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説教日:2018年12月2日 |
このことに関してローマ人への手紙4章13節ー25節には、 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのですアブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。 と記されています。 17節に引用されている、 わたしはあなたを多くの国民の父とした ということばは、アブラハムが99歳の時のことを記している創世記17章5節の、 わたしがあなたを多くの国民の父とする という「主」の約束のことばの引用です。そして、(ローマ人への手紙4章で)続く18節に引用されている、 あなたの子孫は、このようになる ということばは、アブラハムが85歳より前のことを記している創世記15章5節で、「主」がアブラハムに天の星を見せてから言われた、 あなたの子孫は、このようになる。 という約束のことばの引用です。この二つの約束のことばの間には、少なくとも15年ほどの開きがありますが、その間も、アブラハムの信仰は変わることがありませんでした。確かに、創世記16章に記されていることですが、ハガルによってイシュマエルを生んだことに見られるように、自分たちの考えに従って、相続人としてのアブラハムの子孫に関する約束を実現しようとしたことがありました。しかし、それによって、相続人としてのアブラハムの子孫は不妊の女性であるサラから生まれる約束の子であり、それには血肉の力はいっさい関わることなく、ただ「主」の一方的な恵みによるということを示されました。 アブラハムの信仰は強められ、深められこそすれ、その本質的においては変わることがありませんでした。しかもそれは、 自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。 と言われているように、人間の経験からすれば、まったく不可能であるとしか思えない状況にあってのことですし、その約束が実現するまでに少なくとも15年待たなければならない状況にあってのことです。そして、その強められた信仰によって、その15年の年月の流れの中で、「神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信してい」たのです。 このことにおいて、私たちが特に心に刻んでおきたいのは、その15年以上の間に、アブラハムの信仰が弱くなることなく、「かえって信仰が強められた」ことは、アブラハムの力によっているのではないということです。この「強められた」が受動態[この場合は、それをなされる方が神さまであることを表す「神的受動態」]で表されていることから分かるように、「主」が、その一方的な恵みによってアブラハムの信仰を支えてくださり、強くしてくださったことによっていました。先ほど触れたように、アブラハムとサラは自分たちの考えに従って、相続人としてのアブラハムの子孫に関する約束を実現しようとして、ハガルによってイシュマエルを生みました。それは、アブラハムの限界によっています。アブラハムは完璧であったわけではありません。「主」は、その一方的な恵みによってアブラハムの信仰を支えてくださり、強くしてくださったのです。そうであるからこそ、アブラハムとしては、ますます「神に栄光を帰し」ていくことになったことでしょう。また、それによって、「神には約束したことを実行する力がある、と確信して」いくことができたのだと考えられます。 ここでは、さらに、もう三つのことに注目したいと思います。 第一に、これらのことから、私たちはアブラハムの信仰がどのようなものであるかを汲み取ることができます。そして、このアブラハムの信仰があまりにも強くて深いので、信仰においてアブラハムは私たちとはかけ離れたところにいるかのように感じてしまうかも知れません。しかし、ローマ人への手紙4章16節では、私たちのことが「アブラハムの信仰に倣う人々」と言われており、 アブラハムは、私たちすべての者の父です。 と言われています。そして、これまでお話ししてきたように、アブラハムがその信仰によって義と認められたことにおいては、アブラハムは「主」の御前に何かを達成したのではありません。アブラハムは相続人としてのアブラハムの子孫についての「主」の約束を信じ、「主」がその約束を果たしてくださることを信じたのです。そして、アブラハムにその信仰を与えてくださったのは「主」ですし、困難な状況にあってなお、その信仰を持ち続けさせてくださり、さらに、その信仰を強めてくださったのも「主」です。このすべては「主」の一方的な恵みによっています。それで、このすべてにおいて、アブラハムが「神に栄光を帰し」たように、アブラハムではなく、「主」がほめ讃えられるべきなのです。この意味においてであれば、私たちも「アブラハムの信仰に倣う人々」と言われることに、また、 アブラハムは、私たちすべての者の父です。 と言われていることに対して、素直に納得することができます。 第二に、17節後半ー19節では、アブラハムは、 彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。 と言われています。 ここでは、19節からさかのぼって見ていくことになりますが、アブラハムが「およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても」信じ続けたことが、アブラハムは「望み得ない時に望みを抱いて信じ」たこととしてまとめられています。さらに、それは「死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ」たことであると言われています。そして、私たちはこの「アブラハムの信仰に倣う人々」であると言われています。私たちにとって、それは、アブラハムが信じて待ち望んでいた方、アブラハムの子孫として来てくださった私たちの主イエス・キリストにおいて現実になっています。そのことが、23節ー25節において、 しかし、「彼[アブラハム]には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。 と記されています。主イエス・キリストが「私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられ」たということは、「およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然である」アブラハムと、その「胎が死んでいる」サラから子どもが生まれたことより、はるかに、人の経験や思いを越えたことです。