今日も、黙示録2章27節前半に記されている、
彼は鉄の杖で彼らを牧する。土の器を砕くように。
という、イエス・キリストがテアテラにある教会に与えられた約束のみことばの意味していることを理解するために、19章15節に記されている、
この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。
というみことばを取り上げてお話します。
これまで、それに先立つ11節以下に記されていることについてお話ししてきました。
15節に出てくる「この方」は11節に記されている「白い馬」に「乗っている方」で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
これまでこの栄光のキリストについて、13節に、
その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。
と記されていることについてお話ししました。今日は、続く14節に、
天の軍勢は白くきよい亜麻布を着て、白い馬に乗って彼に従っていた。
と記されていることについてお話しします。
この「天の軍勢」については、これが御使いたちであるという見方と、聖徒たちであるという見方があり、それぞれに理由があります。それで、これは御使いたちと聖徒たちのことであるという見方もあります。
まず、「天の軍勢」は御使いたちであるという見方を取り上げたいと思います。今日は、あまり一般的ではありませんが、この見方を支持するとされている旧約聖書のみことばの一つを取り上げてお話しします。これによって、霊的な戦いに勝利するということの意味を考える上で大切なことに触れることになります。
創世記32章1節ー2節には、
さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。
と記されています。
これは、ヤコブがそれまで身を寄せていたおじのラバンのもとを去って、父イサクのいる地であり、約束の地であるカナンに近づいてきたときのことを記しています。
ヤコブは兄のエサウから長子の権利と、エサウが父イサクから受けるはずの長子に対する祝福を奪ったため、エサウの怒りをかって、それから逃れるために母リベカの兄であるラバンのもとに20年ほど(31章38節)身を寄せていました。
長子の権利に関しては、お腹が空いたエサウがヤコブが作った煮物と交換に売ってしまったという経緯があります(25章29節ー34節)。それで、長子としての祝福について注目すると、イサクはそれをエサウに与えようとしていたのですが、それを知った母リベカが策略を巡らし、ヤコブがそれに積極的にかかわって従ったことによって、ヤコブがその祝福を受けてしまいました。27章36節には、後にそのことを知ったエサウが、
あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。
と言ったことが記されています。ここで「押しのける」と訳されていることば(アーカブ)は語呂合わせによってヤコブ(ヤアコーブ)と結び合わされています。これは後ほどお話しすることとかかわっていますので心に留めておいてください。
そのようなことがあったために、ヤコブは再びカナンの地に入るに当たって、兄エサウの復讐を恐れるようになりました。そのような状態にあるヤコブに「神の使いたち」が現れました。その御使いたちを見たヤコブは「ここは神の陣営だ」と言いました。この「神の陣営」ということばが「マハネー・エローヒーム」で、その場所を「マハナイム」と呼んだことにつながっています。この「マハナイム」という地名の意味は「二つの陣営」です。
この「神の陣営」の「陣営」ということば(マハネー)はエジプトを出たイスラエルの民が荒野で宿営した時の「宿営」や、軍隊が宿営する時の「陣営」を表します。また、その「軍隊」をも意味します。
この時「神の使いたち」がヤコブに現れたことは、この1節ー2節に記されているだけで、それ以上のことは記されていません。
確かに、この時「神の使いたち」がヤコブに現れたこと自体が、ヤコブにとっての啓示としての意味をもっています。また、ヤコブが「ここは神の陣営だ」と言ったことは、「主」が「神の使いたち」が現れるようにされたことの意味をヤコブに啓示されたことを示しています。そして、その地を「マハナイム」と呼んだことは、その出来事がヤコブにとって確かな意味をもっていたことを思わせます。そうではあっても、このような意味をもっている出来事がこの二つの節にしか記されていないことは不思議なことです。
実は、一般的に認められていますが、この時の出来事は、ヤコブがカナンの地を去っておじのラバンの家に行こうとしている時に「主」がヤコブに現れてくださったことと対応しています。それで、ここで、この時の出来事が二つの節にしか記されていなくて、詳しい説明がないことも、おそらく、これと対応している、ヤコブがカナンの地を去っておじのラバンの家に行こうとしている時の出来事とかかわっているからではないかと思われます。
ヤコブがカナンの地を去ってラバンの家に行こうとしている時のことは28章10節ー22節に、
ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。すると彼は夢を見た。見よ、一つのはしごが地に立てられていた。その上の端は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしていた。そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしは、あなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西へ、東へ、北へ、南へと広がり、地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」彼は恐れて言った。「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。ここは神の家にほかならない。ここは天の門だ。」翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを立てて石の柱とし、柱の頭に油を注いだ。そしてその場所の名をベテルと呼んだ。その町の名は、もともとはルズであった。ヤコブは誓願を立てた。「神が私とともにおられて、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る衣を下さり、無事に父の家に帰らせてくださるなら、主は私の神となり、石の柱として立てたこの石は神の家となります。私は、すべてあなたが私に下さる物の十分の一を必ずあなたに献げます。」
と記されています。
ここで「主」は、夢の中でヤコブに、
わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。
と言われてご自身をお示しになりました。そして、
地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
と言われているように、「主」がアブラハムに与えてくださり、イサクに受け継がせてくださった契約の祝福をヤコブにも受け継がせてくださっていることをお示しになりました。さらに、アブラハム契約の祝福を約束してくださるために、
見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
と約束してくださいました。
ヤコブが、この出来事をとても大切なものと受け止めていたことは、眠りから覚めたヤコブが、
まことに主はこの場所におられる。
と言って、石の柱を立ててそれに油を注いで聖別したうえで、その場所を「ベテル」(「神の家」)と呼んだことに現れていますし、請願を立てたことにも現れています。
ヤコブはラバンの家で20年ほど過ごしました。それには、ヤコブが愛したラバンの娘ラケルをめぐってのラバンの策略もありました。ヤコブはラケルをめとるために7年間ラバンに仕えることになりました。しかし、ラバンは欺いて先にラケルの代わりに姉のレアをヤコブに与えたのです。そして、ラバンはその1週間後にラケルをヤコブに与えるとともに、このために、ヤコブをもう7年間ラバンに仕えさせました。これは、ヤコブが兄エサウを欺いて長子の祝福を奪い取ってしまったことと関連していると考えられています。その一方で、「主」の摂理的な導きによって、その間に、ラケルとレアとそれぞれの女奴隷たちからヤコブの子どもたち、後の、イスラエルの12部族の父祖になる子どもたちが生まれました。ただベニヤミンはラバンのもとを去って父イサクのもとに帰る途上で生まれています。
その間も、ヤコブがずっとこの「主」の約束に支えられていたことは、31章5節に記されているように、ヤコブが、ラバンのしもべたちにけしかけられたラバンがヤコブに厳しい態度を取った時に、ラケルとレアに、
私の父の神は私とともにおられる。
と告白していることに現れています。そして、より明確には、31章3節に、
主はヤコブに言われた。「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」
と記されているように、ヤコブが「主」の命令と約束のみことばに従ってラバンのもとを去ったことにも現れています。
このように、ヤコブは、ラバンの家にいる間、変わることなく、カナンの地を去るに当たって、「主」が自分に現れてくださって、アブラハム契約の祝福を受け継がせてくださるとともに、ヤコブが約束の地に帰るまで常にヤコブとともにいてくださることを約束してくださったことを頼みとして歩んできました。実際に、「主」はヤコブとともにいてくださって、あの欺かれたことによって始まった厳しい経験をとおしてヤコブを育ててくださり、ヤコブを祝福してくださっていました。
そのヤコブが「主」の命令に従って約束の地であるカナンに帰るに当たって、「主」は、改めて、ヤコブにベテルにおいて与えてくださった、
わたしは、あなたとともにいる。
という約束を与えてくださいました。それにもかかわらず、ヤコブには兄エサウから長子の権利とそれに伴う祝福を奪い取ったことと、そのためにエサウが怒っていたということに対する恐れを消すことができませんでした。
ヤコブの恐れがどれほどのものであったかは、先ほどの「神の使いたち」がヤコブに現れてくださったことを記している32章1節ー2節に続く、3節ー32節に記されていることに如実に表わされています。
