黙示録講解

(第342回)


説教日:2018年7月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(95)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばに示されている約束と関連して、19章15節に記されている、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

というみことばについてお話しします。
 こここで「この方」と言われているのは11節で、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる

と言われている終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 この11節に続く12節には、この栄光のキリストのことが、

その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。

と記されています。
 先主日には、この栄光のキリストの目が「燃える炎のよう」(2017年版)であると言われていることと、それに関連することをお話ししました。
 ここでは、それに続いて、

その頭には多くの王冠があった、

と記されています。
 ここに出てくる「王冠」(ディアデーマ)は、金などの金属で作られたベルト状の巻冠で、「王権」、「主権」を表しています。
 これは、2章10節に、

 死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

と記されている中に出てくる「」(ステファノス)とは違います。
 この「」(ステファノス)は花や葉や枝を編んで作った「」で、競技において勝利した人、戦争において武功を立てた人、業績のあった市民に与えられた冠や、異教の祭司がかぶった冠、祭りの時に飾りとしてかぶった冠、町の行政官がかぶった冠などのことです。また、イエス・キリストが十字架につけられた時に、ローマの兵士たちがイエス・キリストにかぶらせた「いばらの冠」の「」は「ステファノス」です。


 これに対して、19章12節に出てくる「王冠」ということば(ディアデーマ)は、新約聖書の中では3回出てきて、すべて黙示録で用いられています。その一つはここ19章12節に出てきていますが、ここ以外の二つの個所を見てみましょう。
 12章3節には、

また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。

と記されています。
 ここには「大きな赤い竜」のことが記されています。これは9節で、

こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と言われているサタンのことです。
 「大きな赤い竜」が「赤い」と言われていることは、サタンが好戦的であり、神である「」に対して霊的な戦いを仕掛けて、「」の民を死に至らせている殺戮者であることを表象的に表していると考えられます。このことの根底には、サタンのうちにある罪の自己中心性の極みである自己神格化と神である「」に対する憎しみがあります。これは、後ほど触れますが、神さまが「平和の神」と呼ばれていることの対極にあります。ヨハネの福音書8章44節には、

 悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この「大きな赤い竜」には「七つの頭」があると言われています。これには古代オリエントの神話的な背景があると考えられています。具体的には、暗闇の主権を表象的に表す存在で、聖書に出てくるレビヤタンに当たるウガリット神話のロタンに七つの頭があったことです。神さまの救いの御業のことを述べている詩篇74篇14節には、

 あなたは、レビヤタンの頭を打ち砕き、
 荒野の民のえじきとされました。

と記されていますが、「レビヤタン」は単数形で「」は複数形です。
 黙示録12章3節では、大きな赤い竜」は「七つの頭」に「七つの冠をかぶっていた」と言われています。この「」は「ステファノス」ではなく「ディアデーマ」で「王冠」です。これはこの「七つの頭」と「七つの冠」の「」は完全数です。これはサタンの完全な支配を表していますが、それは、真の意味での完全な支配ではありません。というのは、サタンは単なる被造物であって、あらゆる点で造り主である神さまに支えられて初めて存在できるものでしかないからです。そのようなサタンの支配権は、すべての権威の源である造り主である神さまから委ねられたものではなく、むしろ、神さまに逆らって、自らを主権の座に着けたものですので、正当なものではありません。実際に、ヨハネの手紙第一・3章8節に、

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

と記されているように、「初めから罪を犯している」サタンの支配権は「悪魔から出た者」、すなわち、罪の力に縛られているものたちを支配しているだけのものでしかないからです。とは言え、同じヨハネの手紙第一の5章19節に、

 私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。

と記されていますし、エペソ人への手紙2章1節ー3節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されているように、その支配権は罪の力に縛られているものたちすべてに及んでいます。これには、より広く、罪の力に縛られている人ばかりでなく悪霊たちも含まれます。
 その支配権は、ある意味において、これまで繰り返しお話ししてきた創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている、「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対する、神である「」のさばきの宣告に基づいています。
 どういうことかと言いますと、このサタンに対するさばきの宣告においては、神である「」が、この時に、直接的にサタンに対するさばきを執行されないで、罪によってサタンと一つに結ばれてしまっている「女」とサタンの間に「敵意」を置いて、「女」とサタンが霊的な戦いにおいて対立するようにしてくださるとともに、その「敵意」が「女の子孫」とサタンの霊的な子孫たちにも受け継がれて、霊的な戦いが継続していくことが示されています。そして、最後には、「女の子孫」の「かしら」が来られてサタンに対する最終的なさばきを執行されることが示されています。
 また、これによって、「女」と「女の子孫」の共同体がサタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行される神である「」のしもべとなり、霊的な戦いにおいて神である「」の側に立つようになることが示されています。これが「女」と「女の子孫」の救いを意味していて、このサタンに対するさばきの宣告は「最初の福音」としての意味をもっています。
 それで、この「最初の福音」に基づいて神である「」が遂行される贖いの御業の歴史が始まっていますが、その一方で、サタンは「女」と「女の子孫」の共同体に対する霊的な戦いを展開して、「最初の福音」に示された神である「」のみこころの実現を阻止しようとして働くことができるようになりました。これによって、サタンは罪の下にあり、罪の力によって縛られているものたちの上に主権を振るうことができるようになっているのです。それで、サタンは罪の力によって縛られてしまっているこの世の支配者として、この世の権力者たち、知者たちを用いて、霊的な戦いを展開しています。それがどのようなことであるかは、黙示録2章ー3章に記されているアジアにある七つの教会に対して、栄光のキリストが方っておられるみことばから汲み取ることができます。
 しかし、ヨハネの手紙第一・3章8節に、

