黙示録講解

(第359回)


説教日:2018年11月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(112)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

という、終わりの日に再臨される栄光のキリストについてのみことばについてお話ししています。
 これまで、これに先立つ11節以下に記されていることをお話ししてきまして、今は、14節に、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。

と記されている「天の軍勢」についてお話ししています。
 これまで8回にわたって、この「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を支持するとされているヨシュア記5章13節ー15節に、

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

と記されているみことばについてお話ししました。
 そして、先主日まで3回にわたって、イスラエルがカナンの地に侵入したことは、「」がアブラハムと結んでくださった契約に約束されていた、アブラハムとアブラハムの子孫たちが受け継ぐべき相続財産として、新しい天と新しい地を受け継ぐことを指し示す「地上的なひな型」としての意味をもっていたことについてお話ししました。
 このことについて、これまでお話ししたことから、古い契約の下にあっても、新しい契約の下にあっても、「」の契約の民は新しい天と新しい地を受け継ぐ望みのうちを生きていること、それはアブラハム契約の祝福の実現であることが分かります。
 そして、この新しい天と新しい地を受け継ぐということは、アブラハムの子、ダビデの子として来てくださった御子イエス・キリストにおいて、私たち新しい契約の下にある「」の民の間に、原理的に(実質的に)実現しています。
 もちろん、その最終的な完成、完全な形での実現は、終わりの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされます。しかし、栄光のキリストが再臨されて、すべての罪に対するさばきを執行して、罪を清算し、新しい天と新しい地を再創造されるための基盤は、イエス・キリストご自身がその十字架の死によって私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことにあります。そして、その贖いの御業は、すでに、今から2千年前に成し遂げられています。ですから、栄光のキリストが再臨されて、すべての罪に対するさばきを執行して、罪を清算し、新しい天と新しい地を再創造されるための基盤は、すでに据えられているのです。
 ただ、これには、もう一つの基本的な条件があります。それは、終わりの日についてのイエス・キリストの教えを記している、マタイの福音書24章14節に、

御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。

と記されていることが実現することです。このイエス・キリストの教えには旧約聖書の背景があります。それは、「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束です。創世記12章3節には、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

と記されています。また、22章18節には、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と記されています。
 この他、テサロニケ人への手紙第二・2章3節に、

どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。

と記されている、「不法の者、すなわち滅びの子」が現れることも、「主の日」すなわち終わりの日がくることの条件と言うことはできます。しかし、「不法の者、すなわち滅びの子」が現れることは、その「主の日」が来る前に、自分の時が短いことを悟った暗闇の主権者であるサタンの最後の抵抗の現れとして起こることです。9節ー10節に、

不法の者は、サタンの働きによって到来し、あらゆる力、偽りのしるしと不思議、また、あらゆる悪の欺きをもって、滅びる者たちに臨みます。彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。

と記されているとおりです。そして、3節で、

 まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。

と言われていることは、そのことを「」が、パウロを通して、前もって私たち「「」の民に示してくださったものです。これによって、「」は、「主の日」について惑わされて、右往左往したりしないで、「」を信じる者にふさわしく生きることを教えてくださっています。これに先立って2節に、

霊によってであれ、ことばによってであれ、私たちから出たかのような手紙によってであれ、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いても、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。

と記されているとおりです。その意味で、この、

 まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。

ということは、主イエス・キリストが「背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れ」るのを待ってから、再臨されるという意味ではありません。それで、これはいわば状況的な条件です。
 いずれにしても、栄光のキリストが再臨されて、すべての罪に対するさばきを執行して、罪を清算し、新しい天と新しい地を再創造されるための基盤は、すでに据えられていて、私たちはすでに、その祝福にあずかっています。
 具体的には、イエス・キリストは十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。それで、私たちの罪は、イエス・キリストの十字架の死において完全に清算されており、私たちは自分の罪に対する刑罰としてのさばきにあうことはありません。私たちは御霊によって、そのイエス・キリストと一つに結び合わされ、イエス・キリストとともに十字架につけられて死んでいます。
 そればかりではありません。私たちはイエス・キリストとともに死者の中からよみがえっています。ローマ人への手紙6章4節に、

