黙示録講解

(第341回)


説教日:2018年7月1日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(94)


 今日も、黙示録2章27節前半に記されている、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という、イエス・キリストの約束と関連して、19章15節に記されている、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

というみことばについてお話しします。
 こここで「この方」と言われているのは11節で、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる

と言われている方のことで、終わりの日に再臨される栄光のキリストです。
 この11節に続く12節ー16節には、この栄光のキリストのことが、

その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。

と記されています。
 この方の「目は燃える炎」であると言われています。この場合には、「燃える炎」であるという可能性と「燃える炎のよう」であるという可能性がありますが、写本の照合や本文批評の原則に照らして見ても、どちらかに決め難いところがあります。新改訳第3版は「燃える炎であり」と訳していますが、2017年版は「燃える炎のようであり」と訳しています。
 この方の「目は燃える炎のよう」(2017年版)であるということは、1章14節に、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

と記されている中にも出てきます。これは、1章10節ー16節に、

私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されている中に出てくることばです。
 今お話ししていることとのかかわりで、特に注目したいのは、ここでは、12節後半ー13節に、

振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

と記されているように、「人の子のような方」と言われている栄光のキリストがアジアにある七つの教会を表象的に表す「七つの金の燭台」の真ん中にご臨在しておられるということです。「七つの金の燭台」については、1章20節において、

 七つの燭台は七つの教会である。

と言われています。
 ですから、14節では、アジアにある七つの教会の真ん中にご臨在しておられる栄光のキリストについて、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

と言われているのです。
 この、

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

と記されているみことばについては5年ほど前にお話ししていますが、それを補足しながら、振り返っておきましょう。
 この「人の子のような方」の「燃える炎のような目」は、すべてのもの、すべてのことを見通しておられる目であることを表しています。
 これは、ただ単に、すべてのことを見ておられるというだけのことではありません。ここではこの方の「目は、燃える炎のよう」であるということの前に、

 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く

と言われています。
 ここで「頭と髪の毛」と言われているときの「」と訳されている接続詞(カイ)は「すなわち」をも意味します。それで、この場合の「頭と髪の毛」は「頭すなわち髪の毛」ということであると考えられます。これは、私たちの間で「頭が白い」と言えば髪が白いということを意味していることに相当します。
 ここでは、栄光のキリストの髪の毛が

 白い羊毛のように、また雪のように白く

というように、白いことを表すために用いられる「羊毛」と「」が重ねられてその白さが強調されています。
 このことの背景には、ダニエル書7章9節に、

  私が見ていると、
  幾つかの御座が備えられ、
  年を経た方が座に着かれた。
  その衣は雪のように白く、
  頭の毛は混じりけのない羊の毛のようであった。

と記されている「年を経た方」すなわち神さまについての描写があります。
 この「年を経た方」についての描写では「」は衣の白さを表すために用いられており、「混じりけのない羊の毛」は頭の毛の白さを表すのに用いられています。しかし、黙示録1章14節では、その「」と「羊の毛」」が「人の子のような方」の髪の毛の白さを表すのに用いられています。これには意味があると考えられます。というのは、聖書の中では衣の白さは御使いたちや聖徒たちの描写にも用いられていますが、髪の毛の白さはダニエル書7章9節の「年を経た方」と黙示録1章13節ー14節の「人の子のような方」だけに用いられているからです。つまり、黙示録1章14節で「人の子のような方」の髪の毛の白さを強調して示すために、「羊毛」と「」が重ねられて用いられているのは、「年を経た方」すなわち神さまに当てはまることが、そのまま、「人の子のような方」、すなわちメシア、栄光のキリストに当てはまることが示されているということです。
 この白さは、いっさいのシミや汚れと関係がない完全なきよさを表しています。それとともに、髪の毛の白さは、知恵の豊かさを象徴的に示しています。ここでは、「人の子のような方」すなわち栄光のキリストは「年を経た方」すなわち神さまの知恵を完全に共有しておられるということが示されているのです。栄光のキリストは無限の知恵をもつ方として、また、「燃える炎のような目」をもってすべてのことを見通しておられる主として、アジアにある七つの教会が示している私たち主の契約の民の間にご臨在してくださり、私たちご自身の民のためにすべてのことを治めてくださいます。そして、霊的な戦いにおいて、暗闇の主権者の知恵を空しくし、最終的には、完全に聖い方として、サタンとその使いたちを一点の曇りもなく厳正におさばきになり、私たち主の契約の民の救いを完全に実現してくださいます。
 サタンとその使いたちは、この世の権力者による迫害によって、主の契約の民が主を捨ててしまうように働いたり、偽りと欺きによる巧妙な誘惑によって、主の契約の民が福音のみことばを曲げてしまい、結果的に、契約の神である主への信頼を失うようにと働きかけます。けれども神さまの知恵は「人の子のような方」として来てくださった御子イエス・キリストの十字架において最も豊かに示されています。それは生まれながらの人には理解できないことであるだけでなく、暗闇の主権者であるサタンの思いをもはるかに越えたものです。
 コリント人への手紙第一・2章7節ー8節には、

