黙示録講解

(第345回)


説教日:2018年7月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(98)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼[勝利を得る者]は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼ら[諸国の民]を治める。

という約束のみことばと関連して、19章15節に、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

と記されているみことばについてのお話を続けます。
 ここに出てくる「この方」は11節に、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる

と記されている中に出てくる白い馬に乗った方で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 先主日には13節に、

 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

と記されている中で、栄光のキリストが「血に染まった衣を着て」いたと言われているときの「」が誰の血であるかについてお話ししました。
 先主日にお話ししたように、この「」は、イエス・キリストが十字架の上で流された血であるという見方、殉教者たちの血であるという見方、そして、栄光のキリストに敵対している者たちの血であるという見方があります。そして、一般的には、この「」はイエス・キリストが十字架の上で流された血であるという見方と、栄光のキリストに敵対している者たちの血であるという見方のどちらか、あるいは、その両方という見方が受け入れられています。殉教者たちの血であるという見方は、文脈に合わないとされて、ほとんど支持されてはいません。
 これに対して、先主日は、この「」はこれら三つの見方が示している血、すなわち、イエス・キリストが十字架の上で流された血、殉教者たちの血、栄光のキリストに敵対している者たちの血のすべてを表しているのではないかということをお話ししました。そして、そのために、黙示録の中では、主が救いとさばきの御業を遂行されることと、ご自身の民の血が流されたこと、すなわち、殉教者たちの血が流されたことが深くかかわっているということをお話ししました。
 先主日はおもに、殉教者たちの血のことに注目しました。今日は、この「」が栄光のキリストに敵対している者たちの血であるという見方と.、イエス・キリストが十字架の上で流された血であるという見方にかかわることをお話しします。


 ここで、栄光のキリストが「血に染まった衣」を着ていたと言われていることは、一般的に、いま取り上げている15節に、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

と記されている中に出てくる、

 この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

ということと結びつけられて理解されています。そして、

 この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

ということはイザヤ書63章3節に、

 わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。
 国々の民のうちに、
 わたしと事を共にする者はいなかった。
 わたしは怒って彼らを踏み、
 憤って彼らを踏みにじった。
 それで、彼らの血のしたたりが、
 わたしの衣にふりかかり、
 わたしの着物を、すっかり汚してしまった。

と記されていることが背景となっていると考えられます。
 これは、63章1節ー6節に記されているみことばの一部です。1節ー6節には、

 「エドムから来る者、
 ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。
 その着物には威光があり、
 大いなる力をもって進んで来るこの者は。」
 「正義を語り、
 救うに力強い者、それがわたしだ。」
 「なぜ、あなたの着物は赤く、
 あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
 「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。
 国々の民のうちに、
 わたしと事を共にする者はいなかった。
 わたしは怒って彼らを踏み、
 憤って彼らを踏みにじった。
 それで、彼らの血のしたたりが、
 わたしの衣にふりかかり、
 わたしの着物を、すっかり汚してしまった。
 わたしの心のうちに復讐の日があり、
 わたしの贖いの年が来たからだ。
 わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、
 いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。
 そこで、わたしの腕で救いをもたらし、
 わたしの憤りを、わたしのささえとした。
 わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、
 憤って彼らを踏みつぶし、
 彼らの血のしたたりを地に流した。」

と記されています。
 ここでは、「エドムから来る者」のことが記されています。エドムは死海の南側にある地域の地名です。アブラハムの子はイサクですが、そのイサクには双子の子があり、兄がエサウで弟がヤコブです。エドムは兄のエサウが住んでいた地です。「エドム」ということば(エドーム)は「赤い」を意味しています。エサウの誕生のことを記している創世記25章25節ー26節には、

