黙示録講解

(第339回)


説教日:2018年6月17日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(92)


 先主日は、私が北4日市キリスト教会で礼拝説教を担当させていただいたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は、これまでお話ししてきた、2章27節前半に記されている、イエス・キリストの、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という約束と関連しているみばである、19章15節に記されている、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

というみことばについてのお話に戻ります。
 このみことばの全体的な文脈である11節ー21節には、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

と記されています。
 今は、11節に、

 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

と記されているみことばについてお話ししています。
 まず、いつものように、これまでお話ししたことをまとめながら復習してから、いくつかのことを補足したいと思います。
 ここで、この方が「さばきをし、戦いをされる」と言われていることは、この方が終わりの日においてだけではなく、神である「」が遂行される贖いの御業の歴史をとおして、常に、「義をもってさばきをし、戦いをされる」方であるということを示しています。
 このことの出発点は創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている、「最初の福音」としての意味をもっている、「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対する、神である「」のさばきの宣告にあります。
 ここでは、「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきが宣告されていますが、それは、サタンが神である「」に対する霊的な戦いを仕掛けていることを踏まえています。
 その霊的な戦いは、神さまが創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を、神のかたちとしてお造りになった人に委ねられたことに表されているみこころの実現をめぐる戦いです。サタンはその神さまのみこころが実現することを阻止しようとして働いているのです。そのために、サタンは神さまからこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられた人を誘惑して、神さまに背かせることによって、神さまのみこころの実現を阻止しようとしました。そして、それに成功しました。
 それで、このサタンに対するさばきが宣告された段階での霊的な戦いにおいては、サタンが勝利している状態になっています。また、それで、この時、神である「」がサタンに対する最終的なさばきを執行されて、サタンが滅ぼされたとしても、霊的な戦いにおいては、サタンが勝利して終るということになってしまいます。
 サタンは神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人を誘惑して、神である「」に対して罪を犯させようとする前に、すでに、神さまの御前に高ぶり、自分が神のようになろうとして、神さまの聖さを冒す罪を犯して、堕落してしまっていました。
 聖書の中にはサタンの堕落について直接的に触れている個所はありません。しかし、サタンの堕落を映し出すようなこの世の権力者たちの高ぶりについての記述が、バビロンの王に対するさばきの宣告を記しているイザヤ書14章12節ー15節と、ツロの王に対するさばきの宣告を記しているエゼキエル書28章12節ー19節にあります。代表的にイザヤ書14章12節ー15節を見ますと、そこには、

 暁の子、明けの明星よ。
 どうしてあなたは天から落ちたのか。
 国々を打ち破った者よ。
 どうしてあなたは地に切り倒されたのか。
 あなたは心の中で言った。
 「私は天に上ろう。
 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
 北の果てにある会合の山にすわろう。
 密雲の頂に上り、
 いと高き方のようになろう。」
 しかし、あなたはよみに落とされ、
 穴の底に落とされる。

と記されています。
 ここには「バビロンの王」が神さまの御前に高ぶるようになることと、彼が「」のさばきを受けて、「よみに落とされ」るということが預言されています。しかし、ここに記されていることは、いくら大帝国の王の高ぶりであるとしても、単なる人の高ぶりをはるかに越えたことです。それで、ここでは、バビロンの王の高ぶりが暗闇の主権者であるサタンの高ぶりの罪を映し出していることが示されていると考えることができます。
 そのことは、ここでは「バビロンの王」の高ぶりが神話的な表象によって記されていて、単なる人間の高ぶりを越えた、神的な次元のことであることをうかがわせるものであることからも支持されます。
 具体的には、12節では、バビロンの王のことが、

 暁の子、明けの明星よ。

と呼びかけられています。この「明けの明星」と訳されていることば(へーレール)には、カナン神話において、ヘラルという神が反乱を起こして失敗し、その地位を失ってしまうということが背景となっていると考えられています。ここでヘラルのことが記されているということではなく、ヘラルのことを神話的な表象として用いて表されているということです。
 また、バビロンの王が「心の中で言った」という、

 私は天に上ろう。
 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
 北の果てにある会合の山にすわろう。
 密雲の頂に上り、
 いと高き方のようになろう。

ということばも、カナン神話を背景としています。
 そのいくつかを見て見ますと、

 神の星々のはるか上に私の王座を上げ、

と言われていますが、「神の星々のはるか上」の「王座」はカナン神話の最高神とされているエールが座して、すべてを治めているとされているところです。
 また、

 北の果てにある会合の山にすわろう

と言われているときの「北の果てにある会合の山」は、カナン神話の中で神々が会合する山とされていた山のことで、その最も高い所にエールが座しているとされています。
 そして、

