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説教日:2018年9月23日 |
ヨシュア記5章13節ー15節に、 ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。 と記されていることに戻ります。 ここでヨシュアは「一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立って」いるのを見ました。先主日にお話ししたように、ヨシュアがその人のところに「歩み寄って」行ったと言われていることから、ヨシュアはその人が誰であるかを直ちには察知できなかったことが分かります。 その人は「抜き身の剣を手に持って」いて、臨戦態勢にあることを示しています。ヨシュアも、すでに二人の偵察を送って、エリコの町を探らせ、その報告も聞いていました。ヨシュアもイスラエルの民を率いての戦いに備えていました。それで、ヨシュアはその人に、 あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。 と問いかけました。 これに対して、その人は、 いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。 と答えました。これを受けて、 ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝んだ と言われています。そして、この「主の軍の将」として来られた方は、その礼拝を受けておられます。このことは、この「主の軍の将」として来られた方が神であることを示しています。 また、この方は、ヨシュアに、 あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。 と言っています。このことは、「主」が神の山ホレブ(シナイ山)においてご自身をモーセに現してくださった時のことを記している出エジプト記3章5節に、 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」 と記されていることを思い起こさせます。 出エジプト記3章では、2節に、 すると主の使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。 と記されています。ここでは「主の使い」がモーセに現れたと言われていますが、4節には、 主は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。 と記されています。このことから、この時モーセに現れた「主の使い」は「主」であり「神」であることが分かります。 そして、この「主」であり「神」である方がモーセに、 あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる地である。 と言いました。それで、ヨシュアが、 あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。 という「主の軍の将」のことば[これには「地」(アダーマー)がないことが違っているだけです。]を聞いた時には、直ちに、この方がホレブにおいてモーセにご自身を現された方であることを悟ったはずです。このことも、この「主の軍の将」として来られた方が神であることを示しています。 もちろん、「主の使い」がモーセに現れたことは、モーセだけが体験したことです。しかし、それは、神さまがご自身の御名が、 わたしは「わたしはある」という者である。 という御名であり、それに基づいて、モーセをエジプトの王パロのもとにお遣わしになった時のことです。そのことは、私たちにさえ伝えられています。モーセの後継者であるヨシュアがそのことを知らなかったとは考えられません。 さらに、モーセとヨシュアに語られた、 あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる地/場所である。 ということばは、その所が「聖なる場所である」ことを伝えています。しかし、それは、その所がずっと「聖なる場所」であったし、その後も「聖なる場所」であり続けるということではありません。その所が「聖なる場所」であったのは、その時、その所に、ホレブにおいては「主の使い」、エリコの草原においては「主の軍の将」の御臨在があったことによっています。ルカの福音書1章26節ー38節には、大天使の一人であるガブリエルがマリアの所に遣わされたことが記されています。けれども、それでガブリエルが現れた所が「聖なる場所」になったわけではありません。「主の軍の将」が現れた時にその場所が「聖なる場所」となったのは、「主の軍の将」が神である「主」であったからに他なりません。 最後に、先主日にお話ししたように、ヨシュア記1章2節ー6節には、「主」がモーセの後継者として立てられたヨシュアに、 わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。 と語られたことが記されています。 ヨシュアはこの「主」のみことばに従ってヨルダン川を渡り、約束の地であるカナンを獲得するために、その第一歩として、エリコの町を攻め取ろうとしていました。そのヨシュアに、この方が、 いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。 と言ってご自身を示しました。ヨシュアにとって、これは、 わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。 と約束してくださっている「主」が「主の軍の将」としてご自身を現してくださったことでした。このことからも、この「主の軍の将」は神である「主」であったことが分かります。 そして、ヨシュアがこの方に、 わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。 