3節には、ヤコブが兄エサウのもとに使いを送ってヤコブがラバンのもとから帰って来たことを伝えて、エサウの好意を得ようとしました。エサウに会った使者はヤコブに、エサウが「四百人」を連れて、ヤコブを迎えにやって来ると告げました。この報告では、エサウの意図ははっきりしません。弟ヤコブを歓迎するものであるかも知れませんが、ヤコブに対する怒りを表すものであるかも知れません。それでヤコブは不安になりました。
9節ー12節には、その時にヤコブが「主」に祈った祈りが、
私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。私に「あなたの地、あなたの生まれた地に帰れ。わたしはあなたを幸せにする」と言われた主よ。私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。私は一本の杖しか持たないで、このヨルダン川を渡りましたが、今は、二つの宿営を持つまでになりました。どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。あなたは、かつて言われました。「わたしは必ずあなたを幸せにし、あなたの子孫を、多くて数えきれない海の砂のようにする」と。
と記されています。
そして、このように祈った後も、ヤコブはエサウの怒りを鎮めるための策を練っています。それは、エサウのために多くの贈り物を用意します。それを三つに分けたしもべたちの群れに分けて託します。それぞれの群れはお互いに距離を置いて、エサウに近づいて行き、最初の群れがエサウに出会った時、自分たちがヤコブのしもべであり、持っているものがエサウへの贈り物であることを告げて、エサウに贈り物を差し出し、ヤコブは後ろにいると告げます。そして、次の二つの群れが、順次距離を置いて、エサウに出会って、同じようにするというものでした。そのようにして、エサウの怒りが収まってから、最後に、ヤコブ自身がエサウに会うというものでした。いわば、ヤコブは自分が守るべき人々を「ヤコブ」という名が示すように「押しのけて」自分を守ろうとしていたのです。
このように、ヤコブは20年の時を経て、なお、エサウに対する恐れを抱いていました。その恐れは、時の経過とともに薄れていたのではなく、いよいよ、ヨルダン川を渡ってカナンの地に入る段になって現実のものとなってよみがえってきました。それは必ずしもヤコブの不信仰であると言うことはできません。というのは、先ほどお話ししたように、ヤコブが父イサクから長子の祝福を受けたのは、イサクを欺くリベカの策略とヤコブがそれに加担したことによっていたからです。このことを考えると、ヤコブが抱いたこのような恐れは、「主」がヤコブに与えてくださったものであるのではないかと考えたくなります。
そのような状態にあるヤコブに、
さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。
と記されている出来事が起こりました。実は、この時、ヤコブは霊的な戦いの状態にありました。それで、この時には、特に「神の使いたち」が「神の陣営」に宿営していることが示されました。それによって、「神の使いたち」がヤコブのために霊的な戦いを戦ってくださることが示されています。
どういうことかと言いますと、32章では、24節ー32節に、家族も含めて、他のものたちすべてをヨルダン川を渡らせた後、一人川向こうの宿営に戻ったヤコブのことが記されています。24節ー30節には、
ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。その人はヤコブに勝てないのを見てとって、彼のももの関節を打った。ヤコブのももの関節は、その人と格闘しているうちに外れた。すると、その人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」ヤコブは願って言った。「どうか、あなたの名を教えてください。」すると、その人は「いったい、なぜ、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。そこでヤコブは、その場所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味である。
と記されています。
24節で「ある人が夜明けまで彼と格闘した」と言われているときの「ある人」は、28節に、
あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。
と記されていることから、「神」に相当する方であることが分かります。その意味で、この方は「神の陣営」の長です。この方がヤコブと「格闘した」ことを表すことば(アーバク)は旧約聖書ではこの24節と25節に出てくるだけです[注]。先ほどの28節において「あなたが神と、また人と戦って、勝った」と言われていることから、何らかの意味での戦いがなされたことが分かります。それが、先ほど言いました霊的な戦いの中心にあります。
[注]ここで、この「アーバク」ということばが用いられているのは、このことばを、音声的に、この時ヤコブがヨルダン川を渡るためにいた場所である「ヤボクの渡し場」(22節)の「ヤボク」に、さらに、「ヤコブ」につなげるためであると考えられています
これが霊的な戦いの中心にあるということを理解するための鍵は、27節に、
