黙示録2章27節前半に記されている、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼ら[諸国の民]を治める。
という、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた「勝利を得る者」への約束のみことばについてのお話を続けます。
今は、この約束のみことばと関連しているみことばの一つである19章15節に記されている、
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
というみことばについてお話ししています。そして、そのためにこのみことばの全体的な文脈である11節ー21節に記されていることを取り上げています。
改めて、そこに記されていることを見てみますと、そこには、
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。
と記されています。
これまで3回にわたって、11節に、
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
と記されている中で、「白い馬」に「乗った方」、すなわち、終わりの日に再臨される栄光のキリストのことが、
義をもってさばきをし、戦いをされる。
と言われていることについてお話してきました。
いつものように、すでにお話ししたことをまとめておきます。
ここで、この方が「さばきをし、戦いをされる」と言われていることは、「格言的現在時制」で表されていて、この方が、ここに記されている終わりの日においてだけではなく、贖いの御業の歴史をとおして、常に、「義をもってさばきをし、戦いをされる」方であるということを示しています。
これまでは、そのことの出発点が創世記3章15節に、
わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。
と記されている、「最初の福音」としての意味をもっている、「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきの宣告にあるということから、それにかかわることをお話ししてきました。
今日は、すでにお話ししたことを踏まえて、さらにお話を続けていきます。
ここで、「白い馬」に「乗った方」が、
義をもってさばきをし、戦いをされる。
と言われていることの出発点は「最初の福音」にありますが、さらに、これにはより広い旧約聖書の背景があります。
この方が、
義をもってさばきをされる
ということについてですが、これはこの方自身が義なる方であられ、ご自身の義に基づいて、さばきを執行されることを示しています。
旧約聖書においては、神である「主」が義であられることが繰り返し示されています。その事例をいくつか見てみましょう。
まず、神である「主」が義であられること自体を記しているいくつかのみことばを引用します。
申命記32章4節には、
主は岩。主のみわざは完全。
まことに、主の道はみな正しい。
主は真実の神で、偽りがなく、
正しい方、直ぐな方である。
と記されています。
詩篇11篇7節には、
主は正しく、正義を愛される。
直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。
と記されています。
詩篇48篇10節には、
神よ。あなたの誉れはあなたの御名と同じく、
地の果てにまで及んでいます。
あなたの右の手は義に満ちています。
と記されています。
詩篇85篇13節には、
義は、主の御前に先立って行き、
主の足跡を道とします。
と記されています。
次に、神である「主」が義であられることがさばきと結びついているみことばをいくつか引用します。
詩篇50篇6節には、
天は神の義を告げ知らせる。
まことに神こそは審判者である。
と記されています。
詩篇97篇1節ー2節には、
主は、王だ。
地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。
雲と暗やみが主を取り囲み、
義とさばきが御座の基である。
と記されています。
ここに記されていることには少し分かりにくいことがあるのと、ここに記されていることが、これからお話ししようとしていることとかかわっているので、少し注釈しておきます。
ここでは、「主」が王として治めておられることは、「地」「多くの島々」ということばから分かるように、全地に及ぶことが示されています。
雲と暗やみが主を取り囲み、
と言われているときの「雲と暗やみ」は、「セオファニー」と呼ばれる神の栄光の顕現にともなうものです。この背景には、出エジプト記19章18節に、
シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。
と記されている、シナイにおける「主」の栄光の御臨在に伴うセオファニーとしての現象があります。申命記4章11節には、この時のことが、
山は激しく燃え立ち、火は中天に達し、雲と暗やみの暗黒とがあった。
と記されています。
この場合には、その栄光の顕現は、
義とさばきが御座の基である。