と尋ねた時に、この方は「主の軍の将」として、 あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。 と答えました。これは、「主」が、ご自身がご臨在される「聖なる場所」から、モーセをエジプトの王パロのもとに遣わされたこととつながっています。モーセと同じように、ヨシュアも、「主」がご臨在される「聖なる場所」すなわち「主」の御臨在の御許から霊的な戦いの場に遣わされているのです。その際に、この方は「主の軍の将」としてヨシュアとともにいてくださることを示してくださっています。 このこととのかかわりで考えておきたいことがあります。 この方はヨシュアにご自身のことを「主の軍の将」としてお示しになりました。ここで「将」と訳されたことば(サル)は旧約聖書に381回も出てくることばです。王の高官、役人、指揮官、群れや地域の指導者、かしら、監督者などを表し、軍隊では司令官、指揮官を表しています。ここでは「主の軍の将」ですので司令官、指揮官ということで、実戦の場に遣わされていることになります。 そして、「主の軍」(ツェバー・ヤハウェ)は、そこに「主」の軍隊がいることを示唆しています。 民数記1章3節には、「主」がモーセに、 あなたとアロンは、イスラエルにおいて、二十歳以上で戦に出ることができる者をすべて、その軍団ごとに登録しなければならない。 と命じられたことが記されています。ここで「軍団」と訳されていることば(ツァーバー)が、ヨシュア記5章14節に出てきた「主の軍の将」の「軍」と同じことばです。イスラエルにおいても、「二十歳以上で戦に出ることができる者」が軍隊を形成していました。そして、ヨシュアはその全体の司令官、指揮官でした。 ですから、ヨシュア記5章13節ー15節において、神である「主」がご自身を「主の軍の将」としてヨシュアに現してくださった時、そこには、ヨシュアが司令官、指揮官として率いているイスラエルの民の軍隊があっただけでなく、「主の軍の将」が率いておられる「主」の軍隊がありました。 このことは、「主」がアブラハム契約の約束として、アブラハムの子孫であるイスラエルの民に約束の地であるカナンを与えてくださる時には、「主の軍の将」が率いておられる「主」の軍隊が、ヨシュアが司令官、指揮官として率いているイスラエルの民の軍隊とともにいて戦っていたことを意味しています。 また、このことは、霊的な戦いにおいて「主」に従うのは「主」の契約の民と、彼らとともにいてくださる「主の軍」であることを示しています。 これと同じような事例を二つ見ておきましょう。 サムエル記第一・17章にはサウルが率いるイスラエルがペリシテ人と戦った時のことが記されています。その戦いにおいて、ペリシテの陣営から代表戦士ゴリヤテが出てきて、イスラエルの代表戦士との一騎打ちを挑みました。4節では、ゴリヤテの「背の高さは六キュビト半」であったと言われています。これは3・2メートルに当たります。このことはありえないことではなく、パレスチナで発見された人体の骨格に、これと同じような時代のもので、これと同じような体格のものが複数あったようです(NBD, p. 423, a)。イスラエルの兵士たちは恐れて一騎打ちに応じる者がいないまま、「四十日」が過ぎました。そこに、戦場に出ている三人の兄たちの安否を確認するためにダビデがやって来ました。そして、自分がゴリヤテと戦うことを申し出て、許可されました。しかし、よろいやかぶとを身につけ剣を帯びては歩くこともできないので、「自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行」きました(40節)。その時、ダビデが言ったことばの一部が45節に、 おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。 と記されており、47節に、 ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、主が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。 と記されています。そして、ダビデは「石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち」ました。それによって、イスラエル人は逃げていくペリシテ人を追撃して勝利しました。 また、歴代誌第二・32章にはユダの王ヒゼキヤの時代に「アッシリアの王センナケリブ」が途上の国々を制圧しながら遠征してきて、エルサレムを包囲しました。ヒゼキヤは7節ー8節に記されているように、「戦時の隊長たち」を励まして、 強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。おののいてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださるからである。彼とともにいる者は肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる。 と言いました。しかし、17節には、 センナケリブは手紙を書いて、イスラエルの神、主を侮辱し、主に逆らって言った。「自分の民を私の手から救い出せなかった国々の神々と同じように、ヒゼキヤの神も、その民を私の手から救い出すことはできない。」 と記されています。 このような状況の中で、ヒゼキヤと預言者イザヤは「主」に祈りました(20節)。「主」に祈ることも霊的な戦いの一つの大切な形です。これを受けて21節ー22節には、 主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた。アッシリアの王は恥じて国へ帰り、自分の神の宮に入った。そのとき、自分の身から生まれ出た者たちが、そこで彼を剣にかけて倒した。こうして主は、ヒゼキヤとエルサレムの住民を、アッシリアの王センナケリブの手、および、すべての者の手から救って、四方から彼らを守られた。 と記されています。 |
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