その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は言った。「ヤコブです。」
と記されていることにあります。
ここで、
その人は言った。
と言われているときの「その人」は「神」に相当する方です。当然、ヤコブの名前を知っています。それで、「その人」はヤコブの名前を知ろうとして問いかけたのではありません。これには、聖書においてその人あるいはそのものの「名」は、その人あるいはそのものの本質的な特質を表していることとかかわっています。
この、
あなたの名は何というのか。
という問いかけは、出エジプト記3章13節で、モーセが神さまに、
今、私がイスラエルの子らのところに行き、「あなたがたの父祖」神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは「その名は何か」と私に聞くでしょう。
と尋ねたたときの、
その名は何か
という問いかけに相当します。これに対して、神さまは、
わたしは『わたしはある』という者である。
という御名を明らかにしてくださり、ご自身が契約の神である「主」、ヤハウェであることをお示しくださいました。
それで、この、
あなたの名は何というのか。
という問いかけは、この「神」である方がヤコブに自分がどのようなものであるかを告白させようとして問いかけたものです。「神」である方はこのことのために「夜明けまで」(24節)ヤコブと格闘してこられたのです。これに対して、ヤコブは、
ヤコブです。
と答えました。
これは、先ほど引用した27章36節に、
あいつの名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけて。私の長子の権利を奪い取り、今また、私への祝福を奪い取った。
と記されているエサウのことばが表していることを受けています。エサウがこのように言ったのは、これに先立つ35節において、父イサクが、
おまえの弟が来て、だましたのだ。そしておまえへの祝福を奪い取ってしまった。
と言ったと記されていることを受けています。ヤコブが実際にこの父のことばとエサウのことばを聞いているかどうかはわかりませんが、母リベカからエサウの憤りのことを聞いたヤコブは、自分が何をしたかよく分かっていたはずです。そして、エサウの憤りがそれによっていることもよく分かっていたはずです。それで、この「神」である方の問いかけに、自分の名が「ヤコブ」であることを告白したことは、自分が兄を欺きによって「押しのけて」長子としての祝福を奪い取ってしまった者であることを、悔い改めとともに告白したことでした。
32章では、続く28節において、この告白を受けて、この「神」である方が、ヤコブに、
あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。
と言ったことが記されています。この方はヤコブに、
あなたが神と、また人と戦って、勝った
と言いました。これは血肉の戦いではなく、この「神」である方が「夜明けまで」、ヤコブが問題の真相、すなわち、自分がどのような者であるかを知るように迫ってくださったことを受けています。そして、ヤコブはしっかりとそれに応えたこと意味しています。
私たちの目には、これは「神」である方のほうの勝利であると思われます。しかし、それは私たちが「勝利」を相手を屈服させることと考えているためのことでもあります。この時、この方がヤコブと「夜明けまで」「格闘した」と言われているほどに、ご自身をヤコブにかかわらせてくださって、ヤコブを導いてくださいました。そして、ついに、ヤコブはこの方の御前における自分の真相を悟り、それを告白したのです。人間的な言い方ですが、その「見事な答え」に、「神」である方がそれで十分であるとして引き下がろうとしたわけです。
このことを受けて、「神」である方はヤコブの名をイスラエルに変えてくださいました[注]。これは、先ほどお話しした、聖書における「名」がその名をもつものの本質的な特質を表すということからすると、「神」である方がヤコブを造り変えてくださることを意味しています。
[注]ここでは「イスラエル」という名が、「神は戦う」という意味合いを伝えています。学問的には、「イスラエル」は語源的に「神は支配する」、「神はさばく」を意味するとされています。しかし、ここでは、学問的な語源の問題ではなく、「神」である方が、特別に、ヤコブが「イスラエル」という名を聞く度に、口にする度に、また、思い出す度に、この時の出来事の意味を心に刻むようにしてくださったのです。この時の出来事においては「神は戦う」ということは、「神は支配する」、「神はさばく」ということから、それほど逸脱しているわけではありません。ヤコブと格闘された「神」である方はヤコブを導いてくださり(摂理的に支配してくださり)、ヤコブが自分の古い特質を告白するようにしてくださっています(その意味でのさばきがなされています)。
また、「神」である方はヤコブに、
あなたが神と、また人と戦って、勝った
と言いました。この「人と戦って」の「人」は複数形です。この場合は、おそらく、ヤコブにとっての仮想の「敵」であったエサウとエサウが率いて来る「四百人」のことではないかと思われます。いずれにしても、この後お話ししますが、この霊的な戦いにおいて、ヤコブは「主」の助けを借りてエサウを追い払ったのではありません。むしろ、エサウと和解しました。それこそが霊的な戦いの勝利です。
