黙示録講解

(第352回)


説教日:2018年9月16日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(105)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。

という約束のみことばの意味を理解するために取り上げている、19章15節の、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

というみことばにかかわるお話を続けます。
 これまで、それに先立つ11節以下に記されていることについてお話ししてきました。
 15節に出てくる「この方」は11節に記されている「白い馬」に「乗っている方」で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 今は14節に、

 天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。

と記されているときの「天の軍勢」についてお話ししています。これについては、これが御使いたちであるという見方と、聖徒たちであるという見方、さらには、御使いたちと聖徒たちのことであるという見方があります。
 先主日は、「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を支持するとされているみことばの一つであるヨシュア記5章13節ー15節に、

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

と記されているみことばを取り上げました。
 ただ先主日は、それに先立つ2節ー9節に記されている、「」がヨシュアに、

 火打石の小刀を作り、もう一度イスラエルの子らに割礼を施せ。

という命令を与えられ、ヨシュアがエジプトを出てきたイスラエルの民の第2世代の者たちに割礼を施したということについてお話しし、それと関連して、旧約聖書に出てくる心の割礼についてお話ししました。
 これに続いて、10節ー12節には、

イスラエルの子らはギルガルに宿営し、その月の十四日の夕方、エリコの草原で過越のいけにえを献げた。過越のいけにえを献げた翌日、彼らはその地の産物、種なしパンと炒り麦を、その日のうちに食べた。マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。

と記されています。
 ここには、割礼を受けてアブラハム契約の祝福を受け継ぐ民であることを確証していただいたイスラエルの民が、過越の祭りを行ったことと、それに続いて行われる「種なしパン」の祭り(少なくとも、それに相当すること)を行ったことが記されています。
 ここに記されていることは、レビ記23章5節ー6節に、

第一の月の十四日には夕暮れに過越のいけにえを主に献げる。この月の十五日は主への種なしパンの祭りである。七日間、あなたがたは種なしパンを食べる。

と記されていることを思い起こさせます。
 過越の祭りは、出エジプトの贖いの御業にかかわる祭りです。その夜、「」はイスラエルの民を奴隷としていたエジプトに対して執行された一連のさばきの最後の十番目のさばきを執行されました。それはエジプトの地にある人や家畜などの初子を撃つというものでした。しかし、イスラエルの民は、「」の戒めに従って、その最初の月の10日に家ごとに子羊を取り、14日の夕暮れに屠り、その血をそれぞれの家の「二本の門柱と鴨居」に塗りました。そして、その家でその肉を「火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて」食しました。その夜、「」はエジプトの地を行き巡り、すべての初子を撃たれましたが、入口に子羊の血が塗られていた家をそのまま過ぎ越されました。その家においては、すでに、さばきが執行されていたと見なされたのです。そして、その次の15日から7日間「種なしパンの祭り」が行われました。
 しかし、ヨシュアに導かれて約束の地であるカナンに入り、ギルガルの地に宿営していたイスラエルの民がどのように過越の祭りと種なしパンの祭りを行ったかは詳しく記されていません。それで、種なしパンの祭りが7日間行われたのかどうかはっきりしません。このことは、ここでの関心が、過越の祭りとそれに続く種なしパンの祭りそのものがどのように行われたかということにはないことを意味しています。
 この時の過越の祭りと出エジプトの時の最初の過越の祭りの関係を見てみましょう。
 最初の過越の祭りは、それによってイスラエルの民がエジプトから贖い出されるようになったものです。その時には、先ほど触れた出エジプト記12章8節に記されているように、過越の子羊の肉を「火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて」食べました。火で焼くことはもっとも簡単で素早い調理法です。また、「苦菜」はエジプトでの奴隷の状態の厳しさを思い起こすものであると同時に、最も簡単に手に入る野菜だったようです。これも素早い調理に適していました。しかも、11節には、

あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。

と記されています。これは旅支度をしたまま食べる食事で、家でくつろぐ食事とはまったく違っています。このように、最初の過越の祭りにおいては、「」がイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださることに素早く応答して、直ちにエジプトの地を出て行くべきことが際立っています。そして、その時から、イスラエルの民が約束の地であるカナンに向けての旅を始めるようになりました。それで、この過越の祭りは約束の地であるカナンに向けての旅の始まりとのしての意味をもっていました。
 先主日にもお話ししましたが、出エジプト記2章23節ー24節に、

それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

と記されているように、「」はアブラハム契約、アブラハムと結んで、イサクとヤコブに受け継がせてくださった契約に基づいて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださいました。そのアブラハム契約には二つの約束が示されています。一つは、

 わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。

というみことばが示していることことで、「」がアブラハムとその子孫たちをご自身の契約の民としてくださり、ご自身との愛の交わりのうちに生きるようにしてくださるということです。もう一つは、

 わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。

というみことばが示していることことで、アブラハムとその子孫たちが「」との愛の交わりに生きるようになることが実現するために「カナンの全土」を与えてくださるということです。
 ですから、イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から贖い出されることは、「」がアブラハム契約の祝福を実現してくださるために必要なことでしたが、アブラハム契約の最終的な目的ではありません。イスラエルの民は、「」が約束してくださっているカナンの地に入り、「」との愛の交わりに生きるようにならなければならないのです。
 これに対して、このギルガルにおける過越の祭りは、エジプトの地を出たイスラエルの民が目指していた約束の地であるカナンの地に入って最初に行われたものです。それに先立って、「」はイスラエルの民に割礼を施すよう命じられ、彼らがアブラハム契約の祝福にあずかる民であることを確証してくださいました。それで、このギルガルにおける過越の祭りは、最初の過越の祭りにおいて旅支度をして急いで食した過越の食事が示していた目的地に到達したことを示す意味をもった祭りでした。
 このこととの関連で注目したいのは、ヨシュア記5章11節ー12節に、

 過越のいけにえを献げた翌日、彼らはその地の産物、種なしパンと炒り麦を、その日のうちに食べた。マナは、彼らがその地の産物を食べた翌日からやみ、イスラエルの子らがマナを得ることはもうなかった。その年、彼らはカナンの地で収穫した物を食べた。

と記されていることです。ここでは、イスラエルの民が、約束の地であるカナンの「地の産物」「カナンの地で収穫した物」を食べたことが3回繰り返されています。ここで「その地の産物」と言われているときの「産物」と訳されていることば(アブール)は旧約聖書の中ではここだけに出てくることばです。これは次に「収穫した物」(テブーアー)というより一般的なことばで言い換えられています。ですから、この「産物」(アブール)は、作物としてはその地に生えている通常の作物でしたが、それをこの時にイスラエルの民が食べたことによって、特別な意味をもつようになっていたことを示唆しています。そして、そのことを受けて、その翌日から、マナが与えられることはなくなったと言われています。
 4章19節には、

 さて、民は第一の月の十日にヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。

と記されています。
 ここでは、イスラエルの民がヨルダン川を渡り、ギルガルに宿営したのは「第一の月の十日」であったと言われています。このことから分かるように、イスラエルの民がカナンの地に入ってからもマナは与えられていました。具体的には、イスラエルの民は14日に過越のいけにえをささげ、翌日にカナンの地の「地の産物、種なしパンと炒り麦」を食べましたが、その日まではマナが与えられていました。そして、その次の日にマナは与えられなくなりました。これによって、「」は、イスラエルの民の荒野の旅が終って、イスラエルの民がアブラハム契約に約束されていた約束の地に入ったことを、過越の祭りと種なしパンの祭りをとおして、いわば公式に示してくださったのです。
 このこととのかかわりで、イスラエルの民がヨルダン川を渡り、カナンの地に入ったのが「第一の月の十日」であったことには意味があると思われます。というのは、その「第一の月の十日」は、過越の子羊が取り分けられる日であったからです。イスラエルの民がヨルダン川を渡り、カナンの地に入った日は、過越の祭りのための備えが始まった日でもあったのです。この意味でも、このギルガルにおける過越の祭りと種なしパンの祭りは、最初の過越の祭りにおいて旅支度をして急いで食した過越の食事から始まる約束の地への旅が目指していた目的地に到達したことを示す意味をもった祭りでした。
 これらのことは、古い契約の下での「地上的なひな型」として起こったことです。私たちはそれが指し示していた「本体」にあずかっています。コリント人への手紙第一・5章7節ー8節には、