 いと高き方のようになろう。

と言われているときの「いと高き方」はエールの通称です。
 このような神話的な表象は聖書の中によく見られるものですが、だからといって、聖書が古代オリエントの神話が示している考え方を受け入れているわけではありません。
 ここに出てくる、このような神話的な表象を用いている描写は、単なる人間の王の描写としては、あまりにも誇張されたものです。それで、ここではバビロンの王の高ぶりと堕落が、人間の王以上の存在の高ぶりと堕落をモデルとして描写されていると考えられるのです。
 このことと、引用はしませんがエゼキエル書28章12節ー19節に記されていることから、サタンはもともと非常に優れた御使いとして造られたのに、自分に与えられた栄光のために高ぶって、自らが神のようになろうとした罪を犯して、造り主である神さまの御前に堕落してしまったと考えることができます。
 あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主にして、堕落する前のサタンや悪霊たちをも含めて、すべてのものの造り主である神さまと、神さまによって造られたものの間には「絶対的な区別」があります。そして、神さまが、ご自身がお造りになったすべてのものと「絶対的に」区別される方であるということが神さまの聖さの核心にあることです。神さまの聖さは、神さまがすべての被造物と「絶対的に」区別される方であるということにあります。サタンが神のようになろうとしたことは、この神さまの聖さを冒すことでした。
 このように、サタンは自分が神のようになろうとして、神さまの聖さを冒して堕落してしまったものです。またサタンは、それによって、神さまのさばきを受けて滅ぼされるべきものとなってしまいました。けれども、サタンはそれであきらめてしまったのではありません。サタンは堕落しきってしまっているもの、「絶対的に」堕落してしまっているものとして、そのなすことすべての動機も目的も神に逆らうことにあります。
 しかし、サタンは神さまによって造られたものであり、神さまに支えられて初めて存在できるものです。ですから、サタンは神さまと直接的に戦うことはできません。サタンにできることは、神さまが天地創造の御業においてお示しになったこの歴史的な世界にかかわるみこころが実現しないように働くことだけです。それで、サタンは神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人を誘惑して、神である「」に対して罪を犯させようとしたのです。そして、そのサタンの企ては成功しました。


 前回は、このこととの関連で、神さまが神のかたちとしてお造りになった人に、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことは、神さまの愛から出ているということをお話ししました。
 それは、創造の御業そのものが、神さまの本質的な特質である愛の表現であることによっています。ヨハネの福音書1章1節ー2節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されているときの、

 ことばは神とともにあった。

ということばと、

 この方は、初めに神とともにおられた。

ということばは、永遠の「ことば」すなわち御子が、「」すなわち父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられるということ、それで、愛のうちにまったく充足しておられるということを示しています。そして、続く3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されていることは、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる御子が天地創造の御業を遂行されたことを示しています。
 このことから、神さまが御子によって遂行された天地創造の御業においてご自身の愛をご自身の外に向けて表現しておられることが分かります。神さまはその愛に基づくいつくしみをご自身がお造りになったすべてのものに注いでおられますが、その愛を受け止めて、愛をもって神さまに応答するのが、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人です。それで、神さまが創造の御業において委ねてくださった、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を果たすことの中心には、神さまがお造りになったすべてのものに注いでおられる愛に基づくいつくしみを受け止め、愛をもって神さまに応答することとしての礼拝があります。
 さらに、神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、肉体という物質的な側面をもっている人格体として、歴史と文化を造る使命を遂行するとき、この物質的な世界において、見えない神さまを代表しているばかりでなく、神さまがどのようなお方であるかを映し出し、現すものです。人は、この物質的な世界に置かれた神のかたちとして、その本質的な特質である愛を具体的な形で現すことによって、神さまの愛を映し出すのです。そのことは、同じく神のかたちとして造られている男性と女性が愛において一体となることから始まり、ふたりの間に子どもたちが生まれることによってその愛が親子関係における愛として広がり、さらに、人が「」に増え広がることによって愛が「」に満ちるようになっていきます。
 この二つのこと、すなわち、礼拝を中心とする契約の神である「」との愛の交わりと、神のかたちとして造られた人同士の愛の交わりは、造り主である神さまが神のかたちとして造られている人の心に記してくださっている愛の律法が示していることにほかなりません。神さまの愛の律法は、マタイの福音書22章37節ー39節に記されているように、

