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説教日:2019年1月6日 |
ローマ人への手紙11章33節ー36節には、 ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。神のさばきはなんと知り尽くしがたく、神の道はなんと極めがたいことでしょう。 「だれが主の心を知っているのですか。 だれが主の助言者になったのですか。 だれがまず主に与え、 主から報いを受けるのですか。」 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 と記されています。 最初の、 ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう。 という、讃嘆(感嘆)のことばは、直訳調に、 ああ、神の富と知恵と知識はなんと深いことでしょう。 と訳すこともできます。[より直訳調には、 ああ、なんと深いことでしょう、神の富と知恵と知識は。 となります。]このどちらを取るかは、「富」をどのように理解するかにかかっています。これについて説明しようとしましたが、話がかなりややこしくなってしまったので、結論的なことだけをお話ししすることにします。ここでは、おそらく、より直訳調の、 ああ、神の富と知恵と知識はなんと深いことでしょう。 という理解がよいのではないかと思われます。そして、この場合の「富」はこの章の11節ー12節に、 それでは尋ねますが、彼ら[イスラエル]がつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。彼らの背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らがみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。 と記されている中に出てきたことばです。 注目したいのは、ここで、 かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び と言われていることです。 ユダヤ人は不信仰によって神さまが遣わしてくださったメシアであるイエス・キリストを退け、十字架につけてしまいました。「主」はそのことさえお用いになって、彼らの思いを越えて、イエス・キリストがユダヤ人と異邦人から成り立っている「主」の契約の民のための贖いを成し遂げるようにしてくださいました。 そして、使徒の働きに記されていることですが、ユダヤ人の中でイエス・キリストを約束のメシアであると信じた人々に対する迫害が激しくなって、そのために散らされた人々が行く先々でイエス・キリストの証しをしました。その結果、御霊のお働きによって、サマリア人にイエス・キリストについての福音が伝えられるようになり(使徒の働き8章1節、5節、12節、17節)、異邦人の改宗者に福音が伝えられ(8章26節ー39節)、さらに、異邦人に福音が伝えられていくようになりました(使徒の働き10章、11章18節、19節、13章42節ー48節)。 これらの中で、パウロが異邦人に福音を宣べ伝えるようになったいきさつを記している、13章44節ー50節を見てみましょう。そこには、 次の安息日には、ほぼ町[小アジアにある、ピシディアのアンティオキア]中の人々が、主のことばを聞くために集まって来た。しかし、この群衆を見たユダヤ人たちはねたみに燃え、パウロが語ることに反対し、口汚くののしった。そこで、パウロとバルナバは大胆に語った。「神のことばは、まずあなたがたに語られなければなりませんでした。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者にしています。ですから、見なさい、私たちはこれから異邦人たちの方に向かいます。主が私たちに、こう命じておられるからです。『わたしはあなたを異邦人の光とし、地の果てにまで救いをもたらす者とする。』」異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した。そして、永遠のいのちにあずかるように定められていた人たちはみな、信仰に入った。こうして主のことばは、この地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町のおもだった人たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、二人をその地方から追い出した。 と記されています。 しかし、それだけではありませんでした。異邦人に福音が伝えられるようになることが記されている10章に先立って、9章31節には、 こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり築き上げられて平安を得た。主を恐れ、聖霊に励まされて前進し続け、信者の数が増えていった。 と記されています。福音は「ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地にわたり」伝えられて、教会が形成され「信者の数が増えていった」のです。また、11章19節ー21節には、 さて、ステパノのことから起こった迫害により散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで進んで行ったが、ユダヤ人以外の人には、だれにもみことばを語らなかった。ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。 と記されています。迫害によって散らされた人々は「ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地」を越えて、「フェニキア、キプロス、アンティオキア」にいるユダヤ人たちに福音を伝えていきました。「フェニキア、キプロス、アンティオキア」にはユダヤ人の共同体がありました。この「アンティオキア」は、シリアのアンティオキアのことです。しかし、その中の「何人か」はアンティオキアにいる「ギリシア語を話す人たち」にも福音を伝えていきました。この「ギリシア語を話す人たち」は、ギリシア化したユダヤ人ではなく、ユダヤ人からすると異邦人を意味する、ギリシア人のことであると考えられます。このことによって、アンティオキアが異邦人に対する福音の宣教の中心地になっていきます。 このように、ユダヤ人の不信仰によって、ユダヤ人の思いを越えて、福音が異邦人に伝えられるようになり、異邦人たちが、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づく祝福を受けるようになりました。