と言われているように、「主」がその栄光の顕現において御座に着座しておられることが示されています。そして、「主」はその御座に着座して義をもってさばきを執行されます。
ここでは、そのさばきは、
地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。
と言われているように、全地に及びます。ここで「こおどりし」「喜べ」と言われていることは意外なことと思われます。普通ですと、「地」や「多くの島々」は恐れおののくと言われることを予測します。それは、続く3節に、
火は御前に先立って行き
主を取り囲む敵を焼き尽くす。
と記されており、10節に、
主を愛する者たちよ。悪を憎め。
主は聖徒たちのいのちを守り、
悪者どもの手から、彼らを救い出される。
と記されていることから分かりますが、「主」が義をもって世界をおさばきになる時、「主」の民を虐げていた者たちがさばかれるだけでなく、全地に散らされていた「主」の民たちが救い出されて、12節に、
正しい者たち。主にあって喜べ。
その聖なる御名に感謝せよ。
と記されているように、「主」の御許において「主」を讃え、「主にあって喜」ぶようになるからです。
詩篇119篇137節ー138節には、
主よ。あなたは正しくあられます。
あなたのさばきはまっすぐです。
あなたの仰せられるさとしは、なんと正しく、
なんと真実なことでしょう。
と記されています。
ここでは、「主」が「正しく」(ツァッディーク・「義」の形容詞)あられることが「主」のさばきに表れているだけでなく、「主」の「仰せられるさとし」にも表れていることが示されています。
詩篇36篇5節ー6節には、
主よ。あなたの恵みは天にあり、
あなたの真実は雲にまで及びます。
あなたの義は高くそびえる山のようで、
あなたのさばきは深い海のようです。
あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。
と記されています。
ここでは、「主」の「恵み」と「真実」が対になっていて、「義」と「さばき」が対になっています。「恵み」と「真実」が対になって、「主」の「恵み」が「主」の「真実」によって変わることがないことが示されています。そして、「義」と「さばき」が対になって、「主」の「義」によって「主」の「さばき」が執行されることが示されています。
ここにはもう一つ、領域にかかわる組み合せがあります。創世記1章1節で、
初めに、神が天と地を創造した。
と言われているときの「天と地」はメリスムスという表現方法で、この世界に存在する「すべてのもの」を指しています。これに符合するように、この詩篇36篇5節ー6節では、「天」と「雲」が天的な領域にあります。また、「高くそびえる山」と「深い海」が地に属する領域にあります。これによって、「主」によって造られたすべてのものがある所がカバーされています。そして、「主」の真実な「恵み」と、「主」の「義」による「さばき」が造られたすべてのもの、特に「人や獣」に及んでいることが示されています。しかも、特に、「人や獣」が住んでいる地については、「高くそびえる山」と「深い海」の組み合せで、やはりメリスムスになっていて、地のすべての領域を表しています。
引用の最後に、
あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。
と言われているときの「栄えさせる」と訳されていることば(トーシーァ、ヤーシャァのヒフィール語幹)は、「助ける」「救う」「解放する」ということを表します。この場合は、「保持する」ことを表すという見方もあります。ここでは、「主」がお造りになったすべてのもの、特に、「人や獣」が視野に入っているので、より一般的な意味合いがあると考えられます。それで、ここでは、「主」が「義」をもって「さばき」を執行されることによって、不当な抑圧を受け、虐げられている人々が、また、生き物たちが、その抑圧から救出されるということでしょうか。いずれにしましても、ここでも、「主」の真実な恵みと義によるさばきが対立的にではなく、「主」が造られたすべてのものを真実に保ってくださっていることの二つの面として示されています。
詩篇51篇14節には、
神よ。私の救いの神よ。
血の罪から私を救い出してください。
そうすれば、私の舌は、
あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
と記されています。
ここで、「血の罪」は人の血を流した罪、人を殺害した罪か、血を流す刑罰、死刑に値する罪のことです。神さまがそのような重い罪から救い出してくださったとすると、神さまの恵みを「高らかに歌う」と言われることを期待しますが、ここでは、神さまの「義を、高らかに歌う」と言われています。これは、これより前の7節に、
ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。
そうすれば、私はきよくなりましょう。
私を洗ってください。
そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