新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでに屠られたのです。ですから、古いパン種を用いたり、悪意と邪悪のパン種を用いたりしないで、誠実と真実の種なしパンで祭りをしようではありませんか。

と記されています。


 これらのことを受けて、改めて引用しますが、ヨシュア記5章13節ー15節には、

ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしはの軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

と記されています。
 ここでヨシュアは「一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立って」いるのを見ました。
 ヨシュアがその人のところに「歩み寄って」行ったと言われていることから、ヨシュアはその人が誰であるかを直ちには察知できなかったことが分かります。その人は「抜き身の剣を手に持って」いたと言われています。その人は戦いの備えをしていました。
 一方、ヨシュアも、2章に記されていますが、すでに二人の偵察を送って、エリコの町を探らせていました。24節には、帰ってきた偵察たちがヨシュアに、

主はあの地をことごとく私たちの手にお与えになりました。確かに、あの地の住民はみな、私たちのゆえに震えおののいています。

と報告したことが記されています。この時、ヨシュアもイスラエルの民を率いて戦いに備えていたのです。それで、ヨシュアはその人に、

 あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。

と問いかけました。
 これに対して、その人は、

 いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。

と答えました。その人は、自分がヨシュアが率いるイスラエルの民の敵であるか味方であるかということには、直接的には答えてはいません。しかし、その人自身がどなたであるかを啓示してくださることによって、ヨシュアの思いを超えたことを示してくださっています。
 この時、ヨシュアがエリコの町への戦いに備えていたのは、1章1節ー6節に、

主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。

と記されていることに基づいています。
 ここでは、契約の神である「」ヤハウェがモーセの後継者として立てられていたヨシュアに語りかけられたことが記されています。「」はヨシュアにイスラエルの民を率いてヨルダン川をを渡り、カナンの地に入るよう命じておられます。その際に「」は、カナンの地のことを「わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地」と言っておられます。
 今お話ししていることとのかかわりで、二つのことに触れておきます。
 一つは、6節に、

あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。

と記されているように、「」がヨシュアにお与えになった使命は「」がアブラハム契約において約束してくださっていたカナンの地をアブラハムの子孫であるイスラエルの民に受け継がせることでした。ここでも、イスラエルの民がカナンの地に入ることは、アブラハム契約の約束に基づいていることが示されています。
 アブラハム契約の約束に基づいていることがカナンの地の住民たちとの戦いによって実現するということには、「」が最初にアブラハムと契約を結んでくださった時に、アブラハムに示してくださったことがかかわっています。
 中途半端な引用になりますが、創世記15章5節ー6節には、

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

と記されています。アブラハムはアブラハム自身から生まれてくる子孫たちについて、彼らは天の星のように多くなると約束してくださった「」を信じました。これはすべて「」がアブラハムになしてくださることで、アブラハムはただそれを信じただけです。これを受けて「」はアブラハムを義と認めてくださいました。
 これに続いて、7節ー10節には、

主は彼に言われた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデア人のウルからあなたを導き出した主である。」アブラムは言った。「神、主よ。私がそれを所有することが、何によって分かるでしょうか。」すると主は彼に言われた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩のひなを持って来なさい。」彼はそれらすべてを持って来て、真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。ただし、鳥は切り裂かなかった。

と記されています。
 これはこの時アブラハムが滞在していたカナンの地をアブラハムに与えてくださるという約束にかかわることです。「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊」を「真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした」ということは、その当時の契約締結の儀式に従ってなされたことです。「「真っ二つに切り裂」かれたものの間を通ることによって、もし契約に違反することがあれば、その切り裂かれた動物のようになるようにという制裁を自らに科して契約を結んだのです。この時は、17節に、

日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

と記されているように、アブラハムではなく、「」の栄光の顕現の方が「切り裂かれた物の間を通り過ぎた」のでした。
 これに先立って13節ー16節には、

主はアブラムに言われた。「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷として仕えるその国を、わたしはさばく。その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。」

