黙示録講解

(第363回)


説教日:2018年12月16日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(116)


 本主日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

という、終わりの日に再臨される栄光のキリストについてのみことばに関わることをお話しします。
 これまでのお話の経緯については省略して、今お話ししていることと関わることをまとめてから、さらにお話を進めていきます。
 今お話ししているのは、イスラエルがモーセの後継者であるヨシュアに率いられてカナンの地に侵入したことは、古い契約の下における「地上的なひな型」としての意味をもっていたということです。その出来事「地上的なひな型」として指し示していたのは、「主」がアブラハムと結んでくださった契約に約束されていることで、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことです。
 先々主日と先主日には、ローマ人への手紙4章13節に、

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。

と記されている中に出てくる「世界の相続人となるという約束」ということばに示されている、「アブラハムに、あるいは彼の子孫」が受け継ぐ「世界」が何であるかについてお話ししました。ここで「アブラハムに、あるいは彼の子孫」と言われているときの「子孫」は単数形ですが、集合名詞として、ユダヤ人と異邦人の区別を越えて、アブラハムの信仰に倣うすべての子孫を指しています。
 ローマ人への手紙の大きな流れの中では、この「世界の相続人」の「相続人」のことは、8章14節ー17節において、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

と記されている中に出てきます。
 ここでは、アブラハムの信仰に倣う私たちが、まことのアブラハムの子孫として来てくださり、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを復活のいのちに生きるようにしてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストを信じる信仰によって、義と認められ、子とされていることを受けて、

 子どもであるなら、相続人でもあります。

と言われています。
 ガラテヤ人への手紙3章29節には、

あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されています。また、4章4節ー7節には、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されています。
 そして、ローマ人への手紙4章13節に出てくる「世界の相続人」が受け継ぐべき「世界」については、先ほど引用した8章14節ー17節に続く続く18節ー22節に、

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

と記されています。
 結論的なことを要約してお話しすると、ここに出てくる「被造物のすべて」がイエス・キリストを信じる信仰によってアブラハムの子孫となっており、「御子の御霊」としてお働きになる「神の御霊に導かれる」神の子どもたちが受け継ぐ相続財産です。ただし、後ほどお話ししますが、これが相続財産のすべてではありませんし、相続財産の中心でもありません。
 そして、この「被造物のすべて」は、創世記1章27節ー28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

と記されているように、また詩篇8篇5節ー6節に、

 あなたは人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。
 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているように、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、この世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことによって、人との一体にあるものとされています。その意味で、人は「被造物のすべて」の「かしら」として立てられています。また、その意味で、人は造り主である神さまがお造りになった、それゆえに、神さまのものである「被造物のすべて」を相続財産として受け継いでいるのです。


 このこととの関わりで、改めて確認しておきたいことは、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が受け継いでいる相続財産の中心は、神ご自身であるということです。そのことはいくつかのみことばが示していますが、代表的に、詩篇73篇25節ー26節を見てみましょう。そこには、

 あなたのほかに
 天では私にだれがいるでしょう。
 地では私はだれをも望みません。
 この身も心も尽き果てるでしょう。
 しかし神は私の心の岩
 とこしえに私が受ける割り当ての地。

と記されています。
 ここでは、神ご自身が「とこしえに私が受ける割り当ての地」であると言われています。ここでは、

 あなたのほかに
 天では私にだれがいるでしょう。
 地では私はだれをも望みません。

と言われていていて、「天では」と「地では」の組み合せがあり、「どこにおいても」という意味合いを伝えています。これは、創世記1章1節に、

 はじめに神が天と地を創造された。

と記されているときの「天と地」が「すべてのもの」を表していることに符合しています。
 このこととの関わりで注目したいのは、イザヤ書66章1節ー2節前半に記されている、

  はこう言われる。
 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
 あなたがたがわたしのために建てる家は、
 いったいどこにあるのか。
 わたしの安息の場は、
 いったいどこにあるのか。
 これらすべては、わたしの手が造った。
 それで、これらすべては存在するのだ。
   ――のことば――

