黙示録講解

(第343回)


説教日:2018年7月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(96)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた、

 彼[勝利を得る者]は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼ら[諸国の民]を治める。

というみことばに示されている約束と関連して、19章15節に記されている、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

というみことばについてお話しします。
 ここに出てくる「この方」は11節で、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる

と言われている、白い馬に乗った方で、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 今お話ししているのは、この11節に続く12節に、栄光のキリストのことが、

その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。

と記されていることについてす。
 先主日には、ここで、栄光のキリストの「頭には多くの王冠があった」と言われていることについてお話ししました。今日は、はそれに続いて記されている、

 ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた

ということについてお話しします。
 新改訳の訳からは、なんとなく、「ご自身のほかだれも知らない名」が栄光のキリストの「」か「王冠」に記されているような印象を受けます。けれども、ここには、「この方」すなわち栄光のキリストが「持っている」(エコーン エコーの現在分詞・男性形・単数)ことを表すことばがあります。これを生かして直訳調に訳せば、

 この方はご自身のほかだれも知らない書かれた名をもっていた。

あるいは、

 この方にはご自身のほかだれも知らない書かれた名があった。

となるでしょうか。
 このみことばは、2章17節に記されている、栄光のキリストがペルガモにある教会に語られた約束のみことばに出てくる、

また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。

と記されていることと関連していると考えられます。
 ここでは、「白い石」に書かれている「新しい名」は「それを受ける者のほかはだれも知らない」と言われています。そして19章12節では、栄光のキリストの名は「ご自身のほかだれも知らない名」であると言われています。どちらの場合も、その名は本人の「ほかはだれも知らない」と言われています。
 その点が共通していますが、ここには違いもあります。栄光のキリストがペルガモにある教会に語られた約束のみことばに出てくる、「それ[白い石]を受ける者のほかはだれも知らない、新しい名」は、栄光のキリストが与えてくださる名ですから、その名を与えられた人と、栄光のキリストがその名を知っておられます。これに対して、栄光のキリストの「ご自身のほかだれも知らない名」は、栄光のキリストご自身だけが知っておられる名です。
 聖書の中では、名はその名をもつものの本質的な特質を表しています。「それ[白い石]を受ける者のほかはだれも知らない、新しい名」は、その人固有の人となりを表していると考えられます。そして、栄光のキリストはその人がどのような人であるかを完全に知っていてくださるということになります。
 また、栄光のキリストの「ご自身のほかだれも知らない名」は、栄光のキリストご自身だけが知っておられるのですが、もちろん、それは御使いであれ人であれ、どのような被造物もその名を知らないということで、三位一体の御父と御子と御霊はお互いを完全に知っておられますので、御父と御霊はその名を知っておられます(参照・マタイの福音書11章27節(「父のほかには、子を知る者がない」)。
 この栄光のキリストの「ご自身のほかだれも知らない名」は、「白い石」に書かれている「それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名」と同じように、栄光のキリストに固有の本質的な特質を表していると考えられます。
 栄光のキリストがペルガモにある教会に語られた約束のみことばに出てくる「白い石」に書かれているのは「新しい名」であると言われています。このことは、19章12節にはっきりと記されているわけではありませんが、栄光のキリストの「ご自身のほかだれも知らない名」にも当てはまります。つまり、栄光のキリストの「ご自身のほかだれも知らない名」も「新しい名」であるということです。というのは、私たち「」の契約の民は神のみことばである聖書に記されていることをとおして、イエス・キリストの御名を啓示されて知っているからです。栄光のキリストの「ご自身のほかだれも知らない名」はそれらとは別の名、その意味で「新しい名」です。
 いくつか見方がありますが、一般的には、栄光のキリストの「ご自身のほかだれも知らない名」は、私たちがまったく贖われて栄光のからだによみがえり、新しい天と新しい地において神である「」の栄光の御臨在の御前に立つようになるときに分かるようになる御名のことであると考えられています。私はその可能性を否定するものではありませんが、後ほどお話ししますように、それとは少し違った意味合いがあると考えています。


 「」の御名は、いろいろありますが、「」がどのような方であるかを示すものです。
 何よりも「イエス・キリスト」という名が啓示された御名です。イエス・キリストの誕生の次第を記しているマタイの福音書1章12節には、主の使いがイエス・キリストの父となるヨセフに、

ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

と語ったことが記されています。
 その当時の社会では「イエス」という名前は珍しい名前ではありませんでした。ですから、これは普通の人に付けられる名前です。ピリピ人への手紙2章6節ー7節に、