と記されているように、契約の神である主、ヤハウェが恵みによって備えてくださっている罪のきよめが踏まえられています。神さまが「義」であられることは、ご自身の契約において約束してくださっていることを守ってくださることをも含んでいます。その意味では、このような場合の「義」は「真実」に近いものとなります。ヨハネの手紙第一・1章9節には、
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
と記されていて、神さまが罪を赦してくださり、私たちをきよめてくださることが、神さまが「真実で正しい方」であることと結びつけられています。このことの土台には、ローマ人への手紙3章25節ー26節に、
神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
と記されているイエス・キリストによる罪の贖いがあります。
イザヤ書41章10節ー12節には、
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、
恥を見、はずかしめを受け、
あなたと争う者たちは、
無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争いをする者を捜しても、
あなたは見つけることはできず、
あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。
と記されています。
ここで、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
と言われているときの「右の手」は利き手のことで、その人、この場合は「主」がなそうとしていることを実行するための手段を表します。それが「義の右の手」と言われているのは、「主」の「義」に基づき、「主」の「義」を表すみこころを実現する「右の手」であることを意味しています。
そのことによって、なされることは、11節ー12節に、
見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、
恥を見、はずかしめを受け、
あなたと争う者たちは、
無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争いをする者を捜しても、
あなたは見つけることはできず、
あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。
と記されている、「主」の民に敵対している者たちへのさばきの執行です。
ここでは、「主」の民に敵対している者たちの敵対行為が「いきりたつ」、「争う」[これは、「リーブ」で「法廷で争う」ことです]、「言い争いをする」[マッツート、これは旧約聖書ではここだけに出てくることばです。新改訳は、これの語源的なことばナーツァーが「言い争う」を意味するアラム語に関連しているので、「言い争い」と訳していると思われますが、次の「戦う」の一歩手前で、積極的な争いを意味していると考えられます。NIDNTTE, 5897は"those who strive"と訳して、「争い」を示しています。]、「戦う」とだんだんとひどくなっていくことが示されています。
それに対する「主」のさばきによって、彼らは「恥を見、はずかしめを受け」、「無いもののようになって滅びる」、「捜しても・・・見つけることはできない」、「全くなくなってしまう」と言われています。これらにおいても、「主」のさばきの結果もだんだんとひどくなっていくようになっています。ここでは、この「恥を見、はずかしめを受け」、「無いもののようになって滅びる」、「捜しても・・・見つけることはできない」、「全くなくなってしまう」ということばが、それぞれの文の初めに置かれて強調されています。
ここでは、「主」がご自身の民とともにいてくださって、「義の右の手」でご自身の民を守られることには、ご自身の民に敵対している人々へのさばきの執行が含まれていることが示されています。これを言い換えますと、「主」がご自身に敵対してご自身の民を苦しめている者たちへのさばきを執行されることは、ご自身の民を守られることの一面であるということです。
これらの事例は、「主」が義なる方であることにかかわる事例ですが、すでに、これらの事例から、黙示録19章11節で、「白い馬」に「乗った方」、すなわち、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、
義をもってさばきをし、戦いをされる。
と言われているときの、
義をもってさばきをされる
ということには、私たちご自身の民を救い出してくださり、守ってくださるという、より積極的な面があることが分かります。
そのことは、「主」が、
義をもってさばきをされる
ということに相当することを記している旧約聖書のみことばに、より明確に表されています。
いくつかの個所を見てみましょう。
詩篇9篇7節ー10節には、
しかし、主はとこしえに御座に着き、
さばきのためにご自身の王座を堅く立てられた。
主は義によって世界をさばき、
公正をもって国民にさばきを行われる。
