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説教日:2018年8月12日 |
栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたということからすぐに思い出されるのは、ヨハネの福音書1章1節ー3節に、 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 と記されていることや、14節に、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されていることです。 けれども、一般的には、このつながりは否定されています。 その理由は、ここ19章11節ー21節では栄光のキリストがさばきを執行されることが記されているので、栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたということも、栄光のキリストがさばきを執行されることとのかかわりで理解しなければならないということです。 ヨハネの福音書1章1節ー3節においては、イエス・キリストが天地創造の御業が遂行される前から存在される方[「先在のキリスト」と呼ばれます]であることや創造の御業を遂行されたことが示されています。また、14節においては、御子イエス・キリストが贖いの御業を遂行されるために、人としての性質を取って来られたことが示されています。それで、これらのことは、栄光のキリストがさばきを執行することとは関係がないというのです。 栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたということを、栄光のキリストがさばきを執行されることとのかかわりで理解しなければならないということ自体はそのとおりです。ただ、問題はそれをどのように理解するかです。 ここで栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたと言われていることの背景には旧約聖書外典のソロモンの知恵18章15節ー16節に記されていることがあると主張されています。 ソロモンの知恵は新共同訳の「旧約聖書続編つき」の版で「知恵の書」として載っています。その18章15節ー16節には、 あなたの全能の言葉は天の王座から、 情け容赦のないつわもののように、 この滅びの地に下った。 それは、取り消しのきかないあなたの命令を 鋭い剣のように手にして、 すべてを死で満たし、 天に触れながらも、地を踏んで立っていた。 と記されています。これは、18章5節ー19節に記されていることの一部ですが、18章5節からは、出エジプトの時代に「主」がエジプトに対して執行された10のさばきの最後のさばきを執行された時のことを記しています。 出エジプト記によると、その最後のさばきは、「主」がエジプトのすべての長子と家畜の初子を打つというものでした。その際に、「主」はイスラエルの民のために過越の子羊を備えてくださいました。イスラエルの民は、「主」がさばきを執行される日の夕暮れに、その子羊を屠り、その血を家の2本の門柱と鴨居に塗りました。その夜に、「主」はエジプトに対してさばきを執行されましたが、子羊の血が塗られた家は過ぎ越されました。そこではすでにさばきが執行されていると見なされたのです。 ソロモンの知恵18章15節ー16節に記されていることは出エジプト記に記されているとおりのことではなく、かなりの脚色をしています。しかも、その脚色には出エジプト記や出エジプト贖いの御業のことに触れているみことばの根拠がありません。 ここに記されていることと、黙示録19章13節に記されていることには類似性があります。また、ソロモンの知恵は黙示録より前に記されています。だからといって、黙示録の著者であるヨハネが、このような脚色されたことを述べているソロモンの知恵18章15節ー16節に記されていることにヒントを得て、栄光のキリストのことを、 その名は「神のことば」と呼ばれていた。 ということを記しているという主張には首をかしげてしまいます。 「主」がご自身のみことばでさばきを執行されることは、ホセア書6章5節に、 それゆえ、わたしは預言者たちによって 彼らを切り倒し、 わたしの口のことばで彼らを殺す。 あなたへのさばきが、光のように出て行く。 と記されています。ただし、ここでは、この5節の前の4節で、 エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。 ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。 あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、 朝早く消え去る露のようだ。 と言われているように、「エフライム」によって代表的に示されている北王国イスラエルと、南王国ユダが「主」の契約を破ったことに対するさばきの執行のことを記しています。そうではあっても、ここでは「主」がご自身の「口のことばで」さばきを執行されることが示されています。 これとともに注目したいのは、ヨハネの福音書12章48節に記されているイエス・キリストの教えです。そこには、 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。 と記されています。 ここには「ことば」を表す二つのことばが出てきます。二つはほぼ同義である場合と、意味合いの違いがある場合があります。前半で、 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。 と言われているときの「ことば」(ト・レーマ、ここでは複数形タ・レーマタ)は、意味合いとしては、語られたことばを表します。後半で、 わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。 と言われているときの「ことば」(ホ・ロゴス、ここでは単数形)は、意味合いとしては、思想や教えなどを表すことばです。イエス・キリストが語られたみことばには確かな意味内容がある使信です。しかもそれは、続く49節で、イエス・キリストが、 わたしは自分から話したのではなく、わたしを遣わされた父ご自身が、言うべきこと、話すべきことを、わたしにお命じになったのだからです。 とあかししておられるように、父なる神さまから託された使信です。その使信は、48節の前の47節において、イエス・キリストが、 だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。 と述べておられることから分かりますが、よき使信、すなわち、福音のみことばです。 イエス・キリストがこのことを語られたのは、イエス・キリストがいよいよ十字架にかかって死ぬべき時がきたことを認められて、ご自身が十字架にかかって死ぬことをとおして、父なる神さまの栄光が現されるようになることを願われたこととのつながりにおいてのことです。そのことは、少し長い引用になりますが、同じ12章20節ー33節に、 さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、「雷が鳴ったのだ」と言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えられた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためです。