黙示録講解

(第348回)


説教日:2018年8月19日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(101)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼[勝利を得る者]は鉄の杖で彼ら[諸国の民]を牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがテアテラにある教会に与えられた約束のみことばとの関連で、19章15節に記されている、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

というみことばを取り上げてお話しします。
 ここに出てくる「この方」は11節に、

また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。

と記されている白い馬に乗った方で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 先主日には、13節に、

 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。

と記されている中で、栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたということについてお話ししました。今日は、そのお話をまとめながら、さらに補足することをお話ししたいと思います。
 大切なことは、ここ19章11節ー21節では栄光のキリストがさばきを執行されることが記されているので、栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたということも、栄光のキリストがさばきを執行されることとのかかわりで理解しなければならないということです。
 先主日には、このこととのかかわりで、特に、ヨハネの福音書12章48節に記されている、

わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

というイエス・キリストの教えについてお話ししました。
 ここでは、

 わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

と言われています。イエス・キリストお話しになった「ことば」が、「終わりの日に」、その「ことば」を受け入れなかった人をさばくというのです。このイエス・キリストお話しになった「ことば」は、続く49節で、イエス・キリストが、

わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。

とあかししておられるように、父なる神さまから託された「ことば」です。イエス・キリストはまさに「神のことば」を語っておられます。しかも、それは福音のみことばです。
 このことから、黙示録19章13節において、栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたと言われていることは、イエス・キリストが福音のみことばを語っておられることとかかわっていると考えられます。
 イエス・キリストが、

 わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。

という教えを語られたことは、ヨハネの福音書12章48節に記されていますが、それは同じ12章の20節ー33節に記されていることの文脈の上での流れの中で理解すべきことです。
 改めて、先主日引用した12章20節ー33節に記されていることを見てみましょう。そこには、

さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。

と記されています。
 すでにお話ししたことについては詳しい説明は省きます。
 ここに記されているのは過ぎ越の祭りの時のことです。その時に、異邦人たちを代表的に表している、何人かの「ギリシア人」が、イエス・キリストに「お目にかかりたい」と願い出ました。このことを受けて、イエス・キリストは、いよいよご自身が十字架にかかって死ぬべき時がきたことを認められ、ご自身が十字架にかかって死ぬことをとおして、父なる神さまの栄光が現されるように祈られました。それに対して、父なる神さまは、

 わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。

とお答えになりました。

 わたしはすでに栄光を現した。

ということは、無限、永遠、不変の栄光の主である御子イエス・キリストが無限に身を低くされて、私たちご自身の民の罪を贖うために、人としての性質を取って来て来てくださったこと、そして、地上の生涯におけるメシアとしてのお働き、特に、ヨハネの福音書に繰り返し出てくるさまざまな「しるし」をもって福音を宣べ伝えられたことを指していると考えられます。
 基本的には、無限、永遠、不変の栄光の主である御子イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださったことを指していると考えられます。それは、1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されていることによっています。
 ここで「この方は恵みとまことに満ちておられた」と言われているときの「この方」と訳されていることば(プレーレース、形容詞「満ちている」)は、男性形ですが、不変化詞ですので、女性形の名詞にも中性形の名詞にもかかります。それがどれにかかっているは文脈から判断することになります。この場合は、14節後半は「この方」の「栄光」(女性形)のことが記されているので、「満ちている」は「この方」の「栄光」を指していると考えられます。このように、ここでは、無限、永遠、不変の栄光の主であるイエス・キリストが私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださるために人としての性質を取って来てくださったことに、「恵みとまことに満ちて」いる栄光が現されていることが示されています。
 また、ここでは、それとともに、人としての性質を取って来てくださった御子イエス・キリストが地上の生涯をとおして現された栄光も「恵みとまことに満ちて」いる栄光であったことが示されています。というのは、ここに記されていることはヨハネの福音書全体の序論(プロローグ)の一部ですので、御子イエス・キリストの地上の生涯の全体にもかかわっていると考えられます。
 父なる神さまはさらに、

