黙示録講解

(第335回)


説教日:2018年5月13日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(88)


 黙示録2章26節後半ー27節に記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

という、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた約束のみことばについてのお話を続けます。
 今取り上げているのは27節前半に記されている、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

というみことばです。
 このみことばは、詩篇2篇9節に記されている、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばを引用しています。その際に前半の「打ち砕く」ということばを「治める」(第3版[第3版欄外訳と2017年版では「牧する」])に変えています。
 黙示録の中では、詩篇2篇9節前半の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

というみことばが、ここのほか、12章5節と19章15節でも引用されているので、それぞれの個所に記されていることについてお話ししています。今は19章15節に、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

と記されていることについてお話ししています。
 ここに出てくる、

 この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。

というみことばが、詩篇2篇9節前半の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

というみことばの「打ち砕く」ということばを「牧する」に変えて引用しています。
 いつものように、19章15節に記されていることを文脈の中で見るために、11節ー21節を引用します。そこには、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

と記されています。
 先主日は、11節に、

 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

と記されている中で、「白い馬」に「乗った方」のことが、

 義をもってさばきをし、戦いをされる。

と言われていることについてお話ししました。
 今日は、このことをさらに補足するお話をします。
 ここでは、この方が「さばきをし、戦いをされる」ということが、一般的な真理であることを表す「格言的現在時制」で表されています。このことは、この方が、この終わりの日だけではなく、贖いの御業の歴史をとおして、常に、「義をもってさばきをし、戦いをされる」方であるということを示しています。
 そのことの出発点は、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている「最初の福音」にあります。
 これは、最初の「」エバを誘惑して、神である「」に罪を犯させたサタンに対するさばきの宣告です。サタンはさらに罪を犯してサタンと一体に結ばれてしまっている「」を用いて、最初の人、アダムを神である「」に罪を犯すよう誘惑して成功しました。
 このことは、サタンと人との問題であるように見えますが、これには、それを越えたより根本的な問題があります。
 それは、これによって、サタンが神である「」に対する霊的な戦いをしているということです。神さまは創造の御業によってこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちとしてお造りになった人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられました。サタンは、このことに表されている神さまのみこころの実現を阻止しようとしていたのです。そして、そのサタンの企ては成功しました。
 しかし、神である「」はこの「最初の福音」をとおしてそのサタンの企てを超えたみこころを示されました。それは、神である「」が、この時に、直接的にサタンに対するさばきを執行されないで、「」と「女の子孫」の共同体がサタンとサタンの霊的な子孫の共同体と霊的な戦いを展開していくこと、そして、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方が、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体の「かしら」であるサタンに対する最終的なさばきを執行するということです。
 これはまた、霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」が神である「」の側に立つようになるということ、また、「」と「女の子孫」が神である「」のしもべとなるということで、「」と「女の子孫」の救いを意味しています。それで、この神である「」のサタンへのさばきの宣言は「最初の福音」と呼ばれます。


 注意したいことは、すでにお話ししたことの再確認ですが、この霊的な戦いは、神さまが創造の御業においてこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、神のかたちとしてお造りになった人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられたことに表されているみこころの実現をめぐる戦いであるということです。
 そして、歴史と文化を造る使命は神である「」を神として礼拝することを中心として、お互いの間で、神のかたちの本質的な特質である愛にある交わりを通わし合いながら、委ねられたものたちにいつくしみを注いでいくことによって造られる歴史と文化造る使命です。
 黙示録19章11節において、「義をもってさばきをし、戦いをされる」と格言的現在時制であかしされている方は、この「最初の福音」において約束されていた「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」で、ここでは、終わりの日に、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行するために再臨される時のことが黙示文学的な表象によって記されています。
 けれども、サタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきが執行されて、彼らが滅ぼされることをもって霊的な戦いが終わるわけではありません。
 サタンは最初の「」であるエバを誘惑する前に、神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっています。その意味で、サタンはもともとその罪に対するさばきを受けて滅ぼされるべきものでした。そのサタンが、先ほどの創造の御業に表されている神さまのみこころの実現をめぐって、霊的な戦いを仕掛けているのです。それで、サタンがさばかれて、滅ぼされたとしても、神のかたちとして造られている人が、より正確には、堕落後の状況においては「」と「女の子孫」の共同体が、神さまから委ねられている、歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を造る使命を果たすようにならないとしたら、霊的な戦いにおいてはサタンが勝利することになってしまいます。
 しかし、すでにいろいろな機会にお話ししてきましたが、新約聖書のいくつかの個所は、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られた御子イエス・キリストが、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を、原理的に、成就しておられることをあかししています。
 ここでは、代表的に、エペソ人への手紙1章20節ー23節を引用しておきます。そこには、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 20節ー21節において、神さまが「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に」置かれたと言われていることは、神さまの「右の座」が出てくることから分かりますが、詩篇110篇1節の、