今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。」これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。 と記されています。 20節で、 さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。 と言われているときの「祭り」は、1節に記されている過ぎ越の祭りです。そして、何人かの「ギリシア人」は、ここでは、異邦人たちを代表的に表しています。そして、この人々が、イエス・キリストの弟子のピリポに、 お願いします。イエスにお目にかかりたいのです と願い出ました。 ここでは、その動機が何であったかとか、その人たちがどこから来た人であったかということ、さらには、肝心な、その人たちがイエス・キリストとお会いしたかどうか、お会いしてどうなったかということはいっさい記されてはいません。それには理由があります。ヨハネが伝えたかったのは、この人たちが異邦人たちを代表的に表す「ギリシア人」であったということと、この人たちがイエス・キリストにお目にかかりたいと願っていたということです。そのことを伝えるために、それ以外のことを省略していると考えられます。 このことを受けて、イエス・キリストがいよいよ十字架にかかって死ぬべき時がきたことを認められて、 人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。 と言われました。ですから、ここで、 しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。 と言われているときの「豊かな実」の中には、異邦人たちも含まれていることになります。このことは、ここで明確に述べられているわけではありませんが、創世記12章3節に、 地のすべての部族は、 あなたによって祝福される。 と記されている、「主」がアブラハムに与えられた祝福の約束がイエス・キリストの十字架の死において成就することを意味しています。 そのことは、また、引用したみことばの最後の部分である31節ー32節において、イエス・キリストが、 今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。 と言われたことにも表されています。 今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配する者が追い出されます。 ということは、ユダヤ人の間で起こることに限られてはいません。「この世を支配する者」がユダヤ人の間から追い出されるけれど、異邦人の間では追い出されないということではありません。また、 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。 と言われているときの「すべての人」はユダヤ人だけではなく、この時イエス・キリストの御許に来た「ギリシア人」によって代表的に示されている異邦人たちも含みます。 そして、イエス・キリストが、 わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます。 と言われたことを受けて、ヨハネは、 これは、ご自分がどのような死に方で死ぬことになるかを示して、言われたのである。 と注釈しています。イエス・キリストは、ご自身が十字架にかけられて死なれることによってユダヤ人だけでなく異邦人も含めた「すべての人」をご自身の御許に引き寄せてくださいます。そればかりでなく、イエス・キリストが十字架にかかって死なれることによって、「この世に対するさばきが行われ」、「この世を支配する者が追い出され」ます。そして、何よりも、イエス・キリストが十字架にかかって死なれることによって、父なる神さまが、 わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。 と言われたように、父なる神さまの栄光が現されるのです。言い換えると、イエス・キリストが十字架にかかって死なれることによって、父なる神さまがどなたであるかが示されるということです。 ヨハネの福音書12章では、このイエス・キリストの教えをめぐってさらに、イエス・キリストの教えを聞いた群衆とのやり取りが記されています。それは、35節ー36節に記されている、 もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。 というイエス・キリストの教えをもって結ばれています。 ここで、イエス・キリストが、 闇があなたがたを襲うことがないように と言われたことは、続いて、 もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。 と言われていることや、最後に、 光を信じなさい。 と言われていることと対比されます。そして、この「光」はイエス・キリスト、すなわち、人格的な存在です。そうであるとすると、この「闇」も人格的な存在である「この世を支配する者」であると考えられます。「この世を支配する者」こそが闇であり、その支配の下にある人々は闇の中を歩むことになります。しかし、イエス・キリストが十字架にかかって死なれることによって、「この世に対するさばきが行われ」、「この世を支配する者が追い出され」るようになります。ちょうど、光が射す所では闇が消え去るのと同じです。 この場合、イエス・キリストが「光」であるということは、先ほどお話ししたように、特に、イエス・キリストが十字架にかかって死なれることによって、父なる神さまの栄光が現され、父なる神さまがどなたであるかがより鮮明に示されるようになることにあります。それはいわば客観的なことです。これとともに、私たちご自身の民は、イエス・キリストが、 自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。 と言われるように、「光」であられるイエス・キリスト、十字架にかかって死なれたイエス・キリストを信じることによって、罪が贖われ、きよめられ、父なる神さまを知ることができるようになります。この場合の父なる神さまを知るということは、ヘブル的な意味で、イエス・キリストにあって父なる神さまとの愛の交わりに生きるようになることを意味しています。 これに続いて、37節ー41節には、ユダヤ人たちがイエス・キリストを信じることがなかったことと、それが預言者イザヤが預言していたことの成就であることが記されています。それは、イザヤの時代に、イザヤをとおして福音を聞いた人々が信じなかったことと本質的に同じことが、イエス・キリストが語られた福音を信じなかったユダヤ人の間で起こっているということを意味しています。 そして、続く42節ー43節には、 しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したのである。 と記されています。ここに出てくるイエス・キリストを信じたと言われている「議員たち」は、47節でイエス・キリストが、 だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。 と言われているときの、「わたしのことばを聞いてそれを守らない者」のことです。