 わたしは再び栄光を現そう。

と言われました。これは、イエス・キリストが、その地上の生涯の最後に、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げてくださるために、十字架にかかって死んでくださることを指しています。そのことは、イエス・キリストが、

この[「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」という]声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。

と教えておられ、さらにヨハネが、このイエス・キリストの教えについて、

 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。

と説明していることから分かります。
 このように、父なる神さまの栄光は、私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、人としての性質を取って来てくださり、その地上の生涯の最後に十字架にかかって死んでくださって私たちの罪を贖ってくださった御子イエス・キリストをとおして現される「恵みとまことに満ちて」いる栄光です。
 このようにして、御子イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、十字架にかかって死なれることにおいて、イエス・キリストの「恵みとまことに満ちて」いる栄光が現されます。そして、このイエス・キリストの「恵みとまことに満ちて」いる栄光こそが、父なる神さまの栄光の現れなのです。それで、1章14節では、この栄光のことが、「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」であると言われています。
 御子イエス・キリストが十字架の死においてこのような意味をもっている父なる神さまの栄光を現される時、二つのことが起こります。
 一つは、イエス・キリストが、

 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。

と証ししておられるように、私たちご自身の民の罪が贖われ、私たちご自身の民が御子イエス・キリストの御許に「引き寄せ」られて、永遠にイエス・キリストとともに住まうようになります。もう一つは、イエス・キリストが、

 今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。

と証ししておられるように、「この世」と「この世を支配する者」に対するさばきが執行されます。先主日にお話ししたように、私たちご自身の民の罪が贖われることと、「この世」と「この世を支配する者」に対するさばきが執行されることは切り離すことができません。


 このイエス・キリストの「恵みとまことに満ちて」いる栄光と、さきほど触れた「しるし」とのかかわりで、先主日に少し触れました、37節ー41節に記されていることについて、もう少しお話ししたいと思います。
 そこには、

イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。
 「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。
 主の御腕はだれに現れたか。」
イザヤはまた次のように言っているので、彼らは信じることができなかったのである。
 「主は彼らの目を見えないようにされた。
 また、彼らの心を頑なにされた。
 彼らがその目で見ることも、
 心で理解することも、
 立ち返ることもないように。
 そして、わたしが彼らを癒やすことも
 ないように。」
イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストがユダヤ人の間で「これほど多くのしるし」を行われたのに、「彼らはイエスを信じなかった」と言われています。「これほど多くの」と訳されたことば(トサウタ)は数が多いこととともに質が優れていることをも意味しています。イエス・キリストが行われたかずかずの「しるし」は、イエス・キリストが父なる神さまから遣わされたメシアであると信じるに値する方、信ずべき方であることを示していたのです。
 ここでは、また、

イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。

と言われていて、イエス・キリストが行われたこれらの「しるし」は、イザヤが見た「イエスの栄光」を映し出す「しるし」であったことが示されています。ヨハネの福音書においてはイエス・キリストが「しるし」を行われたことが繰り返し出てきますが、それは、イエス・キリストの「恵みとまことに満ちて」いる栄光を現す「しるし」であって、一般的に考えられる人目を引く、人の目にかなうしるしのことではありません。
 マタイの福音書12章38節ー40節には、「律法学者、パリサイ人のうちの何人かが」イエス・キリストに「しるしを見せていただきたい」と求めた時に、イエス・キリストが、

悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

とお答えになったことが記されています。律法学者、パリサイ人たちは自分たちのメガネにかなう「しるし」を求めています。しかも、それはイエス・キリストに対する疑い、不信が根底にあって、もし本当にメシアであるというのであれば、「しるし」を見せてくれと要求するものです。イエス・キリストはそのような「しるし」は与えられないということを言明されました。
 その一方で、イエス・キリストは、

ただし預言者ヨナのしるしは別です。ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

と言われました。私たちご自身の民のために十字架にかかって死なれ、「三日目に」栄光を受けてよみがえられたことを頂点として現されている「恵みとまことに満ちて」いる栄光を指し示す「しるし」をお与えになるということです。
 ヨハネの福音書12章37節ー41節に戻りますが、そこでヨハネが引用している、

