黙示録講解

(第364回)


説教日:2018年12月30日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(117)


 先主日は2018年の降誕節の主日でしたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は、黙示録からのお話に戻ります。
 今日も、これまでのお話の経緯を省略して、「」がイスラエルの民をカナンの地に導き入れてくださったことにかかわるお話をします。
 創世記17章7節ー8節には、「」がアブラハムと結んでくださった契約のことが、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。

と記されています。
 「」はこの契約において、アブラハムとアブラハムの子孫たちに、相続財産としてカナンの地を与えてくださることを約束してくださいました。そして、この契約に基づいて、アブラハムの血肉の子孫であるイスラエルの民を、エジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、カナンの地に導き入れてくださいました。しかし、この地上のカナンの地は、アブラハムと信仰によるアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき新しい天と新しい地を指し示す「地上的なひな型」でした。
 また、「」がアブラハムと結んでくださった契約の中心は、イスラエルの民がカナンの地を受け継ぐこと自体にあったのではありません。先ほど引用した「」がアブラハムと契約を結んでくださったときのみことばでは、「」は、まず、

わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

と言われました。ここで、

 わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

と言われている、「」がアブラハムとアブラハムの子孫たちの神となってくださることこそが、この契約の祝福の中心にあります。
 「」がアブラハムとアブラハムの子孫たちの神となってくださることは、「」がアブラハムとアブラハムの子孫たちとの間にご臨在してくださって、アブラハムとアブラハムの子孫たちを「」を神として礼拝することを中心とした「」との愛の交わりのうちに生きるようにしてくださることを意味しています。そして、真の愛の交わりにおいては、愛する相手が目的となります。「」はアブラハムとアブラハムの子孫たち自身を愛してくださり、アブラハムとアブラハムの子孫たちは「」ご自身を愛します。その意味で、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産の中心は、「」ご自身なのです。
 「」がアブラハムと契約を結んでくださったときのみことばで、「」は、続いて、

わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。

と言われました。ここに出てくる「カナンの全土」は、「」が「あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える」と言われたように、アブラハムとアブラハムの子孫たちが永遠にそこに住むべき所として与えられます。しかし、それも「」が続いて、また、最後に、

 わたしは彼らの神となる。

と言われたように、その「カナンの全土」において、「」がアブラハムとアブラハムの子孫たちとの間にご臨在してくださって、アブラハムとアブラハムの子孫たちを「」を神として礼拝することを中心とした「」との愛の交わりのうちに生きるようにしてくださるためのことです。その「カナンの全土」がアブラハムとアブラハムの子孫たちに「永遠の所有として」与えられるということは、そこでアブラハムとアブラハムの子孫たちが、永遠に、「」を神として礼拝することを中心とした「」との愛の交わりのうちに生きるようになるということを、「地上的なひな型」として表しています。
 このこととのかかわりで、すでに取り上げたのは、ヘブル人への手紙11章8節ー10節に記されている、

信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。

というみことばです。
 実際に、アブラハムは「約束された地」である「カナンの全土」はおろか、その地の一つの地域をも、永遠に「」から与えられた自分の領土であると主張することはありませんでした。
 創世記13章1節ー12節に記されていますが、アブラハムと甥のロトの財産が増えて、二人の家畜の牧者たちの間に争いが起こるようになった時、アブラハムはロトにお互いが別の所に住むことを提案しました。7節には、

 そのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。

と記されています。カナンの地は広いのですが、そこにはすでにカナンの地の民たちが住んでいました。アブラハムは彼らを押しのけ、彼らの土地を奪ってまでもその地に住もうとはしませんでした。その時に、アブラハムは住むべき地を選ぶ権利を甥のロトに与えました。そして、ロトは豊かに潤っているヨルダンの低地を選びました。それで、アブラハムはカナンの地に住むようになりました。もしロトがカナンの地を選んでいれば、アブラハムは別の地に住んだはずです。このことは、アブラハムがカナンの地に固執していたわけではないことを示しています。
 また、14章に記されていますが、アブラハムはメソポタミアの帝国であるケドルラオメルとその連合軍がカナンの地まで遠征して来て、ソドムとゴモラの王たちを打ち破り、彼らの財産と食料を奪い取り、甥のロトとその財産も略奪されてしまったときに、同盟者たちとともに、ケドルラオメルとその連合軍を追撃して打ち破り、ロトとその財産を取り返しただけではなく、カナンの地の民で捕虜になった人たちと財産をも取り戻し、ケドルラオメルとその連合軍を「ダマスコの北にあるホバまで追跡し」、約束の地であるカナンの地から追い払いました。
 アブラハムは自分の親族のことだけでなく、カナンの地の住民たちのためにも力を尽くしたのです。しかも、アブラハムはこのことによって自分の利益を得ようとしたことはありません。その当時の発想によれば、アブラハムに所有の権利がある、取り戻した人々と財産をソドムの王に返しています(21節ー24節)。
 いずれにしても、アブラハムは、それほどの戦略的な能力があったのに、カナンの地の一部をも自分の領土であると主張しなかったのです。
 このようなアブラハムの生き方があって、ヘブル人への手紙11章9節では、アブラハムのことが、

