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説教日:2018年5月13日 |
注意したいことは、すでにお話ししたことの再確認ですが、この霊的な戦いは、神さまが創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちとしてお造りになった人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられたことに表されているみこころの実現をめぐる戦いであるということです。 そして、歴史と文化を造る使命は神である「主」を神として礼拝することを中心として、お互いの間で、神のかたちの本質的な特質である愛にある交わりを通わし合いながら、委ねられたものたちにいつくしみを注いでいくことによって造られる歴史と文化造る使命です。 黙示録19章11節において、「義をもってさばきをし、戦いをされる」と格言的現在時制であかしされている方は、この「最初の福音」において約束されていた「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」で、ここでは、終わりの日に、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行するために再臨される時のことが黙示文学的な表象によって記されています。 けれども、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきが執行されて、彼らが滅ぼされることをもって霊的な戦いが終わるわけではありません。 サタンは最初の「女」であるエバを誘惑する前に、神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっています。その意味で、サタンはもともとその罪に対するさばきを受けて滅ぼされるべきものでした。そのサタンが、先ほどの創造の御業に表されている神さまのみこころの実現をめぐって、霊的な戦いを仕掛けているのです。それで、サタンがさばかれて、滅ぼされたとしても、神のかたちとして造られている人が、より正確には、堕落後の状況においては「女」と「女の子孫」の共同体が、神さまから委ねられている、歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を造る使命を果たすようにならないとしたら、霊的な戦いにおいてはサタンが勝利することになってしまいます。 しかし、すでにいろいろな機会にお話ししてきましたが、新約聖書のいくつかの個所は、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られた御子イエス・キリストが、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を、原理的に、成就しておられることをあかししています。 ここでは、代表的に、エペソ人への手紙1章20節ー23節を引用しておきます。そこには、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されています。 20節ー21節において、神さまが「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に」置かれたと言われていることは、神さまの「右の座」が出てくることから分かりますが、詩篇110篇1節の、 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 という預言的なみことばが成就していることを示しています。それで、この「すべての支配、権威、権力、主権」は、ダビデ契約に約束されていたダビデの永遠の王座である神である「主」の右の座に着座されたメシアの敵である暗闇の主権者たちを指していて、サタンの霊的な子孫に属しています。 これは、先週も引用しました、黙示録12章7節ー9節において、サタンとその使いたちが天における霊的な戦いに敗れて、天から投げ落とされたと記されていることに当たります。 注目したいのは、エペソ人への手紙1章では、これだけで終らないで、22節前半で、 また、神は、いっさいのものをキリスト[直訳「彼」]の足の下に従わせた と言われていることです。これは、詩篇8篇6節に、 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されているときの、 万物を彼の足の下に置かれました。 というみことばを引用しています。このみことばは、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 という5節とのつながりでよりはっきりしますが、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられたことに触れています。そして、このみことばを引用しているエペソ人への手紙1章22節においては、その創造の御業において表されている神さまのみこころがイエス・キリストにおいて成就していることを示しています。その意味で、イエス・キリストは歴史と文化を造る使命を、原理的に、成就しておられる方です。 イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を「原理的に」成就しておられるということは、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命にかかわるすべてのことを完全に実現してしまわれて、もう歴史と文化を造る使命は終わっているということではありません。イエス・キリストが、私たちの契約の「かしら」として、罪の贖いを成し遂げてから父なる神さまの右の座に着座されて、歴史と文化を造る使命を成就しておられるということ、そして、その後のすべての時代の主の契約の民が、終わりの日に至るまで、さらには、ヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されていますが、新しい天と新しい地において、イエス・キリストと一体に結ばれて、歴史と文化を造る使命を果たすようになっているということを意味しています。 より具体的には、歴史と文化を造る使命は神のかたちとして造られている人に委ねられているものですので、人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストだけでなく、すべての人に委ねられています。この歴史と文化を造る使命は、堕落後に取り消されたのではありません。そのことは、詩篇8篇5節ー6節に記されていることから分かります。それで、歴史と文化を造る使命は私たちイエス・キリストの民にも委ねられています。 その私たち主の契約の民は、私たちの契約の「かしら」として、罪の贖いを成し遂げてから父なる神さまの右の座に着座されて、歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストと一つに結ばれています。私たちはイエス・キリストにあって(イエス・キリストと一つに結ばれて)、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって死と滅びの中から救い出されているだけでなく、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれている者として、神である「主」を神として礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命を果たす者として回復されているのです。 このような意味において、エペソ人への手紙1章22節においては、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を、原理的に、成就しておられることが示されています。 そして、続く22節後半ー23節には、 [そして]いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されています。ここでは「教会はキリストのからだである」と言われていますが、これは、その前に記されていることを踏まえていて、教会が、父なる神さまの右の座に着座して「すべての支配、権威、権力、主権」の上におられるばかりでなく、創造の御業において表されている神さまのみこころを原理的に成就しておられる栄光のキリストのからだであることを意味しています。 このことを受けて、2章1節ー3節には、 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 と記されています。 これは私たち主の契約の民のかつての歩みを記しています。これを「最初の福音」のことばで言えば、かつての私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であり、サタンとその霊的な子孫に属する者として、神である「主」を神とすることがない歴史と文化、その意味で、「この世の流れに従い」ということばに示されている「この世」「この時代」の歴史と文化を造る者であったということです。 しかし、続く4節ー6節には、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 と記されています。ここでは、神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださったと言われています。