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

と記されているように、無限、永遠、不変の栄光の神であられる方が、まことの人としての性質を取って来てくださったのです。それで、この方に「イエス」という名がつけられました。
 この「イエス」という名は、ヘブル語の「ヨシュア」という名に当たります。「ヨシュア」という名はヘブル語の「イェホーシュア」あるいは「イェホーシューア」を音訳したものです。この「イェホースシュア」あるいは「イェホーシューア」の短縮形が「イエーシューア」ですが、これがさらに短縮されて「イエーシュー」となりました。これをギリシャ語化した名前が「イエースース」です。この「イエースース」を日本語では「イエス」と音訳しています。
 これは、その当時、普通の人に付けられていた名前ですが、「」の贖いの御業の歴史の中では特別な意味をもっていた名でもあります。
 「ヨシュア」という名は「『』[ヤハウェ]は救い」という意味です。このことは、御使いがヨセフに、

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

と語ったことと関連しています。
 そして、御使いがこの名を告げたことには、単に、「『』[ヤハウェ]は救い」という、その名の一般的な意味がかかわっているだけでなく、古い契約の下における「」の贖いの御業の歴史の中で、この名が特別な意味をもっていたこととがかかわっています。
 古い契約の下での贖いの御業は出エジプトの贖いの御業を原点としています。この贖いの御業は、「」がエジプトの奴隷として苦役に服していたイスラエルの民を、力強い御手をもってエジプトの地から贖い出してくださったことから始まり、イスラエルの民を約束の地へと導き入れてくださったことに至ります。このことは、出エジプト記2章23節ー24節に、

イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。

と記されているように、「」がアブラハム、イサク、ヤコブに与えてくださった契約に基づいてなされたことです。
 「」が「アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」といっても、「」がその契約を忘れておられたということではありません。これは、「」がその契約に基づいてことをなされるようになったということを意味しています。
 「」はモーセをとおして、イスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から贖い出してくださいました。しかし、そのイスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れてくださったのは、モーセの後継者であるヨシュアをとおしてでした。このように、ヨシュアは「」の契約の民が約束の地に入ることと関連しています。
 このことは、モーセの後継者である「ヨシュア」の名前の由来にも関連しています。その名の由来は民数記13章に記されていますが、まず、その時の状況をお話ししますと、イスラエルの民がエジプトを出てから2年目の秋のことであると考えられますが、「」は、イスラエルの民を約束の地であるカナンに導き入れようとしてくださいました。その際に、「」は「パランの荒野のカデシュ」(3節、26節)から、部族ごとに一人の族長を遣わして、カナンの地を探らせました。4節ー15節には、その時に遣わされた族長たちの名前が記されています。その中の8節には、

 エフライム部族からはヌンの子ホセア。

と記されています。そして、族長たちの名前を記している4節ー15節に続く16節には、

以上は、モーセがその地を探らせるために遣わした者の名であった。そのときモーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた。

と記されています。この時、「モーセはヌンの子ホセアをヨシュアと名づけた」のです。「ホセア」という名前は「救い」を意味しています。ですから、「ヨシュア」(「『』[ヤハウェ]は救い」)という名前は、「」がイスラエルの民を約束の地に導き入れてくださるに当たって、そのことを記念するためにつけられた名前です。
 実際には、カナンの地を探って帰ってきた者たちのうち、ヨシュアとカレブ以外の者は、32節ー33節に記されているように、カナンの地の民は強大な者たちで、「自分がいなごのように見えた」と告げました。
 それを聞いたイスラエルの民のことが、14章1節ー4節に記されています。
 彼らは、「」が自分たちをここまで導いてきたのは、自分たちを剣で倒すためだと言いました。それは、出エジプトの贖いの御業は「」の悪意から出ているとすることです。そして、6節ー10節には、ヨシュアとカレブが、それでも「」を信じて、約束の地に入るように説得すると、二人を石で撃ち殺そうとしました。
 「」はそのようなイスラエルの民を滅ぼそうとされましたが、モーセの執り成しを受け入れてくださって、イスラエルの民を存続させてくださいました。しかし、「」は、族長たちがカナンの地を探った日数が40日であったことから、1日を1年と数え、イスラエルの民がエジプトを出てから数えて40年の間、荒野をさまよい、その間に、ヨシュアとカレブ以外の20歳以上の登録された者、荒野のイスラエルの民の第一世代はみな荒野で倒れて死に絶えるというさばきを宣告されました。
 そして、20章1節ー13節に記されていますが、イスラエルの民が荒野をさまよっている間に、ツィンの荒野のカデシュにおいて、飲む水がないということで、先ほどと同じようにモーセとアロンに逆らいました。その時、モーセとアロンは「」がモーセに命じられたとおりにしなかったために、約束の地であるカナンの地に入ることなく「」の御許に召されました。それで、実際に、イスラエルの民をカナンの地に導き入れたのはモーセの後継者であるヨシュアでした。
 このように、ヨシュアは「」がイスラエルの民を約束の地に導き入れてくださるに当たって用いられたしもべです。そして、「ヨシュア」という名前も、そのこととの関わりで、特別な意味をもっている名前です。
 主の使いがヨセフに、

マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

と告げたことの背景には、このような、古い契約の下における「」の贖いの御業の歴史があると考えられます。

 主の使いはヨセフに語りかけるに当たって、

 ダビデの子ヨセフ。

と呼びかけました。これは、ヨセフがダビデ家の家系に属していることを意味しています。そのことは、マタイの福音書1章1節ー17節に記されている「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」にも示されています。その系図の最後を記す16節には、

ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストのことが「キリストと呼ばれるイエス」と言われています。この「キリスト」という名はギリシア語(「クリストス」)ですが、ヘブル語の「メシア」(マーシーァハ)という名に当たります。どちらも、王や祭司たちなど、特定の任務のために「油を注がれた者」を表します。これは一般的なことばですが、やがて、神である「」の民のために贖いの御業を遂行される「メシア」を表すようになりました。この「メシア」は、特に、「」がダビデに与えてくださった契約、ダビデ契約において約束されている「ダビデの子」と結びついています。
 その「」がダビデに与えてくださった契約のことは、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

と記されています。
 ここでは、「」がダビデの子の王国の王座をとこしえに堅く立ててくださることが約束されています。このとこしえに堅く立てられた王座に着座するダビデの子が「メシア」すなわち「キリスト」です。
 メシア詩篇である詩篇2篇には、「主に油をそそがれた者」すなわちメシアが「」に敵対する国々の王たちに対するさばきを執行されることが記されています。1節ー9節には、

 なぜ国々は騒ぎ立ち、
 国民はむなしくつぶやくのか。
 地の王たちは立ち構え、
 治める者たちは相ともに集まり、
 と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
 「さあ、彼らのかせを打ち砕き、
 彼らの綱を、解き捨てよう。」
 天の御座に着いている方は笑い、
 主はその者どもをあざけられる。
 ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、
 燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
 「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。
 わたしの聖なる山、シオンに。」
 「わたしはの定めについて語ろう。
 主はわたしに言われた。
 『あなたは、わたしの子。
 きょう、わたしがあなたを生んだ。
 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。』」

と記されています。
 すでにお話ししてきましたように、この最後の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばが、黙示録2章27節、12章5節、19章14節に引用されています。その際に、黙示録では「打ち砕く」ということばが「牧する」に変えられています。
 また、メシア詩篇である詩篇110篇1節には、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されています。
 ここでは、ダビデ契約に約束されているダビデの子が着座される永遠の王座は、神である「」の「右の座」であることと、「」はダビデの子の敵を、彼の「足台」とされること、すなわち、霊的な戦いにおける最終的な勝利が示されています。
 このメシアについての預言のみことばは、ダビデの血肉の子孫であるユダ王国の王たちの背教により、「」のさばきを招いて王国が滅亡しバビロンの捕囚に遭うようになる状況において、なお、それを超えて、終わりの日における救いと回復の望みを預言した預言者たちによって語られています。たとえば、ユダ王国が滅亡するようになる直前に「」から遣わされた預言者エレミヤのことばを記しているエレミヤ書23章5節ー6節に、

 見よ。その日が来る。
  ――の御告げ――
  その日、わたしは、
  ダビデに一つの正しい若枝を起こす。
  彼は王となって治め、栄えて、
  この国に公義と正義を行う。
  その日、ユダは救われ、
  イスラエルは安らかに住む。
  その王の名は、
  「は私たちの正義」と呼ばれよう。

と記されているみことばに表されています。また、捕囚の地で預言者として召されたエゼキエルのことばを記している、エゼキエル書34章23節ー25節には、

わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。であるわたしがこう告げる。わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をこの国から取り除く。彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。

と記されていますし、37章24節ー27節には、

わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、あなたがたの先祖が住んだ国に住むようになる。そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