 主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。
 主の御腕はだれに現れたか。

というイザヤのことばは、イザヤ書53章1節に記されているみことばで、「のしもべ」のことを記しています。その「のしもべ」は52章13節に、

 見よ、わたしのしもべは栄える。
 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

と記されている、この上なく高く上げられる栄光の主です。この方のことが、53章の4節ー5節には、

 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みを担った。
 それなのに、私たちは思った。
 神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、
 私たちの咎のために砕かれたのだ。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。

と記されています。この上なく高く上げられる栄光の主である方は、私たちご自身の民の「病を負い」「痛みを担」い、「私たちの背きのために刺され」「私たちの咎のために砕かれた」方です。この方への「懲らしめが私たちに平安をもたらし」「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされ」ました。このことにおいて、この方の栄光が現されており、ヨハネは、これがイザヤが見たイエス・キリストの栄光であるとあかししています。

 また、もう一つヨハネが引用している、

 主は彼らの目を見えないようにされた。
 また、彼らの心を頑なにされた。
 彼らがその目で見ることも、
 心で理解することも、
 立ち返ることもないように。
 そして、わたしが彼らを癒やすことも
 ないように。

というイザヤのことばは、イザヤ書6章10節に記されているみことばです。イザヤ書6章では1節ー5節に、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満ちる。」
その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。私は言った。
 「ああ、私は滅んでしまう。
 この私は唇の汚れた者で、
 唇の汚れた民の間に住んでいる。
 しかも、万軍のである王を
 この目で見たのだから。」

と記されています。
 イザヤは幻の中で、聖なる「」の栄光の御臨在の御前に立たせられてしまいました。その御臨在の御前では、聖い御使いである「セラフィム」もその顔と両足を覆い、ひたすら、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満ちる。

と讃え続けているのです。それによってイザヤは、自分が汚れたものであり、直ちに滅ぼされるべきものであるという、恐ろしい現実に打たれてしまいます。そこでは、人と比べた時に見えてくる「よさ」、人よりよいという相対的な「よさ」はまったく通用しません。
 確かに、「セラフィム」がその顔と両足を覆って、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満ちる。

と讃え続けている「万軍の」は、歴史の主であられ、義をもって諸国の民をおさばきになるです。この「」の栄光の御臨在の御前では、預言者として召されているイザヤとて例外ではなく、直ちに滅ぼされるべきものでしかありません。
 ところが、6節ー7節には、

すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。
 見よ。これがあなたの唇に触れたので、
 あなたの咎は取り除かれ、
 あなたの罪も赦された。」

と記されています。
 なんと、その聖なる「」の栄光の御臨在の御許には、罪の贖いが備えられていたのです。しかも、それは、「」の栄光の御臨在の御前で汚れを思い知らされ、滅ぼされる他はないことを恐ろしい現実として実感するほかなかったイザヤの「」を取り除き、「」を赦してくださるものでした。それは、文字通り、「」の一方的な恵みによる罪の贖いであったのです。
 このことを受けて、8節には、

私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

と記されています。イザヤが、

 ここに私がおります。私を遣わしてください。

と言ったのは、自分自身が経験したこと、すなわち、聖なる「」の栄光の御臨在の御許には、「」の一方的な恵みによる罪の贖いが備えられているという、福音を証ししなければならないという思いからでした。
 しかし、続く9節ー10節には、

すると主は言われた。
 「行って、この民に告げよ。
 『聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな』と。
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。
 彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、
 心で悟ることも、
 立ち返って癒やされることもないように。」

と記されています。そのイザヤに伝えられたのは、「」の一方的な恵みによる罪の贖いについての証しをすると、人々はその証しを信じて受け入れることはないということでした。イザヤは聖なる「」の栄光の御臨在の御前では、人の間で通用していた相対的な「よさ」はまったく通用しないこと、その御前では直ちに滅ぼされる他はないものであるという恐ろしい現実に打たれてしまいました。後にイザヤは(64章6節)で、