と記されています。
 ここで、「」はアブラハムの子孫が、エジプトの地で、寄留者になり、さらには、「四百年の間、奴隷となって苦しめられる」ことをお示しになりました。この「四百年の間」はアブラハムに預言として語られたための概数で、実際には430年(出エジプト記12章40節ー41節)です。そして、「」は彼らを奴隷としていた国民をおさばきになり、彼らは「多くの財産とともに、そこから出て来る」ということをお示しになりました。それによって、「四代目の者たち」がカナンの地に帰って来ると言われています。この場合の「四代目」の「一代」(ドール)は、その当時の人々の数え方による人の「寿命」で、アブラハムの時代は百年ほどでした。
 「四代目の者たち」がカナンの地に戻って来ることには理由がありました。それは、引用したみことばの最後に、

 それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。

と記されているように、430年の間に「アモリ人の咎」が「満ちる」ようになるからです。そして、「」が「四代目の者たち」をとおして「アモリ人」に対するさばきを執行されるからです。この場合の、「アモリ人」はカナンの地の住民全体を代表的に表しています。その地の住民たちとしては、19節ー21節に、

ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヒッタイト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人

という十の民が挙げられています。
 出エジプトの時代のカナンの住民たちの罪については、「」がいくつかの個所で、イスラエルの民にその風習に倣ってはいけないと戒めておられることから知ることができます。また、北王国イスラエルや南王国ユダの王たちが背教して、カナンの風習に染まってしまったことに対する「」の預言者たちの糾弾のことばからも知ることができます。
 たとえば、レビ記18章6節ー23節において、さまざまな形での近親相姦、姦淫、獣姦などの性的な関係の逸脱、自分の子どもを偶像(モレク)へのいけにえとすることなどの罪を挙げてから、24節ー25節で、

あなたがたは、これらの何によっても身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。

と述べておられます。
 レビ記では、20章1節ー24節にも同様の戒めが記されています。ここでは、さまざまな性的な逸脱が挙げられている点は同じですが、自分の子どもを偶像(モレク)へのいけにえとすることに関連することがより詳しく戒められていますし、「霊媒や口寄せ」に頼ることへの警告もあります。
 18章24節ー25節で、

わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている異邦の民は、これらのすべてのことによって汚れていて、その地も汚れている。それで、わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。

と言われていることは、すでにいろいろな機会にお話ししてきた創世記1章1節ー2章3節に記されている創造の御業の記事が示しているように、カナンの地に限らず、神さまが創造の御業において造り出されたこの地そのものが、初めから、神ご自身がご臨在される所として造られ、聖別されていることによっています。そのような意味をもっている地において偶像礼拝がなされ、神のかたちとして造られている人の尊厳性を損なうことを神さまはおさばきになります。そのさばきは、最終的には世の終わりに執行されますが、カナンの地の住民たちについて「」が、

 わたしはその地をその咎のゆえに罰し、その地はそこに住む者を吐き出す。

と言われたことは、そのことを指し示す「地上的なひな型」です。
 アブラハム契約の約束に基づいて、アブラハムの子孫であるイスラエルの民にカナンの地が与えられることが、カナンの地の住民たちとの戦いによって実現するということには、「」がカナンの地の住民たちの罪をおさばきになるということがかかわっていました。「」がそのために「四代目の者たち」を用いられるということは、その430年の間にイスラエルの民がエジプトの地で苦しめられることを意味していますが、同時に、それはカナンの地の住民たちに対して「」が忍耐を示しておられることを意味しています。それは、終わりの日における「」のさばきの執行についてペテロの手紙第二・3章9節に、

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と記されていることにも示されています。人類の歴史は、このような「」の忍耐によって終わりの日まで保持されていきますが、その間に、「」の契約の民はこの世からの迫害にさらされることになります。
 ヨシュア記1章1節ー6節に記されている「」がヨシュアに語られたみことばについて注目したいもう一つのことは、5節後半において、「」が、

 わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

と約束してくださっているということです。
 当然、ヨシュアはこの「」の約束を信じて、エリコの町に対する戦いに備えていました。5章において、そのヨシュアに現れてくださった方は、

 いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。

と言って、ご自身がどなたであるかを示してくださいました。この方がどなたであるかは改めてお話ししますが、これは、「」がヨシュアに、

わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

と約束してくださったことに基づいて、このこの方が現れてくださったということを意味しています。


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