへのさばきのことばを記している創世記3節15節に、 わたしは敵意を、おまえと女の間に、 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。 彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。 と記されている、「最初の福音」としての意味をもっていることばです。 ここで神である「主」はサタンへのさばきの宣告において、 わたしは敵意を、おまえと女の間に、 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。 と宣告されました。「 主」が罪によってサタンと一体になってしまっている「女」エバは、サタンの思惑に従って、夫アダムに善悪の知識の木から取った実を与えました。それによって、アダムも善悪の知識の木から取ったものを食べて罪を犯してしまいました。 その後、「主」はご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった、二人に悔い改める機会を与えてくださいましたが、二人は罪を認めて悔い改めることはありませんでした。二人が自分たちの力でサタンとの一体性を断ち切ることはできなかったのです。 このことが明らかになった時、「主」は「女」と「女の子孫」の共同体と、「おまえ」と呼ばれている「蛇」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体の間に「敵意」を置いてくださって、この二つの共同体を敵対関係にあるものとしてくださることを、このサタンへのさばきのことばにおいて約束してくださいました。これによって、霊的な戦いが展開していくようになります。 そして、この霊的な戦いにおいて、「女」と「女の子孫」の共同体は、神である「主」に敵対している「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体と戦うようになります。それは、「女」と「女の子孫」の共同体が神である「主」の側に立つことを意味していて、「女」と「女の子孫」の共同体に属している者たちが救われることを意味しています。 結論的なことしか言うことができませんが、この3章ー4章に記されていることから、アダムとエバはこの「主」の約束を信じたと考えられます。しかし、それは二人の力によったのではなく、「主」の一方的な恵みによっています。そのようにして、アダムとエバは「主」の約束を信じたのですが、その約束を実現するために自分たちの力で何かをすることはできませんでした。アダムとエバは、やはり、「主」の一方的な恵みによって、「女」と「女の子孫」の共同体に属する者、その意味で、「主」の民としていただくようになったのです。このことは、先ほどの、アブラハムが「主」を信じて、義と認められたときの状態と本質的に同じです。 この霊的な戦いは、 彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。 と言われているように、「女」と「女の子孫」の共同体の勝利に終ります。この場合は「女の子孫」とそれを受けている「彼」は単数形ですが、集合名詞として共同体を表しています。「女」と「女の子孫」の共同体の勝利の成就のことは、ローマ人への手紙16章20節に、 平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。 と記されています。これは、現在のことであるだけでなく、その最終的な実現である、終わりの日におけるさばきの執行にも触れるものであると考えられます。 また、黙示録12章11節には、 兄弟たちは、子羊の血と、 自分たちの証しのことばのゆえに 竜に打ち勝った。 と記されています。 同時に、「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体には「かしら」がいます。それは「おまえ」すなわちサタンです。当然、「女」と「女の子孫」の共同体にも「かしら」がいます。それは「女」ではなく「女の子孫」の中にいます。その方こそが約束のメシアです。この方は、最終的に、 彼はおまえの頭を打ち、 おまえは彼のかかとを打つ。 と言われているように、「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体の「かしら」であるサタンへのさばきを執行し、その「頭を打つ」ことによって致命傷を負わせるようになります。 「女」と「女の子孫」の共同体と「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」との関係は、「女」と「女の子孫」の共同体は、その「かしら」と一体に結ばれています。それで、その「かしら」である方の最終的な勝利にあずかります。 このことは、イスラエルがヨシュアに率いられてカナンの地に侵入した時に、「主」が、イスラエルの民の間にご臨在してくださって、「主の軍の将」として、先に立ってくださり、ともに戦ってくださったことに符合します。 これらのことは、「主」はご自身の民との一体にあってさばきを執行されることを意味しています。それで、終わりの日にさばきを執行されるために再臨される栄光のキリストはご自身の民との一体にあってさばきを執行されるということになります。また、それで、黙示録19章14節に出てくる栄光のキリストに従っている「天の軍勢」には、御使いたちばかりでなく、栄光のキリストの民も含まれていて、おそらく、その中心になっていると考えられます。 |
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