ここでは、ヤコブを造り変えてくださるというような保証は与えられていないという主張もあります。しかし、実際に、ヤコブは変えられています。33章1節ー11節には、
ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウがやって来た。四百人の者が一緒であった。そこで、ヤコブは子どもたちを、レアとラケルと二人の女奴隷の群れに分け、女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。ヤコブは自ら彼らの先に立って進んだ。彼は兄に近づくまで、七回地にひれ伏した。エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。エサウは目を上げ、女たちや子どもたちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか」と尋ねた。ヤコブは、「神があなた様のしもべに恵んでくださった子どもたちです」と答えた。すると、女奴隷とその子どもたちが進み出て、ひれ伏した。次に、レアも、その子どもたちと進み出て、ひれ伏した。最後に、ヨセフとラケルが進み出て、ひれ伏した。するとエサウは、「私が出会ったあの一群すべては、いったい何のためのものか」と尋ねた。ヤコブは「あなた様のご好意を得るためのものです」と答えた。エサウは、「私には十分ある。弟よ、あなたのものは、あなたのものにしておきなさい」と言った。ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召すなら、どうか私の手から贈り物をお受け取りください。私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです。兄上は私を喜んでくださいましたから。どうか、兄上のために持参した、この祝いの品をお受け取りください。神が私を恵んでくださったので、私はすべてのものを持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。
と記されています。
ヤコブが「神」である方と格闘する前には、「主」に自分を守ってくださるように祈っています。その祈りの中で、身を低くして、
私は、あなたがこのしもべに与えてくださった、すべての恵みとまことを受けるに値しない者です。
と告白しています。その上で、
どうか、私の兄エサウの手から私を救い出してください。兄が来て、私を、また子どもたちとともにその母親たちまでも打ちはしないかと、私は恐れています。
と祈っています。
謙虚な祈りです。しかし、このように祈ったヤコブは、その後、先ほどお話ししたように、三つの群れにわけたしもべたちを先に行かせて、自分は最後に行くように取り計らっています。「主」がこの計画を用いてくださるようにとの思いとともにということでしょう。いずれにしても、他の者たちを「押しのけて」最後には自分が守られるように画策する「ヤコブ」という名が示す特質が現れていました。
けれども、そのヤコブが、「神」である方と格闘して、自分が「ヤコブ」、「押しのけるもの」であることを告白した後は、ヤコブ自身が家族の先頭に立ってエサウに会うために進んで行きました。
そして、しもべたちについて、エサウは、
私が出会ったあの一群すべては、いったい何のためのものか
とヤコブに尋ねています。ヤコブは、もう、しもべたちを三つの群れにわけて、それぞれに距離を置いて進んで行かせて、エサウに会うようにさせてはいません。また、しもべたちに自分たちが持っているものがエサウへの贈り物であると言わせてもいません。ヤコブ自身が、それらは、
あなた様のご好意を得るためのものです
と答えています。しもべたちを自分を守るための手段としてはいないのです。さらには、このことは8節に記されていて、4節に、
エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。
と記されていることの後になされたやり取りです。もはや、その贈り物はエサウの怒りを鎮めるためのものではありません。それは、真に、エサウとの交わりを回復するためのものでした。
「神」である方から与えていただいた「神は戦われる」という意味での「イスラエル」という新しい名が示すとおり、ヤコブは自分とともにいてくださって霊的な戦いを戦われる「神」である方に信頼して、自らが家族の先頭に立って進んで行き、しもべたちをも大切にしています。そのようにして、ヤコブは自分を守るためというより、真に礼を尽くしてエサウに会うようになりました。そして、実際に、エサウと和解したのです。
けれども、続く12節ー16節には、エサウが自分とともにセイルに行くようにヤコブを誘った時に、ヤコブがそれを丁寧に断ったことが記されています。これは、ヤコブがエサウに対する不信感をぬぐいきれなかったためであるという見方があります。
ただ、この後のヤコブとエサウの関係を見てみると、エサウがヤコブと争ったことを示す記録はありません。35章29節には、イサクが死んだ時には、エサウとヤコブがイサクを葬ったと記されています。また、36章6節ー7節には、