「主」は一方的な恵みによって、私たちがそのことを信じるように私たちの心を開いてくださいました。 第三に注目したいことは、13節に、 世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。 と記されていることです。 ここでは、 世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられた と言われています。そしてそれが「律法によってではなく、信仰による義によってであった」と言われています。原文のギリシア語では、「律法によってではなく」ということばが13節の冒頭にあって強調されています。そして、それが13節の最後にあって強調されている「信仰による義によって」ということと対比されています。 さらにここでは、アブラハムとその子孫に与えられたのは「世界の相続人となるという約束」であったと言われています。この場合の「世界」が何を意味するかが問題となります。 まず考えられるのは、この「世界」は創世記12章3節に記されている、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 というアブラハムに与えられた「主」の約束のことばに出てくる、「地のすべての部族」のことであるということです。しかし、この「主」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束は、ローマ人への手紙4章13節のことばに合わせて言うと、「地のすべての部族」が「相続人」になるという祝福です。そして、その「相続人」である「地のすべての部族」が受け継ぐ相続財産が「世界」です。それで、「地のすべての部族」が「世界」のことであると考えることはできません。 このように、ローマ人への手紙4章では「世界の相続人」が受け継ぐ「世界」が何であるかということは説明されていません。また、この後も、そのことは説明されないままで話が進んでいきます。それには理由があります。先ほどお話ししましたように、4章13節で、 世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。 と言われていることにおいては、冒頭に出てくる「律法によってではなく」ということと最後に出てくる「信仰による義によって」ということが強調されています。それで、この「律法によってではなく、信仰による義によって」ということについての説明が4章14節以下8章までなされていきます。 そうではあっても、「世界の相続人となるという約束」のことが忘れられているわけではありません。4章14節以下、8章に至るまで「律法によってではなく、信仰による義によって」ということについての説明がなされて、それが、8章14節ー16節において、 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 と記されていることにおいて、すなわち、信仰によって義とされた者たちが子とされるという祝福にあずかっていることが示されることにおいて一つのクライマックスに達します。 8章では、このことを受けて、続く17節で、 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。 と言われています。ここに「相続人」のことが出てきます。これは、4章13節に出てきた「世界の相続人となるという約束」のことを踏まえています。それで「世界の相続人となるという約束」は、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、「神の子ども」とされた人々において実現していることがわかります。 この8章17節を受けて語られている18節ー24節前半には、 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。 と記されています。 これらのことから、4章13節において、アブラハムとアブラハムの子孫に「世界の相続人となるという約束」が与えられたと言われているときの「世界」は、やがて「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずか」るようになると言われている「被造物のすべて」のことであると考えられます。言い換えますと、世の終わりに再臨される栄光のキリストが、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地のことです。 そして、十字架にかかって私たちご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたときのイエス・キリストの復活のからだは、この新しい天と新しい地に属するからだです。また、ローマ人への手紙8章23節で、 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。 と言われているときの「私たちのからだが贖われること」も、私たちが新しい天と新しい地に属する復活のからだによみがえることを意味しています。それは、4章24節で、 私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。 と言われていることにつながっています。そして、8章24節では、 私たちは、この望みとともに救われたのです。 と言われています。その意味で、私たちは4章18節において、アブラハムが「望み得ない時に望みを抱いて信じ」たと言われていることにつながっている信仰のうちに生きています。 最後に、極く簡単に触れておきますが、私たちがアブラハムの子孫として「世界の相続人」としていただいて、新しい天と新しい地を受け継ぐことは、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが、イエス・キリストの贖いの御業をとおして回復され、完成に至るようになることを意味しています。 そして、霊的な戦いにおいて私たちが戦っている暗闇の主権者であるサタンとその霊的な子孫たちは、初めから、この歴史と文化を造る使命に関わる神さまのみこころが実現することを阻止しようとして働いています。 私たちはこの霊的な戦いの状況にあって、「世界の相続人」として、「被造物のすべて」とともに、望みにあってうめきつつ、新しい天と新しい地において、その歴史と文化を造る使命に関わる神さまのみこころが完全に実現することを約束してくださっている「主」を信じています。そして、それが「アブラハムの信仰に倣う」ことです。 |
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