というみことばです。ここで「」が「あなたがたがわたしのために建てる家」「わたしの安息の場」と言われるのは、「」の神殿のことです。
 歴代誌第一・28章2節には、

私の兄弟たち、私の民よ。私の言うことを聞きなさい。私はの契約の箱のため、私たちの神の足台のために安息の家を建てる志を持ち、建築の用意をしてきた。

というダビデのことばが記されています。ここでダビデは「」のための神殿建設を志した時のことを振り返って述べています。ただ、続く3節に、

しかし、神は私に仰せられた。「あなたはわたしの名のために家を建ててはならない。あなたは戦いの人であり、人の血を流してきたからである。」

と記されているように、神さまはダビデが「」の御名のための神殿を建てることをお許しになりませんでした。そして、ダビデの子であるソロモンがその神殿を建てるということを示されました(6節)[「ソロモン」という名(シェローモー)の意味についてはいくつかの見方があります(KBは四つ挙げています)が、ここでの文脈から「平和」「平安」に関連する名であると考えられます]。
 その時にダビデは、

私はの契約の箱のため、私たちの神の足台のために安息の家を建てる志を持ち、建築の用意をしてきた。

と言って、「」の神殿のことを「安息の家」と呼んでいます。また、その「」の神殿は「の契約の箱のため、私たちの神の足台のため」のものであると述べています。
 ここでダビデが「」の神殿のことを「安息の家」と呼んでいることは、イザヤ書66章1節で「」が「」の神殿のことをご自身の「安息の場」と言っておられることに相当します[どちも同じ「安息」ということば(メヌーハー)が用いられています]。
 また、ダビデはこの「」の神殿のことを「神の足台のため」のものであるとも言っています。これは、「」がそこにご臨在されて、治められることを表象的に述べたものです。「」の神殿が「の契約の箱のため、私たちの神の足台のため」のものであると言われていることは、「の契約の箱」と「神の足台」のつながりを示していますが、どちらも「」の御臨在に関わっています。「」は「契約の箱」の「宥めの蓋」の両端に造られた「二つのケルビムの間」にご臨在され、そこからモーセに戒めを語られました(出エジプト記25章18節ー22節)。イスラエルの民はその「神の足台のため」の神殿にご臨在される「」の御前で礼拝しました。詩篇132篇13節ー14節には、

 はシオンを選び
 それをご自分の住まいとして望まれた。
 「これはとこしえにわたしの安息の場所。
 ここにわたしは住む。
 わたしがそれを望んだから。

と記されおり、7節ー8節には、

 さあ主の住まいに行き
 主の足台のもとにひれ伏そう。

と記されています。ここでは「主の住まい」である神殿に行って「」を礼拝することが、「主の足台のもとにひれ伏」すこととして示されています。これは、「主の住まい」が「主の足台」であることを踏まえています。これと同じように、「主の住まい」が「主の足台」であることを踏まえているみことばを二つほど見てみましょう。詩篇99篇5節には、

 われらの神をあがめよ。
 その足台のもとにひれ伏せ。
 主は聖なる方。

と記されています。また、イザヤ書60章13節には、

 レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、檜も、
 ともに、あなたのもとに来て、
 わたしの聖所を輝かせる。
 わたしは、自分の足台を栄光あるものとする。

と記されています。
 このように、これらのみことばでは、「」がご臨在される神殿が「主の足台」と呼ばれています。これに対して、イザヤ書66章1節では、

 天はわたしの王座、地はわたしの足台。

と言われています。「」が「」の「足台」であるということは、旧約聖書の中ではここに出てくるだけです。これによって、「」が天を「王座」として座しておられ、「」がその「足台」となっていることが表象的に示されています。これは、「」が天と地にご臨在しておられて、すべてを治めておられることを意味しています。[注] それで、神さまが創造の御業において造り出された「天と地」は、「」がご臨在される神殿としての意味をもっているのです。

[注]この「」の御臨在による支配との関連で、ダビデのまことの子として永遠の王座に着座されるメシアが、敵である暗闇の主権者たちを最終的に、また、完全に支配し、屈服させることを預言的に示している、詩篇110篇1節に、
  は私の主に言われた。
  「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。
  わたしがあなたの敵を
  あなたの足台とするまで。」
と記されていることを理解することができます。