 は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

という預言的なみことばが成就していることを示しています。それで、この「すべての支配、権威、権力、主権」は、ダビデ契約に約束されていたダビデの永遠の王座である神である「」の右の座に着座されたメシアの敵である暗闇の主権者たちを指していて、サタンの霊的な子孫に属しています。
 これは、先週も引用しました、黙示録12章7節ー9節において、サタンとその使いたちが天における霊的な戦いに敗れて、天から投げ落とされたと記されていることに当たります。
 注目したいのは、エペソ人への手紙1章では、これだけで終らないで、22節前半で、

 また、神は、いっさいのものをキリスト[直訳「彼」]の足の下に従わせた

と言われていることです。これは、詩篇8篇6節に、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているときの、

 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばを引用しています。このみことばは、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

という5節とのつながりでよりはっきりしますが、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に、この歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねられたことに触れています。そして、このみことばを引用しているエペソ人への手紙1章22節においては、その創造の御業において表されている神さまのみこころがイエス・キリストにおいて成就していることを示しています。その意味で、イエス・キリストは歴史と文化を造る使命を、原理的に、成就しておられる方です。
 イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を「原理的に」成就しておられるということは、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命にかかわるすべてのことを完全に実現してしまわれて、もう歴史と文化を造る使命は終わっているということではありません。イエス・キリストが、私たちの契約の「かしら」として、罪の贖いを成し遂げてから父なる神さまの右の座に着座されて、歴史と文化を造る使命を成就しておられるということ、そして、その後のすべての時代の主の契約の民が、終わりの日に至るまで、さらには、ヘブル人への手紙2章5節ー10節に記されていますが、新しい天と新しい地において、イエス・キリストと一体に結ばれて、歴史と文化を造る使命を果たすようになっているということを意味しています。
 より具体的には、歴史と文化を造る使命は神のかたちとして造られている人に委ねられているものですので、人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストだけでなく、すべての人に委ねられています。この歴史と文化を造る使命は、堕落後に取り消されたのではありません。そのことは、詩篇8篇5節ー6節に記されていることから分かります。それで、歴史と文化を造る使命は私たちイエス・キリストの民にも委ねられています。
 その私たち主の契約の民は、私たちの契約の「かしら」として、罪の贖いを成し遂げてから父なる神さまの右の座に着座されて、歴史と文化を造る使命を成就しておられるイエス・キリストと一つに結ばれています。私たちはイエス・キリストにあって(イエス・キリストと一つに結ばれて)、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって死と滅びの中から救い出されているだけでなく、イエス・キリストの復活にあずかって新しく生まれている者として、神である「」を神として礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命を果たす者として回復されているのです。
 このような意味において、エペソ人への手紙1章22節においては、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を、原理的に、成就しておられることが示されています。
 そして、続く22節後半ー23節には、

[そして]いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。ここでは「教会はキリストのからだである」と言われていますが、これは、その前に記されていることを踏まえていて、教会が、父なる神さまの右の座に着座して「すべての支配、権威、権力、主権」の上におられるばかりでなく、創造の御業において表されている神さまのみこころを原理的に成就しておられる栄光のキリストのからだであることを意味しています。
 このことを受けて、2章1節ー3節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 これは私たち主の契約の民のかつての歩みを記しています。これを「最初の福音」のことばで言えば、かつての私たちは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であり、サタンとその霊的な子孫に属する者として、神である「」を神とすることがない歴史と文化、その意味で、「この世の流れに従い」ということばに示されている「この世」「この時代」の歴史と文化を造る者であったということです。
 しかし、続く4節ー6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。ここでは、神さまが「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」てくださったと言われています。そして、「私たちをキリストとともに生かし」てくださったということがさらに、

