黙示録講解

(第346回)


説教日:2018年8月5日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(99)


 黙示録2章27節前半に記されている、

 彼[勝利を得る者]は鉄の杖で彼ら[諸国の民]を牧する。土の器を砕くように。

という、イエス・キリストがテアテラにある教会に与えられた約束のみことばを理解するために、19章15節に、

この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と記されているみことばについてのお話を続けます。
 ここに出てくる「この方」は11節に、

また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗っている方は「確かで真実な方」と呼ばれ、義をもってさばき、戦いをされる。

と記されている白い馬に乗った方で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 先主日と先々主日には13節に、

 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。

と記されている中で、栄光のキリストが「血に染まった衣をまと」っていたと言われているときの「」が誰の血であるかについてお話ししました。
 お話ししたことをまとめますと、この「」は、イエス・キリストが十字架の上で流された血であるという見方、殉教者たちの血であるという見方、そして、栄光のキリストに敵対している者たちの血であるという見方があります。一般的には、この「」はイエス・キリストが十字架の上で流された血であるという見方と、栄光のキリストに敵対している者たちの血であるという見方のどちらか、あるいは、その両方という見方が受け入れられています。これに対して、先主日と先々主日には、この「」はこれら三つの見方が示している血、すなわち、イエス・キリストが十字架の上で流された血、殉教者たちの血、栄光のキリストに敵対している者たちの血のすべてを表していると考えられるということをお話ししました。
 今日は、一つのことを補足して、それと関連することをお話しします。
 この「」は栄光のキリストに敵対している者たちの血であるというよりは、イエス・キリストが十字架の上で流された血のことであるという見方を取る方々は、13節で、

 その方は血に染まった衣をまとい、その名は「神のことば」と呼ばれていた。

と言われている段階では「その方」はまだ最終的なさばきを執行していないので、ご自身に敵対している者たちの血は流されていないということを指摘しています。
 けれども、これについては次のように考えることができます。
 まず確認しておきたいことは、ここで、

 その方は血に染まった衣をまとい

と言われているときの「」はどの理解を取るとしても、黙示文学的な表象であるということです。
 そして、先主日にお話ししたように、黙示録19章13節で、

 その方は血に染まった衣をまとい、

と言われていることは、先ほど引用した15節の後半で、

 また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と言われていることにつながっています。そして、

 また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのは、この方である。

と言われていることには、イザヤ書63章3節に、

 わたしはひとりでぶどう踏みをした。
 諸国の民のうちで、
 事をともにする者はだれもいなかった。
 わたしは怒って彼らを踏み、
 憤って彼らを踏みにじった。
 彼らの血の滴りは
 わたしの衣にはねかかり、
 わたしの装いをすっかり汚してしまった。

と記されていることが背景となっていると考えられます。
 それで、黙示録19章13節で、

 その方は血に染まった衣をまとい、

と言われているのは、この方がイザヤ書63章3節に記されている預言のみことばを成就する方であることを示すものです。この意味での「」は、メシアすなわち栄光のキリストに敵対している者たちの血を表象的に表すものであるということになります。
 このように言うと、この「」は栄光のキリストに敵対している者たちの血であって、栄光のキリストが十字架の上で流された血ではないのではないかと問われるかも知れません。実際に、このようなことから、この「」は栄光のキリストに敵対している者たちの血であって、栄光のキリストが十字架の上で流された血ではないと主張しておられる方々がいます。
 けれども、先主日にお話ししたように、イザヤ書63章3節に記されている「」の民に敵対し、彼らを苦しめている者たちへのさばきの執行は、古い契約の下での「地上的なひな型」として、霊的な戦いにおいて「」に敵対している暗闇の主権者であるサタンとその霊的な子孫に対するさばきを指し示しています。そして、イザヤ書63章3節の文脈ばかりでなく、イザヤ書全体の文脈からも、「」のさばきは、国々の民の中から「」の贖いの御業にあずかって罪を贖われた「」の民が、罪によって人々を支配している暗闇の主権者の支配の下から贖い出されて、「」の御許に集められるようになるためのものです。
 また、新約聖書も、先主日に引用したヘブル人への手紙2章14節ー15節に、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されているように、「」が暗闇の主権者であるサタンの主権を打ち砕いてしまわれたのは、そして、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださる」ようになったのは、人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって、私たちご自身の民の罪をまったく贖ってくださったことに基づいています。そして、この私たちご自身の民の罪の贖いが、最終的に、「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」てしまうことへとつながっていきます。
 一見すると、これはおかしなことと思われます。というのは、「」が「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」てしまうのは、サタンが「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったうえに、常に「」に敵対して罪を犯していることによっています。それで、私たち「」の民の罪が贖われることは、サタンが最終的にさばかれ、滅ぼされることとはかかわりがないことのように思われるからです。
 確かに「」は、サタンがご自身に対して犯した罪に対するさばきを執行されて、サタンを滅ぼされます。しかし、「」が啓示してくださったみこころによれば、「」はご自身の民の罪を贖って、ご自身の民をサタンの主権の下から解放されることがないままで、サタンに対する最終的なさばきを執行されることはありません。その意味で、私たち「」の民の罪が贖われることと、サタンが最終的にさばかれ、滅ぼされることは切り離しがたく結びついています。


