黙示録講解

(第366回)


説教日:2019年1月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(119)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

という、終わりの日に再臨される栄光のキリストについてのみことばについてのお話を続けます。
 今は、これに先立つ11節以下に記されていることをお話ししてきまして、今は、14節に、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼[栄光のキリスト]に従っていた。

と記されている「天の軍勢」についてお話ししています。
 これまで、この「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を支持するとされているヨシュア記5章13節ー15節に、

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

と記されているみことばについてお話してきました。
 そして、先主日まで、イスラエルがモーセの後継者であるヨシュアに率いられてカナンの地に侵入したことは、「」がアブラハムと結んでくださった契約に約束されていた、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことを指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっていたということについて、いろいろな面からお話ししてきました。
 イスラエルがカナンの地に侵入したことには、もう一つの意味がありました。
 それは、アブラハムの75歳から85歳の間のことで、おそらく、85歳に近い頃のことだと思われますが、「」がそれまで子どもが生まれなかったアブラハムに相続人としての子が生まれることを約束してくださったことを記している創世記15章に記されています。
 5節ー6節には、

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

と記されています。
 ここには、アブラハムが「」を信じて義と認められたことが記されていますが、それは、アブラハムが、アブラハムの相続人としての子孫が天の星のようになると約束してくださった「」を信じて義と認められたということです。
 アブラハムの信仰の特質は契約の神である「」の約束を信じることにありました。そのことは、この時に始まったことではありません。11章31節に、

テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデア人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。

と記されているように、アブラハムは父テラに従って「カルデア人のウル」を出て「ハラン」に住むようになりました。そして、12章1節ー5節に、

 はアブラムに言われた。
 「あなたは、あなたの土地、
 あなたの親族、あなたの父の家を離れて、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとする。
 あなたは祝福となりなさい。
 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、
 あなたを呪う者をのろう。
 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。」
アブラムは、が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。

と記されているように、「」が祝福の約束とともにアブラハムを召してくださった時に、それに従って「カナンの地」に向かって旅立ちました。「カナンの地」は、もともと父テラがカルデア人のウルを出た時に目指していた所でした。このことは、アブラハムが、

 わたしはあなたを大いなる国民とし、
 あなたを祝福し、
 あなたの名を大いなるものとする。
 あなたは祝福となりなさい。
 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、
 あなたを呪う者をのろう。
 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

という「」の約束を信じたということを意味しています。
 続く6節ー7節には、

アブラムはその地を通って、シェケムの場所、モレの樫の木のところまで行った。当時、その地にはカナン人がいた。はアブラムに現れて言われた。「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」アブラムは、自分に現れてくださったのために、そこに祭壇を築いた。

と記されています。アブラハムが「シェケムの場所、モレの樫の木のところ」まで来た時に、「」がアブラハムに現れてくださって、

 わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。

と約束してくださったので、アブラハムはこのこの「カナンの地」が約束の地であるということを知りました。アブラハムがこの「」のみことばを信じたことは、「」が現れてくださった所に祭壇を築いて、「」を礼拝したことに表されています。この「」の約束は、

 あなたの子孫にこの地を与える

というものでしたが、11章30節に、

 サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。

と記されているように、サラは「不妊の女」だったため、アブラハムには子どもが生まれていませんでした。それでも、アブラハムは「」の約束を信じました。
 また、12章6節に、

 当時、その地にはカナン人がいた。

と記されているように、その約束の地であるカナンには、すでに、その地の住人が住んでいました。すでにお話ししたように、アブラハムはカナンの地が約束の地であることを信じましたが、それを自分の力で、すでにカナンの地に住んでいた住民たちから奪い取ろうとしたことはありませんでした。
 むしろ、14章に記されていることですが、ケドルラオメルとその連合軍がメソポタミアからカナンの地に遠征してきて、ソドムとゴモラの王たちを打ち破り、その財産と人々を略奪した時には、虜になった人々の中にいた甥のロトとその家族だけでなく、他の人々と財産を取り返しました。また、ケドルラオメルとその連合軍を約束の地であるカナンの地から追い払いました。そして、そのようにしてケドルラオメルとその連合軍から取り返したものは、その当時の一般的な考え方では、アブラハムのものとなるのですが、アブラハムはそれらをもって自分を富ませることはしませんでした。
 そのようなことがあって、先ほど引用した15章に記されている、「」がアブラハムの子孫にかんする約束を与えてくださったのです。ですから、アブラハムはそれまでの歩みの中で、すでに、「」と「」の約束を信じており、「」の御声に聞き従っていました。
 改めて、確認しますと、12章1節ー3節に記されている祝福の約束は、「」が

 あなたは、あなたの土地、
 あなたの親族、あなたの父の家を離れて、
 わたしが示す地へ行きなさい。
 そうすれば、・・・

と言われていて与えてくださったものです。その祝福の約束を信じたアブラハムは、「」の召しに従って、カナンの地に向けて旅立ちました。また、カナンの地に入った時に、「」がアブラハムに現れてくださって、

 わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。

と約束してくださいました。それで、アブラハムはカナンの地が約束の地であることを知り、その「」の約束を信じるとともに、そこに「」の祭壇を築いて「」を礼拝し、そこに住むようになりました。
 これらのことにおいては、アブラハムは「」の約束を信じただけでなく、アブラハムもそれに応じて自分がなすべきことをなしています。これに対して、15章4節ー6節に、

すると見よ、のことばが彼に臨んだ。「・・・ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムはを信じた。それで、それが彼の義と認められた。

と記されている、アブラハムが義と認められたことにおいては、アブラハムは相続人としてのアブラハムの子孫に関する約束を与えてくださった「」を信じ、「」が与えてくださった相続人としてのアブラハムの子孫に関する約束を信じました。しかも、それは、この時に至るまでも、

 サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。

という現実が続いている中でのことです。
 しかし、それに伴ってアブラハムがなすべきことはありませんでした。この時、アブラハムはただ、アブラハムの子孫に関する約束を与えてくださった「」を信じ、「」が与えてくださったその約束を信じただけです。「」はそのアブラハムを義と認めてくださったのです。
 続く16章には、アブラハムとサラが自分たちにもできることがあるかのように考えて、ハガルによって、アブラハムの血肉の子であるイシマエルを生んだことが記されています。しかし、それは、「」のみこころに従ってのことではありませんでした。
 これらの出来事によって、相続人としてのアブラハムの子孫は、「」が与えてくださった約束に基づく子孫であり、たとえ、アブラハムであっても、アブラハムの力によるものではなく、「」ご自身がその一方的な恵みによって与えてくださるものであることが示されています。さらに、その相続人としてのアブラハムの子孫についての「」の約束を信じたことによってだけ義と認められたアブラハムの子孫であることが示されています。


 15章では、続く7節以下では、7節に、

主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出したである。」

と記されていることから分かるように、アブラハムと相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐべきカナンの地にかかわることが記されています。これを受けて、8節ー10節には、

アブラムは言った。「、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がそれらの死体の上に降りて来た。アブラムはそれらを追い払った。

と記されています。
 ここで「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊」を「真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした」と言われていることは、その当時の契約締結の儀式に従ってなされたことです。「「真っ二つに切り裂」かれたものの間を通ることによって、もし契約に違反することがあれば、その切り裂かれた動物のようになるようにという制裁を自らに科して契約を結んだのです。
 その契約締結の儀式が行われる前に、「」はアブラハムに、アブラハムと相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐべきカナンの地にかかわる契約をお示しになりました。それが12節ー16節に、

日が沈みかけたころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして、見よ、大いなる暗闇の恐怖が彼を襲った。主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」

と記されています。
 ここで、「」はアブラハムの子孫が、エジプトの地で、寄留者になり、さらには、「四百年の間、奴隷となって苦しめられる」ことをお示しになりました。この「四百年の間」はアブラハムに預言として語られたための概数で、実際には430年(出エジプト記12章40節ー41節)です。そして、「」は彼らを奴隷としていたエジプトをおさばきになり、彼らは「多くの財産とともに、そこから出て来る」ということをお示しになりました。それによって、「四代目の者たち」がカナンの地に帰って来ると言われています。この場合の「四代目」の「一代」(ドール)は、その当時の人々の数え方による人の「寿命」で、アブラハムの時代は百年ほどでした。
 「四代目の者たち」がカナンの地に戻って来ることには理由がありました。それは、16節に

 それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。

と記されているように、「四百年の間」に「アモリ人の咎」が「満ちる」ようになるからです。そして、このことは、「」が「四代目の者たち」をとおして「アモリ人」に対するさばきを執行されるということを意味しています。この場合の、「アモリ人」はカナンの地の住民全体を代表的に表しています。
 このことが示された後、「」は契約締結の儀式に従って、契約を結んでくださいました。17節ー21節には、

日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。その日、はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。エジプトの川から、あの大河ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の地を。」

と記されています。
 この時は、

日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

と記されているように、「」の栄光の顕現が「切り裂かれた物の間を通り過ぎ」ましたが、アブラハムが「切り裂かれた物の間を通り過ぎ」ることは求められませんでした。このことも、相続人としてのアブラハムの子孫が約束の地であるカナンの地を受け継ぐことは、「」がその契約によって保証してくださったことであり、「」がその一方的な恵みによって実現してくださることであることを示しています。
 これと同時に、ここでは、アブラハムの子孫がエジプトの地において奴隷として過ごす「四百年の間」に「アモリ人の咎」が「満ちる」ようになり、「」が「四代目の者たち」をとおして「アモリ人」に対するさばきを執行されるというみこころも示されています。
 ですから、イスラエルがヨシュアに率いられてカナンの地に侵入したことには、「アモリ人の咎」すなわちカナンの住民の咎が満ちてしまったので、「」がイスラエルの民を用いてそのさばきを執行されるという意味がありました。そして、このことは、終わりの日に神さまが、アブラハムの子孫として来てくださった栄光のキリストをとおして、暗闇の主権者とその霊的な子孫たちに対するさばきを執行されることを指し示している「地上的なひな型」としての意味をもっています。
 このように、イスラエルがモーセの後継者であるヨシュアに率いられてカナンの地に侵入したことには、「」がアブラハムと結んでくださった契約に約束されていた、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことを指し示す「地上的なひな型」としての意味がありましたが、このことには、もう一つの意味がありました。それは、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことに先立って、その罪の咎を満たしてしまう、暗闇の主権者とその霊的な子孫たちに対するさばきを執行されることを指し示している「地上的なひな型」としての意味をもっていたのです。
 そうすると、ヨシュア記5章13節ー15節に、