そして、「私たちをキリストとともに生かし」てくださったということがさらに、 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。 と説明されています。新改訳で最初に出てくる「キリスト・イエスにおいて」[ギリシア語では最後に出てきます(強調のためでもあります)]は、私たち主の契約の民が契約の「かしら」である「キリスト・イエス」と一体に結ばれていることを示しています。そして、神さまは、私たちをイエス・キリストとの一体性において、イエス・キリストと「ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。 この場合の「天の所に」(エン・トイス・エプーラニオイス)は、1章20節で神さまがイエス・キリストを「天上においてご自分の右の座に着かせ」たと言われているときの「天上において」と同じことばです。これは、私たちが、父なる神さまの右の座に着座して「すべての支配、権威、権力、主権」の上におられるばかりでなく、創造の御業において表されている神さまのみこころを原理的に成就しておられる栄光のキリストとともに「天上において」権威の座に着座する者となっていることを意味しています。 このことのゆえに、かつて、「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいた」私たちは、今は、イエス・キリストにあって、すなわち、イエス・キリストとの一体性にあって、「すべての支配、権威、権力、主権」との霊的な戦いを展開しています。6章12節に、 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。 と記されているとおりです。 その霊的な戦いの勝利は、すでに、イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天において父なる神さまの右の座に着座されたことによって決定的なものとなっています。私たちはこの天において父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストとの一体性にあって、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対する」霊的な戦いを戦っています。それで、私たちは霊的な戦いに勝利することができるのです。それは「最初の福音」にそって言うと、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来てくださったイエス・キリストとの一体性にある「女の子孫」の共同体としての霊的な戦いです。そして、「最初の福音」において、すでに、「女」と「女の子孫」の共同体の勝利は示されています。 その「女の子孫」の共同体は、今は、栄光のキリストのからだとして地上に存在しています。そして、1節23節に、 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されているように、キリストのからだである教会には、栄光のキリストが御霊によってご臨在してくださって、満ちておられます。 ここでは、この栄光のキリストが「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われています。この「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」は何を意味しているか分かりにくいのですが、これは「いっさいのものをあらゆる点において満たす方」(Zerwick&Grosvenor、新国際訳)ということでしょう。 この場合の「いっさいのもの」は、神さまが創造の御業において造り出された「いっさいのもの」です。ヨハネの福音書1章1節ー3節に、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されているように、その創造の御業を遂行されたのは御子です。そして、ヘブル人への手紙1章3節前半に、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 と記されているように、造られたすべてのものを真実に保っておられるのも御子です。 そのようにして御子イエス・キリストによって造られ、保たれている「いっさいのもの」の中には、神さまに逆らって、霊的な戦いを仕掛けたサタンとその霊的子孫である悪霊たちや、かつて私たちもそうでしたが、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまって、造り主である神さまを神としてはいない人々も含まれています。造られたものの中には、造り主である神さまに支えられていないものはありません。 エペソ人への手紙1章23節で、 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって[あらゆる点において]満たす方の満ちておられるところです。 と言われていることは、御子イエス・キリストが、このように、「いっさいのものをあらゆる点において満たす方」であることを踏まえていますが、それだけではありません。これは、その前の22節で、 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 と言われていることを受けています。 先ほどお話ししましたように、 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせた と言われていることは、イエス・キリストが、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命を、原理的に、成就しておられることを示しています。 このことは、霊的な戦いにおいて決定的に大切なことです。というのは、先ほどお話ししましたように、霊的な戦いは、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことに表されているみこころの実現をめぐる戦いだからです。 繰り返しになりますが、暗闇の主権者であるサタンや悪霊たちは、自分たちが神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時から、さばきを受けて滅びるべき者であることを知っています。そのことを知っていて、なお、神さまが創造の御業においてお示しになったみこころが実現することを阻止しようとして働きました。ですから、霊的な戦いは、最終的には、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことに表されているみこころの実現をめぐる戦いです。それで、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられることは、霊的な戦いにおいて決定的に大切なことなのです。 22節後半では、神さまは、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる方として「いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました」と言われています。そして、23節では、キリストは「いっさいのものの上に立つかしらである」のですが、その「キリストのからだ」は「いっさいのもの」ではなく「教会」であると言われています。そして、この「教会」に、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる方として「いっさいのものの上に立つかしら」であるキリストが、「いっさいのものをいっさいのものによって[あらゆる点において]満たす方」としてご臨在してくださり、満たしてくださっていると言われています。 それで、このキリストのからだである教会こそが、サタンとその霊的な子孫の共同体に対する霊的な戦いを展開する、「女」と「女の子孫」の共同体です。 黙示録19章11節で「格言的現在時制」で「さばきをし、戦いをされる」方として示されている栄光のキリストは、すでに歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる「かしら」として、ご自身のからだである教会をあらゆる点において満たしてくださっています。そして、ご自身のからだである教会が、神である「主」を神として礼拝することを中心として、「来たるべき世」「来たるべき時代」(あるいは「新しい世」「新しい時代」)の歴史と文化を造ることによって、サタンとその霊的な子孫の共同体に対する霊的な戦いを勝利のうちに展開し、最終的には、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たすようになることにおいて完全に勝利するように導いてくださっています。 今、私たちが、エペソ人への手紙2章20節に、 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。 と記されているように、「使徒と預言者」が伝えた福音のみことばに基づいて、キリストのからだである教会として存在していること、そして、特に主の日に、イエス・キリストにあって、造り主である神さまを神として礼拝していることは、霊的な戦いの核心にあることであり、「来たるべき世」「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことの核心にあることです。 |
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