黙示録講解

(第336回)


説教日:2018年5月20日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(89)


 黙示録2章26節後半ー27節に記されているイエス・キリストがテアテラにある教会に語られた約束のみことばに関連するお話を続けます。
 27節前半には「勝利を得る者」への約束として、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼ら[諸国の民]を治める。

と記されています。
 このみことばは、メシア詩篇である詩篇2篇9節に記されている、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばの「打ち砕く」ということばを「治める」(第3版[第3版欄外訳と2017年版では「牧する」])に変えて引用しています。
 今お話ししているのは黙示録の中で詩篇2篇9節前半の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

というみことばを引用している三つの個所の一つである19章15節に、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

と記されているみことばについてです。
 ここでは、詩篇2篇9節前半の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

というみことばの「打ち砕く」ということばを「牧する」に変えて引用して、

 この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。

と言われています。
 19章15節に記されていることの全体的な文脈である11節ー21節を見てみますと。そこには、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

と記されています。
 先々主日から、11節に、

 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

と記されている中で、「白い馬」に「乗った方」のことが、

 義をもってさばきをし、戦いをされる。

と言われていることについてお話しています。
 すでにお話ししたことをまとめますと、ここでは、この方が「さばきをし、戦いをされる」ということが、一般的な真理であることを表す「格言的現在時制」で表されています。このことは、この方が、この終わりの日だけではなく、贖いの御業の歴史をとおして、常に、「義をもってさばきをし、戦いをされる」方であるということを示しています。
 そのことの出発点は、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている「最初の福音」にあります。
 これは、最初の「」エバを誘惑して、神である「」に罪を犯させたサタンに対するさばきの宣告です。エバは罪を犯してサタンと一体に結ばれてしまっている者として、最初の人、アダムを神である「」に罪を犯すよう誘惑し、アダムは神である「」の戒めに背いて罪を犯してしまいました。
 これによって、サタンは神である「」に対する霊的な戦いをしています。神さまは創造の御業によってこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちとしてお造りになった人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられました。サタンは、このことに表されている神さまのみこころの実現を阻止しようとしていたのです。そして、そのサタンの企ては成功しました。


 このような、創造の御業において現された神さまのみこころの中心には神さまの愛があります。これまで、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことについてお話ししました。私たちは人が神である「」に罪を犯して堕落した後の時代に生きているので、歴史と文化を造る使命が労苦を伴う働きであると考えやすいのですが、それは神さまの愛から出ており、神さまとの愛の交わりの中で果たされる使命です。
 今日は、このことについてお話しして、これまでお話ししたことを補足したいと思います。
 これについては、いろいろな機会にお話ししたことは詳しい説明を省いて要点だけをお話しして、いくつかのことを補足してお話しします。
 ヨハネの福音書章1章1節ー2節には、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

と記されています。
 冒頭の「初めに」ということばは、創世記1章1節に、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されているときの「初めに」に当たります。時間はこの歴史的・時間的な世界の時間ですので、創造の御業とともに始まっています。それで、この「初め」は時間の始まりでもあります。そして、

 初めに、ことばがあった。

と言われているときの「あった」も、それに続く二つの「あった」と2節の「おられた」も同じことば(エーン)で、過去のある時点において継続していることを表す未完了時制です。それで、ここでは「ことば」は、神さまがこの歴史的・時間的な世界を創造されたその御業の「初めに」、すでに、存在しておられたことが示されています。これは、「ことば」が永遠の存在であることを意味しています。
 続く、

