黙示録講解

(第353回)


説教日:2018年9月23日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(106)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばとの関連で取り上げている、19章15節の、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

というみことばにかかわるお話を続けます。
 これまで、それに先立つ11節以下に記されていることについてお話ししてきました。
 15節に出てくる「この方」は11節に記されている「白い馬」に「乗っている方」で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 今は14節に、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。

と記されているときの「天の軍勢」についてお話ししています。
 先々主日と先主日は、「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を支持するとされているみことばの一つであるヨシュア記5章13節ー15節に、

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

と記されているみことばを取り上げました。
 先々主日には、それに先立つ2節ー9節に記されている、ヨシュアが「」の命令に従ってエジプトを出てきたイスラエルの民の第2世代の者たちに割礼を施したことについてお話ししました。
 先主日には10節ー12節に記されている、割礼を受けてアブラハム契約の祝福を受け継ぐ民であることを確証していただいたイスラエルの民が、過越の祭りを行ったことと、それに続いて行われる「種なしパン」の祭り(少なくとも、それに相当すること)を行ったことについてお話ししました。
 今日は、まず、過ぎ越の祭りについての補足をしておきます。
 過越の祭りは、出エジプトの贖いの御業にかかわる祭りです。その夜、「」はイスラエルの民を奴隷としていたエジプトに対する最後の十番目のさばきとしてエジプトの地にある人や家畜などの初子を撃たれました。しかし、「」は、ご自身の戒めに従って、過ぎ越の子羊の血をそれぞれの家の「二本の門柱と鴨居」に塗っていたイスラエルの民の家をそのまま過ぎ越されました。その家においては、すでに、さばきが執行されていると見なされたのです。
 このことは、「地上的なひな型」としての意味をもっていて、救いの御業が遂行されるときにはさばきの御業も遂行されるということを示しています。このことが「地上的なひな型」として指し示していたことは、人としての性質を取って来てくださった神の御子イエス・キリストにおいて成就しています。コリント人への手紙第一・5章7節に、

 私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。

と記されているように、イエス・キリストは「私たちの過越の子羊」として十字架におかかりになり、そこで「屠られたのです」。
 私たちは、その「私たちの過越の子羊」として「屠られた」イエス・キリストの血によって罪を贖われています。私たちがイエス・キリストの血によって罪を贖われたのはヘブル人への手紙9章22節に、

律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。

と記されているとおり、「血を流すことがなければ、罪の赦しは」ないからです。
 ヘブル人への手紙9章の流れ(文脈)では、このことは、血によって成立した契約のことに触れる中で語られています。この22節の前の18節ー21節には、

ですから、初めの契約も、血を抜きに成立したのではありません。モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。また彼は、幕屋と、礼拝に用いるすべての用具にも同様に血を振りかけました。

と記されています。
 ここで言われている「初めの契約」は出エジプト記24章1節ー11節に記されている、シナイにおいて「」がイスラエルと結んでくださった契約のことを指しています。ただ、最後の21節に記されている「幕屋と、礼拝に用いるすべての用具にも同様に血を振りかけました」ということは、この時はまだ、「幕屋と、礼拝に用いるすべての用具」が造られていませんから、この契約締結の時の後のこととなります。また、「幕屋と、礼拝に用いるすべての用具」に血が振りかけられたという記録は聖書には記されていません。ただ、この時も、いけにえが屠られた祭壇に血が振りかけられています(6節)。それで、そのことによって「幕屋と、礼拝に用いるすべての用具」も「契約の血」によってきよめられるべきものであることが示されていると考えられます。
 後に幕屋が造られるようになる時には、祭壇を血によってきよめるべきこと(29章11節ー12節)と、アロンとその子ら、すなわち、大祭司と祭司たちを血によってきよめるべきこと(29章19節ー20節)が示されています。この場合には、その血を彼らの「右の耳たぶ」と「右手の親指と右足の親指」に塗るように指定されていますが、これらは、彼らのからだ全体を代表していると考えられます。さらに、続いて、その大祭司と祭司たちをきよめた血と「注ぎの油」とによってアロンとその子らの装束をきよめるべきことが示されています(29章21節)。そして、これらのことが実際に行われたことが、レビ記8章14節ー15節(祭壇の聖別)、22節ー24節(アロンとその子らの聖別)、30節(装束の聖別)に記されています。
 シナイにおいて契約が結ばれた時にモーセが言った、

 これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である

ということばは、イエス・キリストが地上の生涯の最後に守られた過ぎ越の祭りの食事の時のことを記している、ルカの福音書22章20節に記されている、

 この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。

というイエス・キリストのみことばを思い起こさせます。出エジプトの時代にイスラエルの民がエジプトの地において守った最初の過ぎ越の祭りにおいて屠られた過ぎ越の子羊の血も、「」がシナイにおいてイスラエルと結んでくださった契約の血も、さらには、「」の聖所とそこで仕える祭司たちと聖所の用具をきよめた血も、、すべて、イエス・キリストが十字架の上で流された血を指し示す「地上的なひな型」でした。
 そして、エペソ人への手紙1章7節に、

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。

と記されているとおり、私たちはこのような豊かな意味をもっているイエス・キリストの血による罪の贖いにあずかって「背きの罪の赦しを受けています」。そればかりでなく、ヨハネの福音書5章24節に記されている、

まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。

というイエス・キリストの教えに示されているように、私たちはすでに「永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています」。
 しかし、そのことは、私たちの罪に対するさばきが執行されないままで終っているということではありません。私たちの罪に対するさばきは、十字架におかかりになったイエス・キリストにおいて執行されているのです。マルコの福音書10章45節に、

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。

と記されているように、イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従って、人としての性質を取って来てくださり、「私たちの過越の子羊」として十字架におかかりになりました。そして、マルコの福音書15章33節ー34節に、

さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

と記されていることから分かりますが、父なる神さまは、私たちの罪に対する聖なる御怒りを、その御子イエス・キリストに注がれ、私たちの罪をおさばきになりました。それによって、父なる神さまはご自身の義に基づいて、私たち「」の契約の民の罪を完全に清算してくださったのです。聖なる神さまの御前においては、罪が清算されないままに残されることはありません。
 「もし神がいて罪をさばくというのであれば、今すぐ自分を罰してみろ」というようなことを言った人がいたということを聞いたことがあります。罪へのさばきは道徳的なお話に出てくることで、実際にあるわけではないというのです。「自分の背きと罪の中に死んでい」る(エペソ人への手紙2章1節)状態にある人は、神さまのさばきについて、これと本質的に同じように考えています。そのように思えるのには理由があります。ローマ人への手紙3章25節ー26節に、

神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。すなわち、ご自分が義であり、イエスを信じる者を義と認める方であることを示すため、今この時に、ご自分の義を明らかにされたのです。

と記されています。ここでは、イエス・キリストが「血による宥めのささげ物」となられたと言われています。このことは、人の罪に対して神さまの聖なる御怒りが注がれていることを踏まえています。そして、イエス・キリストが「血による宥めのささげ物」となられたことによって罪が完全に清算されました。それによって、神さまが義なる方であることが示されています。そればかりでなく、神さまは「血による宥めのささげ物」となられて、神さまの義の要求を満たされたイエス・キリストを「信じる者を義と認め」てくださることによって、さらに、ご自身が義であられることを明らかにしておられます。
 このことのために、神さまは、

 神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられた

と言われています。そのために、神が罪をさばくというようなことはないと思われる状態が続いています。この状態は、世の終わりまで続きます。ペテロの手紙第二・3章9節に、

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と記されているとおりです。


 ヨシュア記5章13節ー15節に、

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

と記されていることに戻ります。
 ここでヨシュアは「一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立って」いるのを見ました。先主日にお話ししたように、ヨシュアがその人のところに「歩み寄って」行ったと言われていることから、ヨシュアはその人が誰であるかを直ちには察知できなかったことが分かります。
 その人は「抜き身の剣を手に持って」いて、臨戦態勢にあることを示しています。ヨシュアも、すでに二人の偵察を送って、エリコの町を探らせ、その報告も聞いていました。ヨシュアもイスラエルの民を率いての戦いに備えていました。それで、ヨシュアはその人に、

 あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。

と問いかけました。
 これに対して、その人は、

 いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。

と答えました。これを受けて、

 ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝んだ

と言われています。そして、この「主の軍の将」として来られた方は、その礼拝を受けておられます。このことは、この「主の軍の将」として来られた方が神であることを示しています。
 また、この方は、ヨシュアに、

 あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。

と言っています。このことは、「」が神の山ホレブ(シナイ山)においてご自身をモーセに現してくださった時のことを記している出エジプト記3章5節に、

神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」

と記されていることを思い起こさせます。
 出エジプト記3章では、2節に、

 するとの使いが、柴の茂みのただ中の、燃える炎の中で彼に現れた。

と記されています。ここでは「の使い」がモーセに現れたと言われていますが、4節には、

 は、彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の茂みの中から彼に「モーセ、モーセ」と呼びかけられた。

と記されています。このことから、この時モーセに現れた「の使い」は「」であり「」であることが分かります。
 そして、この「」であり「」である方がモーセに、

 あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる地である。

と言いました。それで、ヨシュアが、

 あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。

という「主の軍の将」のことば[これには「」(アダーマー)がないことが違っているだけです。]を聞いた時には、直ちに、この方がホレブにおいてモーセにご自身を現された方であることを悟ったはずです。このことも、この「主の軍の将」として来られた方が神であることを示しています。
 もちろん、「の使い」がモーセに現れたことは、モーセだけが体験したことです。しかし、それは、神さまがご自身の御名が、

 わたしは「わたしはある」という者である。

という御名であり、それに基づいて、モーセをエジプトの王パロのもとにお遣わしになった時のことです。そのことは、私たちにさえ伝えられています。モーセの後継者であるヨシュアがそのことを知らなかったとは考えられません。
 さらに、モーセとヨシュアに語られた、

 あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる地/場所である。

ということばは、その所が「聖なる場所である」ことを伝えています。しかし、それは、その所がずっと「聖なる場所」であったし、その後も「聖なる場所」であり続けるということではありません。その所が「聖なる場所」であったのは、その時、その所に、ホレブにおいては「の使い」、エリコの草原においては「主の軍の将」の御臨在があったことによっています。ルカの福音書1章26節ー38節には、大天使の一人であるガブリエルがマリアの所に遣わされたことが記されています。けれども、それでガブリエルが現れた所が「聖なる場所」になったわけではありません。「主の軍の将」が現れた時にその場所が「聖なる場所」となったのは、「主の軍の将」が神である「」であったからに他なりません。
 最後に、先主日にお話ししたように、ヨシュア記1章2節ー6節には、「」がモーセの後継者として立てられたヨシュアに、

わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。

と語られたことが記されています。
 ヨシュアはこの「」のみことばに従ってヨルダン川を渡り、約束の地であるカナンを獲得するために、その第一歩として、エリコの町を攻め取ろうとしていました。そのヨシュアに、この方が、

 いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。

と言ってご自身を示しました。ヨシュアにとって、これは、

わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

と約束してくださっている「」が「主の軍の将」としてご自身を現してくださったことでした。このことからも、この「主の軍の将」は神である「」であったことが分かります。
 そして、ヨシュアがこの方に、

 わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。

と尋ねた時に、この方は「主の軍の将」として、

 あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。

と答えました。これは、「」が、ご自身がご臨在される「聖なる場所」から、モーセをエジプトの王パロのもとに遣わされたこととつながっています。モーセと同じように、ヨシュアも、「」がご臨在される「聖なる場所」すなわち「」の御臨在の御許から霊的な戦いの場に遣わされているのです。その際に、この方は「主の軍の将」としてヨシュアとともにいてくださることを示してくださっています。

 このこととのかかわりで考えておきたいことがあります。
 この方はヨシュアにご自身のことを「主の軍の将」としてお示しになりました。ここで「」と訳されたことば(サル)は旧約聖書に381回も出てくることばです。王の高官、役人、指揮官、群れや地域の指導者、かしら、監督者などを表し、軍隊では司令官、指揮官を表しています。ここでは「主の軍の将」ですので司令官、指揮官ということで、実戦の場に遣わされていることになります。
 そして、「主の軍」(ツェバー・ヤハウェ)は、そこに「」の軍隊がいることを示唆しています。
 民数記1章3節には、「」がモーセに、

