黙示録講解

(第349回)


説教日:2018年8月26日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:


 今は、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼[勝利を得る者]は鉄の杖で彼ら[諸国の民]を牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがテアテラにある教会に与えられた約束のみことばとの関連で、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

というみことばを取り上げてお話ししようとしています。これまで、それに先立つ11節以下に記されていることについてお話ししてきました。今日もそのお話を続けます。
 ここに出てくる「この方」は11節に記されている「白い馬」に「乗っている方」で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 先主日と先々主日には、13節に、

 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。

と記されているみばにおいて、栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたということについてお話ししました。
 今日は、そのお話を振り返りつつ補足をしてから、おそらく問いかけられるであろう一つの問題についてお話ししたいと思います。
 ここで栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたことは、11節ー21節に記されていることが、栄光のキリストがさばきを執行されることなので栄光のキリストがさばきを執行されることとのかかわりで理解しなければなりません。
 これまで、このこととのかかわりで、ヨハネの福音書12章48節に記されている、

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

というイエス・キリストの教えに注目してきました。
 ここでは、

 わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

と言われているように、イエス・キリストお話しになった「ことば」が、特に「終わりの日に」、その「ことば」を受け入れなかった人をさばくと言われています。
 そして、このイエス・キリストがお話しになった「ことば」は、続く49節で、イエス・キリストが、

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

とあかししているように、父なる神さまから託された「ことば」です。それで、イエス・キリストは、

 わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

と言われたのです。
 このように、イエス・キリストは「神のことば」を語っておられます。しかも、続く50節には、

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。

と記されています。ここには「父の命令」が出てきますが、これは、その前の49節で、

 わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになった[直訳「何を言うべきか、何を話すべきか、わたしに命令をお与えになった」]のだからです。

と言われているときの、直訳の「命令」です。そして、この父なる神さまの「命令」が「永遠のいのちである」と言われています。この父なる神さまの「命令」に従って、イエス・キリストは父なる神さまが「言われたとおりを、そのまま話して」おられます。そして、そのことにおいて、父なる神さまの御子をも賜った愛が私たちに注がれています。そして、私たちに「永遠のいのち」をもたらします。このすべてのことが父なる神さまが御子イエス・キリストに与えられた「命令」から出ています。
 イエス・キリストが父なる神さまの「言われたとおりを、そのまま話」すことができるのは、イエス・キリストが1章14節で、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われている、人としての性質を取って来られた永遠の「ことば」であるからです。そして、1章1節ー2節に、

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されているように、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにあって、父なる神さまと一体である方だからです。


 機会があるごとにお話ししていますが、1節で、

 初めにことばがあった。

と言われているときの「初めに」は、創世記1章1節に、

 はじめに神が天と地を創造された。

と記されているときの「はじめに」を指しています。そして、

 初めにことばがあった。

の「あった」(エーン)は過去のある時において継続して「あった」ことを表す未完了時制で、天地創造の御業の初めには、すでに、「ことば」が継続して「あった」ことを表しています。時間は、この造られた世界の時間ですので、時間はこの世界が造られたときに始まっています。それで、

 初めにことばがあった。

ということは、「ことば」が永遠の存在であることを意味しています。それで、

 ことばは神であった。

と言われています。
 そして、

 ことばは神とともにあった。

と言われているときの「神とともに」ということば(プロス・トン・セオン)は、「ことば」が「」の方を向いているという意味合いをもっており、「ことば」が「」との愛の交わりのうちにあることを示しています。事実、1章18節では、

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と言われていていて、この「ことば」なる方のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われています。「父のふところにおられる」ということは、父なる神さまとの愛の交わりのうちにあることを表しています。

 ことばは神とともにあった。

ということは大切なことなので、2節において、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と繰り返されるとともに、「初めに」ということばが加えられることによって、その愛の交わりが永遠のものであることが示されています。
 これに続く3節には、

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と記されています。このことは、天地創造の御業は父なる神さまとの愛の交わりのうちに完全に充足しておられる「ことば」によって遂行されたということを意味しています。それで、天地創造の御業は父なる神さまが、御子イエス・キリストをとおして、ご自身の愛を、ご自身の外に向けて現された御業であったことが分かります。
 また、1章14節で、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われていることも、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにあって充足しておられる「ことば」が「人となって、私たちの間に住まわれた」ことを意味しています。それで、

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と言われていることも、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおしてご自身の愛を、私たちご自身の民に対して現されたことに他なりません。そのようにして、無限の栄光の主であられる神の御子が、その無限の栄光を「隠し」無限に身を低くされて、人としての性質を取って来てくださったのです。それは、私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、私たちを永遠のいのちをもつものとしてくださるため、言い換えると、私たちを父なる神さまとの愛の交わりに生きるものとしてくださるためでした。このことを受けて、14節では、続けて、

私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この栄光は恵みとまことに満ちていた。[最後は私の訳]