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。

と記されており、11節に、

同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。

と記されているとおりです。


 さらに、私たちはイエス・キリストにあって、原理的に(実質的に)新しい天と新しい地を相続している者となっています。
 このことを証ししている二つのみことばを見ておきましょう。
 ピリピ人への手紙3章20節ー21節には、

しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

と記されています。
 ここでは、

 私たちの国籍は天にあります。

と言われています。それは漠然とした「」ではありません。続いて、

 そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

と言われているように、私たちの「救い主」イエス・キリストがおられる「」です。私たちは、今すでに、その「」に「国籍」をもっています。
 少し話がそれてしまいますが、ここでは、この手紙の読者たちであるピリピにある教会の信徒たちの歩み方のことが取り上げられています。そして、その歩みの根底に、

 私たちの国籍は天にあります。

という事実があると言われているのです。「天に」「国籍」をもっている者としての歩みをするようにということです。具体的には、17節に、

兄弟たち。私に倣う者となってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。

と教えています。
 この「天に」「国籍」をもっている者としての歩み方は、その後の18節ー19節において、

というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。

と言われている人々の歩み方と対比されています。
 この人々がどのような立場に立つ人々なのかについては、パウロが「たびたび」語ってきたために、ピリピにある教会の人々が分かっているので詳しい説明がなく、私たちには特定することが難しくなっています。たとえば、(グノーシス主義的)道徳廃棄論者、無律法主義者、ユダヤ主義者、物質的な豊かさを追い求める者、背教したクリスチャンなど、いくつかの見方があります。そうではあっても、その人々が、自分ではイエス・キリストを信じていると言っているけれども、福音を曲げてしまい、そのことが実際の歩みに現れてきて、「キリストの十字架の敵として歩んでいる」ために、その「最後は滅び」である人々であり、「地上のことだけを考える者たち」であるという点では見方が一致しています。ここでパウロが涙ながらに語っているのは、神を信じていない異邦人が異邦人らしく歩んでいるということに対してではなく、信徒であることを自任している人々が、その生き方(歩み)において、「キリストの十字架の敵として歩んでいる」ということに対してである、ということです。
 このこととの関連で思い出されるのは、コロサイ人への手紙3章1節ー4節に記されている、

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

というパウロの教えです。
 ここでは、「上にあるものを思」うことが「地にあるものを思」うことと対比されています。「上にあるものを思い」、「上にあるものを求め」ることは、ピリピ人への手紙3章18節ー19節で、パウロが「涙ながらに」語っている、「キリストの十字架の敵として歩んでいる」人々が「地上のことだけを考え」ていることと対比されます。「上にあるものを思い」、「上にあるものを求め」ることは、ピリピ人への手紙3章20節に記されている「天に」「国籍」をもっている者として、それにふさわしく歩むことに当たります。

 新しい天と新しい地を受け継ぐということが、御子イエス・キリストにおいて、私たち新しい契約の下にある「」の民の間に、原理的に(実質的に)実現していることを示すもう一つのみことばとして、エペソ人への手紙2章4節ー6節を見てみましょう。そこには、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

と記されています。
 ここでは、キリストと「ともに生かし」、「ともによみがえらせ」、「ともに座らせ」ということが不定過去時制で現されていて、これらのことが、すでに、イエス・キリストにあって、私たちの現実となっていることが示されています。
 6節の最後に「ともに天上に座らせてくださいました」と言われているときの「天上に」ということばは、1章20節ー21節において、

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。

と言われているときの「天上で」と同じことばです。私たちはすでに、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストにあって、イエス・キリストとともに「天上に座らせて」いただいています。
 1章20節ー21節前半において、父なる神さまがイエス・キリストを「死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれ」たと言われていることは、メシア詩篇の一つである、詩篇110篇1節に記されている、