最初に出て来た子は、赤く[アドモーニー]て、全身毛衣のようであった。それで、彼らはその子をエサウと名づけた。

と記されています。
 弟のヤコブは後に、「」から「イスラエル」という名を与えられます(創世記32章28節、35章10節)。ヤコブの子孫が民族としてのイスラエルとなり、兄のエサウの子孫が民族としてエドム人になります。その意味ではイスラエルとエドムはその先祖が兄弟関係にあります。しかし、「」の御手によってエジプトの奴隷の状態から贖い出されて約束の地に向かって旅をしていたイスラエルの民がエドムの地を通ることを願ったとき、エドムの王は大軍勢を率いて出てきて、その願いを退けました(民数記20章14節ー21節)。この事例に見られるようにイスラエルとエドムは友好的ではなく、むしろ敵対する関係にありました。
 ダビデの時代にイスラエルはエドムを支配するようになりました。しかし、ダビデの子ソロモンがさまざまな偶像を礼拝する罪を犯したために「」はソロモンに敵対する者たちを起こされましたが、その中に、エジプトの支援を受けたエドム人ハダデがいました。ソロモンの死後、イスラエルは北王国イスラエルと南王国ユダに分裂しました。その後も、エドムは南王国ユダの支配下にありましたが、独立しては、支配下に置かれ、また独立するというように、その関係は敵対的なものでした。後に、ユダ王国の王たちが「」に背いて偶像の神々に仕えて、「」のさばきを招き、バビロン軍がユダとエルサレムを攻撃したとき、エドムはユダの人々を攻めて、略奪するようになります。「」はこのことのゆえにエドムをおさばきになります(詩篇137篇7節、エゼキエル書25章12節ー14節、35章[「セイル」はエドムの別名]、36章5節)。
 これらのことは、血肉のつながりでは、イスラエル人もエドム人もアブラハムの子孫ですが、そのすべてが契約の神である「」ヤハウェを礼拝するまことのアブラハムの子孫であるわけではないことを示しています。それは、さらに、血肉のつながりでは、アブラハムの子孫であり、ヤコブの子孫であっても、そのすべてが「」ヤハウェを礼拝するまことのアブラハムの子孫であるわけではないということをも意味することになります。ローマ人への手紙2章28節ー29節に、

外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。

と記されているとおりです。また、ガラテヤ人への手紙3章6節ー9節には、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と記されています。
 このイザヤ書63章1節で「エドムから来る者」のことが記されていますが、この場合の「エドム」は「」の民に敵対して、彼らを苦しめた「国々の民」を代表的に表しています。そのことは、イザヤ書の中では、すでに、「」が「「」の民に敵対して彼らを苦しめた諸国の民をおさばきになることを記している34章において見られることです。

 このように、「エドム」は「」の民に敵対して、彼らを苦しめた「国々の民」を代表的に表しています。お話を進める前に、一つのことを確認しておきます。それは、みことばは、血肉のつながりにおいてエサウの子孫である「エドム」人のすべてが、「」のさばきにあって滅びるわけではないということも示しているということです。アモス書9章11節ー12節には、「」がアモスをどおして語られたみことばが、

 その日、わたしは
 ダビデの倒れている仮庵を起こし、
 その破れを繕い、その廃墟を復興し、
 昔の日のようにこれを建て直す。
 これは彼らが、エドムの残りの者と、
 わたしの名がつけられた
 すべての国々を手に入れるためだ。
 ――これをなされるの御告げ――

と記されています。
 ここには、「その日」すなわち、終わりの日に、「」がダビデに与えられた契約、ダビデ契約において約束されたダビデの永遠の王座を確立される時のことが記されています。先ほどお話ししましたように、古い契約の「地上的なひな型」としての意味をもっていたダビデとソロモンとその後のユダ王国の王たちは、血肉の力である武力をもってエドムを征服し、支配していました。また、エドムも同じく血肉の力である武力をもってユダ王国の王たちに敵対していました。しかし、ここでは、「」がご自身の契約に基づいて確立されるダビデの永遠の王座に着座されるまことのダビデの子、すなわちメシアが、(聖書が繰り返し示していることですが)血肉の力によってではなく御霊によって、治めるようになる時には、「エドムの残りの者」と「」の御名がつけられた「すべての国々」の民がメシアの国の民とされるようになることが示されています。
 注目すべきことに、この場合も、「エドムの残りの者」が「」の御名がつけられた「すべての国々」の民、すなわち、「」の贖いの恵みによって「」の民とされる国々の民たちを代表する形で表されています。
 それは、「」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束を記している創世記12章3節に、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と記されていることが成就するということを意味しています。さらにそれは、先ほど引用した、ガラテヤ人への手紙3章6節ー9節に、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と記されていることが成就するようになるということでもあります。ガラテヤ人への手紙3章では、さらに、13節ー14節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。
 このようなこと覚えながら、イザヤ書63章1節ー6節に記されていることに戻りましょう。
 1節前半には、

