黙示録講解

(第344回)


説教日:2018年7月22日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(97)


 黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼[勝利を得る者]は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼ら[諸国の民]を治める。

という約束のみことばと関連して、19章15節に、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

と記されているみことばについてのお話を続けます。
 ここに出てくる「この方」は11節で、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる

と言われている、白い馬に乗った方で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 先主日と先々主日には、この11節に続く12節に、栄光のキリストのことが、

その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。

と記されていることについてお話ししました。今日は、はそれに続いて13節に、

 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

と記されていることについてお話しします。
 ここでは、栄光のキリストが「血に染まった衣を着て」いたことが記されています。
 この場合の「」が誰の血であるかについては、イエス・キリストが十字架の上で流された血であるという見方、殉教者たちの血であるという見方、そして、栄光のキリストに敵対している者たちの血であるという見方があり、それぞれに言い分があります。
 一般的には、この「」はイエス・キリストが十字架の上で流された血であるという見方と、栄光のキリストに敵対している者たちの血であるという見方のどちらか、あるいは、その両方という見方が受け入れられています。殉教者たちの血であるという見方は、文脈に合わないとされて、ほとんど支持されてはいません。
 私は、この「」はこれら三つの見方が示している血、すなわち、イエス・キリストが十字架の上で流された血、殉教者たちの血、栄光のキリストに敵対している者たちの血のすべてを表しているのではないかと考えています。
 そのことをお話しするために、黙示録の中で、これらの血について記されている個所を見てみましょう。


 イエス・キリストの血に触れている個所は、次のようになっています。
 1章5節後半ー6節前半には、

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

と記されています。
 5章9節ー10節には、天における礼拝においてささげられている、小羊への讃美が、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

と記されています。
 7章14節ー15節には、天において御座と小羊の前に立って礼拝している白い衣を着ている人々について、

彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。

と記されています。
 12章11節には、サタンとその使いたちが天における霊的な戦いに破れて地に投げ落とされたことを受けて、地にある聖徒たちのことが、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。
 ここで、

 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と言われていることは、続く12節に、

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。

と記されている、霊的な戦いにおいて「地」に住む主の民が置かれている厳しい状況を反映しています。このように、

 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と言われていることは、次に取り上げる、殉教者たちの血へとつながっていきます。
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 殉教者たちの血に触れている個所は、次のようになっています。
 6章9節ー11節には、

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。

と記されています。
 先ほど触れた、

 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と言われている人々は、ここに出てくる「私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」の中に加えられていきます。
 いまお話ししていることとのかかわりで特に注目したいのは、ここに出てくる殉教者たちは、

聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。

と叫んでいるということです。
 これは、ルカの福音書23章34節に記されている、十字架につけられたイエス・キリストが、

 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

と祈られたことと矛盾するものではありません。イエス・キリストは、私たちの罪を贖ってくださるためにご自身が十字架におかかりになって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。それによって、神さまの義が立てられ、現されているのです。ローマ人への手紙3章25節に、

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。

と記されているとおりです。神さまの義に反して、私たちの罪が赦されることはありえません。ですから、イエス・キリストが、

 父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

と祈られたときの罪の赦しは、「彼ら」が自分のしたことを知るようになり、その罪を悔い改めて、自分のために十字架にかかってくださったイエス・キリストを信じるようになることによっています。
 黙示録6章9節ー11節に出てくる殉教者たちは自分たちの恨みを晴らすことではなく、神さまの義が立てられ、現されることを求めています。その根底には、ローマ人への手紙12章19節に記されている、

愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

という教えがあります。今なお「地」に住んでいて、霊的な戦いの状況にある私たち主の民は、これに続いて20節ー21節に記されている、

もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

という教えを心に刻む必要があります。そして、その人々のためにとりなし祈るよう召されています(マタイの福音書5章44節「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」)。
 実際、「何をしているのか自分でわからない」まま、主の民を激しく迫害していたパウロは、栄光のキリストと出会って、福音の奉仕者に変えられました。これは、今なお「地」に住んでいる者たちの間での霊的な戦いにおける勝利の事例です。その意味で、パウロの迫害によって流された聖徒たちの血に対する霊的な報復もなされているのです。
 黙示録に戻りますが、16章4節ー6節には、

第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「今いまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」

と記されています。
 ここで、

 第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。

と言われていることは、出エジプト記7章19節ー21節に、

 主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。
 あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」モーセとアロンはが命じられたとおりに行った。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。

と記されている、エジプトに対する「」のさばきが執行されたことを背景としています。
 また、黙示録16章6節で、

 彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。

と言われているときの「彼ら」は2節に出てくる「獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々」です。ここで、

 彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。

と言われているのは、「彼ら」が文字通り「聖徒たちや預言者たちの血」を飲んだと言う意味ではありません。これに続いて、

 彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。(直訳「彼らはふさわしい」)

と言われているように、主が「彼ら」にいわゆる「同害刑法(レクス・タリオニス)」[注 その例は、出エジプト記21章24節ー25節に「目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」と記されています。私たちの主は、マタイの福音書5章38節ー39節において「「目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と教えておられます。]によるさばき、すなわち、公正なさばきを執行されたということです。
 黙示録17章6節には、「『すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン』という名」の「女」のことが、

 そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。

と記されています。
 また、18章24節には、「大バビロン」に対するさばきが執行されたことを受けて、「ひとりの強い御使い」が言ったことばの最後の部分が、

 また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。

と記されています。
 そして、これに続く19章1節ー2節には、

この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。
 「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」

と記されています。
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 栄光のキリストに敵対している者たちの血に触れている個所は、14章20節です。18節ー20節には、

すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。

と記されています。
 ここには「地のぶどう」の収穫のことが記されています。これは、19節で、

そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。

と言われているように、神さまのさばきが執行されることを示しています。「地のぶどう」は、これに先立って9節と11節に記されている「獣とその像とを拝む者」「獣の名の刻印を受ける者」のことです。
 ここに記されているさばきには、旧約聖書の背景があります。それは、ヨエル書3章13節に、

 かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。
 来て、踏め。
 酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。
 彼らの悪がひどいからだ。

と記されているみことばです。
 20節では、

その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。

と言われています。ここで、

 その酒ぶねは都の外で踏まれた

と言われているときの「酒ぶね」は19節で「神の激しい怒りの大きな酒ぶね」と言われています。それで「踏まれた」(パテオーの不定過去時制・受動態)の受動態はいわゆる「神的受動態」で、それを踏むのは神さまですが、より具体的には、19章15節に、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

と記されていて、栄光のキリストがその「神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる」ことが示されています。
 14章20節で、

 その酒ぶねは都の外で踏まれた

と言われているときの「」は冠詞がついている「その都」で、人々がよく知っている「」、すなわち、エルサレムのことです。この「都の外で」ということは、栄光のキリストが「都の外で」十字架にかかってご自身の民の罪を贖うために血を流されたことに対応しています。ヘブル人への手紙13章11節ー12節には、

動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

と記されています。黙示録14章20節で、

 その酒ぶねは都の外で踏まれた

と言われていることは、その栄光のキリストが「都の外で」十字架にかかって流された血による罪の贖いを退ける人々は、栄光のキリストが「都の外で」「神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる」と言われているさばきを、自分自身が受けることになるということを示していると考えられます。
 また、

 血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。

と言われているときの「千六百スタディオン」の「千六百」は象徴的な数字で、4の4倍かける10の10倍から成り立っていると考えられています。「4」は「地の四方」(7章1節、20章8節)とのかかわりで「地」を表し、「10」は完全数です。それで「千六百スタディオン」は「全地あまねく」というような意味合いを伝えています。これによって、「神の激しい怒り」によるさばきが「全地あまねく」例外なく「獣とその像とを拝む者」「獣の名の刻印を受ける者」に対して執行されることを示しています。
 注目したいことがもう二つあります。
 一つは、17節ー18節に、

また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」

と記されていることです。
 ここでは、「火を支配する権威を持ったもうひとりの御使い」が「祭壇から」出てきたと言われています。この場合の「」はさばきを表していて、この御使いは主のさばきの執行にかかわる御使いです。この「火を支配する権威を持ったもうひとりの御使い」が「祭壇から」出てきたということは、先ほど引用した6章9節ー11節に、

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい」と言い渡された。

と記されていることを受けています。つまり、14章17節ー20節に記されている「神の激しい怒り」によるさばきは「祭壇の下にいる」「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」の祈りに応えて執行されるものであることが示されています。6章9節ー11節の段階では、

あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい

という答えがあったのですが、14章17節ー20節においては、その「もうしばらくの間」が満たされて、「地に住む者」たちへのさばきが執行されているのです。
 もう一つ注目したいことは、「獣とその像とを拝む者」「獣の名の刻印を受ける者」に対して「神の激しい怒り」によるさばきが執行されることを記している14章17節ー20節の前の14節ー16節に記されていることです。そこには、

また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。

と記されています。
 ここには「地の穀物」の収穫のことが記されています。これは、イエス・キリストを信じて、その十字架の死による罪の贖いにあずかって、イエス・キリストの民となった人々が、栄光のキリストの御許に集められることを記しています。
 ここで、

 見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた

と言われているときの「白い雲」は主の栄光のご臨在に伴う「」です。この「」に乗っておられる「人の子のような方」は、ダニエル書7章13節ー14節に、

 私がまた、夜の幻を見ていると、
  見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、
  年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。
  この方に、主権と光栄と国が与えられ、
  諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、
  彼に仕えることになった。
  その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、
  その国は滅びることがない。

と記されているメシア、すなわち、栄光のキリストのことです。
 マタイの福音書9章37節ー38節には、御国の福音を宣べ伝えておられたイエス・キリストが弟子たちに、

収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

と言われたことが記されています。黙示録14章14節ー16節ではその最終的な「収穫」のことが記されています。ここでは、そのために「人の子のような方」が「地にかまを入れ」たと言われています。
 これは、先ほどお話しした、6章9節ー11節の段階では、

あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい

という答えがあったのですが、その「もうしばらくの間」が満たされて、イエス・キリストを信じて、その十字架の死による罪の贖いにあずかって、イエス・キリストの民となった人々が、栄光のキリストの御許に集められたことを示しています。
<
 これらのみことばを合わせて見ますと、黙示録においては、栄光のキリストがご自身の敵にさばきを執行されることには、殉教者たちの血が流されたことに対する報復としての意味があることが繰り返し示されていることが分かります。それで、19章13節に、

 その方は血に染まった衣を着ていた

と記されているときの「」は、イエス・キリストが十字架の上で流された血や、栄光のキリストに敵対している者たちの血だけでなく、殉教者たちの血をも表していると考えられます。使徒の働き9章4節に記されていますが、栄光のキリストは、ご自身の民を迫害しているパウロにご自身を示されたとき、

 サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか

と語りかけられました。パウロが迫害していたのは、イエス・キリストの民ですが、イエス・キリストは「わたしを迫害」していると言われました。栄光のキリストはご自身の民と一つとなっておられます。
 この「」については、もう少しお話しすることになります。


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