 神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

と記されており、黙示録12章7節ー9節に、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と記されているように、サタンは天における霊的な戦いに破れて、天から投げ落とされてしまっています。
 さらに、ルカの福音書10章17節ー20節には、イエス・キリストが遣わされた70人の弟子たちが福音を宣べ伝えてから帰ってきて、イエス・キリストに、

 主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。

と報告したとき、イエス・キリストが、

わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。

と教えられたことが記されています。注意したいことはこれが福音の宣教とのかかわりで記されているということです。
 また、ヨハネの福音書12章31節には、

 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

と記されています。ここで「この世を支配する者」と言われているのはサタンのことです。ここでは「」ということば(ニュン)が繰り返されて強調されています。これは27節ー28節に、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現してください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。」

と記されていることを受けています。ここでは、「」(ニュン)が「この時」(ヘー・ホーラ・タウテー)と結び合っています。そして、「この時」は、イエス・キリストが、

 このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。

と祈られたように、イエス・キリストが来られた目的が果たされる時であるとともに、イエス・キリストが、

今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください』と言おうか。

と言われたように、イエス・キリストにとっては苦悩の時であることが示されています。さらには、イエス・キリストが、

 父よ。御名の栄光を現してください。

と祈られ、父なる神さまが、

 わたしは栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現そう。

とお応えになったたように、「この時」においてこそ、父なる神さまの「御名の栄光」が現されることが示されています。「この時」とは、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死なれる時のことです。
 サタンは「女の子孫」の「かしら」として来られたイエス・キリストを十字架につけて殺してしまうことによって、霊的な戦いに勝利すると考えていました。しかし、その死はご自身の民の罪を贖うための死であり、「最初の福音」に示されていた神である「」のみこころを実現するものでした。31節には、

 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。

と記されていましたが、続く32節には、

 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

と記されており、さらに、33節には、

 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。

と記されています。御子イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死んでくださったことこそが、霊的な戦いにおける最終的な勝利をもたらす鍵であったのです。
 これらルカの福音書10章17節ー20節に記されていることとヨハネの福音書12章27節ー33節に記されていることは、黙示録12章では、先ほど引用した7節ー9節に続いて10節ー11節に、

今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されていることの「先取り」に当たります。
 というのは、ルカの福音書10章17節ー20節に記されていることとヨハネの福音書12章27節ー33節に記されていることにおいては、すでに、神の御子イエス・キリストが「女の子孫」の「かしら」として来てくださっていますが、まだ、十字架にかかって死んでくださって私たちご自身の民の罪を贖ってくださることと、ご自身の民を永遠のいのちに生きるようにしてくださるために栄光を受けてよみがえってくださって、父なる神さまの右の座に着座してくださることは実現されていない時のことだからです。これに対して、黙示録12章10節ー11節に記されていること、すなわち、サタンとその使いたちが天における霊的な戦いに破れて、天から投げ落とされたことは、すでに、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民のための贖いの御業を成し遂げてくださった御子イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座された後のことです。
 個のように、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民のための贖いの御業を成し遂げてくださり、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたことによって、霊的な戦いにおける「女」と「女の子孫」の共同体の勝利は決定してしまっています。黙示録12章12節には、

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。

と記されています。ここでは、天から投げ落とされたサタンは、自分の時の短いことを」知っていると言われています。もちろん、サタンはそれで霊的な戦いをあきらめたわけではありません。なおも、「最初の福音」に示されている神である「」のみこころの実現を阻止しようとして働いていますし、それによって、最終的には創造の御業において示されている神さまのみこころの実現を阻止しようとして働いています。

しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。

というみことばは、霊的な戦いの主戦場が「地」に移っていることが示されるとともに、サタンの働きがよりいっそう激しいものとなっていることが示されています。

 「王冠」ということば(ディアデーマ)が出てくるもう一つの個所は13章1節です。1節ー2節を見てみましょう。そこには、

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

と記されています。
 ここには「海から」上って来た「」のことが記されています。この「」のことが、

 これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、

と言われています。ここで「十本の角」に「十の冠」があったと言われているときの「」が「ディアデーマ」(「王冠」)です。「海から」上って来た「」がこのような「王冠」をかぶっているのは、

 竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

と言われていることによっています。
 この「」は「」すなわち、サタンが神である「」に対する霊的な戦いを展開するために、用いているものです。これは黙示録が記された時代に「」の民を迫害したローマ帝国を典型として、歴史をとおして出現してくる反キリストの特質をもつ国々を表しています。そして、終わりの日においては、その反キリストの頂点とも言うべき存在、テサロニケ人への手紙第二・2章3節ー12節に出てくる「不法の人、すなわち滅びの子」の帝国として現れてきます。
 黙示録13章においてこの「」が出現することは、この前の、12章13節ー18節に、

自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。

と記されていることを受けています。
 ここに出てくる「男の子を産んだ女」は、古い契約と新しい契約の時代をとおして存在する「」の契約の民の共同体を表しています。ここに記されている古都の背景になっている「最初の福音」に照らして言いますと、「女」と「女の子孫」の共同体です。この時は、すでに「男の子」が生まれ、天に上げられた後のことですので、13節で「」に追いかけられたと言われている「」は、新しい契約の共同体としての教会を指しています。
 14節で、

しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

と言われていることは、古い契約の下での贖いの御業である、神である「」による出エジプトの御業を踏まえています。
 出エジプトの時代に、神である「」はシナイの荒野にあるシナイ山にご臨在されて、イスラエルの民と契約を結んでくださり、ご自身の民としてくださったイスラエルの民の間にご臨在してくださり、民が約束の地に入るまで、荒野の旅路を導いてくださいました。
 その荒野の「四十年間」はイスラエルの民にとっては試練の時でした。不信仰に陥ったイスラエルの民の第一世代は度重なる不信仰のために荒野で滅びましたが、「」はその子どもたちである第二世代の民を、その荒野で訓練してくださいました。
 黙示録12章では、このような意味をもっている「荒野」が「」すなわち新しい契約の共同体である教会のある所であると言われています。「荒野」は霊的な戦いの状況にある、私たち「」の契約の民が、「」すなわちサタンの働きかけなどによってもたらされる試練を受ける所ですが、そこは、また、神である「」の御臨在が常に私たち「」の契約の民とともにあって、恵みによる備えをしてくださるとともに、それらの試練をもお用いになって、私たち「」の契約の民を訓練し、養い育ててくださる所です。
 とはいえ、この「荒野」は私たち「」の契約の民が定住する所ではなく、私たちが定住すべき約束の地、私たち新しい契約の民にとっては、新しい天と新しい地に向かって歩んで行くために備えられた所です。
 また、14節には、

 女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

と記されています。ここに出てくる「」は「」(サタン)のことです。
 ここでは、新しい契約の共同体である教会がこの「荒野」で過ごす期間は、「一時と二時と半時」であると言われています。この「一時と二時と半時」は、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられて父なる神さまの右の座に着座された時から始まって、イエス・キリストが終わりの日に再臨されて、サタンとその霊的な子孫たちへの最終的なさばきを執行され、ご自身の民の救いを完全に実現してくださるまでの期間を示しています。
 この期間において、「」あるいは「」と呼ばれているサタンは天における霊的な戦いに破れて、地に投げ落とされてしまっている状態にあります。それは「悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って」「地」に下ったと言われている状態にある時であり、霊的な戦いがより激しくなっている時でもあります。
 しかし、このように、新しい契約の共同体である教会がこの「荒野」で過ごす期間は「一時と二時と半時」であると言われていることによって、サタンとの激しい霊的な戦いにおいて、「」の民が迫害を受けて苦しむ期間は際限なく続くのではなく、「」によって定められた期間であることが示されています。
 これらのことが示された後、17節ー18節には、

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。

と記されています。ここに出てくる「女の子孫の残りの者」の「子孫」(スペルマ)は黙示録ではここだけに出てくることばで、通常は男系(父系)のつながりを示すものです。ここでは「『女の子孫」というように、女系(母系)のつながりを示すという特殊な使い方がされています。それで、これは創世記3章15節に記されている、「最初の福音」としての意味をもっているサタンへのさばきの宣告に出てくる「女の子孫」を指していると考えられます。その意味では、すでに、「最初の福音」において示されているように、「女の子孫」の勝利が示されていることになります。ここでは、その勝利は「女の子孫の残りの者」が「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」と説明されているように、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保」つ(現在分詞)ことによる勝利です。これは、私たちの側から見たときの勝利です。それはまた、ローマ人への手紙16章20節にも、

 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。

と記されているように、私たちご自身の民を福音のみことばのみことばに従って歩ませてくださる「平和の神」が、私たちをとおして実現してくださることです。
 「平和の神」はご自身の民への限りない愛のゆえに、御子の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、霊的な戦いにおける勝利を決定的なものとされました。この方こそ「平和の神」が主権をお委ねになったまことの主権者です。それで、黙示録19章12節では、この方の頭には「七つ」に限らないで「多くの王冠があっ」たと記されています。


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