あなたとアロンは、イスラエルにおいて、二十歳以上で戦に出ることができる者をすべて、その軍団ごとに登録しなければならない。

と命じられたことが記されています。ここで「軍団」と訳されていることば(ツァーバー)が、ヨシュア記5章14節に出てきた「主の軍の将」の「」と同じことばです。イスラエルにおいても、「二十歳以上で戦に出ることができる者」が軍隊を形成していました。そして、ヨシュアはその全体の司令官、指揮官でした。
 ですから、ヨシュア記5章13節ー15節において、神である「」がご自身を「の軍の将」としてヨシュアに現してくださった時、そこには、ヨシュアが司令官、指揮官として率いているイスラエルの民の軍隊があっただけでなく、「の軍の将」が率いておられる「」の軍隊がありました。
 このことは、「」がアブラハム契約の約束として、アブラハムの子孫であるイスラエルの民に約束の地であるカナンを与えてくださる時には、「の軍の将」が率いておられる「」の軍隊が、ヨシュアが司令官、指揮官として率いているイスラエルの民の軍隊とともにいて戦っていたことを意味しています。
 また、このことは、霊的な戦いにおいて「」に従うのは「」の契約の民と、彼らとともにいてくださる「の軍」であることを示しています。
 これと同じような事例を二つ見ておきましょう。
 サムエル記第一・17章にはサウルが率いるイスラエルがペリシテ人と戦った時のことが記されています。その戦いにおいて、ペリシテの陣営から代表戦士ゴリヤテが出てきて、イスラエルの代表戦士との一騎打ちを挑みました。4節では、ゴリヤテの「背の高さは六キュビト半」であったと言われています。これは3・2メートルに当たります。このことはありえないことではなく、パレスチナで発見された人体の骨格に、これと同じような時代のもので、これと同じような体格のものが複数あったようです(NBD, p. 423, a)。イスラエルの兵士たちは恐れて一騎打ちに応じる者がいないまま、「四十日」が過ぎました。そこに、戦場に出ている三人の兄たちの安否を確認するためにダビデがやって来ました。そして、自分がゴリヤテと戦うことを申し出て、許可されました。しかし、よろいやかぶとを身につけ剣を帯びては歩くこともできないので、「自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行」きました(40節)。その時、ダビデが言ったことばの一部が45節に、

おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍のの御名によって、おまえに立ち向かう。

と記されており、47節に、

ここに集まっているすべての者も、剣や槍がなくても、が救いをもたらすことを知るだろう。この戦いはの戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。

と記されています。そして、ダビデは「石投げと石一つでこのペリシテ人に勝ち」ました。それによって、イスラエル人は逃げていくペリシテ人を追撃して勝利しました。
 また、歴代誌第二・32章にはユダの王ヒゼキヤの時代に「アッシリアの王センナケリブ」が途上の国々を制圧しながら遠征してきて、エルサレムを包囲しました。ヒゼキヤは7節ー8節に記されているように、「戦時の隊長たち」を励まして、

強くあれ。雄々しくあれ。アッシリアの王や、彼とともにいるすべての大軍を恐れてはならない。おののいてはならない。彼とともにいる者よりも大いなる方が、私たちとともにいてくださるからである。彼とともにいる者は肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる。

と言いました。しかし、17節には、

センナケリブは手紙を書いて、イスラエルの神、を侮辱し、主に逆らって言った。「自分の民を私の手から救い出せなかった国々の神々と同じように、ヒゼキヤの神も、その民を私の手から救い出すことはできない。」

と記されています。
 このような状況の中で、ヒゼキヤと預言者イザヤは「」に祈りました(20節)。「」に祈ることも霊的な戦いの一つの大切な形です。これを受けて21節ー22節には、

は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた。アッシリアの王は恥じて国へ帰り、自分の神の宮に入った。そのとき、自分の身から生まれ出た者たちが、そこで彼を剣にかけて倒した。こうしては、ヒゼキヤとエルサレムの住民を、アッシリアの王センナケリブの手、および、すべての者の手から救って、四方から彼らを守られた。

と記されています。


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