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。

と言われているのです。そして、続く10節で、アブラハムは、

堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。

と言われています。アブラハムが求めていたのは、住民の間にいさかいが起こり、敵の侵入によって荒廃に帰してしまうような地上のカナンの地ではありませんでした。
 そして、アブラハムに見られるように、信仰によって歩んだ人々について、13節ー16節には、

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

と記されています。同じ11章の1節には、

 さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

と記されています。アブラハムたちが信仰によって、「はるか遠くに」望み見て「喜び迎え」ていたのは「天の故郷でした」。それゆえに彼らは「地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました」。このことを受けて、

 ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

と記されています。ここで、

 神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。

と言われていることは、出エジプト記3章6節において、「」がモーセにご自身のことを、

 わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。

として示され、イスラエルの民に、

あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、あなたがたのところに私を遣わされた

と言うように命じられたことに触れていると考えられています。ただ、このことは、

 神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。

と言われているときの「彼ら」がアブラハム、イサク、ヤコブに限られているということではありません。このことにはより基本的なことがかかわっています。それは、先ほどお話ししたように、「」がアブラハムに与えてくださった契約において、

 わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

と約束してくださり、「カナンの全土」を与えてくださることとのかかわりで、

 わたしは彼らの神となる。

と約束してくださったことです。「」はこのアブラハム契約の約束に基づいて、ご自身のことを「あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」としてお示しになったのです。ですから、

 神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。

と言われているときの「彼ら」は、アブラハムとアブラハムの信仰に倣うアブラハムの子孫たちのことです。そして、

 ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。

と言われているときの「」は「天の故郷」としての「」のことですが、そこに、「」の御臨在があり、アブラハムと信仰によるアブラハムの子孫たちが、永遠に「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛にある交わりに生きるようになるための「」です。


 このことが最終的に実現するのは、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地においてです。
 黙示録21章1節ー4節には、

また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
 「見よ、神の幕屋が人々とともにある。
 神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
 神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
 神は彼らの目から
 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
 もはや死はなく、
 悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
 以前のものが過ぎ去ったからである。」

と記されています。
 これらのことから、地上のカナンの地は「」がアブラハムに与えてくださった契約において約束してくださっていたアブラハムと信仰によるアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産の「地上的なひな型」であったことが分かります。そして、出エジプトの時代に、ヨシュアに率いられたイスラエルの民がカナンの地に侵入したことも、アブラハムと信仰によるアブラハムの子孫たちが新しい天と新しい地、特に、その中心にある「聖なる都、新しいエルサレム」を受け継ぐようになることの「地上的なひな型」であることが分かります。
 この都について、16節には、

都は四角形で、長さと幅は同じである。御使いが都をその竿で測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。

と記されています。

 長さも幅も高さも同じである

ということは、「地上的なひな型」としての幕屋と神殿の至聖所が「長さも幅も高さも同じ」であったことを受けています。この都はそこに、神である「」の御臨在がある至聖所の本体であるのです。そして、この都の「長さも幅も高さも同じ」で、それぞれ、「一万二千スタディオン」であったと言われています。新改訳欄外注には「一スタディオンは約一八五メートル」と記されています。そうすると「一万二千スタディオン」は222万メートル、2220キロメートルということになります。北海道の札幌から沖縄の那覇までの距離が約2250キロメートルだそうですので、ほぼそれくらいの長さと幅と高さということになります。けれども、黙示録においては、数字は、黙示文学の表象としての意味をもっています。この場合は、日本には「万」という独自の単位がありますが、ギリシア語では「12千」(ドーデカ・キリアドーン)で、完全数の「12」と「千」(完全数の「10」 「10」 「10」)の組み合わせで、12の千倍ということになります。これは、この都に入るべきすべての人が入ることができるということを示しています。「」の契約の民のすべてが、神である「」がご臨在されるこの都において、「」を神として礼拝することを中心として、「」との愛の交わりに生きることができるのです。ヨハネの福音書14章1節ー3節には、

あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

というイエス・キリストの教えが記されています。この主イエス・キリストの約束は、新しい天と新しい地において、確かに、私たち「」の契約の民の現実になります。

 黙示録では、さらに、この都のことが、22章1節ー5節に、

御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。

と記されています。
 ここでは「水晶のように輝く、いのちの水の川」が「神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた」と言われています。これは、創世記2章10節ー14節に、

一つの川がエデンから湧き出て、園を潤していた。それは園から分かれて、四つの源流となっていた。第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れていた。そこには金があった。その地の金は良質で、そこにはベドラハとショハム石もあった。第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れていた。第三の川の名はティグリス。それはアッシュルの東を流れていた。第四の川、それはユーフラテスである。

と記されていることを背景としています。神である「」がご臨在されるエデンから湧き出た川がエデンの園を潤し、さらにつの大きな川に分かれて広大な地域を潤していました。
 また、「いのちの水の川」が「神と子羊の御座から出て」いたこととのかかわりでは、エゼキエル書47章1節ー5節に、

彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。

と記されている「」のご臨在される神殿から流れ出る川をも背景としています。この神殿は終わりの日に「」が建てられるまことの神殿を預言的に示しています。そして、9節には、

この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。

と記されています。
 また、12節には、

川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

と記されています。
 これは黙示録22章2節に「いのちの水の川」が、

都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒やした。

に記されていることにおいて成就しています。
 エデンの園においては、「いのちの木」はその中央に1本生えていました。それが、終わりの日に栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地にある都、新しいエルサレムにおいては、「いのちの木」が「いのちの水の川」の両側に生えていました。この場合の「いのちの木」は単数形ですが、集合名詞として、同じ「いのち」にかかわる木としての特質をもつ多くの木を表しています。
 新改訳2017年版は2節で、

 十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。

と訳しています。このとおりだとすると、この「いのちの木」は、果物の季節にというのではなく、毎月実を稔らせるのですが、1年に「十二の実」しか生らせない木であることになります。そうすると、それぞれの木から取って食べられる人は一人であるということになります。
 しかし、この「いのちの木」の背景となっているエゼキエル書47章12節に記されている「あらゆる果樹」にはこのような限定はなく、それらは豊かな実を稔らせることを思わせます。
 また、エデンの園に生えていた「いのちの木」は、木そのものとしては他の木と同じであったと考えられます(これには、創世記3章22節に記されている神である「主」のみことばについてどのように理解するかという問題がありますが、ここでは省略します)。その1本しかない「いのちの木」が、1年に「十二の実」しか生らせない木であったとしたら、その木から食べられる人は一人しかいないことになってしまいます。しかし、人は初めから、男性と女性に造られていました。それで、エデンの園に生ええていた「いのちの木」は、黙示録22章2節に出てくる、それぞれの「いのちの木」よりも豊かな実を稔らせていたことになります。これは、黙示録22章2節に出てくる「いのちの木」が、「いのちの水の川」と相まって、神さまのより豊かないのちの祝福を表していることに合いません。
 もちろん、黙示録に出てくる数は象徴的な数です。この「十二」という数は完全数です。そして、21章に繰り返し出てくる「十二」に対応していると考えることもできるでしょう。ただ、21章の「十二」は「イスラエルの子らの十二部族」や「子羊の十二使徒」という、より基本的、基礎的なものの単位です。これに対して、この「いのちの木」は、