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

と記されています。
 また、ヘブル人への手紙2章14節ー15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。
 サタンとその使いたちは、「この世の支配者たち」を用いて主の契約の民を迫害しますが、その迫害の頂点にあるのは「栄光の主」である御子イエス・キリストを十字架につけて殺したことです。しかし、御子イエス・キリストは、その十字架の「死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださ」ったのです。
 ですから、コリント人への手紙第一・1章22節ー24節には、

ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

と記されています。
 このように、黙示録1章14節で、

 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

と言われている栄光のキリストの目が「燃える炎のよう」であるということは、それに先立って記されている、

 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白い

というみことばに示されている栄光のキリストの無限のきよさと無限の知恵と相まって、霊的な戦いの状況の中で、栄光のキリストが、私たち主の契約の民を治め導いてくださっていることの確かさ、私たちの救いを完全に実現してくださる方であることを私たちにあかししています。暗闇の主権者であるサタンの働きによって、地上にあるキリストのからだである教会は、激しい迫害にさらされ、巧妙な誘惑にさらされますが、私たちを治め導いてくださる栄光のキリストは、サタンとその使いたちの知恵をはるかに越えた、知恵と洞察をもって、サタンのはかりごとを空しくされます。そして、サタンとその使いたちを厳正におさばきになり、私たち主の契約の民の救いを完全に実現してくださいます。


 先ほどお話ししましたように、1章10節ー16節に記されている栄光のキリストの顕現においては、栄光のキリストは「七つの金の燭台」によって表されているアジアにある七つの教会の真ん中にご臨在してくださっています。そして、

あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。

と言われた栄光のキリストがヨハネに示してくださったことが2章ー3章に記されているアジアにある七つの教会に対して語られた栄光のキリストのみことばです。
 そこには、栄光のキリストが、アジアにある七つの教会が霊的な戦いの状況にあって、直面しているさまざまな問題を指摘しつつ、まことの牧会者として、それぞれの教会を導いてくださっていることが記されています。そこには、皇帝礼拝や職業組合の守護神などの偶像を礼拝することを拒否することによって迫害を受けたり、社会的、経済的に厳しい状況に追い込まれることになっている教会があります。また、教会を内側から変質させてしまうようになる異端的な教えを説くにせ預言者やにせ教師たちが教会に入り込んできている教会もあります。さらに、この世の富に惑わされてしまっている教会もあります。そうではあっても、最後は、「勝利を得る者」たちへの祝福の約束をもって結ばれています。言うまでもなく、アジアにある七つの教会の聖徒たちを、霊的な戦いにおける勝利者としてくださり、そこに記されている祝福にあずからせてくださるのはアジアにある七つの教会の真ん中にご臨在してくださっている栄光のキリストです。
 その意味で、1章10節ー16節に記されている栄光のキリストの顕現においては、栄光のキリストが霊的な戦いにおいて、暗闇の主権者であるサタンとその使いたちに対するさばきを執行される主であることが示されているのですが、その前面に出ていること、あるいは中心にあることは、栄光のキリストがアジアにある七つの教会の聖徒たち、また、彼らによって表象的に示されている主の契約の民たちの救いを完全に実現してくださることの方です。
 これに対して、19章11節ー20節においては、終わりの日に再臨される栄光のキリストのことが記されています。それも、栄光のキリストの顕現と言うことができますが、それは歴史の中でさまざまな形で現された、「」の栄光の顕現、栄光のキリストの顕現の頂点に当たります。1章10節ー16節に記されている栄光のキリストの顕現は、栄光のキリストがアジアにある七つの教会の真ん中にご臨在しておられることを示していますが、19章11節ー20節においては、その栄光のキリストがこの世界にご臨在されること、すなわち、再臨されることを示しています。
 そして、ここ19章では、冒頭の11節に、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

と記されており、16節ー20節に、

また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。

と記されているように、栄光のキリストが霊的な戦いの状況にあって、その総決算とも言うべき最終的なさばきを執行されることが示されています。
 そうではあっても、主の贖いの御業の歴史の中では、その出発点が、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されているサタンへのさばきの宣告であるのですが、それが「最初の福音」としての意味をもっています。そのように、「最初の福音」は霊的な戦いの状況の中で与えられています。そのために、主の贖いの御業の歴史の中では、救いとさばきが切り離し難く結び合っています。ある時には、救いの御業が前面に出てきているのですが、さばきの御業がその背後に退く形ですが進行しています。また、その逆に、さばきの御業が前面に出てきているときにも、救いの御業が背後に退く形になっていますが、進行しています。
 その代表的な御業を二つ取り上げますと、私たち主の契約の民のための救いの御業の頂点は御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあります。その時には、御子イエス・キリストが十におかかりになって、私たちご自身の民のための贖いの御業を遂行しておられました。その中で、マタイの福音書27章45節ー46節に、

さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

と記されているとおり、12時から3時までの暗闇の3時間において、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきが御子イエス・キリストに対して執行されていたのです。
 また神さまはこれまでの人類の歴史の中でただ一度だけ、終末的なさばきを執行されたことがあります。それが創世記6章ー9章に記されているノアの時代に執行された大洪水によるさばきです。6章5節ー8節に、