 ことばは神とともにあった。

と言われているときの「神ともに」ということば(プロス・トン・セオン)は、「ことば」が「」の方を向いているという意味合いをもっていて、「ことば」すなわち御子が、永遠に、父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることを意味しています。このことは大切なことなので、2節にも、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と記されています。また、1章1節ー18節はヨハネの福音書のプロローグ、序言ですが、最後の18節にも、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と記されていて、「ことば」すなわち御子のことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われていて、御子が父なる神さまの愛のうちにおられることが示されています。
 このことを受けて、3節には、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 ここでは、「すべてのもの」は父なる神さまとの愛の交わりのうちにまったく充足しておられる「ことば」すなわち御子によって造られたと言われています。しかも、1節ー2節においては、「ことば」すなわち御子が父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることが繰り返されて強調されています。このことを踏まえて記されている3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されていることは、天地創造の御業が父なる神さまと御子の愛の交わりを踏まえており、いわば、その愛の交わりの一環としてなされたことを意味しています。創造の御業は、父なる神さまが御子によってなされた御業ですが、ご自身の愛を御子をとおして造られた「すべてのもの」に現され、注がれた御業でした。
 ここで、創造の御業が御子によって遂行されたということについても触れておきます。
 神さまは三位一体の神ですが、神さまがお造りになったこの世界とのかかわりでなされた御業においては、御父、御子、御霊の間に、人間になぞらえて言いますと、「役割分担」がなされています。父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられます。それゆえに、創造の御業と贖いの御業の計画者としての職務を果たしておられます。これも、私たち人間の限界に合わせて言うのですが、最も位の高い御使いであっても、被造物であり、神さまと被造物の間には絶対的な区別があります。[注 私たは被造物としての限界の中にあるので、神さまとの絶対的な区別がどのようなことであるかを現実的に知ることができません。私たちとしては、このことをわきまえたうえで、「造り主である神さまと被造物の間には絶対的な区別がある」と言うほかはありません。]それで、どのような被造物も、無限、永遠、不変の栄光の神さまを直接的に知ることはできません。
 それで、まことの神であられる御子が、これも私たち人間の限界に合わせた言い方ですが、限りなく身を低くされ、その無限、永遠、不変の栄光をお隠しになり、父なる神さまのみこころ・ご計画にしたがって、創造の御業を遂行されました。贖いの御業も同様に、御子が遂行されました。御子は限りなく身を低くされ、その無限、永遠、不変の栄光をお隠しになって、被造物世界のすべてのものにかかわってくださる「役割」を担ってくださっています。
 このようなことから、ヨハネの福音書1章3節では、

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われていますし、18節では、

 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と言われています。神のかたちとして造られている人も御使いたちも、ただ、御子をとおして、また、御子にあって神さまがどなたであるかを知ることができます。言い換えますと、父なる神さまは御子をとおして、また、御子にあってご自身を現されるのです。それで、14章6節では、イエス・キリストが、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

と教えておられますし、9節では、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

と教えておられます。
 このように、父なる神さまは御子をとおして、また、御子にあってご自身の愛を造られた「すべてのもの」に注いでおられ、現しておられます。
 しかし、造られた「すべてのもの」がその神さまの愛といつくしみを受けていますが、その愛を自覚的に受け止めることができるのは人格的な存在だけです。神さまは人を愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになり、神さまが注いでおられる愛を受け止めて、愛をもって神さまに応答する者とされました。それで、神のかたちとして造られている人のいのちの本質は、神さまとの愛にある交わりにあります。ヨハネの福音書17章3節に、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と記されているとおりです。この場合、父なる神さまと父なる神さまが遣わされたイエス・キリストを知ることの「知ること」はヘブル的な意味で「知ること」で、私たちのことばでは愛の交わりにおいて「知ること」です。
 今お話ししている1章では、3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されていることに続いて4節に、

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

と記されています。

 この方にいのちがあった。

ということは、1節ー3節に、記されていることを受けています。それは、3節に記されているように、「この方」すなわち御子はおよそ存在する「すべてのもの」をお造りになった方です。そのように創造の御業を遂行された方は単なる力やエネルギーではなく、生きておられる方です。そして、1節で「この方」は、

 初めに、ことばがあった。

と言われているように、何ものにも依存しないで、永遠にご自身で存在しておられます。その意味で、

 この方にいのちがあった。

と言うことができます。
 しかし、

 この方にいのちがあった。

ということは、もちろん、そのことを含みますが、それ以上のことです。どういうことかと言いますと、1節で、

 ことばは神とともにあった。

と言われており、2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われているように、「この方」が永遠に父なる神さまとの無限の愛による交わりのうちにおられるということこそが、