 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「たいせつな第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒め」に集約されます。
 そればかりではありません。ちょうど、創造の御業において神さまがご自身の愛を造られたものに注がれたように、神のかたちとして造られている人は、自分たちの愛を神さまから委ねられた「」とそこに生きる生き物たちに注いでいきます。そのようにして、神のかたちとして造られているものとして、神さまの愛に基づくいつくしみを映し出します。

 前回は、このこととの関係で、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことについてお話ししました。この天地創造の第7日は閉じていません。この第7日は、神さまが創造の御業において造り出された歴史的な世界の歴史となって、今日に至るまで連綿と続いてきていて、神さまがお定めになっておられる世の終わりまで続きます。
 それで、神のかたちとして造られている人は、神さまがご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださっている天地創造の第7日に、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を果たすように召されているのです。
 私たちは、かつて、御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛を知らず、造り主である神さまを神として礼拝することがなかったとき、時間というと、すぐ機械的に時を刻む時計を思い出すことに現れているように、時間は無機的に流れていくものであると思っていました。しかし、時間は神さまがお造りになったこの歴史的な世界の時間です。それは無機的に流れていくものではなく、造り主である神さまがご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださっている天地創造の第7日という豊かな意味をもっているものです。その豊かさは、その日に、神さまがご自身の民に特別な意味で、御顔を向けてくださり、惜しみなく愛を注いでくださり、主の民が、神さまが注いでくださっている愛を受け止め、愛をもって神さまを礼拝するように、その日を祝福し、聖別してくださっていることにあります。
 そして、このように豊かな意味をもっている天地創造の第7日が、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史となっています。神のかたちとして造られている人は、この天地創造の第7日に歴史と文化を造る使命を遂行するように召されているのです。
 そのような意味をもっている天地創造の第7日は、神さまの天地創造の御業の頂点であり、目的でした。神さまの天地創造の御業の頂点は何かと問われると、神のかたちとして造られた人であると答えます。それは合っています。けれども、さらにその先に目的があります。それは神さまが神のかたちとして造られた人にご自身の愛を惜しみなく注いでくださるために天地創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことです。
 ちょうど、天地創造の第7日が天地創造の御業の目的であるように、神のかたちとして造られている人が神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を遂行することの目的も安息日にあります。より具体的には、その日において神さまを礼拝することを中心として神さまとの愛の交わりにあずかることにあります。それで、主の契約の民は、古い契約の下では、神さまが天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことにならって、週の第7日を安息日として聖別していました。
 その意味で、神さまが歴史的な世界としてお造りになったこの世界の時間は、基本的に、創世記1章3節ー5節に、

神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。

と記されているように、造り主である神さまによって「」としての意味を与えられた「」と「」としての意味を与えられた「やみ」の入れ替わりによる「日」によって区切られます。「」には神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人はその使命を遂行し、「」にはその勤めを終えて眠りにつきます[注・したがって、神さまがお造りになった「やみ」にも、積極的な意味があります]。しかし、この世界の時間は、ただ「」と「」の入れ替わりが繰り返されて経過するだけのものではありません。それが、第7日の安息の日を目指していくという目的をもっているものです。
 この安息の目的は、創造の御業に基づくものですが、贖いの御業の歴史の中では、さらに第7年目の安息年、そして、その安息年を7回重ねた49年目の安息年とその次の年であるヨベルの年へというように、より大きな目的、すなわち、最終的な解放と安息へと進んでいくようになっています。十戒の安息日についての戒めの根拠には二つあります。出エジプト記に記されている十戒では、

 それはが六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。

というように、神である「」の創造の御業が根拠となっており(出エジプト記20章11節)、申命記に記されている十戒では、

あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。

というように、「」の贖いの御業が根拠となっています。
 新約聖書では、ヨベルの年が「地上的なひな型」として指し示していた主の契約の民の最終的な解放と「」の安息は、贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストによって実現していることが示されています(参照・ルカの福音書4章16節ー21節)。