は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そしては仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

と記されているとおり、そのさばきは神さまが創造の御業においてお造りになったもの、特に、神のかたちとして造られ、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人と、歴史と文化を造る使命において人と一体に結ばれた「地」や生き物たちに対するさばきが執行されました。
 それが大洪水によるさばきの執行であったことの恐ろしさは、今もなお、その傷を負っておられる方々がおられることからしますと、言うのが憚られるのですが、津波の恐ろしさを目の当たりにした私たちにはよく分かります。それは、ノアの時代には、6章11節で、

 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

と言われている状況を生み出した張本人であるを、4章19節ー24節に記されている、アダムから数えて、カインを経て7代目に記されているレメクが築き上げた帝国に至るまでの人類の歴史が築いてきた歴史と文化を最終的にさばいて滅ぼしてしまうものでした。
 4章22節には、レメクの子であるトバル・カインのことが、

 彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。

と記されています。その当時は、創世記5章に記されているように、一人の人が9百年ほど生きていました。「青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった」トバル・カインが用具を開発するとき、その開発が生涯をとおして積み上げられていくようになったことでしょう。もちろん、それに協力する者たちをも結集することができたでしょう。トバル・カインが農耕器具を開発したならそれによってレメクは多くの収穫を得て富を蓄えたでしょうし、武具を開発したなら、巨大な軍事力を背景とした権力を手に入れたことでしょう。

 私の受けた傷のためには、ひとりの人を、
 私の受けた打ち傷のためには、
 ひとりの若者を殺した。
 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。

というレメクのことばは、そのようなことを示唆しています。特に、

 カインに七倍の復讐があれば、
 レメクには七十七倍。

という結びのことばは、先祖カインは神である「」の保護を頼ったけれども、自分にはそのようなものは不要であるというばかりでなく、自分は神である「」以上のことができるという高ぶりを意味しています。
 そのような歴史的な背景があって、ノアの時代には、6章11節ー12節に

 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されている、恐ろしい状況が生み出されていたと考えられます。神さまは、人類の歴史の中で、ただ一度だけ、人の罪が極まってしまうことをお許しになったのです。それは、人の罪どのようなものであるかを歴史的な現実においてお示しになるためでした。神さまが一般恩恵に基づく御霊の抑止してくださるお働きによって止めてくださるか、積極的に人の心を啓発してくださらないなら、人の罪はどんどん深まっていくものであることが示されました。それで、続く13節に、

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

と記されています。
 このような、人の罪がむき出しになって現れてきてしまった時代状況を生み出した人々だけでなく、人との一体に置かれた「地」と生き物たち、さらには、その時代に至るまでに人類が築いてきた文化的な遺産が大洪水によるさばきの執行によって滅ぼされてしまいました。けれども、それがすべてではなく、6章7節に、

そしては仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

と記されていることを受けて、8節には、

 しかし、ノアは、の心にかなっていた。

と記されています。これは、直訳調に訳すと、

 しかし、ノアは、の目の中に恵みを見い出していた

となります。
 私たちは創世記の記事をとおしてノアの時代を見ています。それで、ノアが大きくクローズアップされています。けれども、その時代全体を見ますと、数量的には、全人類対一人あるいは全人類対一家族という対比になります。ノアは全人類の中に埋没してしまっています。ペテロの手紙第二・2章5節では、ノアとその家族のことが「義を宣べ伝えたノアたち八人の者」と呼ばれています。そのあかしは、人の罪が極まっていく中で、また、極まってしまった状況(特に、ノアが箱舟を造っていた間はそのような状況)で、もはや誰も耳を貸す者はいない中でなされました。いくら種を蒔いても芽は出さないということが最後まで続いたということです。人の目から見れば、なんと孤独で空しいものであったことでしょう。
 しかし、創世記の記事は量的ではなく、いわば、神である「」の御前における価値の尺度で見ています。それは、私たちにも当てはまります。
 6章8節では、

 ノアは、の目の中に恵みを見い出していた

と言われていました。7章1節には、

はノアに仰せられた。「あなたとあなたの全家族とは、箱舟に入りなさい。あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見たからである。

と記されています。

あなたがこの時代にあって、わたしの前に正しいのを、わたしが見た

と訳されている部分では、日本語ではこのように訳すほかはないのでしょうが、「あなたを」ということばが最初に出てきて強調されています。

 あなたをわたしは見た

と始まっています。「」はノアをしっかりとご覧になっておられます。それは、ノアをご自身との交わりの中で知ってくださっていたことを意味しています。ノアも「」との交わりの中で支えられていたことを思わされます。
 いずれにしましても、これまでの人類の歴史の中でただ一度だけ執行された終末的なさばきである大洪水によるさばきにおいても、人の目から見ればひそやかに、しかし、「」の御目からは、贖いの御業の遂行に決定的な意味をもっている一家族の救いの御業が進行していました。
 黙示録19章11節ー20節に記されていることは、そのノアの時代の大洪水によるさばきの執行が「地上的なひな型」としてあかししていた終わりの日におけるさばきの執行です。そこでも、救いの御業は進行しています。


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