黙示録講解

(第362回)


説教日:2018年12月9日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(115)


 本主日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

という、終わりの日に再臨される栄光のキリストについてのみことばに関わることをお話しします。
 今日も、お話の経緯については省略して、これまでお話ししたことを振り返りながら、補足しておきます。
 これまで、イスラエルがカナンの地に侵入したことは、「」がアブラハムと結んでくださった契約に約束されていた、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことを指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっていたことについてお話ししました。
 先主日には、ローマ人への手紙4章13節ー25節に記されているみことばに示されているアブラハムの信仰と、特に13節に、

というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。

と記されている中に出てくる「世界の相続人となるという約束」ということばに示されている、アブラハムの信仰に倣う者たちが受け継ぐ「世界」が何であるかについてお話ししました。
 ローマ人への手紙の大きな流れの中では、この「世界の相続人」の「相続人」のことは、この後しばらく触れられないで、8章14節ー17節において、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

と記されている中に出てきます。
 ここでは、4章以下に記されていることを踏まえて言いますと、アブラハムの信仰に倣う私たちが、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださり、私たちを復活のいのちに生きるようにしてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださった御子イエス・キリストを信じる信仰によって、義と認められ、子とされていることを受けて、

 子どもであるなら、相続人でもあります。

と言われています。
 そして、その「世界の相続人」が受け継ぐべき「世界」については、続く18節ー25節に、

今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望みではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。

と記されています。
 18節ー21節に、

被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。

と記されていることは、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを背景としています。神さまが神のかたちとして造られている人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことは、創世記1章27節ー28節に、

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。そして、詩篇8篇5節ー6節には、

 あなたは人を御使いより
 わずかに欠けがあるものとし
 これに栄光と誉れの冠を
 かぶらせてくださいました。
 あなたの御手のわざを人に治めさせ
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていて、人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後も、人が神のかたちとして造られていることと歴史と文化を造る使命を委ねられていることは変わっていない(取り消されてはいない)ことが示されています。ここでは、歴史と文化を造る使命のことが、

 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われています。そして、新約聖書では、このことばがコリント人への手紙第一・15章27節、エペソ人への手紙1章22節、ヘブル人への手紙2章8節において引用されていて、

 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われているときの「万物」、すなわち、歴史と文化を造る使命において神のかたちとして造られている人と一体とされている「被造物のすべて」を指しているということを示しています。
 これによって、「万物」は神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人との一体のうちにあるものとされていること、その意味で、人は「万物」の「かしら」として立てられていることが示されています。それで、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時に、「万物」も人との一体において「虚無に服した」のです。そのことは、最初の人アダムに対するさばきの宣告を記している創世記3章17節に、

 あなたが妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 大地は、あなたのゆえにのろわれる。

と記されていることに表されています。
 そうであれば、「虚無に服した」「万物」すなわち「被造物」が、先ほど引用したローマ人への手紙8章18節ー21節に記されているように、「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずか」るようになるのは、罪を贖われて「神の子ども」とされる人との一体においてです。それで、18節では、

 被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。

と言われています。また、現在のこととして、22節では、

 私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

と言われています。
 この場合の「被造物のすべて」は、人や御使いたち(悪霊たちも含む)以外の被造物、すなわち、物質的な被造物のことでであると考えられます。御使いたちは罪を犯していないので虚無に服してはいないので、ここに出てくる「被造物のすべて」には含まれません。悪霊たちは「神の子どもたちが現れるのを」待ち望むどころか、それを阻止しようとして働いているので、ここに出てくる「被造物のすべて」には含まれません。また、「」を信じていない人々は、ここに記されていることを信じていないので、ここに出てくる「被造物のすべて」には含まれません。さらに、「」を信じている私たちは「神の子どもたち」として、ここに出てくる「被造物のすべて」と区別されていますし、23節で、

それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。

と言われていていて、その前の「被造物のすべて」と区別されています。これらのことから、ここに出てくる「被造物のすべて」は物質的な被造物のことであると考えられます。
 また、それで、今引用した23節で、私たちが「子にしていただくこと」が「私たちのからだが贖われること」と言われていることの意味が理解できます。それは「私たちのからだ」が私たちの物質的な面であるからです。私たちはこの「からだ」において、ここに出てくる「被造物のすべて」とのつながりをもっています。それで、「私たちのからだが贖われる」時には、「被造物のすべて」が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずか」るようになるのです。
 そして、14節ー16節には、