先ほど引用した26節においてイエス・キリストは、 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。 と言われましたが、この人々はイエス・キリストについていくことはありませんでした。 このことを受けて、続く44節ー46節には、 イエスは大きな声でこう言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのです。わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。 と記されています。この教えの主旨も、イエス・キリストが十字架にかかって死なれることによって、父なる神さまの栄光が現され、父なる神さまがどなたであるかがより鮮明に示されるようになることとかかわっています。ご自身の民のために十字架にかかって死なれたイエス・キリストを知ることなしに、父なる神さまを知ることはできません。ご自身の民のために十字架にかかって死なれたイエス・キリストこそが、父なる神さまの栄光の現れであり、私たちに父なる神さまがどなたであるかを示す光です。 そして、ご自身の民のために十字架にかかって死なれたイエス・キリストを知ることをとおして父なる神さまを知ることが永遠のいのちの本質です。同じヨハネの福音書17章3節において、イエス・キリストが、 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。 と祈っておられるとおりです。もちろん、これは、先ほども触れたように、ご自身の民のために十字架にかかって死なれたイエス・キリストにおいて現されている父なる神さまの愛に触れ、イエス・キリストにあって、父なる神さまとの愛の交わりに生きることです。 これらのことが、イエス・キリストが、 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。 と言われたときの、イエス・キリストが「わたしが話したことば」すなわち福音のみことばに示されています。 イエス・キリストの教えを信じて、私たちご自身の民のために十字架にかかって死なれたイエス・キリストを受け入れることが、父なる神さまの御許に至って、父なる神さまとの愛の交わりに生きるようになるための唯一の道です。それ以外の道はありません。それで、イエス・キリストとその教えを受け入れない人は、その人の生まれながらのあり方を続けることになります。それによって、人の罪をとおして「この世を支配する者」の支配の下にあり続けることになり、「この世を支配する者」とともにさばきを受けることなるのです。 ヨハネの福音書3章16節ー18節には、 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。 と記されており、36節には、 御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 と記されています。 父なる神さまがお遣わしになった御子イエス・キリストは、ヨハネの福音書1章1節において、 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 とあかしされているまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主です。その御子イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死なれたことは、父なる神さまの愛の深さを現していますが、その一方で、人の罪の深刻さを示しています。私たちの罪はまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神の御子の十字架の死によってしか贖うことができないほど深刻なものであるのです。人の罪をとおして「この世を支配する者」の支配の下にある人は闇に閉ざされているために、この罪の深刻さが分かりません。 私たちは、イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わってすべて受けてくださったという福音のみことばのあかしを信じて、イエス・キリストを主として受け入れました。それによって、私たちご自身の民のために十字架にかかってくださった方が、無限、永遠、不変の栄光の主であられることが理解できるようになりました。それで、自らの罪の深刻さを悟ることができるようになり、罪を悔い改めて父なる神さまの御許に立ち返ることができました。すべて、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からよみがえられたことによって成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお導きによることです。 このように、福音のみことばは、父なる神さまが私たちご自身の民を愛して、私たちの罪を贖ってくださるために、ご自身の御子をお遣わしになったということをあかししています。そこに現れている父なる神さまのみこころは、人が御子イエス・キリストを信じてご自身との愛の交わりに生きるようになることです。しかし、福音のみことばは、また、人の罪は父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死によってしか贖うことができないということを明確にあかししているのです。その意味で、 わたしを拒み、わたしのことばを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことば、それが、終わりの日にその人をさばきます。 と言われているときの「わたしが話したことば」は「終わりの日」のさばきとかかわっています。このような意味をもっている福音のみことばを語られるのは栄光のキリストご自身です。このことが、栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたということにかかわっていると考えられます。 そして、福音のみことばがこのような意味での人の罪の深刻さを示すのは、ひとえに、十字架にかかって死なれたイエス・キリストは、ヨハネの福音書1章1節において、 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 とあかしされているまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられることによっています。 これらのことを踏まえると、黙示録19章13節において、最終的なさばきを執行される栄光のキリストの御名が「神のことば」と呼ばれていたということと、この方が、 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 とあかしされているまことの神であられ、無限、永遠、不変の栄光の主であられること、さらには、この方について、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 とあかしされていることは、かかわりがないことではなく、むしろ、深くかかわっていると考えられます。 このことも、これまでお話ししてきた、栄光のキリストのさばきはご自身の民の贖いと切り離すことができないということとつながっています。 |
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