今日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばにおいて「勝利を得る者」に与えられた、
彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。
という約束のみことばの意味を理解するために、19章15節に記されている、
この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。
というみことばにかかわるお話を続けます。
これまで、それに先立つ11節以下に記されていることについてお話ししてきました。
15節に出てくる「この方」は11節に記されている「白い馬」に「乗っている方」で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
先主日から、14節に、
天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
と記されているときの「天の軍勢」についてお話ししています。これについては、これが御使いたちであるという見方と、聖徒たちであるという見方、さらには、御使いたちと聖徒たちのことであるという見方もあります。
先主日は、「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を支持するとされているみことばの一つである創世記32章1節ー2節に、
さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。
と記されていることについてお話ししました。
今日はヨシュア記5章13節ー15節に記されている、
ヨシュアがエリコにいたとき、目を上げて見ると、一人の人が抜き身の剣を手に持って彼の前方に立っていた。ヨシュアは彼のところへ歩み寄って言った。「あなたは私たちの味方ですか、それとも敵ですか。」彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」ヨシュアは顔を地に付けて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をこのしもべに告げられるのですか。」主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。
というみことばを取り上げます。
これは、これに先立つ2節ー12節に記されていることを受けています。2節ー9節には、ヨシュアが、2節に記されている、
火打石の小刀を作り、もう一度イスラエルの子らに割礼を施せ。
という「主」の命令に従って、イスラエルの民に割礼を施したことが記されています。エジプトの地から贖い出されて荒野を旅したイスラエルの民の第一世代は、繰り返し「主」を試み続けたために「主」のさばきを受けて、40年の間荒野をさまようことになり、その間に荒野で死に絶えてしまいました。5節に、
出て来た民はみな割礼を受けていたが、エジプトを出てから途中で荒野で生まれた民はみな、割礼を受けていなかった。
と記されているように、そのエジプトを出てきたイスラエルの民の第一世代は荒野で生まれた子どもたちに割礼を施していませんでした。イスラエルにおいては、割礼はアブラハム契約のしるしとしての意味をもっていました。イスラエルの民の第一世代は、「主」がアブラハムに与えてくださった契約をないがしろにしていたのです。
これに対して、「主」は、ヨシュアに、
もう一度イスラエルの子らに割礼を施せ。
と命じられました。
このことばだけを読むと、「イスラエルの子ら」に2度目の割礼を施せと言われているように感じられますが、割礼は「包皮の肉を切り捨て」るもの(創世記17章11節)ですから、割礼を2度施すことは物理的にもできません。これは、エジプトを出てきたイスラエルの民の第一世代が中断させていた割礼を、再び[「もう一度」と訳されていることば(シェーニート)は創世記22章15節では「再び」と訳されています]施すようにすることを命じたものです。その意味で、これは、この第二世代の後も割礼が継続されるべきことを示しています。
これによって、「主」は、イスラエルの第二世代の民が、また、その後に生まれてくる子どもたちが、「主」がアブラハムに与えてくださった契約の民であることを確証してくださるのです。
ヨシュアが「主」の戒めに従って、イスラエルの民に割礼を施したのは、自分たちが、「主」がアブラハムにあたえてくださった契約の民であることを信じていたことを意味しています。
また、この時、イスラエルの民はヨシュアに導かれて約束の地であるカナンに入っていました。それは、創世記17章7節ー8節に、
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。
と記されている「主」がアブラハムに与えてくださった契約の約束が実現しているということを告白することでもありました。
*
話が本筋からそれてしまいますが、この機会に、割礼について大切な一つのことをお話ししておきたいと思います。
実は、割礼そのものはイスラエルに限られたものではありませんでした。
エレミヤ書9章25節ー26節には、
見よ、その時代が来る――主のことば――。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。
と記されています。ここに出てくる「エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人」たちは割礼を施している民でした。ここで「主」はこれらの民のことを「包皮に割礼を受けている者」と言われます。これらの民の間では割礼の儀式は行われていました。そして、その民の中に「ユダ」も数えられています。そして、「主」はこれらの民を「罰する」と言っておられます。その理由は、これら
すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。
