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説教日:2018年8月19日 |
このイエス・キリストの「恵みとまことに満ちて」いる栄光と、さきほど触れた「しるし」とのかかわりで、先主日に少し触れました、37節ー41節に記されていることについて、もう少しお話ししたいと思います。 そこには、 イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。 「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕はだれに現れたか。」 イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。 「主は彼らの目を見えないようにされた。 また、彼らの心を頑なにされた。 彼らがその目で見ることも、 心で理解することも、 立ち返ることもないように。 そして、わたしが彼らを癒やすことも ないように。」 イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。 と記されています。 ここでは、イエス・キリストがユダヤ人の間で「これほど多くのしるし」を行われたのに、「彼らはイエスを信じなかった」と言われています。「これほど多くの」と訳されたことば(トサウタ)は数が多いこととともに質が優れていることをも意味しています。イエス・キリストが行われたかずかずの「しるし」は、イエス・キリストが父なる神さまから遣わされたメシアであると信じるに値する方、信ずべき方であることを示していたのです。 ここでは、また、 イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。 と言われていて、イエス・キリストが行われたこれらの「しるし」は、イザヤが見た「イエスの栄光」を映し出す「しるし」であったことが示されています。ヨハネの福音書においてはイエス・キリストが「しるし」を行われたことが繰り返し出てきますが、それは、イエス・キリストの「恵みとまことに満ちて」いる栄光を現す「しるし」であって、一般的に考えられる人目を引く、人の目にかなうしるしのことではありません。 マタイの福音書12章38節ー40節には、「律法学者、パリサイ人のうちの何人かが」イエス・キリストに「しるしを見せていただきたい」と求めた時に、イエス・キリストが、 悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。 とお答えになったことが記されています。律法学者、パリサイ人たちは自分たちのメガネにかなう「しるし」を求めています。しかも、それはイエス・キリストに対する疑い、不信が根底にあって、もし本当にメシアであるというのであれば、「しるし」を見せてくれと要求するものです。イエス・キリストはそのような「しるし」は与えられないということを言明されました。 その一方で、イエス・キリストは、 ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。 と言われました。私たちご自身の民のために十字架にかかって死なれ、「三日目に」栄光を受けてよみがえられたことを頂点として現されている「恵みとまことに満ちて」いる栄光を指し示す「しるし」をお与えになるということです。 ヨハネの福音書12章37節ー41節に戻りますが、そこでヨハネが引用している、 主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。 主の御腕はだれに現れたか。 というイザヤのことばは、イザヤ書53章1節に記されているみことばで、「主のしもべ」のことを記しています。その「主のしもべ」は52章13節に、 見よ、わたしのしもべは栄える。 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。 と記されている、この上なく高く上げられる栄光の主です。この方のことが、53章の4節ー5節には、 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みを担った。 それなのに、私たちは思った。 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、 私たちの咎のために砕かれたのだ。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。 と記されています。この上なく高く上げられる栄光の主である方は、私たちご自身の民の「病を負い」「痛みを担」い、「私たちの背きのために刺され」「私たちの咎のために砕かれた」方です。この方への「懲らしめが私たちに平安をもたらし」「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされ」ました。このことにおいて、この方の栄光が現されており、ヨハネは、これがイザヤが見たイエス・キリストの栄光であるとあかししています。 また、もう一つヨハネが引用している、 主は彼らの目を見えないようにされた。 また、彼らの心を頑なにされた。 彼らがその目で見ることも、 心で理解することも、 立ち返ることもないように。 そして、わたしが彼らを癒やすことも ないように。 というイザヤのことばは、イザヤ書6章10節に記されているみことばです。イザヤ書6章では1節ー5節に、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。」 その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。私は言った。 「ああ、私は滅んでしまう。 この私は唇の汚れた者で、 唇の汚れた民の間に住んでいる。 しかも、万軍の主である王を この目で見たのだから。」 と記されています。 イザヤは幻の中で、聖なる「主」の栄光の御臨在の御前に立たせられてしまいました。その御臨在の御前では、聖い御使いである「セラフィム」もその顔と両足を覆い、ひたすら、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。 と讃え続けているのです。それによってイザヤは、自分が汚れたものであり、直ちに滅ぼされるべきものであるという、恐ろしい現実に打たれてしまいます。そこでは、人と比べた時に見えてくる「よさ」、人よりよいという相対的な「よさ」はまったく通用しません。 確かに、「セラフィム」がその顔と両足を覆って、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。 と讃え続けている「万軍の主」は、歴史の主であられ、義をもって諸国の民をおさばきになる主です。この「主」の栄光の御臨在の御前では、預言者として召されているイザヤとて例外ではなく、直ちに滅ぼされるべきものでしかありません。 ところが、6節ー7節には、 すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。 見よ。