 このように、神さまは天地創造の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださっています。そして、その日に、特別な意味で神のかたちとして造られている人に御顔を向けてくださり、ご自身の愛を注いでくださるようにしてくださり、神のかたちとして造られている人がその愛を受け止め、愛をもって神さまを礼拝するようにしてくださいました。このことは、神さまは神のかたちとして造られている人にご自身の愛を注いでくださり、人がご自身との愛の交わりに生きるようになることによって、安息されるということを意味しています。
 この神さまがご自身の安息の日として祝福して、聖別してくださっている天地創造の第7日は、神さまがお造りになった歴史的な世界の歴史となっています。神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、この天地創造の第7日に、神さまから委ねられている歴史と文化を造る使命を遂行します。人は、本来(人が神である「」に対して罪を犯すことがなかったなら)、日々に、歴史と文化を造る使命を遂行しつつ、神さまにいっさいの栄光を帰して礼拝ますし、神さまを礼拝しつつ、歴史と文化を造る使命を遂行します。そして、週の第7日には、いっさいの働きをやめて、ひたすら神さまの御顔を仰ぎ見て、神さまが注いでくださっている愛を受け止め、愛をもって神さまを礼拝するようになります。
 人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことは、造り主である神さまがご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださっている天地創造の第7日に起こったことです。神さまが安息されるのは、ご自身が神のかたちとして造られている人に愛を注いでくださり、人がご自身との愛の交わりに生きるようになることによっていました。そのように神さまの愛を注がれていたものが、罪の力に捕らえられ、神さまに背を向け、死と滅びの道を突き進むようになってしまったのです。これによって、神さまの安息はかき乱されてしまいました。
 このことに関しては一つの疑問が生じてきます。
 すでにお話ししたように、父なる神さまと御子と御霊の間には無限、永遠、不変の愛の通わしがあり、神さまは永遠にまったき充足のうちにおられます。この意味では神さまは永遠にまったき安息のうちにおられます。その安息は、いかなるものによっても揺るがされることはありません。それなのに、神さまの安息がかき乱されてしまったということはどういうことでしょうか。
 確かに、神さまはご自身の完全な愛にあって充足しておられますから、まったき安息のうちにおられます。そして、その安息は永遠に揺るぐことはありません。しかし、いま私たちが問題にしているのは、その意味での安息ではありません。いま私たちが問題にしているのは、ご自身の愛に基づくいつくしみをご自身のお造りになったものに注いでくださること、特に、神のかたちとしてお造りになった人に御顔を向けてくださり、人がご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようにしてくださったこととのかかわりで考えられる安息です。
 このことを考えるために、一つのたとえをお話ししましょう。ある夫婦がまったき愛で結ばれていたとします。夫と妻のあいだにはまったき愛による充足がありました。そこに子どもが生まれてきて、このうえなく温かな家庭が築かれたとします。夫と妻の愛はその子どもにも惜しみなく注がれ、二人の愛による充足は子どもにも及んでいき、子どもを包み込みます。ところが、その子どもが事故に遭って瀕死の重傷を負ったとします。その時、その夫と妻は、自分たちの間にまったき愛の充足があるからということで、心がかき乱されないでしょうか。もちろん、二人の心はかき乱されます。それは、まったき愛をもって人を神のかたちとしてお造りになり、その愛を注いでくださった神さまにも当てはまります。
 しかし、人を神さまに背かせるように働いたサタンの思惑は空しくされ、神さまの安息はかき乱されたまま終ることはありませんでした。
 今お話しした、夫と妻のたとえとどこか通じるところがありますが、父なる神さまと御子との間には無限、永遠、不変の愛の交わりがあり、神さまは永遠にまったく充足しておられます。そのように御子を永遠の愛をもって愛しておられる父なる神さまは、ご自身に対して罪を犯し、ご自身に背を向けて歩んでいた私たちの罪を贖ってくださるために、その御子を贖い主として遣わしてくださいました。そして、十字架につけられた御子イエス・キリストに、私たちの罪に対するご自身の聖なる御怒りを余すところなく注がれました。
 その時、父なる神さまの御子イエス・キリストに対する愛が憎しみに変わったのではありません。イエス・キリストご自身が、ヨハネの福音書10章17節で、

わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

とあかししておられます。父なる神さまと御子イエス・キリストの間には無限、永遠、不変の愛が通わされていて、その愛は決して揺るぐことはありません。そのような愛において御子イエス・キリストと結ばれている父なる神さまが、私たちの罪に対するご自身の聖なる御怒りを、その愛して止まない御子イエス・キリストに余すところなく注がれました。また、御子イエス・キリストは無限、永遠、不変の愛で結ばれている父なる神さまから、私たちの罪に対する聖なる御怒りを余すところなく注がれ、それをご自身のご意思で受けられました。
 それはひとえに、父なる神さまと御子イエス・キリストが私たちを愛してくださり、私たちをご自身との愛に生きるものとして回復してくださり、創造の御業の第7日をご自身の安息の日として祝福し、聖別してくださったことに現されているみこころを実現してくださるためでした。


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