 エドムから来る者、
 ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。
 その着物には威光があり、
 大いなる力をもって進んで来るこの者は。

という問いかけが記されています。
 ここで「エドム」は「」の民に敵対して苦しめた「国々の民」を代表するものとして表されています。また、「エドム」ということばは「赤い」ということを意味しています。そして、

 ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。

と言われているときの「ボツラ」はエドムの首都で、ここでは並行法で「エドム」を表しています。この方は「深紅の衣を着て」おられます。ここで「深紅の」と訳されていることば(ハームーツ)は旧約聖書の中ではここだけに出てくることばで、2節で、

 なぜ、あなたの着物は赤く、
 あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。

と言われていることから、「あなたの着物は赤く」の「赤い」と同じことを表していると考えられます。また、ここ2節で、

 なぜ、あなたの着物は赤く、

と言われているときの「赤い」ということば(アードーム)は「エドム」ということば(エドーム)と子音字が同じで、意味においても音声においても類似していて、「ことばあそび」でつながっています。
 また、ここでは、この方の着物が赤いことが「酒ぶねを踏む者」の衣が、ぶどうの汁で赤く染まることにたとえられています。「酒ぶねを踏む」ことは、さばきが執行されることを表象的に示しています。先主日も引用した、ヨエル書3章13節に、

 かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。
 来て、踏め。
 酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。
 彼らの悪がひどいからだ。

と記されています。また、哀歌1章15節にも、

 主は、私のうちにいたつわものをみな追い払い、
 一つの群れを呼び集めて、
 私を攻め、
 私の若い男たちを滅ぼされた。
 主は、酒ぶねを踏むように、
 おとめユダの娘を踏みつぶされた。

と記されています。
 イザヤ書63章3節には、この方が2節の、

 なぜ、あなたの着物は赤く、
 あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。

という問いかけに答えて、

 わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。
 国々の民のうちに、
 わたしと事を共にする者はいなかった。
 わたしは怒って彼らを踏み、
 憤って彼らを踏みにじった。
 それで、彼らの血のしたたりが、
 わたしの衣にふりかかり、
 わたしの着物を、すっかり汚してしまった。

と言われたことが記されています。
 ここでは、この方がお一人でさばきを執行されたことが示されています。
 同じようなことは、救いの御業のことですが、59章15節後半ー16節に、

 はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。
 主は人のいないのを見、
 とりなす者のいないのに驚かれた。
 そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、
 ご自分の義を、ご自分のささえとされた。

と記されています。
 救いの御業もさばきの御業も、最終的には、「」ご自身が成し遂げられることであり、執行されることです。

 ここにはもう一つ注目すべきことがあります。
 この方について、1節前半では、

 エドムから来る者、
 ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。

と言われた後、

 その着物には威光があり、
 大いなる力をもって進んで来るこの者は。

と記されています。

 その着物には威光があり

ということは、この方が王であることを表し、

 大いなる力をもって進んで来る

ということは、戦いを終えて凱旋するように進んで来ることを表していると考えられます。この方は王として、「エドム」においてさばきを執行されてから、凱旋するように進んで来たので、その衣は「深紅」に染まっていたということになります。
 注目したいのは、1節前半の問いかけに対して、この方が、

 正義を語り、
 救うに力強い者、それがわたしだ。

と答えておられることです。
 この「それがわたしだ」という言い方は(「アニー」と分詞[メダッベール「語る」]の組み合せで「アニー・フー」ではありませんが)、神である「」がご自身を示される時の言い方を思わせます。
 このみことばは、今お話ししていることとのかかわりで、大切な意味をもっています。というのは、ここでは「エドム」によって代表的に示されている、「」の民に敵対して苦しめている「国々の民」に対するさばきが記されているのですが、そのさばきが、「」の民の救いのために執行されるということを示しているからです。このことは、4節に、

