|
説教日:2018年6月24日 |
これまで、このこととの関係で、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことについてお話ししてきました。今日は、このことについてもう少しお話ししたいと思います。 この天地創造の第7日は、神さまが創造の御業において造り出された歴史的な世界の歴史となって、神さまがお定めになっておられる世の終わりまで続きます。それで、神のかたちとして造られている人は、神さまがご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださっている天地創造の第7日に、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすように召されているのです。 神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったのは、この日に、神さまが神のかたちとして造られている人に御顔を向けてくださり、惜しみなく愛を注いでくださるためでした。そして、神のかたちとして造られている人が、神さまが注いでくださっている愛を受け止め、愛をもって神さまを礼拝するようにしてくださるためでした。それで、歴史と文化を造る使命を果たすことの中心には、神のかたちとして造られている人が、神さまが注いでくださっている愛を受け止め、愛をもって神さまを礼拝することがあるのです。 そのような意味をもっている天地創造の第7日は、神さまの天地創造の御業の頂点であり、目的でもありました。先主日にお話ししましたように、ちょうど、天地創造の第7日が天地創造の御業の目的であるように、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を遂行することの目的も安息日にあります。より具体的には、その日において神さまを礼拝することを中心として神さまとの愛の交わりにあずかることにあります。それで、「主」の契約の民は、古い契約の下では、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことにならって、週の第7日を安息日として聖別していました。 この安息の目的は、創造の御業に基づくものですが、十戒の安息日についての戒めの根拠は二つあります。出エジプト記に記されている十戒では、20章11節に、 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。 と記されているように、神である「主」の創造の御業が根拠となっています。 これに対して、イスラエルの第2世代に与えられた律法を記している申命記に記されている十戒では5章15節に、 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。 と記されているように、「主」の贖いの御業が根拠となっています。 これは、神である「主」が神のかたちとして造られている人に御顔を向けてくださり、惜しみなく愛を注いでくださるためにご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださった天地創造の第7日をにおいて、人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことを受けています。人は神である「主」の愛を受け止めることがないばかりか、神である「主」に敵対するものとなってしまったのです。 それなのに、神さまは私たち「主」の契約の民に対する愛を変えてしまわれませんでした。それどころか、人を神である「主」に対して罪を犯すように誘ったサタンに対するさばきの宣告において「最初の福音」をお示しになり、ご自身の民を再びご自身との愛の交わりのうちに生きるようにしてくださいました。そして、その神さまの私たちご自身に敵対していた者への愛は、ご自身の御子イエス・キリストにあって、また、御子イエス・キリストによって最も豊かに表されました。ローマ人への手紙5章8節ー11節に、 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。 と記されているとおりです。 ここでは、 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 と言われているように、神さまの「敵であった私たち」への愛が示されています。同時に、このみことばの最後に、 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです と記されていることは、私たち「主」の契約の民が、御子をも賜った神さまの愛によって、神さまとの愛の交わりのうちに回復されていることを示しています。神さまが「くださるもの」というより神さまご自身を喜びとするということは、神さまとの愛の交わりの核心にあることです。これらのことは、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことにそったことです。 古い契約の下における贖いの御業の歴史の中では、「主」の契約の民は、創造の御業において造り主である神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことにならって、週の終わりの日である第7日を「主」の安息日としていました。それは、「主」の安息の回復と完全な形での実現が「主」の贖いの御業の目的であるということを意味しています。そのことは、「主」の安息が週ごとの安息日をさらに越えて、第7年目の安息年、そして、その安息年を7回重ねた49年目の安息年とその次の年であるヨベルの年へというように、より大きな目的へと進んでいくようになっていることに表されています。そのより大きな目的とは、神のかたちとして造られている人が「主」の贖いの御業によって最終的に罪と死の力から解放され、「主」との愛にあるいのちの交わりに回復されることによって「主」の安息が完成することです。 これには、神である「主」が創造の御業とともに神のかたちとして造られている人に与えてくださった契約である「創造の契約」の祝福の約束がかかわっています。 