 は私の主に言われた。
 「あなたはわたしの右の座に着いていなさい。
 わたしがあなたの敵を
 あなたの足台とするまで。」

という預言としてのみことばが、イエス・キリストにおいて成就していることを意味しています。それで、ここに出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」はメシアであるイエス・キリストに敵対している勢力を意味しています。
 これらの勢力はエペソ人への手紙では、もう2回出てきます。
 次に出てくるのは、3章8節ー11節に、

すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり、また、万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。これは、今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためであり、私たちの主キリスト・イエスにおいて成し遂げられた、永遠のご計画によるものです。

と記されている中です。ここでは「天上にある支配と権威」として出てきます。
 これが出てくる文脈を見てみましょう。
 ここでは、パウロに与えられた恵みは、「キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝える」ことにあり、「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにする」にあることが示されています。
 この場合の「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義」のことは、すでに、5節ー6節に説明されています。そこには、

この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。

と記されています。
 その「奥義」は、「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も」ユダヤ人と「共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです」と言われています。
 ここには、「共同の相続人」となること、「ともに同じからだに連な」ること、「ともに約束にあずかる者になる」ことが出てきます。
 最初に出てくる「共同の相続人」となることの「相続人」は、聖書では、アブラハム契約にかかわることです。ただ、エペソ人への手紙には「アブラハム」の名が出てきません。しかし、先ほど触れた、1章20節ー21節で、父なる神さまがイエス・キリストを「天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に」置かれたと言われていることは詩篇110篇1節に記されていることの成就であり、それは、さらに、ダビデ契約の約束の成就を意味しています。そうではあっても、そこには「ダビデ」の名は出てきません。それと同じで、ここで「アブラハム」の名が出てこないとしても、やはり、「相続人」はアブラハム契約にかかわることであると考えられます。
 何よりも、「ユダヤ人と異邦人がともに」ということの根底には、創世記12章3節に、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

と記されており、22章18節に、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と記されているアブラハムへの祝福の約束があります。
 また、ローマ人への手紙4章16節後半ー17節前半には、

アブラハムは、私たちすべての者の父です。「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。

と記されています。

 わたしはあなたを多くの国民の父とした。

という引用は、創世記17章5節に記されている、

 わたしがあなたを多くの国民の父とする

という神さまがアブラハムに語られた約束のみことばの七十人訳(ギリシア語訳)です。
 エペソ人への手紙3章6節において、次に出てくる「ともに同じからだに連な」るということは、ユダヤ人と異邦人がともに同じキリストのからだである教会を形成することを意味しているます。
 このことは、すでに、2章11節ー22節に記されていることです。2章15節後半ー16節には、

こうしてキリストは、この二つ[ユダヤ人と異邦人]をご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

と記されていますし、19節ー22節には、

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

と記されています。
 エペソ人への手紙3章6節において、最後に出てくる、「ともに約束にあずかる者になる」ことの「約束」(単数形)がどのような約束なのかはっきりしません。ただ、先ほどお話ししたように、「ユダヤ人と異邦人がともに」ということの根底には、創世記12章3節に、

 地のすべての部族は、
 あなたによって祝福される。

と記されており、22章18節に、

 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と記されているアブラハムへの祝福の約束があります。
 そして、このアブラハムに与えられた祝福の約束に基づいて、アブラハムへの契約が結ばれ、さらにそれに基づいて、出エジプトの贖いの御業が遂行され(出エジプト記2章24節「神は彼ら[エジプトにいるイスラエルの民]の嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。」)、イスラエルの民契約を結んでくださいました。また、「」がダビデに与えてくださった契約において約束された、ダビデの子が永遠の王座に着座するということも、その源は、「」がアブラハムに与えてくださった約束にありました(創世記17章6節「王たちが、あなたから出てくるだろう」)。このようなことから、「ともに約束にあずかる者になる」ことの「約束」もアブラハムに与えられた祝福の約束を指している可能性があります。
 このような「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということ」という「奥義」の実現のために、パウロは異邦人への使徒として召され「キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝え」ていました。
 そのことが、エペソ人への手紙3章10節では、