と記されています。
 ここで「」はこの方を「わたしのしもべダビデ」と呼んでおられます。ダビデは紀元前一〇一〇年ー九七〇年頃にイスラエルを治めた王ですが、エゼキエルは紀元前五九七年に始まった第二回の捕囚においてバビロンに連れて行かれた民の中の間で預言しました。ですから、この「わたしのしもべダビデ」はダビデ王のことではなく、ダビデ契約に約束されている、「」が堅く立ててくださる永遠の王座に着座されるダビデの子のことです。
 ヨセフがダビデ家の家系に属しているということは、法的にヨセフの子であるイエス・キリストが、このような意味をもっている、ダビデ契約の約束を受け継いでいるということを意味しています。イエス・キリストは背教を重ねて、「」の聖なる御怒りによるさばきを招くに至った南王国ユダの王たち、すなわち、ダビデの血肉の子孫の系列には属しておられません。イエス・キリストは、まさに、御霊によってお生まれになった、まことのダビデの子です。
 主の使いが「ダビデの子ヨセフ」に告げたのは、聖霊によってマリヤの胎に宿られた方は、ご自身の民を「その罪から救ってくださる」方であられるということでした。このことは、聖霊によってマリヤの胎に宿られた方がご自身の民を「その罪から救ってくださる」方であられるということが、神である「」がダビデに与えてくださった契約の約束とかかわっていることを示しています。
 その昔、「」がモーセをとおしてエジプトをおさばきになったことは、「」の民を奴隷として苦しめていたエジプトに対するさばきでした。その意味では、そのさばきはエジプトの罪に対するさばきでした。けれども、それは、「」のさばきをあかしする「地上的なひな型」でしかありません。また、「」が背教を重ねたユダ王国の王たちの罪のゆえに、バビロンの王を用いて、ユダ王国をおさばきになりました。しかし、それも、「」のさばきをあかしする「地上的なひな型」でしかありません。
 「」のさばきは、そのような地上的で一時的なもので終るものではありません。それは、世の終りに神さまがご自身がお立てになったメシアを通して、あらゆる時代のあらゆる人の罪の一つ一つを、ご自身の聖さと義の尺度にしたがって最終的におさばきになることによって執行されるさばきです。
 同じように、イスラエルの民がエジプトの奴隷の状態から贖い出されたのは、神さまがメシアを通して、ご自身の民をお救いくださることをあかしする「地上的なひな型」でしかありません。神さまがメシアを通して成し遂げてくださる救いは、神さまがメシアを通して執行される最終的なさばき、あらゆる時代のあらゆる人の罪の一つ一つに対するさばきから、ご自身の民を救い出してくださり、永遠のいのちに生きるものとしてくださること、そして、終わりの日に、私たちにとっての約束の地である新しい天と新しい地に導き入れてくださることにあります。
 そのために、無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられる方が、まことの人の性質を取って来てくださって、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださったのです。このことこそが、主の使いが「ダビデの子ヨセフ」に告げた、

 この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。

ということの意味です。
 このように、「イエス・キリスト」の御名はイエス・キリストがどのような方であるかを表しています。使徒の働き4章12節には、

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。

と記されています。

 私たちはみことばをとおして啓示されていることから、このようなイエス・キリストの御名を知っており、また、信じています。しかし、それでも、私たちはイエス・キリストのすべてを知っているわけではありません。私たちばかりでなく、神である「」の栄光の御臨在の御前で仕えているケルビムやセラフィムたちや、ミカエルやガブリエルなどの大天使たちであっても、イエス・キリストのすべてを知っているわけではありません。
 黙示録4章ー5章には、天における礼拝において「御座に着いている方」すなわち父なる神さまと「ほふられたと見える小羊」すなわち栄光のキリストが礼拝と讃美を受けておられることが記されています。5章11節ー13節には、

また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。彼らは大声で言った。
 「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。
 「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

と記されています。
 テモテへの手紙第一・6章15節ー16節には、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

と記されています。礼拝されるべき神はこのような方です。そして、イエス・キリストもまことの神としてはこのような栄光の主です。
 黙示録19章12節において、栄光のキリストには、

 ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。

と言われているのは、栄光のキリストが私たち「」の民や、御使いたちの理解を無限に超えた栄光の主であられることを示していると考えられます。
 その意味では、ここに出てくる「ご自身のほかだれも知らない名」は、やがて、私たちがまったく贖われて栄光のからだによみがえり、新しい天と新しい地において神である「」の栄光の御臨在の御前に立つようになるときに分かるようになると言われている御名のことではなく、被造物である私たちや御使いたちにとって、「」との愛の交わりが深まるにつれて、少しずつその御名の意味が分かるようになっていくとしても、永遠に知り尽くすことができない、無限に豊かな意味をもっている御名であると考えられます。


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