エサウは、その妻たち、息子と娘たち、その家のすべての者、その群れとすべての家畜、カナンの地で得た全財産を携え、弟ヤコブから離れて別の地へ行った。一緒に住むには所有する物が多すぎて、彼らの群れのために寄留していた地は、彼らを支えることができなかったのである。
と記されています。これは、エサウが約束の地をそれほど大切に考えていなかったことの現れであると考えられますが、その一方では、通常は、弟のほうが遠慮するところなのに、兄であるエサウの方がカナンの地を出て行ったということでもあります。もし、エサウが後になってヤコブに対する復讐心をよみがえらせたとすれば、エサウからすると本来自分のものである長子の権利を振りかざして、カナンの地に侵入して略奪してもおかしくはなかったと思われます。しかし、そのようなことはありませんでした。
これらのことから、この後の、エサウとヤコブの関係は、ヤコブが不信感を抱き続けるほど悪いものではなかったと理解することができます。
これには、もう一つ考えておくべきことがあります。エサウが自分とともにセイルに行くようにヤコブを誘った時に、ヤコブがそれを丁寧に断ったのは、エサウの意図していたことをヤコブが察知してのことであると考えられます。
ヤコブは、エサウに強いて受け取らせた贈り物について、
あなた様のご好意を得るためのものです
と言いました。私たちはもともとのヤコブの思いを知っていますから、それはエサウの怒りを鎮めるためのものだと理解してしまいます。しかし、先ほどお話ししたように、このことは、
エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけし、二人は泣いた。
と記されていることの後のことなので、エサウの怒りを鎮めるためのものではありません。
すでにヤコブを弟として受け入れているエサウからすると、遠路はるばる旅をして帰って来て、住むところもままならない弟ヤコブが自分の好意を得るためだと言って、強いて贈り物を受け取らせたということになります。それで、エサウは、ヤコブが当分のあいだでも自分たちの面倒を見てもらいたいと願っていると受け止めた可能性が高いのです。そうであれば、エサウはヤコブに好意を示して、ヤコブがセイルで自分ととも住むように取り計らったということになります。そして、ヤコブもそれを察知したと考えられます。
しかし、ヤコブは、カナンの地を離れる時に、ベテルにおいて自分に現れてくださった「主」が
見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
と約束してくださった約束を頼みとして歩んできました。また、ラバンのもとにいた時には、31章3節に、
主はヤコブに言われた。「あなたが生まれた、あなたの父たちの国に帰りなさい。わたしは、あなたとともにいる。」
と記されている「主」の命令と約束に従って、カナンの地に帰ってきました。ですから、エサウとともにセイルに行って、兄弟としてともに生活するというわけにはいきませんでした。ヤコブとしてはエサウが兄として示してくれた好意を受け止めつつ、丁寧にそれを断ることにしたわけです。
このように理解することは、ヤコブがエサウの申し出を丁寧に断ったのは、エサウへの不信感の現れであるどころか、エサウとの和解が本物であったことを示すことになります。もちろん、エサウは血肉の関係でしかこれらのことを受けて止めてはいません。しかし、「主」からイスラエルという新しい名を与えられたヤコブは「主」の民として、血肉の兄弟エサウに接しています。
「神」である方と格闘したヤコブは、
私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。
と言いました。そして、自分が「ヤコブ」「押しのける者」であることを告白した時、「神」である方はヤコブを祝福してくださいました。ともすると、この「祝福」はこの場をうまく切り抜けることができたことにあると考えがちです。しかし、「神」である方の祝福の本質は、自分が「ヤコブ」「押しのける者」であることを悟らせてくださり、悔い改めとともに告白するよう導いてくださっただけでなく、新しく造り変えてくださったことにあります。
このようなことから、32章1節ー2節に、
さて、ヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現れた。ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ」と言って、その場所の名をマハナイムと呼んだ。
と記されていることは、「神の使いたち」が危機的な状況にあるヤコブに現れて「神の陣営」を形成していることを示したことを意味しています。そしてこれは、その「神の陣営」の長である方が霊的な戦いの状況に置かれていたヤコブに格闘を挑んで、ヤコブの悔い改めとしての告白を生み出してくださったことの出発点であったことが分かります。そして、それに伴ってヤコブを造り変えてくださって、兄エサウとの和解をも実現してくださったことも分かります。それによって、「主」はヤコブを霊的な戦いにおける勝利者としてくださったのです。
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