 このことを理解するための鍵は、このことが霊的な戦いの中で起こっているということにあります。
 このことが霊的な戦いの中で起こっているということは、ヘブル人への手紙2章14節ー15節に、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されているみことばの文脈にも示されていますので、そのことについてお話しします。
 ヘブル人への手紙2章5節ー18節には、

 というのも、神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではないからです。ある箇所で、ある人がこう証ししています。
 「人とは何ものなのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたがこれを顧みてくださるとは。
 あなたは、人を御使いよりも
 わずかの間低いものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。」
神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。
 「わたしは、あなたの御名を兄弟たちに語り告げ、
 会衆の中であなたを賛美しよう。」
また、
 「わたしはこの方に信頼を置く」
と言い、さらに、
 「見よ。わたしと、神がわたしに下さった子たち」
と言われます。そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。当然ながら、イエスは御使いたちを助け出すのではなく、アブラハムの子孫を助け出してくださるのです。したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。

と記されています。
 今お話ししていることと関連することしか取り上げることができませんが、5節において、

 神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではない

と言われているときの「来たるべき世」は、1章3節において、

 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。

と言われているように、「神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられ」る御子イエス・キリストが、十字架の死によって私たちご自身の民の罪をきよめてくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、「いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれ」て、そこから約束の御霊を注いでくださり、御霊によってご自身の民を治めてくださっていることによって、すでに始まっています。私たちは今すでに、この「来たるべき世」に属するものとして、御霊によって導かれて歩んでいます。そして、この「来たるべき世」は、終わりの日に栄光のキリストが再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地として完成します。
 2章5節では、神さまはこの「来たるべき世」を「御使いたちに従わせたのではない」と言われています。そして、続く6節ー8節前半には、

ある箇所で、ある人がこう証ししています。
 「人とは何ものなのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたがこれを顧みてくださるとは。
 あなたは、人を御使いよりも
 わずかの間低いものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。」

と記されています。これは、詩篇8篇4節ー6節の七十人訳[ヘブル語聖書のギリシア語訳]の引用です。

 あなたは、人を御使いよりも
 わずかの間低いものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われているのは、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを指しています。それも、その前の部分で、

 人とは何ものなのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたがこれを顧みてくださるとは。

と言われているように、神さまが人に注いでくださっている思いの深さに対する驚きと感謝とともに告白されています。これは、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが、神さまの一方的な愛と恵みによっているということを意味しています。
 また、このことがこの詩篇8篇に記されているということは、創造の御業において神さまが神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命が、人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも取り消されてはいないことを示唆しています。そのことは、ヘブル人への手紙2章8節後半で、

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

と言われていることにおいてよりはっきりと示されています。
 ここでは、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を人にお委ねになったのに、そのことが「今なお」完全には実現していないと言われています。言うまでもなく、その原因は、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことにあります。
 そして、人が、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことには、最初の女性であるエバを誘惑した「蛇」を用いて働いていたサタンがかかわっています。そのことは、ここでは記されていませんが、底流として流れています。それが、先ほど引用した14節ー15節に、

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

と記されていることにおいて表面に出てきています。
 神さまが神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命は、人が、神さまが注いでくださっている愛と恵みを受け止め、神さまを愛して礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命です。神のかたちの本質的な特質は愛です。それで、神さまを礼拝することを中心とした神さまとの愛の交わりこそが、神のかたちとして造られている人にとってのいのちの本質です。また、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人にとっては、愛のうちを歩むことは最も自由なことであり、自然なことです。ですから、人は、神さまが注いでくださっている愛と恵みを受け止め、神さまを愛して礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命を果たすとき、人としてのいのちを充足させ、真に自由であることができます。
 ところが、人は神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによってこのいのちと自由を失い、死の力に捕らえられてしまいました。それによって「死の力を持つ者、すなわち、悪魔」が人を「死の恐怖によって一生涯奴隷として」拘束するようになりました。言い換えますと、人は罪によってサタンと一体に結ばれてしまい、サタンとともにさばきを受けて滅ぼされるべきものとなってしまったのに、罪の闇の中にあるために、自分が罪の力に縛られてしまっていることに気づかないままに、死と滅びに至る道を歩むものとなってしまったのです。
 そうではあっても、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになり、それに必要なさまざまな能力を与えてくださっていることには変わりがありません。変わったのは、そのような使命を委ねられている人が造り主である神さまを愛して礼拝することを中心とした歴史と文化を造ることがなくなってしまったことです。人は自らの罪を現す歴史と文化を造り出すようになってしまいました。それによって、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに示されているみこころの実現が阻止されてしまいました。
 それでも、ヘブル人への手紙2章5節に「神は、私たちが語っている来たるべき世を、御使いたちに従わせたのではない」と記されているように、そして、6節ー7節に、