神さまは創造の契約において、神のかたちとして造られた人が、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに従いとおし、愛といつくしみに満ちた神さまの栄光を現すことに対する報いとして、永遠のいのちを与えてくださることを約束してくださいました。 創造の御業において造り主である神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったのは、天地創造の第7日に、ご自身が神のかたちとしてお造りになった人に御顔を向けてくださり、愛を惜しみなく注いでくださるためでした。そのことは、最初の人アダムとその妻エバがエデンの園にご臨在してくださった神である「主」との愛の交わりに生きていたときに実現していました。神である「主」がエデンの園にご臨在してくださったことも、最初の人アダムとその妻エバが神である「主」との愛の交わりに生きていたことも、神さまが創造の御業とともに神のかたちとして造られている人に与えてくださった創造の契約に基づく祝福でした。 しかし、創造の契約の祝福はそれで終るものではなく、それ以上の祝福の約束を含んでいました。それが今お話しした永遠のいのちの約束です。その永遠のいのちとは、ただ単に、時間的、量的にいつまでも続くいのちということではありません。永遠いのちには質的な面があります。神のかたちとして造られている人のいのちの本質は神である「主」との愛の交わりに生きることにあるからです。その意味で、永遠のいのちは、アダムとエバがエデンの園で享受していた神である「主」との愛の交わりよりもさらに豊かな栄光に満ちた形での神である「主」との愛の交わりに生きるいのちです。 神である「主」が創造の契約において永遠のいのちを約束してくださっていたことは、いろいろなことから汲み取ることができますが、何よりも、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業についての新約聖書の教えから汲み取ることができます。 イエス・キリストがまことの人となって来てくださったということは、最初に神のかたちとして造られたときのアダムと同じ状態の人となって来てくださったということですし、それゆえに、神である「主」が創造の御業において神のかたちとして造られている人と結んでくださった創造の契約のうちにある人となって来てくださったということです。そして、ピリピ人への手紙2章6節ー9節に、 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 と記されているとおり、イエス・キリストは「十字架の死にまでも」父なる神さまのみこころに従いとおされ、そのことに対する報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえりました。これは、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られた人に与えてくださった創造の契約に約束されている永遠のいのちを獲得されたということです。 イエス・キリストがお受けになった栄光はあくまでも「人としての性質」において獲得された栄光であって、私たち「主」の契約の民、すなわち、イエス・キリストを信じる者たちをそれにあずからせてくださるために獲得してくださった栄光です。イエス・キリストは私たちをご自身の十字架の死にあずからせてくださって、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださっただけでなく、私たちをご自身の復活の栄光にあずからせてくださいました。これによって、私たちが最初に造られたときのアダムより豊かな栄光にある、神さまとのいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださいました。これが永遠のいのちです。 イエス・キリスト復活の栄光は、最初の人が神のかたちとして造られたときの栄光よりも豊かな栄光です。そのことは、ローマ人への手紙8章14節ー15節に、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。 と記されているように、イエス・キリストの復活の栄光にあずかっている私たちが「御霊によって」神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父」と呼びかけることに現されています。神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父」と呼びかけることは、最初の人アダムにも、御使いたちにもできないことでした。なぜなら、それは無限、永遠、不変の栄光の主である御子イエス・キリストの特権だからです。イエス・キリストの復活の栄光にあずかっている私たちはその特権にあずかっているのです。ここでは私たちを導いて神さまに向かって「アバ、父」と呼ばせてくださる御霊のことが「子としてくださる御霊」と言われています。この「子としてくださる」と訳されていることば(ヒュイオセシア)は「養子としてくださること」を表しています。その当時の、ローマ法もヘブル法も養子は実子と同じ特権にあずかるものとしていました。 私たちがイエス・キリストの復活の栄光にあずかることは、私たちが、最初の人が神のかたちとして造られたときの栄光よりも豊かな栄光において神さまの御臨在の御前に近づくようになり、神さまとのより豊かな栄光にある愛によるいのちの交わりにあずかるようになることを意味しています。私たちは被造物に許されるかぎりにおいてのことですが、最も豊かな栄光にあずかって、神さまの御臨在の最も近くにまで近づいて、神さまとの親しい愛の交わりに生きる者としていただいています。 終わりの日に栄光のキリストが再臨されるのは、このことを完全に実現してくださるためです。 神のかたちとして造られた最初の人アダムは、エデンの園にご臨在しておられた神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。これに対して、黙示録22章1節ー5節には、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。 