と言われています。人としての性質を取って来てくださった「ことば」なる方において、父なる神さまの栄光が「恵みとまことに満ち」た栄光であることが、この上なく深く豊かに示されているのです。先ほど引用した18節では、

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と言われていました。神のかたちとして造られている人も、御使いも、無限の栄光に満ちておられる神さまを、直接的に、見ることはできません。ただ、「父のふところにおられるひとり子の神」が「神を説き明か」してくださったので、神さまがどのような方であるかを知ることができるのです。神のかたちとして造られている人であれ、御使いたちであれ、無限の栄光に満ちておられる神さまを、直接的に、見ることができると言い張ることは、無限の栄光に満ちておられる神さまと神さまによって造られたものとの「絶対的な区別」を否定すること、相対化することであり、神さまの聖さを冒すことです。
 このように、私たちは、無限、永遠、不変の栄光の主であり、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちに充足しておられる「ことば」なる方が「神を説き明か」してくださったので、神さまがどのような方であるかを知ることができます。この「ことば」なる方は、ただ、神さまの啓示のみことばを語ってくださっただけではありません。この方ご自身が神の「ことば」であるのです。それで、14章9節には、イエス・キリストが、

 わたしを見た人は、父を見たのです。

と証しされたことが記されています。また、この点で、ご自身が神の「ことば」である方、御子イエス・キリストと父なる神さまは一つです。10章30節には、イエス・キリストが、

 わたしと父とは一つです。

と証しされたことが記されています。10章では、続く31節に、

 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。

と記されています。これは、ユダヤ人からすると、イエス・キリストがご自身を父なる神さまと等しいものとしたことであったからです。しかし、イエス・キリストはご自身を父なる神さまと等しいものとしたのではありません。イエス・キリストは、

 ことばは神であった。

と証しされている永遠の神です。
 このように、12章50節において、イエス・キリストが、

わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。ですから、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです。

と証ししておられることは、イエス・キリストが父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにおられ、父なる神さまと一体である、永遠の神の「ことば」であり、父なる神さまの愛の現れであることに基づいています。それで、人としての性質を取って来てくださった永遠の「ことば」であるイエス・キリストは、ただ「永遠のいのち」について語ってくださっただけではありません。私たちご自身の民に死と滅びをもたらす罪を贖ってくださるために十字架におかかりになり、私たちを永遠のいのちに生きるものとしてくださるために栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。人としての性質を取って来てくださった永遠の「ことば」であるイエス・キリストが語られた「ことば」は、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業と切り離しがたく結びついています。イエス・キリストが語られた「ことば」は、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業を明らかにしています。イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業は、イエス・キリストが語られた「ことば」を裏付けています。
 この、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業を明らかにするとともに、贖いの御業に裏付けられている、イエス・キリストが語られた「ことば」は福音のみことばです。
 このようにしてイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業も、イエス・キリストが語られた「ことば」も、父なる神さまの「命令」から出ており、父なる神さまの愛を映し出しています。これらすべてのことを包み込む意味において、御子イエス・キリストは父なる神さまと一体である、永遠の神の「ことば」であり、父なる神さまの愛の現れです。
 そうであれば、この父なる神さまの「命令」から出ている、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業を証ししているイエス・キリストが語られた福音の「ことば」を退けることがどのようなことであるかを理解することができます。
 このことから、黙示録19章13節において、終わりの日に再臨されてさばきを執行される栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたことは、栄光のキリストが福音のみことばを語られる永遠の神の「ことば」であることを指していると考えられます。

 このことには、反論として問いかけられるであろう問題があります。それは、終わりの日に再臨される栄光のキリストが執行されるさばきは、ただ福音のみことばを聞いてそれを退けた人々だけでなく、福音のみことばを聞いたことがない人々をもさばくのであるから、栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたことは、栄光のキリストが福音のみことばを語られる永遠の神の「ことば」であることを指しているとは言えないということです。
 これについては、二つのことが考えられます。
 一つは、神さまが愛といつくしみをもってこの世界をお造りになり、お造りになったすべてのものを真実に支えておられることは、神さまがお造りになったこの世界そのものが証ししているということです。
 ローマ人への手紙1章18節ー20節には、

というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。

と記されています。
 これは、どちらかというと、客観的な、人にとって外から与えられている啓示のことを示しています。
 ここには「というのは」ということば(ガル)があって、ここに記されていることが、この前に記されていることの理由を示しています。これに先立つ16節ー17節には、

私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

と記されています。パウロが、

 私は福音を恥としません

と言っているのは、造り主である神さまを神としない人の罪に対する神の聖なる御怒りが「啓示されているからです」。私たちの罪が神さまの聖なる御怒りに相当し、その罪に対するさばきが死と滅びをもたらすという現実を踏まえたとき、初めて、福音が伝えている神さまの愛と恵みがどのようなものであるかが分かります。
 さらに、21節ー23節には、

彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。

と記されています。
 冒頭の、

 彼らは神を知っていながら

というみことばは、人は神のかたちとして造られ、造り主である神さまを知っているという、人の内側に与えられている啓示を示しています。そうであるのに、実際には、造り主である神さまを神としていないという現実を糾弾しています。その糾弾においては、彼らは「神を神としてあがめず、感謝もせず」と言われています。「感謝もせず」ということは、彼らは造り主である神さまの愛といつくしみのしるしに触れているのに「感謝もせず」にいるということを意味しています。
 また、使徒の働き14章16節ー17節には、リステラで福音を宣べ伝えていたパウロとバルナバが、

神は、過ぎ去った時代には、あらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むままにしておられました。それでも、ご自分を証ししないでおられたのではありません。あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど、恵みを施しておられたのです。

と証ししたことが記されています。
 これらのみことばが証ししている神さまの創造の御業と摂理の御業をとおして与えられている啓示は、ヨハネの福音書1章3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。

と証しされており、ヘブル人への手紙1章3節で、

 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と証しされている、永遠に父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにおられる「ことば」、すなわち御子イエス・キリストによって与えられています。
 先ほどの反論に対して考えておきたいもう一つのことは、神である「主」の贖いの御業の歴史においては、福音のみことばはは、創世記3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている「最初の福音」から始まっているということです。
 これがは最初の女性エバを誘惑して神である「主」に罪を犯させた「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきの宣告です。ここでは、神である「主」が、罪によってサタンと一つになってしまっている「女」とサタンの間に「敵意」を置いてくださって、罪による両者の結びつきを断ち切ってしまわれるということ、しかも、その「敵意」は「女の子孫」とサタンの霊的な子孫との間にまで連綿と受け継がれていくことが示されています。
 そして、ついには「」と呼ばれる「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」が、「お前」と呼ばれているサタンとサタンの霊的な子孫の共同体の「かしら」であるサタンの「頭を打つ」と言われています。「」と呼ばれる「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」が、サタンに対する最終的なさばきを執行されることが示されているのです。
 これはサタンが神である「主」に逆らって、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人に罪を犯させたことによって始まっている霊的な戦いにおけることです。霊的な戦いにおいて、「女」と「女の子孫」の共同体は、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体に敵対するようになります。それは、「女」と「女の子孫」の共同体が神である「主」の側に立つようになることを意味しています。これは「女」と「女の子孫」の共同体が神である「主」の民として救われるようになることです。それで、このサタンに対するさばきの宣告は「最初の福音」と呼ばれます。
 「女」と「女の子孫」の共同体が霊的な戦いに勝利することは、ローマ人への手紙16章20節に、

 平和の神は、速やかに、あなたがたの足の下でサタンを踏み砕いてくださいます。

と記されています。
 また、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」がサタンに対する霊的な戦いに勝利することは、黙示録12章に記されています。
1節ー2節には、

また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。

と記されています。
 この「」は「最初の福音」において約束されている「女の子孫」のかしらとして来られる「」、すなわちメシアを生み出す、古い契約と新しい契約の共同体である、広い意味での教会を表象的に表しています。そして、「炎のように赤い大きな竜」はサタンを表象的に表しています。この「」は「」が産む「子を食べてしまおうとして」いましたが、「その子は神のみもとに、その御座に引き上げられ」ました。
 このことを受けて、7節ー9節には、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルとその御使いたちは竜と戦った。竜とその使いたちも戦ったが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、その大きな竜、すなわち、古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者が地に投げ落とされた。また、彼の使いたちも彼とともに投げ落とされた。

と記されています。ここで「」のことが、「古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者、全世界を惑わす者」と呼ばれていることは、このことがサタンへのさばきの宣告として示されている「最初の福音」の成就であることを意味しています。
 神である「主」の贖いの御業の歴史においては、この「最初の福音」は全人類を視野において示されており、人類のかしらであるアダムとその妻エバもこれを信じています(アダムとエバが「最初の福音」を信じたということについては説明が必要ですが、少し長い説明になるので、今日はそれをお話しする時間的な余裕がありません)。その意味では、この「最初の福音」はアダムにあって堕落した全人類に与えられています。ただ、実際の、歴史の中では、創世記4章26節に、

 セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々はの名を呼ぶことを始めた。

と記されているように、この「最初の福音」を信じて神である「主」を礼拝する人々が社会現象となるほどに現れたのですが、やがて、その人々も背教していって、「最初の福音」を基として「主」を信じる人々はノアとその家族だけになってしまいました。しかし、それで、「最初の福音」とその後に示されている「主」の贖いの御業にかかわる福音を信じた人々の群れは残されてきました。
 いずれにしても、神である「主」の贖いの御業の歴史の初めから、罪に対するさばきの宣告は、福音のみことばと切り離されることなく啓示されてきたのです。そして、その啓示は永遠の「ことば」である御子をとおして与えられています。このような意味で、終わりの日に、最終的なさばきを執行される栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたことは、栄光のキリストが福音のみことばを語られる永遠の神の「ことば」であることを指していると考えることができます。


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