 この方にいのちがあった。

ということの核心なのです。そして、このこととが根底にあって、3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われているように、「この方」が父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにある方として、創造の御業を遂行され、父なる神さまとご自身の愛を「この方によって造られた」「すべてのもの」に注がれました。それで、愛を本質的な特質とする神のかたちに造られている人は「この方」にあって神さまの愛に触れ、神さまとの愛の交わりに生きることができるようになりました。これによって、神のかたちとして造られている人にとって、

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

と言われていることが現実となっているのです。
 この場合の「人の光」とは人のいのちの本質を明らかにし、悟らせてくださる「」です。また、それによって、人がそのいのちに歩むようにしてくださる「」です。愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人のいのちの本質が、御子イエス・キリストにある神さまとの愛の交わりに生きることにあるということを明らかにし、悟らせてくださるとともに、実際に、人がその愛の交わりのうちに生きるようにしてくださるのは「この方」です。「この方」の教えを記しているヨハネの福音書8章12節に、

 わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。

と記されているとおりです。

 このように、神さまは御子によって遂行された創造の御業において、ご自身の愛を造られた「すべてのもの」に注がれました。そして、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人が、その愛を受け止め、愛をもってご自身に応答するようにしてくださいました。それで、神のかたちとして造られている人のいのちの本質は神さまとの愛の交わりにあります。
 そして、この、神さまとの愛の交わりの核心・中心にあるのが神さまへの礼拝です。礼拝は神さまの愛から出ていて、神さまの愛に包まれています。それで、礼拝において、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造られている人は、何よりもまず、神さまの愛を受け止めます。その上で、愛をもって神さまに応答します。
 このような意味をもっている礼拝が成り立つためには、神さまが神のかたちとして造られている人の間にご臨在してくださらなければなりません。先ほどお話ししたことから分かりますが、このことは御子が神のかたちとして造られている人の間にご臨在してくださることによって現実となります。それは、また、父なる神さまが御子にあってご臨在してくださるということでもあります。
 さらに、御子は御霊によってこの世界にご臨在されます。それは、父なる神さまが御子にあって、御霊によってご臨在されるということでもあります。また、それは、御子が御霊によってこの世界の一つ一つのものの特質を生かし、いのちあるものとして造られているもののいのちの営みを初めとして、それぞれの活動や動きを導いてくださっているということを意味しています。
 このことを踏まえますと、詩篇139篇7節ー10節に、

 私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
 私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。
 たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
 私がよみに床を設けても、
 そこにあなたはおられます。
 私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、
 そこでも、あなたの御手が私を導き、
 あなたの右の手が私を捕らえます。

と記されていることも理解することができます。
 ここで「あなた」と呼ばれているのは1節に、

 よ。あなたは私を探り、
 私を知っておられます。

と記されている「」、契約の神である「」、ヤハウェです。7節では、その「」の「御霊から離れ」ることと、「」の「御前から離れ」ることが同一のこととして言い換えられています。そして、このようにして御霊によってこの世界にご臨在される契約の神である「」、ヤハウェは、後の啓示の光に照らして言いますと、御子です。
 また、詩篇104篇30節に、

 あなたが御霊を送られると、彼らは造られます。
 また、あなたは地の面を新しくされます。

と記されていることも、後の啓示の光に照らして言いますと、御子が御霊によってなしておられるお働きのことを記しています。
 御霊は父なる神さまが御子によってお造りになったすべてのものの特質を生かし、その動きや活動のすべてを導いておられます。それで、神のかたちとして造られている人の場合にも、人がその本質的な特質である愛を現すことができるのも、具体的な状況の中でどのように愛を現すかの判断することができるようにしてくださっていることも、すべて、御霊のお働きによっています。また特に、神のかたちとして造られている人が御子の御臨在の御前に近づくことも、また、御子にあって父なる神さまを礼拝することができるのも、人の神のかたちとしてのさまざまな能力を生かしてくださることを初めとして、いのちの営みのすべてを生かし、導いてくださる御霊によることです。その意味で、御霊は「いのちの御霊」と呼ばれます(ローマ人への手紙8章2節、6節、参照・ヨハネの福音書6章63節、ガラテヤ人への手紙6章8節)。