 私たちはみな、汚れた者のようになり、
 その義はみな、不潔な衣のようです。

と証ししています。その上で、「」の栄光の御臨在の御許には、「」の一方的な恵みによる罪の贖いが備えられているということを福音として信じました。しかし、その当時の、ユダ王国の人々は、アブラハムの子孫であること、モーセ律法が与えられていること、立派な神殿があり、いけにえが献げられていることなど、何らかの自分たちの「よさ」を頼みとすることがあって、自分たちがそのように絶望的な状態にあることを認めませんし、認めることができませんでした。そのために、イザヤが「」の栄光の御臨在の御許には、「」の一方的な恵みによる罪の贖いが備えられているということを証ししても、その意味を悟ることができなかったのです。

 イザヤは聖なる「」の栄光の御臨在の御許に備えられている「」の一方的な恵みによる罪の贖いにあずかって、罪を赦されました。しかし、その「」の一方的な恵みによる罪の贖いがどのようなものであるのかは、6章には示されていません。
 それについては、52章13節ー53章12節に記されている、「のしもべ」についてのみことばに示されています。「」の一方的な恵みによる罪の贖いは、この上なく高く上げられる「のしもべ」が、私たちご自身の民の「病を負い」「痛みを担」い、「私たちの背きのために刺され」「私たちの咎のために砕かれた」ことによって成し遂げられた罪の贖いです。この方への「懲らしめが私たちに平安をもたらし」「その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた」と言われている罪の贖いです。
 この二つの個所(6章と52章13節ー53章12節)とをつなげて理解することは、ヨハネがこの二つの個所をつなげているからというだけではありません。イザヤ書自体がそのことを示唆しています。
 イザヤ書6章1節には、

 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。

と記されています。ここでは、は「高く上げられた御座に着いておられる」と言われています。ここで、「高く上げられた」と訳されたことばは、二つの動詞「ルーム」(ここでは分詞)と「ナーサー」の組み合せで表されています。
 このことを踏まえて、「のしもべ」のことを記している52章13節を見ると、そこには、

 見よ、わたしのしもべは栄える。
 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

と記されています。ここで「高められて上げられ」と言われていることばは、先ほどのの御座についての描写で用いられていた「ルーム」と「ナーサー」の組み合せです。ここではもう一つの同義の動詞(ガーバハ)が加えられ、それがさらに強調されて「きわめて高くなる」と言われています。それによって、この方がこの上なく高く上げられることが示されています。このことから、6章1節で「高く上げられた御座に着いておられる主」と言われている方は、52章13節で、

 見よ、わたしのしもべは栄える。
 彼は高められて上げられ、きわめて高くなる。

と言われている「のしもべ」であることが分かります。
 「セラフィム」がその顔を覆って、

 聖なる、聖なる、聖なる、万軍の
 その栄光は全地に満ちる。

と讃え続けている「万軍の」は歴史の主であり、義をもって諸国の民をおさばきになるです。そのさばきはの預言者として召されたイザヤにも例外なく及ぶものです。しかし、その栄光のはまた、私たちご自身の民の「病を負い」「痛みを担」い、「私たちの背きのために刺され」「私たちの咎のために砕かれた」と証しされているです。その方の死によって、一方的な恵みによる罪の贖いが成し遂げられるのです。そして、このことこそが、イザヤが「」の御臨在の御許において示された「」の栄光の真相です。
 このことを受けて、ヨハネは、

 イザヤがこう言ったのは、イエスの栄光を見たからであり、イエスについて語ったのである。

と記しています。ここでイザヤが見たと言われている、イエス・キリストの栄光は、まさに、1章14節に記されている「恵みとまことに満ちている」栄光です。
 ヨハネは、このことを、

イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。

ということの理由を示すために示しています。「彼ら」すなわちユダヤ人たちがイエス・キリストを信じなかったことは、イザヤが「」の栄光の御臨在の御前で経験した、「」の一方的な恵みによる罪の贖いをユダ王国の民が信じられなかったことと本質的に同じであることを明らかにしているのです。どちらも、アブラハムの子孫であること、モーセ律法を与えられ、ラビたちの教えに従ってそれを守っていること、立派な神殿があり、いけにえが献げられていることなど、何らかの自分たちの「よさ」を頼みとすることがあったために、「」の「恵みとまことに満ちている」栄光を表すしるしを見ることができなかったのです。


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