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説教日:2018年9月16日 |
これらのことを受けて、改めて引用しますが、ヨシュア記5章13節ー15節には、 ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。 と記されています。 ここでヨシュアは「一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立って」いるのを見ました。 ヨシュアがその人のところに「歩み寄って」行ったと言われていることから、ヨシュアはその人が誰であるかを直ちには察知できなかったことが分かります。その人は「抜き身の剣を手に持って」いたと言われています。その人は戦いの備えをしていました。 一方、ヨシュアも、2章に記されていますが、すでに二人の偵察を送って、エリコの町を探らせていました。24節には、帰ってきた偵察たちがヨシュアに、 主はあの地をことごとく私たちの手にお与えになりました。確かに、あの地の住民はみな、私たちのゆえに震えおののいています。 と報告したことが記されています。この時、ヨシュアもイスラエルの民を率いて戦いに備えていたのです。それで、ヨシュアはその人に、 あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。 と問いかけました。 これに対して、その人は、 いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。 と答えました。その人は、自分がヨシュアが率いるイスラエルの民の敵であるか味方であるかということには、直接的には答えてはいません。しかし、その人自身がどなたであるかを啓示してくださることによって、ヨシュアの思いを超えたことを示してくださっています。 この時、ヨシュアがエリコの町への戦いに備えていたのは、1章1節ー6節に、 主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。 と記されていることに基づいています。 ここでは、契約の神である「主」ヤハウェがモーセの後継者として立てられていたヨシュアに語りかけられたことが記されています。「主」はヨシュアにイスラエルの民を率いてヨルダン川をを渡り、カナンの地に入るよう命じておられます。その際に「主」は、カナンの地のことを「わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地」と言っておられます。 今お話ししていることとのかかわりで、二つのことに触れておきます。 一つは、6節に、 あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。 と記されているように、「主」がヨシュアにお与えになった使命は「主」がアブラハム契約において約束してくださっていたカナンの地をアブラハムの子孫であるイスラエルの民に受け継がせることでした。ここでも、イスラエルの民がカナンの地に入ることは、アブラハム契約の約束に基づいていることが示されています。 アブラハム契約の約束に基づいていることがカナンの地の住民たちとの戦いによって実現するということには、「主」が最初にアブラハムと契約を結んでくださった時に、アブラハムに示してくださったことがかかわっています。 中途半端な引用になりますが、創世記15章5節ー6節には、 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。 と記されています。アブラハムはアブラハム自身から生まれてくる子孫たちについて、彼らは天の星のように多くなると約束してくださった「主」を信じました。これはすべて「主」がアブラハムになしてくださることで、アブラハムはただそれを信じただけです。これを受けて「主」はアブラハムを義と認めてくださいました。 これに続いて、7節ー10節には、 主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主である。」アブラムは言った。「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。 と記されています。 これはこの時アブラハムが滞在していたカナンの地をアブラハムに与えてくださるという約束にかかわることです。「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊」を「真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした」ということは、その当時の契約締結の儀式に従ってなされたことです。「「真っ二つに切り裂」かれたものの間を通ることによって、もし契約に違反することがあれば、その切り裂かれた動物のようになるようにという制裁を自らに科して契約を結んだのです。この時は、17節に、 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。 と記されているように、アブラハムではなく、「主」の栄光の顕現の方が「切り裂かれた物の間を通り過ぎた」のでした。 これに先立って13節ー16節には、 主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」 と記されています。 ここで、「主」はアブラハムの子孫が、エジプトの地で、寄留者になり、さらには、「四百年の間、奴隷となって苦しめられる」ことをお示しになりました。この「四百年の間」はアブラハムに預言として語られたための概数で、実際には430年(出エジプト記12章40節ー41節)です。そして、「主」は彼らを奴隷としていた国民をおさばきになり、彼らは「多くの財産とともに、そこから出て来る」ということをお示しになりました。それによって、「四代目の者たち」がカナンの地に帰って来ると言われています。この場合の「四代目」の「一代」(ドール)は、その当時の人々の数え方による人の「寿命」で、アブラハムの時代は百年ほどでした。 「四代目の者たち」がカナンの地に戻って来ることには理由がありました。それは、引用したみことばの最後に、 それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。 と記されているように、430年の間に「アモリ人の咎」が「満ちる」ようになるからです。そして、「主」が「四代目の者たち」をとおして「アモリ人」に対するさばきを執行されるからです。この場合の、「アモリ人」はカナンの地の住民全体を代表的に表しています。その地の住民たちとしては、19節ー21節に、 ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人 という十の民が挙げられています。 出エジプトの時代のカナンの住民たちの罪については、「主」がいくつかの個所で、イスラエルの民にその風習に倣ってはいけないと戒めておられることから知ることができます。また、北王国イスラエルや南王国ユダの王たちが背教して、カナンの風習に染まってしまったことに対する「主」の預言者たちの糾弾のことばからも知ることができます。 たとえば、レビ記18章6節ー23節において、さまざまな形での近親相姦、姦淫、獣姦などの性的な関係の逸脱、自分の子どもを偶像(モレク)へのいけにえとすることなどの罪を挙げてから、24節ー25節で、 あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。 と述べておられます。 レビ記では、20章1節ー24節にも同様の戒めが記されています。ここでは、さまざまな性的な逸脱が挙げられている点は同じですが、自分の子どもを偶像(モレク)へのいけにえとすることに関連することがより詳しく戒められていますし、「霊媒や口寄せ」に頼ることへの警告もあります。 18章24節ー25節で、 わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。 と言われていることは、すでにいろいろな機会にお話ししてきた創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事が示しているように、カナンの地に限らず、神さまが創造の御業において造り出されたこの地そのものが、初めから、神ご自身がご臨在される所として造られ、聖別されていることによっています。そのような意味をもっている地において偶像礼拝がなされ、神のかたちとして造られている人の尊厳性を損なうことを神さまはおさばきになります。そのさばきは、最終的には世の終わりに執行されますが、カナンの地の住民たちについて「主」が、 わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。 と言われたことは、そのことを指し示す「地上的なひな型」です。 アブラハム契約の約束に基づいて、アブラハムの子孫であるイスラエルの民にカナンの地が与えられることが、カナンの地の住民たちとの戦いによって実現するということには、「主」がカナンの地の住民たちの罪をおさばきになるということがかかわっていました。「主」がそのために「四代目の者たち」を用いられるということは、その430年の間にイスラエルの民がエジプトの地で苦しめられることを意味していますが、同時に、それはカナンの地の住民たちに対して「主」が忍耐を示しておられることを意味しています。それは、終わりの日における「主」のさばきの執行についてペテロの手紙第二・3章9節に、 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 と記されていることにも示されています。人類の歴史は、このような「主」の忍耐によって終わりの日まで保持されていきますが、その間に、「主」の契約の民はこの世からの迫害にさらされることになります。 ヨシュア記1章1節ー6節に記されている「主」がヨシュアに語られたみことばについて注目したいもう一つのことは、5節後半において、「主」が、 わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。 と約束してくださっているということです。 当然、ヨシュアはこの「主」の約束を信じて、エリコの町に対する戦いに備えていました。5章において、そのヨシュアに現れてくださった方は、 いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。 と言って、ご自身がどなたであるかを示してくださいました。この方がどなたであるかは改めてお話ししますが、これは、「主」がヨシュアに、 わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。 と約束してくださったことに基づいて、このこの方が現れてくださったということを意味しています。 |
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