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

と記されていることは、イスラエルがヨシュアに率いられたことのもう一つの意味、すなわち、その罪の咎を満たしてしまったカナンの地の民たちへのさばきが執行されるということとのかかわりで理解すべきことです。そして、そのさばきの執行の主体は、イスラエルの民にあります。もちろん、それは、ここで「の軍の将」としてご自身を現され、ヨシュアが礼拝した「」が、イスラエルの民の間にご臨在してくださって、「の軍の将」として、先に立ってくださり、ともに戦ってくださるということです。申命記31章7節ー8節に、

それからモーセはヨシュアを呼び寄せ、全イスラエルの目の前で彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。がこの民の父祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

と記されているとおりです(さらに、20章1節、4節も見てください)。

 このことには、さらなる背景があります。それは、最初の「」を神である「」に対して罪を犯すようにと誘惑した「」の背後にあって働いていたサタンへのさばきのことばを記している創世記3節15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている、「最初の福音」としての意味をもっていることばです。
 ここで神である「」はサタンへのさばきの宣告において、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。

と宣告されました。「
 主」が罪によってサタンと一体になってしまっている「」エバは、サタンの思惑に従って、夫アダムに善悪の知識の木から取った実を与えました。それによって、アダムも善悪の知識の木から取ったものを食べて罪を犯してしまいました。
 その後、「」はご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった、二人に悔い改める機会を与えてくださいましたが、二人は罪を認めて悔い改めることはありませんでした。二人が自分たちの力でサタンとの一体性を断ち切ることはできなかったのです。
 このことが明らかになった時、「」は「」と「女の子孫」の共同体と、「おまえ」と呼ばれている「蛇」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体の間に「敵意」を置いてくださって、この二つの共同体を敵対関係にあるものとしてくださることを、このサタンへのさばきのことばにおいて約束してくださいました。これによって、霊的な戦いが展開していくようになります。
 そして、この霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」の共同体は、神である「」に敵対している「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体と戦うようになります。それは、「」と「女の子孫」の共同体が神である「」の側に立つことを意味していて、「」と「女の子孫」の共同体に属している者たちが救われることを意味しています。
 結論的なことしか言うことができませんが、この3章ー4章に記されていることから、アダムとエバはこの「」の約束を信じたと考えられます。しかし、それは二人の力によったのではなく、「」の一方的な恵みによっています。そのようにして、アダムとエバは「」の約束を信じたのですが、その約束を実現するために自分たちの力で何かをすることはできませんでした。アダムとエバは、やはり、「」の一方的な恵みによって、「」と「女の子孫」の共同体に属する者、その意味で、「」の民としていただくようになったのです。このことは、先ほどの、アブラハムが「」を信じて、義と認められたときの状態と本質的に同じです。
 この霊的な戦いは、

 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と言われているように、「」と「女の子孫」の共同体の勝利に終ります。この場合は「女の子孫」とそれを受けている「」は単数形ですが、集合名詞として共同体を表しています。「」と「女の子孫」の共同体の勝利の成就のことは、ローマ人への手紙16章20節に、

 平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。

と記されています。これは、現在のことであるだけでなく、その最終的な実現である、終わりの日におけるさばきの執行にも触れるものであると考えられます。
 また、黙示録12章11節には、

 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。

と記されています。
 同時に、「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体には「かしら」がいます。それは「おまえ」すなわちサタンです。当然、「」と「女の子孫」の共同体にも「かしら」がいます。それは「」ではなく「女の子孫」の中にいます。その方こそが約束のメシアです。この方は、最終的に、

 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と言われているように、「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体の「かしら」であるサタンへのさばきを執行し、その「頭を打つ」ことによって致命傷を負わせるようになります。
 「」と「女の子孫」の共同体と「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」との関係は、「」と「女の子孫」の共同体は、その「かしら」と一体に結ばれています。それで、その「かしら」である方の最終的な勝利にあずかります。
 このことは、イスラエルがヨシュアに率いられてカナンの地に侵入した時に、「」が、イスラエルの民の間にご臨在してくださって、「の軍の将」として、先に立ってくださり、ともに戦ってくださったことに符合します。
 これらのことは、「」はご自身の民との一体にあってさばきを執行されることを意味しています。それで、終わりの日にさばきを執行されるために再臨される栄光のキリストはご自身の民との一体にあってさばきを執行されるということになります。また、それで、黙示録19章14節に出てくる栄光のキリストに従っている「天の軍勢」には、御使いたちばかりでなく、栄光のキリストの民も含まれていて、おそらく、その中心になっていると考えられます。


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