神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

と記されていて、私たちがすでに「神の子ども」であると言われているのに、ここ23節では、「子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われること」を将来のこととして「待ち望みながら、心の中でうめいて」いると言われていることの意味が理解できます。


今日、私たちは地球規模の異変による環境の破壊や、それに伴う、多くの生き物たちの絶滅を目の当たりにしています。また、マタイの福音書24章7節に記されている、

 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。

という神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人の間の悲惨な現実をも目の当たりにしています。
 また、今日では、市場経済のグローバル化ということに伴って、世界が過酷な競走に巻き込まれてしまっています。そして、富める者たちがますます富を蓄え、貧しい人々がさらに貧困の中に追いやられています。そのことには、富める者たちが、いわゆる「タックス・ヘイヴン」と言われている国々に資産を移して課税を逃れているという現実もからんでいるようです。2016年には、国際NGO「オックスファム」の報告では、62人の大富豪が、全人類の下位半分に当たる36億人の資産と同額の資産を保有していると言われていました。私はこれをNHKの番組で聞いて、木曜集会などでお話ししたことがありましたが、改めて調べてみました。ロイター通信やAFP通信の電子版によると、これは、中国やインドなどの状況も加えた最新のデータで修正されて、62人ではなく9人であったとされており、昨年度は、8人になったとされているようです。いずれにしても、もはや、このような事態を変革することができない状態になってしまっているとも言われています。
 さらに、世界のさまざまな地域で「神の子ども」たちが「」の御名のために厳しい迫害を受けています。
 さらに深刻なことに、「」を信じているという教会が、さまざまな形で福音のみことばを曲げてしまっている現実もあります。パウロはテモテへの手紙第二・4章2節で、

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。

と戒めた後、3節ー4節において、

というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。

ということに注意を向けています。これが新約聖書が記された時代からあった問題ですが、今日では、「繁栄の福音」と呼ばれるものが歓迎されたり、罪のことはあまり語らないで、心がほっとする話をしてほしいというようなことが言われたりするようなことがあります。
 パウロは私たちよりはるかに貧しく、厳しい状況にあった初代教会の信徒たちに、自分たちのうめきは「被造物のすべて」との一体にあるうめきであるということを教えています。教えているというより、

私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。

と記されているように、そのことを「私たちは知っています」と再確認しているのです。そして、聖書はそのことは神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人の罪による堕落によってもたらされていることを示しています。その罪は、主イエス・キリストの恵みによって贖われて神の子どもとしていただいている私たち自身のうちにもなお残っていて、私たちの本性を腐敗させています。私たちもその「張本人」なのです。「私たちは知っています」ということは、他人事として知っているということではありません。
 私たちはこのような状態にあってうめいていますが、その時にこそ、御霊に目を開いていただいて、私たちが「被造物のすべて」との一体にあってうめいていることを覚えたいと思います。そして、そのような中にあって、なお、アブラハムの信仰に倣う者として、「」が約束してくださっている「被造物のすべて」が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずか」るようになることを信じて、望みのうちを歩みたいと思います。そして、そのように歩みつつ、信仰の家族たち、時代をともにする聖徒たち、そして、この国、この時代のためにとりなし祈り続ける祭司としての務めに生きたいと思います。
 これに対しては、深い慰めもあります。先ほどは、ローマ人への手紙8章18節ー25節に記されているみことばを引用しましたが、続く、26節ー27節には、

同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

と記されています。この御霊は、14節ー16節において、私たちを神の子どもとして導いてくださり、父なる神さまに向かって「アバ、父」と叫ばせてくださり、「私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証しして」くださると言われている御霊です。私たちはその御霊に導いていただいている神の子どもとして、「被造物のすべて」を委ねていただいている相続人であり、「被造物のすべて」との一体にあってうめいています。御霊は、その私たちのために「ことばにならないうめきをもって」とりなしてくださっています。

