黙示録講解

(第360回)


説教日:2018年11月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(113)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

という、終わりの日に再臨される栄光のキリストについてのみことばについてお話ししています。
 これまで、これに先立つ11節以下に記されていることをお話ししてきまして、今は、14節に、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。

と記されている「天の軍勢」についてお話ししています。
 これまで、この「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を支持するとされているヨシュア記5章13節ー15節に、

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

と記されているみことばについてお話してきました。
 そして、先主日までイスラエルがカナンの地に侵入したことは、「」がアブラハムと結んでくださった契約に約束されていた、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことを指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっていたことについてお話ししました。
 このことは、古い契約の下にあっても、新しい契約の下にあっても、「」の契約の民は新しい天と新しい地を受け継ぐ望みのうちを生きていること、また、それはアブラハム契約の祝福の実現であることを意味しています。そして、ユダヤ人と私たち異邦人からなる新しい契約の「」の民の間においては、この新しい天と新しい地を受け継ぐことは、アブラハムの子、ダビデの子として来てくださって、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げてくださった御子イエス・キリストにおいて、すでに、原理的、実質的に実現しています。
 原理的、実質的に実現しているということは分かりにくいかと思いますが、すでにお話ししたことがあるたとえを用いてお話ししますと、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の行方は、連合軍のノーマンディ上陸作戦によって決定的なものとなりました。その作戦が実行された1944年6月6日は「ディー・ディ(D day)」と呼ばれます。それ以降は、ナチス軍は撤退に次ぐ撤退を余儀なくされていきます。そして、連合軍が勝利した日である1945年5月8日が「ヴィー・ディ(V day)」あるいは、ヨーロッパ戦線における勝利の日ということで「ヴィー・イー・ディ(V-E day)」と呼ばれます。「ヴィー・イー・ディ(V-E day)」の「イー(E)」はヨーロッパ(Europe)の頭文字です。
 第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の大勢は、その「ディー・ディ」において決していて、それによって、ヨーロッパ戦線においては、連合軍が「原理的、実質的に」勝利しています。その後も戦闘は続いていくのですが、ナチス軍は敗走しながら戦っています。イエス・キリストが私たちの契約のかしらとして、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださったことによって、霊的な戦いにおける勝利は決定的なものとなりました。イエス・キリストが私たちのために十字架におかかりになった日は、霊的な戦いにおける「ディー・ディ」に当たります。
 言うまでもなく、霊的な戦いの「ヴィー・ディ」(勝利の日)は、イエス・キリストが再び来られて、暗闇の主権者であるサタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行され、私たちご自身の民の救いを完成し、新しい天と新しい地を再創造してくださる「終わりの日」です。
 霊的な戦いの「ディー・ディ」における原理的、実質的な勝利のことは、黙示録12章1節ー12節に記されています。
 すでにお話ししてきたように、ヨシュアに率いられたイスラエルの民がカナンの地に侵入したことは、「」がアブラハムと結んでくださった契約に約束されていた、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことを指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっていました。それは、また、霊的な戦いにおける「地上的なひな型」としての意味ももっていました。終わりの日に、約束されていたメシアが栄光のうちにこの世界にご臨在されて、暗闇の主権者であるサタンとその霊的な子孫を最終的におさばきになることを指し示す「地上的なひな型」としての意味ももっていたのです。
 そして、黙示録12章1節ー12節に記されていることは、そのような霊的な戦いにおけるメシアの勝利が、すでに、原理的、実質的に実現していることを示しています。その意味で、そこには霊的な戦いの「ディー・ディ」におけることが記されています。それと同時に、そこには霊的な戦いの「ディー・ディ」におけることの歴史的な背景が、イスラエルの民がカナンの地に侵入したことを越えて、「最初の福音」にまでさかのぼっていくことも示されています。
 このようなことを念頭に置いて、黙示録12章1節ー12節に記されていることを見てみましょう。そこには、

 また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。
 さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。
 「今や、私たちの神の救いと力と王国と、
 神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、
 昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、
 投げ落とされたからである。
 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。
 彼らは死に至るまでも
 自分のいのちを惜しまなかった。
 それゆえ、天とそこに住む者たちよ、喜べ。
 しかし、地と海はわざわいだ。
 悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、
 おまえたちのところへ下ったからだ。」

と記されています。
 これについては、いろいろな機会にお話ししてきたので、今お話ししていることとかかわっていることを振り返っておきましょう。
 1節には「一人の女」(「」の単数形)が出てきます。
 この「」は「太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた」と言われています。この「太陽」「」「」は旧約聖書やユダヤ教黙示文学などでイスラエルの民と関連づけられています。それで、この「」は古い契約の下にあった「」の契約の民であるイスラエルを黙示文学的な表象によって表していると考えられます。
 それと同時に、5節には、