 創世記1章1節ー2章3節に記されている天地創造の御業の記事からも、このことにかかわることを汲み取ることができます。
 1章1節ー2章3節に記されていることの「見出し文」に当たる1章1節においては、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されていて、およそこの世界に存在しているすべてのものは神さまが創造されたものであることが示されています。
 これに続く2節には、

 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

と記されています。1節では宇宙論的な広がりをもって、存在するすべてのものを視野に入れていますが、ここでは、その視点を「」に向けています。そして、神さまが最初に造り出された「」がまだ「茫漠として何もな」く、「やみが大水の上に」あった状態の時に、

 神の霊が水の上を動いていた。

と言われているように、「」には、すでに、「神の霊」の御臨在がありました。この「」は、初めから、神さまが御霊によってご臨在される所として聖別されていました。
 そして、神さまがその御臨在の御許から発せられた、

 光があれ。

というみことばから始まる一連の御業は、この「」をご自身の御臨在に伴う豊かさに満ちた世界として形造り、整えてくださる御業でした。そのようにして造られたこの「」は神さまの御臨在のしるしに満ち溢れていました。
 イザヤ書45章18節に、

 天を創造した方、すなわち神、
 地を形造り、これを仕上げた方、
 すなわちこれを堅く立てた方、
 これを茫漠としたものに創造せず、
 人の住みかにこれを形造った方、
 まことに、このがこう仰せられる。
 「わたしがである。ほかにはいない。

と記されているように、神のかたちとして造られている人は、このように神さまがご自身の御臨在の場として聖別された「」、それゆえに、神さまの御臨在に伴う豊かさに溢れた「」を「住みか」としていただきました。神さまは、神のかたちとして造られている人が、常に、ご自身の御臨在の御許に住い、御臨在の御前を歩むことができるようにしてくださったのです。これは、ひとえに、神さまが人を愛してくださり、愛を本質的な特質とする神のかたちとしてお造りになって、神さまの愛を受け止め、神さまを愛して礼拝することを核心・中心とするご自身との愛の交わりに生きるようにしてくださったためのことでした。
 神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、この神さまの御臨在に伴う豊かさに溢れた「」において、実に多様でありながら、まったき調和のうちに存在しているさまざまな御手の作品に現されている神さまの聖なる属性、特に、神さまの本質的な特質である愛という核心的・中心的な属性の輝きであるご栄光に触れていきます。そして、その栄光をすべて神さまに帰して、神さまを礼拝することを核心・中心として、歴史と文化を造る使命を果たしていきます。その歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を果たすことの核心・中心に、神さまとの愛の交わりの核心であり中心である礼拝があるのです。
 暗闇の主権者であるサタンは、創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになり、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されているみこころの実現を阻止しようとして、神である「」に対する霊的な戦いを始めました。それは、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に注がれた愛を人が受け止めることがないようにしようとしたことでした。そして、実際に、人は神である「」に対して罪を犯したことによって、神のかたちの本質である愛を罪の自己中心性によって腐敗させてしまいました。また、その罪によって汚れたものとなり、神さまの聖なる御臨在の御許から退けられ、御怒りの下に置かれるようになりました。これは、サタンの思惑どおりになったということです。
 けれども、ヨハネの手紙第一・4章9節ー10節に、

 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

と記されているように、神さまはご自身の愛する御子をも、私たちのために「なだめの供え物」とされたほどの愛を私たちに注いでくださいました。私たちはそのような神さまの愛に包まれて、私たちのための「なだめの供え物」となられた御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかり、父なる神さまとの愛の交わりに生きるものとしていただいています。その核心・中心にあるのは、神さまの愛を常に新たに受け止め、神さまを愛して、礼拝することです。今、私たちが御子イエス・キリストにあって、御霊により、父なる神さまを礼拝していることは、霊的な戦いにおいて、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」としてきてくださった御子イエス・キリストが勝利しており、サタンが敗北していることのあかしです。


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