主はしいたげられた者のとりで、
苦しみのときのとりで。
御名を知る者はあなたに拠り頼みます。
主よ。あなたはあなたを尋ね求める者を
お見捨てになりませんでした。
と記されています。
ここでは、永遠に王座に着かれ、
義によって世界をさばき、
公正をもって国民にさばきを行われる
「主」こそが、「しいたげられ」て苦しむ「主」の民の「とりで」となり、拠り所となっていることが示されています。
詩篇72篇1節ー4節には、
神よ。あなたの公正を王に、
あなたの義を王の子に授けてください。
彼があなたの民を義をもって、
あなたの、悩む者たちを
公正をもってさばきますように。
山々、丘々は義によって、
民に平和をもたらしますように。
彼が民の悩む者たちを弁護し、
貧しい者の子らを救い、
しいたげる者どもを、打ち砕きますように。
と記されています。
これは、ダビデ契約に約束されていた永遠の王座に着座するダビデの子が「義をもって」、「公正をもって」さばきを執行することを記しています。
2節で、
彼があなたの民を義をもって、
あなたの、悩む者たちを
公正をもってさばきますように。
と言われていることにはとまどいを感じるかと思います。しかし、4節には、
彼が民の悩む者たちを弁護し、
貧しい者の子らを救い、
しいたげる者どもを、打ち砕きますように。
と記されています。メシアのさばきは「義」と「公正」をもって執行され、「悩む者たちを弁護し」、「貧しい者の子らを救い」、彼らを「しいたげる者どもを、打ち砕」くものです。そのことは、「主」が「主」に敵対する民をおさばきになることだけでなく、ご自身の民をおさばきになることにも当てはまるのです。
詩篇96篇13節には、
確かに、主は来られる。
確かに、地をさばくために来られる。
主は、義をもって世界をさばき、
その真実をもって国々の民をさばかれる。
と記されています。
ダビデ契約に約束されているメシアのことを預言的に記しているイザヤ書11章3節ー4節には、
この方は主を恐れることを喜び、
その目の見るところによってさばかず、
その耳の聞くところによって判決を下さず、
正義をもって寄るべのない者をさばき、
公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
口のむちで国を打ち、
くちびるの息で悪者を殺す。
と記されています。
4節で、
正義をもって寄るべのない者をさばき、
と言われているときの「正義」(ツェデク)は「義」と訳されていることばです。それで、これも、メシアが「義」をもってさばきを執行されることに当たります。また、
寄るべのない者をさばき
と言われていることは、この方は「寄るべのない者」にえこひいきをしないということだという見方もありますが、次に、
公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
と記されていることとのつながりから、また、前の章の10章2節に、不当な判決を下す者たちのことが、
彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、
わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、
やもめを自分のとりこにし、
みなしごたちをかすめ奪っている。
と記されている中に「寄るべのない者」(ダッリーム)が出てくることから、先ほど詩篇72篇1節ー4節に記されていることについてお話ししましたように、「寄るべのない者」たちのためのさばきであると考えられます。
このように、黙示録19章11節において、「白い馬」に「乗った方」、すなわち、終わりの日に再臨される栄光のキリストが、
義をもってさばきをし、戦いをされる。
と言われているときの、
義をもってさばきをされる
ということには、旧約聖書の間接的な背景とより直接的な背景があります。
そして、旧約聖書において、
義をもって世界をさばかれる
と言われており、「主」の民をも義をもってさばかれると言われている方は、「主」である場合と、預言的に示されているメシアである場合があります。
「白い馬」に「乗った方」、すなわち、終わりの日に再臨される栄光のキリストは、このどちらをも成就しておられます。というのは、預言的に示されているメシアが栄光のキリストであることは言うまでもないことですが、黙示録では、栄光のキリストが、旧約聖書に記されている契約の神である主、ヤハウェであられることが、繰り返し、示されているからです。そのことは、特に、1章17節、2章8節、22章13節などに記されていることから分かります。22章13節を見てみますと、そこでは、栄光のキリストが、
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。
とあかししておられます。
そして、何よりも、栄光のキリストこそが、旧約聖書において「主」が、
義をもって世界をさばかれる
と言われていることの「最終的なさばき」を執行される方であるからです。
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