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。

と記されています。そして続く6節には、

女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。

と記されています。この「」は「男の子」すなわち約束のメシアを産んだ後も存在しています。それで、この「」は古い契約の下にあった「」の契約の民であるイスラエルだけでなく、それが「地上的なひな型」として証ししていた、新しい契約の下にあってユダヤ人と私たち異邦人からなるキリストのからだである教会をも表していることが分かります。
 これに対して、3節には、

また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。

と記されています。
 この「大きな赤い竜」は、9節に、

こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

と記されているサタンのことです。ここでサタンのことが「古い蛇」と呼ばれていることは、サタンと創世記3章に記されている最初の「」を神である「」に対して罪を犯すようにと誘惑した「」を結びつけるものです。
 この「大きな赤い竜」が「赤い」と言われていることは、サタンが好戦的であり、神である「」に対して霊的な戦いを仕掛けて、神のかたちとして造られている人を「」に背かせ、死と滅びの中に閉じ込めてしまうとともに、「」の民を死に至らせている殺戮者であることを表象的に表していると考えられます。
 そして、2節には、

 女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。

と記されており、4節後半には、

 また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。

と記されています。
 これらのみことばには、旧約聖書の背景があります。それは、最初の「」を神である「」に対して罪を犯すようにと誘惑した「」の背後にあって働いていたサタンへのさばきのことばを記している創世記3節15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている、「最初の福音」としての意味をもっていることばと、それに続く16節の前半に記されている、

 わたしは、あなたの苦しみとうめきを
 大いに増す。
 あなたは苦しんで子を産む。

という「」へのさばきのことばです。
 この「」へのさばきのことばを、それに先立つ15節に記されている、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

という「」の背後にあって働いていたサタンへのさばきのことば、「最初の福音」とのかかわりで受け止めると、「」から「女の子孫」が生まれてくることの保証となっています。
 このようにして、「」は産みの苦しみをして子を産むことになりますが、それによって、「」と「女の子孫」の共同体が形成されていくようになります。
 そして、神である「」が、「」の背後にあって働いていたサタンへのさばきの宣告において、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。

と宣告されたように、神である「」が罪によってサタンと一体になってしまっている「」と「女の子孫」の共同体と、「おまえ」と呼ばれている「蛇」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体の間に「敵意」を置いてくださって、この二つの共同体を敵対関係にあるものとしてくださいます。これによって、霊的な戦いが展開していくようになります。
 この霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」の共同体は、神である「」に敵対している「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体と戦うようになります。それは、「」と「女の子孫」の共同体が神である「」の側に立つようになることを意味していて、「」と「女の子孫」の共同体の救いを意味しています。
 この霊的な戦いは、

 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と言われているように、「」と「女の子孫」の共同体の勝利に終ります。この場合は「女の子孫」とそれを受けている「」は単数形ですが、集合名詞として共同体を表していると理解します。「」と「女の子孫」の共同体の勝利の成就のことは、ローマ人への手紙16章20節に、

 平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。

と記されています。
 同時に、「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体には「かしら」がいます。それは「おまえ」すなわちサタンです。当然、「」と「女の子孫」の共同体にも「かしら」がいます。それは「」ではなく「女の子孫」の中にいます。その方こそが約束のメシアです。この方は、最終的に、

 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と言われているように、「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体の「かしら」であるサタンへのさばきを執行し、その「頭を打つ」(致命傷を負わせる)ようになります。


 そのような意味をもっている霊的な戦いの「ディー・ディ」のことが黙示録12章1節ー12節に記されているのです。
 5節では、この「」が産んだ「男の子」について、

 この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。

と言われています。これは、この「男の子」が詩篇2篇9節に記されている、

 あなたは 鉄の杖で彼らを牧し
 陶器師が器を砕くように粉々にする。

という預言的なみことばに示されていた約束のメシア、この詩篇2篇では、「」がダビデに与えてくださった契約に約束してくださっていた永遠の王座に着座されるダビデの子であるメシアを示しています。言うまでもなく、この「男の子」はアブラハムの子、ダビデの子として来られた御子イエス・キリストのことです。
 そして、5節後半では、

 その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。

と言われています。これは、イエス・キリストが十字架にかかってユダヤ人と私たち異邦人からなる「」の契約の民の罪を贖ってくださった後、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたことを指しています。
 このことを受けて、7節ー9節には、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

と記されています。
 これが、霊的な戦いにおける「ディー・ディ」に当たることで、サタンとその使いたちが、すでに、天から投げ落とされてしまっていることを伝えています。
 しかし、これは霊的な戦いの終わりではありません。12節には、「大きな声が天で」言った、