エデンの園においては、そこにご臨在された神である「主」との愛の交わりを表す恵みの手段であった「いのちの木」は園の中央に1本生えていただけでした。しかし、新しい天と新しい地においては、 川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。 と言われているように、さらに豊かないのちにある愛の交わりが示されています。 また、 神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。 と言われていることは、ヨハネの手紙第一・3章2節に、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されていること、私たちがイエス・キリストの復活の栄光にまったくあずかって、私たち「神の子ども」のイエス・キリストと父なる神さまとの愛の交わりがより豊かな栄光における交わりとして実現することを意味しています。 さらに、 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。 と言われているときの、 神である主が彼らを照らされる ということは、「神である主」の御臨在の栄光が私たち「主」の契約の民を照らしてくださるということで、「神である主」が私たちの間にご臨在してくださっていることを表しています。 これらすべてのことが、神さまが神のかたちとしてお造りになった人に御顔を向けてくださり、愛を惜しみなく注いでくださるために天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことの最終的な実現を示しています。 そして、これらすべては、イエス・キリストがその十字架の死によって、私たちご自身の民の罪をまったく贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことによって私たちにもたらされる祝福です。また、それがイエス・キリストが私たちの契約のかしらとして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって獲得してくださった創造の契約の祝福です。 神さまは天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださり、この第7日に神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすように召してくださいました。それで、神さまは神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命をどのように果たしたかについての評価をされます。それは歴史を造る使命ですから、歴史の終わり、すなわち「終わりの日」になされます。 この評価は、本来は、人が神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、神さまのみこころに従いとおし、愛といつくしみに満ちた神さまの栄光を現すことに対する報いとして、永遠のいのちを与えてくださるための評価でした。それによって、天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださった神さまの愛のみこころが実現するはずでした。そして、それによって、第7日は閉じて、最初に造られた天と地は、神である「主」がより豊かな栄光においてご臨在される天と地として栄光化され、そこで、人はより豊かな栄光において神である「主」との愛にあるいのちの交わり、すなわち永遠のいのちに生きるようになる第8日が始まるはずでした。 しかし、実際には、人は神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、人は造り主である神さまを愛し、神さまを礼拝することを中心とした歴史と文化を造るのではなく、罪がもたらした自己中心性を表す歴史と文化を造るようになってしまいました。それで、終わりの日になされる評価は、人の罪に対する刑罰としてのさばきの執行をもたらすものとなってしまいました。 これに対して、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、神さまが創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことに表されている愛のみこころを実現してくださいました。イエス・キリストの復活の栄光は、栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地に属する栄光です。それで、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、第8日が原理的に始まっています。 私たちが週の初めの日を「主の日」として御子イエス・キリストの御名によって父なる神さまを礼拝しているのは、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からのよみがえられたことによって、天地創造の第7日の祝福と聖別が成就して、原理的に、第8日に属する歴史が始まっていることをあかしすることとしての意味をもっています。週の初めの日は、また、第7日の次の日すなわち第8日でもあるのです。 聖書の中では、7日間の次の「8日目」が新しい出発の日を意味している事例がいくつかあります。たとえば、割礼は8日目に施されました(創世記17章12節)し、新しく生まれた動物は「8日目」からいけにえとして、「主」にささげることができるようになりました(レビ記22章27節)。また、アロンとその子らが祭司職に任職されるために7日間を要しました(レビ記8章33節)。そのアロンが最初のいけにえをささげたのが8日目でした(レビ記9章1節)。さらに、ツァラアトに冒された人がきよめられたときに、その人のための聖めの儀式が、祭司によって、宿営の外で7日間行われ(レビ記14章1節ー9節)、その人は8日目に宿営の中に入り、「主」の御前に、聖めのためのいけにえをささげることができるようになりました(10節ー32節)。これらの事例は、8日目が新しい出発の時を意味していることを示しています。 |
|
||