それによって、異邦人たちが罪の贖いにあずかり、罪と死から解放されたばかりか、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれ、「主」を神として礼拝することを中心とした、「主」との愛の交わりと、お互いの間の愛の交わりに生きるようになりました。このようにして異邦人にもたらされたイエス・キリストによる、また、イエス・キリストにある祝福の豊かさに触れることによって、ユダヤ人たちも、触発されて、イエス・キリストをメシアと信じて神さまの愛と恵みにあずかるようになっていくというのです。 この異邦人にもたらされたイエス・キリストによる、また、イエス・キリストにある祝福の豊かさのことが、ローマ人への手紙11章12節で、 彼ら[ユダヤ人]の背きが世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となる と言われているときの「富」です。 ですから、ここでは、ユダヤ人であれ異邦人であれ、すべての人が神さまに背き、罪とその結果である死の力に捕らえられてしまっているのに、神さまの一方的な愛とあわれみと恵みによって死からいのちに移していただいているという祝福の豊かさが「富」と呼ばれています。そして、33節で、 ああ、神の富と知恵と知識はなんと深いことでしょう。 と言われているときの「富」は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、自分の罪の中に死んでいた者に与えられた、神さまの一方的な愛とあわれみと恵みによって死からいのちに移していただいているという祝福を指していて、それが人の思いをはるかに越えた(計り知れない)深さをもっていることが示されていると考えられます。 しかも、この神さまのイエス・キリストにある愛と恵みとそれがもたらす祝福に、ユダヤ人ばかりでなく異邦人も、また、異邦人ばかりでなくユダヤ人も、等しく、まったくの恵みによってあずかるようになった経緯は、人の思いをはるかに越えた神さまの「知恵と知識」によっています。 この場合の「知識」はヘブル的な意味における「知ること」のことで、「愛すること」に近いものです。神さまの知恵と知識は無限、永遠、不変です。神さまはすべてのもの、すべてのことを永遠に完全にご存知です。その神さまが特別な意味で、私たちご自身の民を知ってくださっているというのです。それは、私たちの思いを越えた愛と恵みとあわれみをもって私たちそれぞれを親しく知ってくださっているということです。そうであるからこそ、私たちはいまだ地上にあって自分の罪の深さと弱さにうめきながら、なお、「主」の契約の民として、それ以上に、神の子どもとして歩むことができるのです。そればかりでなく、私たちそれぞれが抱えている問題や事情はみな異なっています。そうであっても、神さまはそのすべてを知ってくださっていて、それぞれにふさわしい支えと導きを与えてくださっています。それで、私はこのような者であっても、なお、神の子どもとして歩むことができるのです。 主は、昨年末に、私たち信仰の家族の兄弟を御許に召されました。昨年末に召された兄弟も、それ以前に御許に召された兄弟姉妹たちも、地上の生涯の最後の日々を病室で過ごされ、病がもたらす苦しみの中にありました。しかし、その日々において、主がともにいてくださることを、ある方は静かに、しかし、確信をもって、またある方は力強く、証ししてくださいました。さらに、自らの足りなさを思い返して心を傷めておられた方も、主がそのような者をご存知であられてご自身のものとしてくださった恵みに信頼する他はないことをしみじみと語ってくださいました。この兄弟姉妹たちの証しは、このような時には、いつも、自分の無力さを痛感して立ち尽くしてしまう私にとって、どんなに慰めとなり、支えとなったことでしょう。 ユダヤ人によって退けられ、十字架につけられて殺されたイエス・キリストこそは、神さまの愛と恵みの「富」と「知恵と知識」の最も豊かな現れです。コリント人への手紙第一・1章22節ー24節には、 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。 と記されています。 このようなことを受けて、ローマ人への手紙11章36節では、 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 と言われています。神さまこそが「すべてのもの」を造り出された方であり、「すべてのもの」を支え導いておられる方であり、「すべてのもの」の目的であられる方です。それは、神さまの創造の御業と摂理の御業にも当てはまりますし、贖いの御業にも当てはまりますが、ここでは、特に、神さまの贖いの御業の歴史のことが取り上げられています。そして、神さまが「すべてのもの」の目的であられる方なので、 この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。 というように、神さまが讃えられています。 この頌栄において讃えられている神さまの栄光は、私たちご自身の民を愛してくださり、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださった御子イエス・キリストにおいて最も豊かに現された恵みとまことに満ちた栄光です。その栄光は、 ああ、神の富と知恵と知識はなんと深いことでしょう。 と言われているように、私たちの思いをはるかに越えた愛をもって、私たちそれぞれを愛してくださり、それぞれのすべてを知ってくださって、どのような時にも、ともにいてくださる愛とあわれみに満ちた神さまの栄光です。 そして、このように神さまの栄光を讃えることは、神さまが「すべてのもの」の目的であられる方であることを告白することでもあります。 そして、このことの根底には、先主日にお話ししましたように、「主」がアブラハムと結んでくださった契約において約束してくださったアブラハムと相続人としてのアブラハムの子孫が受け継ぐ相続財産の中心が「主」ご自身であるということがあります。その契約は創世記17章7節ー8節に、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。 と記されていました。ここで、この契約の祝福の中心(核心)は、 わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。 わたしは彼らの神となる。 という約束にあります。それで、「主」ご自身こそが信仰によるアブラハムとアブラハムの子孫が受け継ぐべき相続財産であるのです。そして、このことは、私たちの目的が「主」ご自身にあるということを意味しています。「主」は、 ああ、神の富と知恵と知識はなんと深いことでしょう。 と言われている、私たちの思いをはるかに越えた愛をもって、私たちそれぞれを愛してくださり、それぞれのすべてを知ってくださって、どのような時にも、ともにいてくださいます。