というのです。ここでは、ユダも含めて、これらの民は「包皮に割礼を受けている」けれども「心に割礼を受けていない」と言われています。これは、「包皮に割礼を受けて」いても、「心に割礼を受けていない」なら、「主」がアブラハムに与えてくださった契約のしるしとしての割礼を受けたことにはならないということを意味しています。
エレミヤ書の中では、これに先立って、4章4節に、
ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。そうでないと、あなたがたの悪い行いのゆえに、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。
という「主」のみことばが記されています。
ここでは、「主のために割礼を受け」ることは「心の包皮を取り除」くことであることが示されています。
これは、1節に、
イスラエルよ、もし帰るのなら、――主のことば――わたしのもとに帰れ。
と記されている、「主」の呼びかけのみことばを受けて語られています。ここ1節には「帰る」ということば(シューブ)が2回出てきます。これは、新改訳ではしばしば「主」に「立ち返る」と訳されていることばです。「主」のもとに「帰る」「立ち返る」(シューブ)ことは「悔い改める」ことの核心にあることです。
ここでは、イスラエルの民に悔い改めて「主」のもとに立ち返り、「主のために割礼を受け」「心の包皮を取り除」くようにと戒められていることになります。この場合のイスラエルの民はユダ王国の民のことですが、エレミヤの時代には、ユダ王国の民の背教は極まりつつあり、「主」のさばきは避けられない状態に向かって進んでいました。それでも、この4章4節においては、悔い改めて「主」に立ち返って、「主のために割礼を受け」「心の包皮を取り除」くようにという戒めが与えられています。
*
このようなエレミヤのことばの背景には、荒野を旅したイスラエルの第二世代の民に改めて与えられたモーセ律法の戒めを記している申命記にある「主」のみことばがあります。
申命記10章15節ー16節には、
主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫であるあなたがたを、あらゆる民の中から選ばれた。今日のとおりである。あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。
と記されています。
ここに出てくる
主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫であるあなたがたを、あらゆる民の中から選ばれた。
というみことばは、7章6節ー8節に記されている、
あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた。主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。
というみことばの教えを思い起こさせます。
イスラエルの民が「主の聖なる民」「主」の「宝の民とされた」のは「主」がその一方的な愛をもって彼らを愛されたからであるとともに、父祖たちに与えられた契約を守られたからであると言われています。ここに出てくる「誓い」は「主」の「誓い」で、「契約」と同義として用いられています。そして、10章15節に記されている、
主はただあなたの父祖たちを慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫であるあなたがたを、あらゆる民の中から選ばれた。
というみことばは、「主」の愛は、すでに、「主」がイスラエルの民の「父祖たちを慕って、彼らを愛された」ことから始まっていることが示されています。
この二つの教えを合わせて見ると、「主」がイスラエルの民の「父祖たちを慕って、彼らを愛された」愛が、その後も変わることなく、その子孫たちにまで注がれていることが示されています。その間に、エジプトを出たイスラエルの民の第一世代の不信仰とは異教がありましたが、変わることはなかったのです。
この神である「主」の愛は、アブラハムのまことの子孫である御子イエス・キリストにおいて、特に、その十字架の死において最も豊かに示されていて、今日の私たち「主」の民にまで及んでいます。
申命記10章16節では、この神である「主」の愛を受けているイスラエルの民に、
あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。
と戒められています。
このことの意味は、割礼がアブラハム契約の契約のしるしであることを心に留めることによって理解することができます。
アブラハム契約は「主」の一方的な愛に基づいており、「主」の変わることのない愛を約束するものです。出エジプト記2章23節ー24節に、
それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエルの子らは重い労働にうめき、泣き叫んだ。重い労働による彼らの叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
と記されているように、「主」はアブラハムとの契約に基づいて、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、ご自身の「聖なる民」「宝の民」としてくださいました。
そして、「主」がモーセをとおしてイスラエルに与えてくださった律法は、イスラエルの民に契約の神である「主」との関係のあり方を示すものです。言い換えると、「主」がその一方的な愛によってご自身の「聖なる民」「宝の民」としてくださったイスラエルの民が、「主」の御臨在の御前を歩み、「主」の愛を受け止め、愛をもって「主」に応答することによって「主」との愛の交わりに生きるために与えられたものでした。
それで律法の全体を集約的にまとめれば、マタイの福音書22章37節ー39節に記されている、イエス・キリストの教えに示されている、
あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
という「重要な第一の戒め」と、
あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい
という「第二の戒め」になります。
この「重要な第一の戒め」は申命記6章5節に記されている戒めです。この戒めにおいては、
あなたの神、主を愛しなさい。
と言われています。この「主」は、申命記6章5節から分かりますが、契約の神である「主」ヤハウェのことです。そして、「主」は、すでに「あなたの神」となってくださっています。
古い契約の下では、「主」はご自身の一方的な愛によるアブラハム契約に基づいて、まったくの恵みによって、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださり、ご自身の「聖なる民」「宝の民」としてくださいました。そのイスラエルの民に愛の律法が与えられたのです。それで、律法を守れば救われて「主」の民となれるという律法主義は古い契約の下でも否定されています。
このようなことを心に留めると、
あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。
という「主」の戒めは、契約の神である「主」ヤハウェの変わることがない真実な愛を受け止め、愛をもって「主」に応答することによって、「主」との愛の交わりに生きるようになることを求める戒めです。
先ほど引用したように、アブラハム契約においては、「主」がアブラハムに、
わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。
と約束してくださいました。
これには、二つの約束が示されています。一つは、
わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。
というみことばに示されています。これは、これまでお話ししてきたことに合わせて言うと、「主」がご自身の一方的な愛によって、アブラハムとその子孫たちをご自身の契約の民としてくださり、ご自身との愛の交わりのうちに生きるようにしてくださるということを意味しています。
もう一つの約束は、
わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。
というみことばに示されています。これは、この約束に続いて、
わたしは彼らの神となる。
と記されていることからも分かりますが、その約束の地において、「主」がご自身の一方的な愛によってご自身の契約の民としてくださるアブラハムとその子孫たちが、ご自身との愛の交わりのうちに生きるようになるということを意味しています。そこがどんなに豊かで潤っている地であったとしても、もしそこに「主」がご臨在してくださらなくて、アブラハムとその子孫たちが「主」との愛の交わりのうちに生きることができないなら、それは約束の地ではありません。
*
申命記には心の割礼に関するもう一つのみことばがあります。
30章6節には、
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。
と記されています。
これは、この前の1節ー5節に
私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことがあなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたが我に返り、あなたの神、主に立ち返り、私が今日あなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、いのちを尽くし、御声に聞き従うなら、あなたの神、主はあなたを元どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神、主があなたを散らした先の、あらゆる民の中から、再びあなたを集められる。たとえ、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される。あなたの神、主はあなたの先祖が所有していた地にあなたを導き入れ、あなたはそれを所有する。主はあなたを幸せにし、先祖たちよりもその数を増やされる。
と記されていることを受けています。
ここでは、イスラエルの民が「主」の契約を破り、「主」に背いて「主」の契約ののろいとしてのさばきにより、国々に散らされるようになることが踏まえられています。「主」はイスラエルの民をご存知でした。それは、ここでは明確に示されてはいませんが、古い契約の下での「地上的なひな型」として与えられていた割礼の限界によることでもありました。
そのように、イスラエルの民が「主」の契約を破り、「主」に背いて「主」のさばきを受けて、国々に散らされるようになることを踏まえた上で、2節では、
あなたの神、主に立ち返り
と言われています。繰り返しになりますが、「主に」「立ち返る」(シューブ)ことは「悔い改める」ことの核心にあることです。ちなみに、「主に」「立ち返る」思い、「悔い改める」思いが与えられるのは「主」の恵みによることです(ゼカリヤ書12章10節、使徒の働き5章31節、11章18節、ローマ人への手紙2章4節、テモテへの手紙第二・2章25節)。
ここでは、イスラエルの民が「主」の契約を破り、「主」に背いて「主」のさばきを受けて、国々に散らされるようになっても、なお、悔い改めて「主」に立ち返り「主」の御声に聞き従うようになる時の約束が、3節以下に示されています。
そして、その約束の続きが6節に、
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。
と記されています。
ここ30章6節では、「主」が「心に割礼を施し」てくださること、それによって、「心を尽くし、いのちを尽くして」「主を愛し」て「生きるように」してくださることが約束されています。これは、先ほど引用した6章10節に記されている、
あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。
という戒めとは重要な点において違っています。
どちらも、真の割礼は心に施されるものであるということでは共通しています。しかし、6章10節では、
あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない。
というように自分たちでそうするように求められています。けれども、この30章6節では、
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。
というように、心に割礼を施すことは、契約の神である「主」がなしてくださると約束してくださっています。
先ほどお話ししたように、イスラエルの民が自分たちで心に割礼を施そうとしても、自分たちを心の奥底から聖めて、新しくすることはできません。それは、古い契約の下での割礼には「地上的なひな型」としての限界があることによっています。そして、それは、古い契約の下で与えられた幕屋とそこで献げられた動物のいけにえに「地上的なひな型」としての限界があったことと同じです。ヘブル人への手紙9章9節ー10節には、
この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎません。
と記されています。[注]
[注]幕屋に関する規定と割礼を結びつけることに違和感を感じることがあるかも知れません。しかし、割礼は「主」がアブラハムに与えてくださった契約のしるしです。創世記17章14節には、「主」が割礼を受けない者について、
そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。
と言われたことが記されています。イスラエルの男子は割礼を受けることによって、アブラハム契約に基づく「主」の契約共同体に加えられ、「主」との愛にある交わりに生きるようになります。そして、幕屋は、「主」がイスラエルの民の間にご臨在してくださり、彼らが「主」を礼拝することを中心として、「主」との愛の交わりに生きるようにしてくださるために、「主」が設けてくださったものです。その意味で、幕屋と割礼は無関係なものではありません。また、割礼がこのような意味をもっていることを踏まえると、パウロがガラテヤ人への手紙5章3節において、
割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。
と記していることが了解されます。「主」の律法は、契約の神である「主」との関係のあり方を示す愛の律法です。割礼は「主」との契約関係の「入口」にかかわっています。
申命記30章6節において、
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。
と約束されていることは、このような古い契約の下で与えられた割礼の「地上的なひな型」としての限界を超えた、「主」がご自身の契約の民の心に施してくださるまことの割礼です。その意味で、このまことの割礼は、新しい契約において実現するものです。
*
先に取り上げたエレミヤ書4章4節においては、「主」への背教が極まりつつあるユダの民に、なおも、悔い改めて「主」に立ち返って、「主のために割礼を受け」「心の包皮を取り除」くようにという戒めが与えられていました。しかし、そのエレミヤの預言のことばは退けられ、ユダ王国へのさばきは避けられない状態になります。そのことを踏まえて、なお、「主」は、申命記30章6節において、
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。
と約束してくださったことに呼応する約束を与えてくださっています。エレミヤ書31章31節ー34節には、
見よ、その時代が来る――主のことば――。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った――主のことば――。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである――主のことば――。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ――主のことば――。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。
と記されています。
ここには、「割礼」ということばは出てきませんが、
わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。
という「主」の約束は、心に割礼が施されることに相当します。それで、これに続いて、
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
という「主」の契約の祝福が実現することが示されています。これは、先ほど引用した、「主」がアブラハムと結んでくださった契約においても示されていた祝福です。
これらのことを踏まえると、新約聖書が新しい契約の下における洗礼が古い契約の下における割礼の本体であると教えていることを理解することができます。
コロサイ人への手紙2章11節ー12節には、
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。
と記されています。これは、私たちが「バプテスマにおいて」「人の手によらない割礼」すなわち神である「主」が私たちに施してくださった割礼を受けていることを示しています。その意味で、これは、先ほど引用した申命記30章6節に、
あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。
と記されていることの成就です。
また、関連するみことばの引用だけにとどめますが、ローマ人への手紙2章28節ー29節には、
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。
と記されていますし、ピリピ人への手紙3章2節後半ー3節には、
肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。
と記されています。
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