 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と説明されています。新改訳で最初に出てくる「キリスト・イエスにおいて」[ギリシア語では最後に出てきます(強調のためでもあります)]は、私たち主の契約の民が契約の「かしら」である「キリスト・イエス」と一体に結ばれていることを示しています。そして、神さまは、私たちをイエス・キリストとの一体性において、イエス・キリストと「ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」。
 この場合の「天の所に」(エン・トイス・エプーラニオイス)は、1章20節で神さまがイエス・キリストを「天上においてご自分の右の座に着かせ」たと言われているときの「天上において」と同じことばです。これは、私たちが、父なる神さまの右の座に着座して「すべての支配、権威、権力、主権」の上におられるばかりでなく、創造の御業において表されている神さまのみこころを原理的に成就しておられる栄光のキリストとともに「天上において」権威の座に着座する者となっていることを意味しています。
 このことのゆえに、かつて、「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいた」私たちは、今は、イエス・キリストにあって、すなわち、イエス・キリストとの一体性にあって、「すべての支配、権威、権力、主権」との霊的な戦いを展開しています。6章12節に、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と記されているとおりです。
 その霊的な戦いの勝利は、すでに、イエス・キリストが私たちご自身の民のために十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天において父なる神さまの右の座に着座されたことによって決定的なものとなっています。私たちはこの天において父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストとの一体性にあって、「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対する」霊的な戦いを戦っています。それで、私たちは霊的な戦いに勝利することができるのです。それは「最初の福音」にそって言うと、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来てくださったイエス・キリストとの一体性にある「女の子孫」の共同体としての霊的な戦いです。そして、「最初の福音」において、すでに、「」と「女の子孫」の共同体の勝利は示されています。
 その「女の子孫」の共同体は、今は、栄光のキリストのからだとして地上に存在しています。そして、1節23節に、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されているように、キリストのからだである教会には、栄光のキリストが御霊によってご臨在してくださって、満ちておられます。
 ここでは、この栄光のキリストが「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われています。この「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」は何を意味しているか分かりにくいのですが、これは「いっさいのものをあらゆる点において満たす方」(Zerwick&Grosvenor、新国際訳)ということでしょう。
 この場合の「いっさいのもの」は、神さまが創造の御業において造り出された「いっさいのもの」です。ヨハネの福音書1章1節ー3節に、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されているように、その創造の御業を遂行されたのは御子です。そして、ヘブル人への手紙1章3節前半に、

 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されているように、造られたすべてのものを真実に保っておられるのも御子です。
 そのようにして御子イエス・キリストによって造られ、保たれている「いっさいのもの」の中には、神さまに逆らって、霊的な戦いを仕掛けたサタンとその霊的子孫である悪霊たちや、かつて私たちもそうでしたが、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまって、造り主である神さまを神としてはいない人々も含まれています。造られたものの中には、造り主である神さまに支えられていないものはありません。
 エペソ人への手紙1章23節で、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって[あらゆる点において]満たす方の満ちておられるところです。

と言われていることは、御子イエス・キリストが、このように、「いっさいのものをあらゆる点において満たす方」であることを踏まえていますが、それだけではありません。これは、その前の22節で、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と言われていることを受けています。
 先ほどお話ししましたように、

 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせた

と言われていることは、イエス・キリストが、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命を、原理的に、成就しておられることを示しています。
 このことは、霊的な戦いにおいて決定的に大切なことです。というのは、先ほどお話ししましたように、霊的な戦いは、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことに表されているみこころの実現をめぐる戦いだからです。
 繰り返しになりますが、暗闇の主権者であるサタンや悪霊たちは、自分たちが神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時から、さばきを受けて滅びるべき者であることを知っています。そのことを知っていて、なお、神さまが創造の御業においてお示しになったみこころが実現することを阻止しようとして働きました。ですから、霊的な戦いは、最終的には、神さまが創造の御業において神のかたちとしてお造りになった人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことに表されているみこころの実現をめぐる戦いです。それで、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられることは、霊的な戦いにおいて決定的に大切なことなのです。
 22節後半では、神さまは、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる方として「いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました」と言われています。そして、23節では、キリストは「いっさいのものの上に立つかしらである」のですが、その「キリストのからだ」は「いっさいのもの」ではなく「教会」であると言われています。そして、この「教会」に、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる方として「いっさいのものの上に立つかしら」であるキリストが、「いっさいのものをいっさいのものによって[あらゆる点において]満たす方」としてご臨在してくださり、満たしてくださっていると言われています。
 それで、このキリストのからだである教会こそが、サタンとその霊的な子孫の共同体に対する霊的な戦いを展開する、「」と「女の子孫」の共同体です。
 黙示録19章11節で「格言的現在時制」で「さばきをし、戦いをされる」方として示されている栄光のキリストは、すでに歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる「かしら」として、ご自身のからだである教会をあらゆる点において満たしてくださっています。そして、ご自身のからだである教会が、神である「」を神として礼拝することを中心として、「来たるべき世」「来たるべき時代」(あるいは「新しい世」「新しい時代」)の歴史と文化を造ることによって、サタンとその霊的な子孫の共同体に対する霊的な戦いを勝利のうちに展開し、最終的には、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を果たすようになることにおいて完全に勝利するように導いてくださっています。
 今、私たちが、エペソ人への手紙2章20節に、

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

と記されているように、「使徒と預言者」が伝えた福音のみことばに基づいて、キリストのからだである教会として存在していること、そして、特に主の日に、イエス・キリストにあって、造り主である神さまを神として礼拝していることは、霊的な戦いの核心にあることであり、「来たるべき世」「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を果たすことの核心にあることです。


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