 これらのことを踏まえて、さらにもう一つのことについてお話ししたいと思います。
 イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業が「被造物のすべて」が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずか」るようになることの土台であり、新しい天と新しい地の創造につながっていることは、コロサイ人への手紙1章13節ー20節に記されているみことばから汲み取ることができます。そこには、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

と記されています。
 今お話ししていることと関わっているのは、19節ー20節に、

なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

と記されていることです。
 今日は、ここに記されていることについてお話しする前に、一つのことに触れておきます。
 ここに記されていることは、この前の9節ー12節に、

こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

と記されている、パウロのコロサイにある教会の信徒たちのための祈りに続いています。
 13節は、新改訳では、

 御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

となっています。この場合の「御父」は関係代名詞で、その前の12節に記されている、

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

というパウロの祈りの最後のことばに出てくる「御父」を受けています。それまでは、神さまのことは、「」(10節)と「」を指す代名詞「彼」(9節「神[彼]のみこころ」[これは6節の「神の恵み」の「」を受けています]、11節「神[彼]の栄光」)で表されています。
 ここでは、「御父」は12節に記されているように、私たちに「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を」与えてくださったのですが、そのために、13節に記されているように、「私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して」くださった、と言われているのです。
 そして、14節で、

 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

と言われているときの「御子」は、やはり関係代名詞で、その前の13節で、「御父」が「私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」と言われているときの「御子」を受けています。
 この流れを通して見ますと、ここでは、父なる神さまが「私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して」くださったことによって、私たちは御子のうちにある者となり、御子が成し遂げてくださった「贖い、すなわち罪の赦し」にあずかっていると言われています。そして、これによって、私たちは「光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を」与えていただいていると言われています。さらに、大切なことですが、ここでは、これらのことよって、また、これらのことについて、私たちは父なる神さまに「喜びをもって感謝をささげること」ができるようにしていただいていると言われているのです。ここに記されていることのすべては、父なる神さまの愛と恵みが感謝とともにほめ讃えられるようになるためのことなのです。12節では、「喜びをもって[これは一一節最後に出てきます]感謝をささげること」が冒頭に出てきて強調されています。

 ここには一つの問題があります。それは、12節では、

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

と言われていて、「あなたがた」のことが語られているのに、13節では、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と言われていて、「私たち」のことが語られているということです。それで、「私たち」のことを語っている13節は「あなたがた」のことを語っている12節とはつながっていないのではないかという問題があるのです。実際に、そのように考えている方々がおられます。
 けれども、パウロとしては、13節と14節で「御父」がなしてくださったことを述べるときに、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

というように、「あなたがた」をも含む「私たち」のこととして語らないではいられなかったとも考えることができます。
 実際、12節と13節のつながりを示すこともあります。
 先ほどお話ししたように、9節ー12節に記されている祈りの中では、神さまのことは11節まで「」(あるいは「」を指す「彼」)で表されていますが、12節では「御父」で表されています。そして、13節ではそれを受けている関係代名詞(新改訳では「御父」)が用いられています。このことは、12節と13節のつながりを示しています。
 このことの他に、もう二つのことがあります。
 まず、12節では、

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

と言われていていて、「光の中にある」ということが示されています。これは、13節で、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と言われているときの、「暗闇の力」の中にあったことと対比されています。この対比は、12節に記されていることは13節に記されていることを踏まえており、13節に記されていることは12節に記されていることを踏まえているという形で、12節と13節のつながりを示しています。
 さらに、先ほどお話ししたように、12節では神さまのことが「御父」で表されています。これは、続く13節で、

御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

と言われているときの、「愛する御子」との関わりを示しています。その意味でも、12節と13節はつながっています。
 このこととの関わりで、一つのことに注目しておきますと、ここでは、「御父」が私たちを「愛する御子のご支配の中に移して」くださったと言われています。続く14節で、「この御子にあって(私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。)」と言われているように、これによって、私たちは「御父」の「愛する御子」にある者としていただいています。それは、私たちも「御子にあって」「御父」の愛を受けているということを意味しています。それで、

 この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

と言われているのは、「御父」の愛によることを意味しているのです。


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