地と海はわざわいだ。悪魔が自分の時が短いことを知って激しく憤り、おまえたちのところへ下ったからだ。

ということばが記されています。また、続く13節には、

 竜は、自分が地へ投げ落とされたのを知ると、男の子を産んだ女を追いかけた。

と記されています。サタンは実質的に霊的な戦いに敗北しているのですが、そのことを知って、さらに激しく「」、すなわち新しい契約の共同体、ユダヤ人と私たち異邦人からなるキリストのからだである教会を迫害するようになりました。けれども、すでに霊的な戦いの勝敗は決しています。サタンとその使いたちは、いわば、敗走しながら戦っているのです。

          *
 この霊的な戦いの様相について、一つのことをお話ししたいと思います。
 まことのダビデの子として来られて、神の国の王としてご自身の民を治めておられるイエス・キリストが、十字架につけられるために渡される前に、この世の国の覇権を握っていたローマ帝国を代表する総督ピラトの審問を受けたときのことを記しているヨハネの福音書18章36節には、

わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。

という、イエス・キリストがピラトに証しされたことばが記されています。
 もしイエス・キリストの御国が「この世のもの」であったとしたら、イエス・キリストのしもべたちは相手を殺傷する武器を取って、王であるイエス・キリストを渡さないように戦ったはずでした。しかし、イエス・キリストの御国は「この世のもの」ではありません。ルカの福音書22章50節ー51節に記されていますが、イエス・キリストは、ご自分の弟子が、ご自身を逮捕しようとしてやって来た群衆の中にいた大祭司のしもべに切りかかって、その耳を切り落としたとき、その弟子を止めて、大祭司のしもべの耳を癒されました。
 新改訳では、イエス・キリストがピラトに語られたことばには「この世のもの」ということばが3回出てきますが、最後のことば(エンテウセン)は文字通りには「ここから」ということを意味しています。これは、イエス・キリストの御国の起源がこの世にはないということ、したがって、イエス・キリストの御国はこの世には属していないし、この世の国とは本質的に違っているということを意味しています。
 イエス・キリストの御国がこの世の国とは本質的に違っていることは、イエス・キリストが言われた、

もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。

ということばに如実に表されています。
 すでにお話しした戦いのための武器の違いのことは、いったん、おいておいてお話ししますが、この世に属する国においては、しもべたちが王を守るためにいのちがけで戦います。しかし、イエス・キリストの御国においては、まさにこの時、王であるイエス・キリストがしもべたちのためにいのちを捨てようとしておられます。そして、実際に、十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって、すべて受けてくださって、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださいました。
 このことこそが、イエス・キリストが神の国の王であられることの最も豊かな現れです。そのしもべたちのためにご自身のいのちをお捨てになった方こそが神の国の王なのです。
 続く37節には、

そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

と記されています。イエス・キリストが、

 わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。

と言われる時の「真理」は、同じヨハネの福音書14章6節で、イエス・キリストが、

 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

と教えておられるとおり、実質的には、イエス・キリストご自身です。もう少し言うと、私たちご自身の民を父なる神さまの御許に導いて、父なる神さまとの愛の交わりに生きる者としてくださるイエス・キリストご自身とそのお働きです。私たちにとっては、その「真理」は、福音のみことばに証しされているイエス・キリストご自身とそのお働きです。
 ここで、イエス・キリストは、

 わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。

と言われました。そうすると、イエス・キリストと真理は違うのではないかという気がします。しかし、これは、イエス・キリストはご自身について証しされるということです。ご自身がどなたであり、どのようなお働きをされるかをお示しになるということで、イエス・キリストの自己啓示、あるいは、自己開示です。
 そして、イエス・キリストが、14章9節において、

 わたしを見た人は、父を見たのです。

と教えてくださっているように、私たちはイエス・キリストご自身を知ることによって、そして、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、父なる神さまを知り、父なる神さまとの愛の交わりに生きることができるのです。
 父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは御霊を注いでくださり、私たちご自身の民を御霊によって治めてくださいます。この世の国のように軍事力、経済力、人数の力などの血肉の力によってではなく、御霊によって治めてくださいます。その御霊は「真理の御霊」です。そして、私たちを導いてくださって、福音のみことばに証しされている、イエス・キリストご自身とその御業を理解し、悟らせてくださいます。イエス・キリストは、15章26節で、

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

と教えておられます。また、16章13節では、

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。

と教えておられます。
 このように、イエス・キリストご自身が真理であられ、真理を証ししてくださり、「真理の御霊」によって、私たちを福音のみことばに証しされているご自身とそのお働きを理解し悟るように導いてくださり、父なる神さまとの愛の交わりに生きるようにしてくださいます。
 これに対して、8章44節には、

悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 霊的な戦いはこのような意味での「真理」、イエス・キリストにかかわる「真理」をめぐる戦いです。その勝利について、黙示録12章11節には、

 兄弟たちは、子羊の血と、
 自分たちの証しのことばのゆえに
 竜に打ち勝った。

と記されています。


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