今、天上にある支配と権威に、教会を通して神のきわめて豊かな知恵が知らされるためである

と言われています。ここで「教会を通して」と言われているときの「教会」は、先ほど触れた、ユダヤ人と異邦人がともに連なっているキリストのからだである教会です。私たちも福音を聞いて、福音のみことばに示されているイエス・キリストを信じて、この意味での「教会」に連なっています。このようにして、福音が宣べ伝えられることによって形成されていくユダヤ人と異邦人がともに連なっているキリストのからだであるキリストのからだである教会をとおして、「天上にある支配と権威」と言われている暗闇の主権者たちに「神のきわめて豊かな知恵が知らされる」というのです。これも、霊的な戦いの現れです。

 エペソ人への手紙においては、1章20節ー21節前半に出てくる、メシアであるイエス・キリストに敵対している勢力である「すべての支配、権威、権力、主権」は、さらに6章12節において、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです

と言われている中に「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」として出てきます。
 言うまでもなく、これは、霊的な戦いのことを記しています。もし私たちの戦いが「血肉に対するもの」であるとしたら、私たちは血肉の武器をとって戦うことになります。しかし、私たちの戦いは「血肉に対するもの」ではないと言われています。それで、これに続く13節では、

 神のすべての武具を取りなさい。

と言われています。
 「神のすべての武具」のことは14節ー17節に記されていますが、今は、それに触れる時間的な余裕がありません。ここでは、それとは別に、一つのことに触れておきます。それは、どうして、私たちが「支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊」と戦うことができるのだろうかということです。
 これに対する答えは、先ほど引用した、2章6節に記されていたように、私たちがイエス・キリストとともに「天上に座らせて」いただいているからです。それで、この霊的な戦いはイエス・キリストにある戦いであり、イエス・キリストとともなる戦いです。そして、1章20節ー21節前半に記されているように、父なる神さまはイエス・キリストを「死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に・・・置かれました」。それで、この栄光のキリストはすでに霊的な戦いに勝利しておられます。そのことは、黙示録12章にも記されていました。
 私たちは、このことにおいて、あのヨシュアの時代に、イスラエルの民をカナンの地に導き入れようとしていたヨシュアに、「」が「の軍の将」として現れてくださり、イスラエルの民の先に立って戦われたことの成就を見ます。
 「」がイスラエルの民の先に立って戦われたことは、申命記31章7節ー8節には、モーセがモーセの後継者であるヨシュアに語った、

強くあれ。雄々しくあれ。がこの民の父祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともに入るのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

ということばに示されています。

 最後に、これらのこととの関連で、一つのことに触れておきます。
 エペソ人への手紙3章5節ー6節では、「福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も」ユダヤ人と「共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということ」が「万物を創造した神のうちに世々隠されていた奥義」であると言われていました。この教えは、神さまのご計画において、異邦人に対する計画とユダヤ人に対する計画が異なっていて、今日においても、神さまがユダヤ人には地上のカナンの地を与えておられるという主張と相容れません。
 また、先主日にお話しした、ヘブル人への手紙11章8節ー10節に記されている、アブラハムとその子孫を代表的に表しているイサクとヤコブが、地上のカナンで、他国人のようにして住んで、天幕生活をしていたのは、天にある「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいた」からであるという教えも、そのような主張と相容れません。
 これらのことは、今日のイスラエルにかかわるパレスチナ問題において、ユダヤ人が血肉の武器をもって、パレスチナ人(パレスチナに住んでいるアラブ人)の方々をその地から追い出すことにはみことばの根拠がないことを示しています。


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