これがあなたの唇に触れたので、 あなたの咎は取り除かれ、 あなたの罪も赦された。」 と記されています。 なんと、その聖なる「主」の栄光の御臨在の御許には、罪の贖いが備えられていたのです。しかも、それは、「主」の栄光の御臨在の御前で汚れを思い知らされ、滅ぼされる他はないことを恐ろしい現実として実感するほかなかったイザヤの「咎」を取り除き、「罪」を赦してくださるものでした。それは、文字通り、「主」の一方的な恵みによる罪の贖いであったのです。 このことを受けて、8節には、 私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」 と記されています。イザヤが、 ここに私がおります。私を遣わしてください。 と言ったのは、自分自身が経験したこと、すなわち、聖なる「主」の栄光の御臨在の御許には、「主」の一方的な恵みによる罪の贖いが備えられているという、福音を証ししなければならないという思いからでした。 しかし、続く9節ー10節には、 すると主は言われた。 「行って、この民に告げよ。 『聞き続けよ。だが悟るな。 見続けよ。だが知るな』と。 この民の心を肥え鈍らせ、 その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。 彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、 心で悟ることも、 立ち返って癒やされることもないように。」 と記されています。そのイザヤに伝えられたのは、「主」の一方的な恵みによる罪の贖いについての証しをすると、人々はその証しを信じて受け入れることはないということでした。イザヤは聖なる「主」の栄光の御臨在の御前では、人の間で通用していた相対的な「よさ」はまったく通用しないこと、その御前では直ちに滅ぼされる他はないものであるという恐ろしい現実に打たれてしまいました。後にイザヤは(64章6節)で、 私たちはみな、汚れた者のようになり、 その義はみな、不潔な衣のようです。 と証ししています。その上で、「主」の栄光の御臨在の御許には、「主」の一方的な恵みによる罪の贖いが備えられているということを福音として信じました。しかし、その当時の、ユダ王国の人々は、アブラハムの子孫であること、モーセ律法が与えられていること、立派な神殿があり、いけにえが献げられていることなど、何らかの自分たちの「よさ」を頼みとすることがあって、自分たちがそのように絶望的な状態にあることを認めませんし、認めることができませんでした。そのために、イザヤが「主」の栄光の御臨在の御許には、「主」の一方的な恵みによる罪の贖いが備えられているということを証ししても、その意味を悟ることができなかったのです。 イザヤは聖なる「主」の栄光の御臨在の御許に備えられている「主」の一方的な恵みによる罪の贖いにあずかって、罪を赦されました。しかし、その「主」の一方的な恵みによる罪の贖いがどのようなものであるのかは、6章には示されていません。 それについては、52章13節ー53章12節に記されている、「主のしもべ」についてのみことばに示されています。「主」の一方的な恵みによる罪の贖いは、この上なく高く上げられる「主のしもべ」が、私たちご自身の民の「病を負い」「痛みを担」い、「私たちの背きのために刺され」「私たちの咎のために砕かれた」ことによって成し遂げられた罪の贖いです。この方への「懲らしめが私たちに平安をもたらし」「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」と言われている罪の贖いです。 この二つの個所(6章と52章13節ー53章12節)とをつなげて理解することは、ヨハネがこの二つの個所をつなげているからというだけではありません。イザヤ書自体がそのことを示唆しています。 イザヤ書6章1節には、 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。 と記されています。ここでは、主は「高く上げられた御座に着いておられる」と言われています。ここで、「高く上げられた」と訳されたことばは、二つの動詞「ルーム」(ここでは分詞)と「ナーサー」の組み合せで表されています。 このことを踏まえて、「主のしもべ」のことを記している52章13節を見ると、そこには、 見よ、わたしのしもべは栄える。 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。 と記されています。ここで「高められて上げられ」と言われていることばは、先ほどの主の御座についての描写で用いられていた「ルーム」と「ナーサー」の組み合せです。ここではもう一つの同義の動詞(ガーバハ)が加えられ、それがさらに強調されて「きわめて高くなる」と言われています。それによって、この方がこの上なく高く上げられることが示されています。このことから、6章1節で「高く上げられた御座に着いておられる主」と言われている方は、52章13節で、 見よ、わたしのしもべは栄える。 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。 と言われている「主のしもべ」であることが分かります。 「セラフィム」がその顔を覆って、 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。 と讃え続けている「万軍の主」は歴史の主であり、義をもって諸国の民をおさばきになる主です。そのさばきは主の預言者として召されたイザヤにも例外なく及ぶものです。しかし、その栄光の主はまた、私たちご自身の民の「病を負い」「痛みを担」い、「私たちの背きのために刺され」「私たちの咎のために砕かれた」と証しされている主です。その方の死によって、一方的な恵みによる罪の贖いが成し遂げられるのです。そして、このことこそが、イザヤが「主」の御臨在の御許において示された「主」の栄光の真相です。 このことを受けて、ヨハネは、 イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。 と記しています。ここでイザヤが見たと言われている、イエス・キリストの栄光は、まさに、1章14節に記されている「恵みとまことに満ちている」栄光です。 ヨハネは、このことを、 イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。 ということの理由を示すために示しています。「彼ら」すなわちユダヤ人たちがイエス・キリストを信じなかったことは、イザヤが「主」の栄光の御臨在の御前で経験した、「主」の一方的な恵みによる罪の贖いをユダ王国の民が信じられなかったことと本質的に同じであることを明らかにしているのです。どちらも、アブラハムの子孫であること、モーセ律法を与えられ、ラビたちの教えに従ってそれを守っていること、立派な神殿があり、いけにえが献げられていることなど、何らかの自分たちの「よさ」を頼みとすることがあったために、「主」の「恵みとまことに満ちている」栄光を表すしるしを見ることができなかったのです。 |
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