 このようなことから、ローマ人への手紙8章18節ー22節に記されている、イエス・キリストを信じる信仰によって、神の子どもとしていただいている私たちが受け継ぐ相続財産の中心は、「被造物のすべて」すなわち「天と地」にご臨在される神ご自身、神である「」ご自身であることが分かります。
 たとえ「天と地」、「被造物のすべて」を相続財産として受け取ったとしても、そこに「」がご臨在しておられなければ、空しいのです。そして、私たちが神ご自身を相続するということは、私たちが私たちの間に、また、私たちのうちにご臨在してくださっている神である「」を神として礼拝することを中心とした、「」との愛の交わりに生きることにおいて現実になります。その意味で、新しい天と新しい地においては、どれだけ広い領土を所有するかというようなことではなく、どれだけ深く豊かな愛において「」との交わりに生きるかということが大切なことです。
 このようなことを踏まえると、先ほど引用した、ローマ人への手紙8章14節ー17節に、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

と記されているみことばと、ガラテヤ人への手紙4章4節ー7節に、

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。

と記されているみことばが示している父なる神さまとの愛の交わりが、信仰によってアブラハムの子孫である私たちが受け継いでいる相続財産の中心にあることを理解することができます。

 このこととの関わりで、いろいろな機会にお話ししてきた、もう一つのことに触れておきます。
 テモテへの手紙第一・6章15節ー16節には、

キリストの現れを、定められた時にもたらしてくださる、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方。この方に誉れと永遠の支配がありますように。アーメン。

と記されています。
 神さまは無限、永遠、不変の栄光に満ちた方です。これに対して、御使いたちと神のかたちとして造られている人も含めて、この世界のすべてのものは神さまによって造られたものであり、すべての点において有限なものです。造り主である神さまと被造物の間には「絶対的な区別」があります。被造物と絶対的に区別される方であることが、神さまの聖さの本質です。
 現在、観測できる宇宙の範囲は137億光年です。現在観測している宇宙の果ての姿は137億年かかって地球に到達したもので、137億年前の姿です。その光が地球に到達するまでの137億年の間にも宇宙は膨張していて、現在では、470億光年の彼方に広がっていると考えられています。そのように壮大な宇宙であっても、あらゆる点において無限である神さまと比べることはできません。あらゆる点で有限な私たちにとって、比べることができるのは有限なもの同士、相対的なもの同士です。詩篇139篇12節に、

 あなたにとっては闇も暗くなく
 夜は昼のように明るいのです。
 暗闇も光も同じことです。

と記されている言い方に合わせると、神さまにとってこの壮大な宇宙も、クオークやレプトンなどのような最も小さな粒子も同じようなものです。また、最も聖い御使いであっても、その他のどのような被造物であっても、神さまの無限の栄光に直に触れることはできません。それは、紙切れが太陽に触れることができないことにたとえられます。紙切れは太陽に触れるはるかに前に燃えてなくなってしまいます。それで、紙切れが太陽に直に触れることはありえません。このたとえさえも、かすかなたとえでしかありません。造られたものが造り主である神さまに直接的に触れることは、まったくありえません。
 けれども、そうであるとすると、どうして、この世界は造り主である神さまの無限の栄光によって焼き尽くされないで存在しているのかという問題が生じてきます。
 一つの考え方では、太陽が地球から遠く離れているので、その光と熱が地球にあるものにとってちょうどよい明るさと暖かさとなっているのと同じだというように考えます。つまり、神が自分たちから遠い存在であるので、自分たちと神の関係が程よく保たれているというような考え方です。このような場合には、神の栄光をより大いなるものと考えれば考えるほど、神のことをより遠くにあると考えようになります。逆に、神が人間とあまり変わらないものであるとされているところでは、神と人間が同じ世界に共存していると考えられるようになります。しかし、神を世界の最高存在であると考え、その栄光をこの上なく大いなるものと考えて、神がはるか遠くにいるとしても、その神は同じ空間の中にいるということになってしまいます。また、神が遠くにいればその栄光の輝きもより弱くなるというのは、その栄光が無限の栄光ではないということを意味しています。
 神さまの栄光が無限であるということは、その程度ばかりでなく、範囲も無限であるということです。その無限の栄光が及ばないところはないのです。その無限の栄光の神さまの御前には、最も聖い御使いも、壮大な宇宙も存在することはできません。しかし、実際には、御使いたちも、この壮大な宇宙も、その中にある私たちも、神さまの御手によって造られ、御前に存在しています。それは、神さまが三位一体の神さまであることによっています。
 三位一体の神さまの実体あるいは本質は一つです。この意味で、神さまは唯一の神です。唯一の神さまがおられるだけであって他に神はありません。同時に、この神さまは、御父と御子と御霊の三つの位格においてあります。御父と御子と御霊は、その本質と栄光において等しい神です。[注]