ある箇所で、ある人がこう証ししています。
 「人とは何ものなのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とはいったい何ものなのでしょう。
 あなたがこれを顧みてくださるとは。
 あなたは、人を御使いよりも
 わずかの間低いものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。」

と記されているように、神さまは創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人にお委ねになった歴史と文化を造る使命を取り消されることはありませんでした。人はだめになってしまったから御使いたちに委ねようとされることはなかったのです。
 そのことは、すでに、創世記3章15節に、

 わたしは敵意を、おまえと女の間に、
 おまえの子孫と女の子孫の間に置く。
 彼はおまえの頭を打ち、
 おまえは彼のかかとを打つ。

と記されている「最初の福音」に示されています。これは「蛇」を用いて最初の女性エバを誘惑して「成功した」サタンに対するさばの宣告です。
 サタンのはかりごとは「肉を切らせて骨を断つ」というものでした。サタンは自分が神さまに敵対しており、神である「」のさばきを受けて滅ぶべきものであることを知っています。それでも、何とか神さまのみこころの実現を阻止しようとして働いています。それで、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人を神である「」に背かせました。それによって人が自分とともにさばきを受けて滅びてしまえば、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになった、神さまのみこころが実現することを阻止できると考えたのです。
 しかし、神である「」は、罪によってサタンと一体に結ばれてしまった「女」とサタンの間に「敵意」を置いて、「女」とサタンの一体性を断ち切るとともに、その「敵意」が「女の子孫」とサタンの霊的な子孫との間にも受け継がれていくようにされました。それによって、霊的な戦いにおいて、「女」と「女の子孫」の共同体が神である「」の側に立つようになります。それは「女」と「女の子孫」の共同体が神である「」の民となることを意味しています。そして、神である「」は、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきを執行されることを宣告されました。
 ヘブル人への手紙2章では、8節に、

神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。

と記されていることに続いて、9節前半に、

ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。

と記されています。ここで、イエス・キリストのことが「御使いよりもわずかの間低くされた」[完了時制}と言われているのは、時制は違いますが、同じことばを用いて7節で、

 あなたは、人を御使いよりも
 わずかの間低いものとし、

[不定過去時制]と言われていることを受けていて、イエス・キリストが神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人となって来られたことを意味しています。イエス・キリストは最初に造られた時のアダムと同じ神のかたちとしての栄光をもつ人として来てくださいました。
 そして、9節後半には、

イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

と記されています。ここに出てくる「死の苦しみ」や「死を味わわれた」[このことばが最後に出てきます]ということは、その死が大きな苦しみを伴うものであったこと、すなわち十字架の死であったことを示しています。その死は「最初の福音」に示されていたように、「神の恵みによって」私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、神の子どもとしてくださるための死でした。続く10節に、

多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。

と記されているとおりです。
 このように、イエス・キリストは最初に造られた時のアダムと同じ神のかたちとしての栄光をもつ人として来てくださり、十字架の死に至るまで神さまのみこころに従いとおされて「栄光と誉れの冠を受けられました」。それで、このイエス・キリストが受けられた「栄光と誉れの冠」は、最初に造られた時のアダムと同じ神のかたちとしての栄光より一段と高く豊かな栄光です。それが復活の栄光です。
 ここでこの栄光のことが詩篇8篇5節の「栄光と誉れの冠」と呼ばれていることは、「栄光と誉れの冠」が最初に造られた時のアダムと同じ神のかたちとしての栄光と同じ栄光であることを示すためではありません。詩篇8篇4節ー6節では、この「栄光と誉れの冠」は神のかたちとして造られた人が歴史と文化を造る使命を果たす権威を与えられたこととかかわっています。それで、この場合も、「栄光と誉れの冠」をお受けになったイエス・キリストが、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たしておられることを意味しています。そして、10節の初めで、

 多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して完全な者とされた

と言われていることは、私たちご自身の民が、イエス・キリストが受けられた「栄光と誉れの冠」にあずかることを意味しています。それはまた、私たち「」の民が「かしら」であるイエス・キリストとの一体にあって、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすものとされていることを意味しています。
 このようにして、サタンに対するさばきの宣告として与えられた「最初の福音」において示されていた神である「」のみこころは実現し、サタンに対するさばきが執行されると同時に、「神の恵みによって」暗やみの主権者であるサタンの主権の下から贖い出されて「」の民とされた人々が、「かしら」であるイエス・キリストとの一体にあって、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすようになるのです。
 そのことは、今すでに、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊によって導かれて歩んでいる私たち「」の契約の民の間に実現していますが、新しい天と新しい地において完全な形で実現するようになります。それは、神さまが創造の御業において示されたみこころが、御子イエス・キリストにあって完全に実現することを意味しています。


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