 わたしの心のうちに復讐の日があり、
 わたしの贖いの年が来たからだ。

と記されていることや、5節後半に、

 そこで、わたしの腕で救いをもたらし、
 わたしの憤りを、わたしのささえとした。

と記されていることにも表されています。
 さらには、この63章に先立つ60章ー62章全体が「」の民の贖いと回復のことを記しています。さらに、63章においても、この1節ー6節に続く、7節ー14節では、「」の一方的な恵みの豊かさへの讃美とともに、「」の贖いの御業の歴史をとおして示された「」の一方的な恵みが告白されています。それも、イスラエルの民の不真実、不信仰にもかかわらず示された恵みです。
 そして、15節ー19節では、そのような「」の恵みを告白しつつ、「」の民の罪がもたらした現実の厳しさの中で、なお「」の恵みに信頼して、「」の民のためにとりなしの祈りをしています。
 このように、63章1節ー6節に記されている、「エドム」によって代表的に示されている、「」の民に敵対して苦しめている「国々の民」に対するさばきは、「」の贖いの御業の歴史をとおして示された「」の一方的な恵みへの告白と信頼と、その恵みによる回復への望みの中で示されています。
 そればかりでなく、より大きなイザヤ書全体の流れの中でも、「」の救いの御業とさばきの御業が、すべての国々の民を視野に入れて遂行されています。これまでさばきの御業のことを取り上げてきましたので、救いの御業の事例をいくつか取り上げます。
 2章2節ー4節には、

 終わりの日に、
 の家の山は、山々の頂に堅く立ち、
 丘々よりもそびえ立ち、
 すべての国々がそこに流れて来る。
 多くの民が来て言う。
 「さあ、の山、ヤコブの神の家に上ろう。
 主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。
 私たちはその小道を歩もう。」
 それは、シオンからみおしえが出、
 エルサレムからのことばが出るからだ。
 主は国々の間をさばき、
 多くの国々の民に、判決を下す。
 彼らはその剣を鋤に、
 その槍をかまに打ち直し、
 国は国に向かって剣を上げず、
 二度と戦いのことを習わない。

と記されています。
 56章6節ー7節には、

また、に連なって主に仕え、の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。

と記されています。
 66章18節ー21節には、

わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、弓を引く者ルデ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る」とは仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れての宮に携えて来るのと同じである。わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする」とは仰せられる。

と記されています。そのほか、11章10節、12章4節ー5節、42章1節ー13節、45章14節、49章22ー23節、51章4節ー5節、52章10節、60章1ー16節などを見てください。
 このように、イザヤ書においては「」の贖いの御業がすべての国々を視野において記されています。その御業は国々の民の中からアブラハム契約の祝福にあずかる「」の民が「」の御許に集められるようになるというのです。
 63章3節に記されている「」の民に敵対して苦しめている者たちへのさばきの執行は、古い契約の下での「地上的なひな型」として、霊的な戦いにおいて「」に敵対している暗闇の主権者であるサタンとその霊的な子孫に対するさばきを指し示しています。そのさばきは、国々の民の中から「」の贖いの御業にあずかって罪を贖われた「」の民が、罪によって人々を支配している暗闇の主権者の支配の下から贖い出されて、「」の御許に集められるようになるためのものです。それは、コロサイ人への手紙1章13節ー14節に、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されていることにおいて成就しています。また、ヘブル人への手紙2章14節ー15節にも、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。
 これらのことから、「」のさばきの御業は「」の贖いの御業と切り離し難くかかわっていることが分かります。イエス・キリストが「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放して」くださったのは、その十字架の死によって「」の民の罪を贖ってくださったことによっています。その意味で、終わりの日に再臨されてさばきを執行される栄光のキリストが着ていた「血に染まった衣」の「」は、栄光のキリストに敵対している者たちの血であるとともに、ご自身が十字架の上で血をも表していると考えられます。


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