「主」はご自身に対して罪を犯して背を向けていた私たちを愛して、ご自身の御子をも遣わしてくださいました。このことは、その愛にあって、「主」は、私たちそれぞれ自身を目的としてくださっているということを意味しています。そして、私たちはこの神さまの愛に触れて、また、この神さまの愛に包まれて、神さまご自身を目的として生きています。 ローマ人への手紙11章36節では、 すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。 と言われています。神さまが私たち自身を愛してくださり、私たちが神さまご自身を愛するという愛の交わりに生きるようにしてくださったことは、「すべてのものが神から発し」と言われているように、神さまから出ています。 そのことは、創造の御業を越えて、神さまの永遠の聖定にまでさかのぼっていきます。エペソ人への手紙1章3節ー6節には、 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 と記されています。 3節では、まず、 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。 という讃美のことばが記されています。ここでは、神さまのことが「私たちの主イエス・キリストの父である神」と呼ばれています。イエス・キリストは「私たちの主」であるとともに、「父である神」の御子であられます。私たちはイエス・キリストのものであり、御霊によってイエス・キリストと一つに結ばれています。それで、私たちは御子イエス・キリストにあります。そして、私たちは御子イエス・キリストにあって、父なる神さまを知り、父なる神さまとの愛の交わりに生きることができます。このことは、続いて、 神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と言われていることにつながっています。ここでは、「キリストにあって」と言われているように、私たちはこの御子イエス・キリストにあって、父なる神さまが与えてくださっている「天上にあるすべての霊的祝福」にあずかっています。この場合の「霊的祝福」は御霊によってもたらされる祝福のことです。その祝福は「天上にある」と言われています。この「天上にある」ということばは、20節ー21節に、 この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。 と記されているときの「天上で」と同じことばです。それで、この「天上にある」ということは、父なる神さまがご臨在しておられ、その右の座に栄光のキリストが着座しておられる所です。さらに、この「天上にある」ということばは、2章6節で、 神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 と言われているときの「天上に」ということばと同じです。私たちは「キリスト・イエスにあって」ともによみがえり、ともに「天上に」座していると言われています。それは、父なる神さまが、私たちを「キリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって」祝福してくださったことによっています。 この祝福がどのようなものであるかは、1章4節ー14節において説明されています。今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、4節ー5節に、 すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 と記されていることです。 「世界の基が据えられる前から」ということは創造の御業に先立ってということです。時間はこの造られた世界の時間ですので、創造の御業とともに始まっています。それで、「世界の基が据えられる前から」ということは永遠においてということです。 神さまは永遠において、私たちを「この方にあって」すなわちキリストにあって選んでくださいました。しかも、それは、私たちを「御前に」あるのにふさわしく「聖なる、傷のない者」としてくださるためです。 御前に聖なる、傷のない者にしようとされた と言われているのは、私たちが罪によって汚れてしまっていることを踏まえています。私たちは罪によって汚れてしまって御前に近づくこことができないばかりか、聖なる御怒りによって滅ぼされるべきものでした。しかし、父なる神さまは、私たちが罪によって汚れてしまっており、御前に滅ぼされるべきものであることをご存じでありつつ、なお、その私たちをキリストにあって選んでくださいました。そればかりではありません。父なる神さまは罪によって汚れてしまって御前に近づくこことができないばかりか、聖なる御怒りによって滅ぼされるべき私たちを、 イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。 と言われています。そのためには、6節で「愛する方」と言われている、御子イエス・キリストを贖い主としてお遣わしになり、その十字架の死をもって私たちの罪を完全に贖ってくださることが必要であることを踏まえてのことです。父なる神さまは御子イエス・キリストにあって私たちを選んでくださり、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずからせてくださって、私たちを「御前に聖なる、傷のない者に」してくださっただけでなく、ご自分の子としてくださいました。それは、父なる神さまのはかりがたい愛によっています。ヨハネの手紙第一・3章1節には、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。 と記されています。 また、ローマ人への手紙8章14節ー15節には、 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。 と記されています。 私たちは、すでに、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって神の子どもとしていただいています。そして、御霊によって、父なる神さまとの親しい愛の交わりに生きています。 このことは、「主」がアブラハムに与えてくださった契約において、 わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。 わたしは彼らの神となる。 と約束してくださった祝福が、イエス・キリストにあって、また、イエス・キリストによって、さらに豊かな栄光に満ちた祝福として実現していることを意味しています。このことが、古い契約の下にあった「主」の契約の民と、私たち新しい契約の下にあって神の子どもとしての祝福にあずかっている者との違いとなっています。 |
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