 その木の葉は諸国の民を癒やした。

と言われているように、「諸国の民」全体にかかわっています。
 ここでは、

 毎月一つの実を結んでいた。

の「一つの」ということばはなく「」が単数形です。これは集合名詞で多くの実を表していると考えられます(BAGD, 2nd, p.404,bは、この語が単数形で集合名詞として用いられることを示しています)。また、その前の「十二の実」の「」は複数形ですが、これは「違う種類の実」を表す複数形で「十二種の実」を意味していると理解した方がよいと思われます。ここでは、多くの「いのちの木」があり、その多くの木が生らせる実の種類も豊富で「十二種の実」を生らせ、果物の季節だけにというのではなく、毎月、実を生らせる、したがって、常に新鮮な実がもたらされるという豊かさが示されています。
 これによって、新しいエルサレムにおいては、そこにご臨在しておられる「神と子羊」の御許における、「神と子羊」を礼拝することを中心とする愛の交わりが、ただ単にエデンの園における交わりの回復であるというだけでなく、それよりさらに豊かないのちの交わりとなって、完成していることが示されています。
 神さまは愛する御子によって遂行された創造の御業において、ご自身の愛を現されました。人はその愛を受け止め、神さまを礼拝することを中心とした愛の交わりに生きるために、神のかたちとして造られました。そして、その神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとして、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすことは、神のかたちとしての愛をお互いの間で通わし会いつつ、委ねられたものたちに注ぐことによって、神さまがどのようなお方であることを証しし、神さまの栄光を現すことでした。
 神さまのみこころは、神のかたちとして造られている人がそのような意味をもった歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、ご自身のみこころに従いとおすことに対する報いとして、人をより豊かな栄光の状態にあるものとしてくださり、ご自身とのより豊かな栄光にある交わりに生きるものとしてくださることでした。そのことが、神さまが天地創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことの中心にあります。黙示録22章1節ー5節に記されていること、特に、「いのちの水の川」と「いのちの木」によって示されている神さまとの豊かな愛にあるいのちの交わりは、神さまの安息が完成することを意味しています。

 黙示録22章ではこの川は「神と子羊の御座から出て」いる「いのちの水の川」と呼ばれています。これは、ヨハネの福音書7章37節ー38節に、

さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

と記されているという教えを思い起こさせます。そして、この教えについては続く39節において、

イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

と説明されています。
 イエス・キリストは十字架におかかりになって、私たちご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださっただけでなく、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって、私たちをご自身のよみがえりにあずからせてくださっています。そのことを私たちの現実としてくださっているのは、イエス・キリストの贖いの御業に基づいてお働きになる御霊です。栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストは、天に上り、父なる神さまの右の座に着座され、そこから、聖霊を注いでくださいました。その聖霊は、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになります。
 私たちはアブラハムの信仰に倣うアブラハムの子孫として、いまだ、地上において寄留者としての歩みを続けています。ピリピ人への手紙3章20節に、

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

と記されているとおり、「私たちの国籍は天に」あるからです。
 そうではあっても、私たちは御霊のお働きによって、父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在にあずかって、いのちのうちを歩む祝福を受けています。
 ヨハネの福音書14章15節ー17節には、

もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

というイエス・キリストの教えと約束が記されています。
 イエス・キリストを愛している人は、イエス・キリストの「戒め」を守ります。この場合の「戒め」は複数形ですが、それには基本的なことがあります。それは15章9節に、

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。

と記されているように、私たちがイエス・キリストの愛にとどまることであり、12節に、

 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

と記されているように、私たちが互いに愛し合うことです。私たちがイエス・キリストの愛にとどまって、互いに愛し合う時には、御霊が私たちのうちにいてくださいます。私たちは御霊に導かれて初めて、真の意味で互いに愛し合うようになるからです。
 そして、14章23節には、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

と記されています。ここでイエス・キリストが「わたしのことば(単数 ホ・ロゴス)」と言われるのは、イエス・キリストの教えの全体を指しています。イエス・キリストの教えはばらばらなものではなく、全体としてのまとまりがあり、一貫しています。そのことは、聖書のみことばがイエス・キリストご自身とその御業を証ししていることにおいて一貫していることと符合しています。そして、私たちはみことばに証しされているイエス・キリストを知ることによって、父なる神さまを知ることができます。この場合の、イエス・キリストと父なる神さまを知るということは、イエス・キリストが、

 そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

と言われるように、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛の交わりに生きることによって親しく知るようになることを意味しています。このことにおいて、

 わたしは彼らの神となる。

という「」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福が、すでに私たちの現実になっています。
 私たちはこのような祝福にあずかりつつ、なおも、新しい天と新しい地における完全な実現を望み見て歩んでいます。


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