[注]ここでは「3」と「1」という「数」が用いられています。時空の限界のうちにある私たちが用いている「数」は空間概念です。空間的に何らかの広がりがあって、しかも、区切られているものを、「一つ」「二つ」、あるいは「一人」「二人」などと数えることができます。そして、時間や空間はこの造られた世界の時間であり空間です。しかし、神さまはこの時間や空間を無限に超えたお方です。このように言ってはいても、私たちには「時間や空間を無限に超えること」がどのようなことであるかを知ることができません。それは、造り主である神さまと被造物の「絶対的な区別」すなわち、神さまの聖さによっています。
 私たちにとっての永遠はこの時間が限りなく続くものであり、無限は空間的に限りなく広がっているもので、「いつまでも」「どこまでも」という意味での永遠であり無限です。しかし、神さまには、そのような意味での(造られた世界に当てはまる)永遠や無限は当てはまりません。神さまは「いつまでも」「どこまでも」というような意味での永遠と無限をはるかに越えたお方です。時空の限界のうちにある私たち人間は、神さまに当てはまる無限や永遠がどのようなものであるかを、決して、知ることはできません。繰り返しになりますが、これは、造り主である神さまと被造物の「絶対的な区別」すなわち、神さまの聖さによっています。
 私たちはこのことをわきまえつつ、神さまの自己啓示(神さまが私たち人間に分かるようにご自身を示してくださったこと)に基づいて、私たちなりに神さまを具体的な方として理解しているのです。それで、私たちとしては「神は三位一体である」というように、被造物にしか当てはまらなく、無限の神さまには当てはまらない空間概念である「数」(この場合は、1と3)を、神さまに当てはめて理解していますし、このように理解する他はありません。これは、時空の限界のうちにある私たちに固有の限界によっています。
 「三位一体」の「3」と「1」には、このような事情があり、そのために、私たちは、あらゆる点において無限の神さまに、空間概念である「数」を当てはめるという意味での「無理」をしていることをわきまえておく必要があります。

 このように、御父と御子と御霊を、その神としての本質から見て、等しい神であると理解することは、三位一体の教理の理解の出発点です。御父と御子と御霊を、その神としての本質において等しい神であると理解する三位一体は「本質的三位一体」あるいは「本体論的三位一体」と呼ばれます。
 この三位一体の神さまが創造の御業と贖いの御業を遂行されるために、役割分担をされました。御父は三位一体の神さまを代表する立場に立って、御業を計画する役割を担われました。御子は御父の計画に従って御業を遂行する役割を担われました。これは、御子が創造の御業と贖いの御業を遂行されるために、ご自身の栄光をお隠しになって、この世界にかかわってくださる役割を負ってくださっていることを意味しています。御霊は御子が成し遂げられた御業を適用する役割を担われました。そのようにして、創造の御業と贖いの御業において、御父と御子と御霊は、それぞれ別の役割(職務)を担われました。そして、その役割には、御子は御父のご計画(みこころ)に従って御業を遂行されるというように、役割の上での従属関係があります。このような御業における役割から理解する三位一体は「経綸論的三位一体」と呼ばれます。[注]

[注]話を分かりやすくするために、御父、御子、御霊の「役割分担」の違いだけをお話ししていますが、三位一体の神さまの一体性が、御父、御子、御霊のそれぞれのお働きにもあることを見失ってはなりません。たとえば、ヨハネの福音書14章10節には、

わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

というイエス・キリストの教えが記されており、23節には、

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

という教えが記されています。また、ヘブル人への手紙1章1節ー2節には、

神は・・・この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。

と記されており、父なる神さまが「御子にあって私たちに語られ」「御子によって世界を造られ」たと言われています。

 御父と御子と御霊の神としての本質には、上下の関係はありません。しかし、「計画する方」、「遂行する方」、「適用する方」という役割には上下関係に当たるものがあります。御子が創造と贖いの御業を遂行されるのは、御父のご計画(みこころ)に従ってであり、御霊は、御子が成し遂げてくださった御業を、私たちとこの世界のそれぞれに当てはめてくださいます。この、「計画」、「遂行」、「適用」の働きにおいては、「計画」は「遂行」と「適用」に先立ち、「遂行」は「適用」に先立っています。けれども、それぞれのお働きを担っておられる御父と御子と御霊ご自身の間には、時間的な後先や上下の関係はありません。
 たとえて言うと、工場において製品を造る場合、どのような製品をどれだけ造るかの計画を立てること、その計画に従って製品を造ることの間にはある種の上下関係があります。製品を造る人は、経営者の計画に従って造らなくてはなりません。その意味で、仕事上の関係から言いますと、計画することは製造することに先立ち、その上にあります。また、製品ができなければ配送する(「適用する」に当たる)ことはできません。その意味で、製造することは配送することに先立ち、その上にあります。しかし、人間としての本質から言いますと、計画を立てる人も、その計画にしたがって製造する人も、その製品を配送する人も等しい人間です。その点における上下関係はありません。
 このように、御父と御子と御霊の関係を、創造の御業と贖いの御業におけるそれぞれのお働き(役割)から見ますと、御子は御父に従い、御霊は御父と御子に従っています。しかし、それはあくまでも役割の上での上下関係であって、神としての本質の違いはありません。

 ヨハネの福音書1章1節ー3節には、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されています。
 ここで、

 すべてのものは、この方によって造られた。

と言われているのは、「ことば」すなわち御子が、御父のご計画(みこころ)に従って、創造の御業を遂行されたということです。
 また、ヨハネの福音書1章18節には、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されています。最も聖い御使いも、神のかたちとして造られている人も、無限の栄光の神さまを直接的に見ることも、知ることもできません。しかし「父のふところにおられるひとり子の神」である御子が、父なる神さまがどのような方であるかを、人や御使いに分かるように啓示してくださったのです。
 このように、御子がその無限の栄光をお隠しになり、限りなく身を低くされて、この世界に関わる役割を担ってくださっています。それで、天地創造の初めに神のかたちとして造られた人の間にご臨在され、人をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださった神である「」は御子のことです。さらに、御子は人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、さらに身を低くして人としての性質を取って来てくださり、十字架におかかりになって私たちの罪を贖ってさり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださって、私たちを新しく生まれさせてくださったのです。
 今お話ししていることとの関わりで大切なことは、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、私たちご自身の民を栄光のからだによみがえらせてくださり、私たち神の子どもたちとの一体にある「被造物のすべて」を新しい天と新しい地の栄光の状態に造り変えてくださっても、それで、私たちが無限の栄光の神さまを直接的に見ることができるようになるわけではないということです。
 新しい天と新しい地においても、神さまの聖さの本質である、造り主である神さまと被造物との「絶対的な区別」はなくなることはありません。新しい天と新しい地においても、御子が無限に身を低くして、そこにご臨在してくださるので、言い換えると、御父が御子にあってそこにご臨在してくださるので、私たち「」の契約の民はその御臨在の御前にひれ伏して礼拝することができるのです。ただ、新しい天と新しい地にご臨在される御子の栄光は、創造の御業の初めにエデンの園にご臨在された時の栄光より、さらに豊かな栄光なのです。そして、終わりの日に、私たちが、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことにあずかって、栄光のからだによみがえることは、最初の創造の御業において神のかたちとしての栄光に造られた人の栄光より、さらに豊かな栄光を受けることです。それによって、私たちは新しい天と新しい地に、御子にあってご臨在される父なる神さまの御前にひれ伏して礼拝することができるのです。そして、この御子にあっての父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりこそが、私たちが受け継ぐ相続財産の中心であるのです。


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