黙示録講解

(第334回)


説教日:2018年5月6日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(87)


 黙示録2章26節後半ー27節には、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた二つの約束のみことばうちの最初の約束のみことばが記されています。
 今取り上げているのは27節前半に記されている、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

というみことばです。
 このみことばは、詩篇2篇9節に記されている、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばを引用しています。その際に前半の「打ち砕く」ということばを「治める」(第3版[第3版欄外訳と2017年版では「牧する」])に変えています。この「治める」と訳されていることば(ポイマイノー)は、基本的に、「牧者」(ポイメーン)が「(群れの)世話をする」こと、「牧する」ことを表します。
 黙示録の中では、詩篇2篇9節前半の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

というみことばが、ここ2章27節前半のほか、12章5節と19章15節でも引用されています。12章5節についてはすでにお話しして、今は19章15節に、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

と記されていることについてお話ししています。
 ここに出てくる、

 この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。

というみことばが、詩篇2篇9節前半の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

というみことばの「打ち砕く」ということばを「牧する」に変えて引用しています。
 19章15節に記されていることを全体の文脈の中で見るために、11節ー21節を引用します。そこには、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

と記されています。
 これまで、まず、11節の冒頭に記されている、

 また、私は開かれた天を見た。

と記されていることについてお話ししました。これは、ここから、終わりの日におけること、その意味で「終末的なこと」についての啓示が始まっていることを示しています。
 これに続いて11節で、

 見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。

と記されていることについてお話ししています。
 この「白い馬」に「乗った方」は、終わりの日に再臨される栄光のキリストで、「『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる」方として示されています。それで、ここでは、栄光のキリストがメシアとして霊的な戦いを戦うために「白い馬」に乗って出陣することを示しています。
 先主日と先々主日には、この方が「『忠実また真実』と呼ばれる方」であると言われているときの「忠実また真実」ということについてお話ししました。

          *
 これに続いて、この方は、

 義をもってさばきをし、戦いをされる。

と言われています。
 ここでは、この方が「さばきをし、戦いをされる」ということは現在時制で表されています。これは、一般的な真理であることを表す「格言的現在時制」で、この方が、この時だけではなく、贖いの御業の歴史をとおして、常に、「義をもってさばきをし、戦いをされる」ということを示していると考えられます。
 そのことの出発点は、先々主日にお話ししました「最初の福音」にあります。「最初の福音」は、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています。
 これは形としては、神である「」に背くように「」を誘惑して罪を犯させた「」に対する、神である「」のさばきの宣告のことばです。しかし、単なる生き物としての「」には造り主である神さまへのわきまえはありませんし、理性的な判断も推論もできません。それで、これは「」を用いて働いていたサタンに対する神である「」のさばきの宣告のことばです。
 その要点を簡単に振り返っておきましょう。
 神である「」は、まず、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。

と言われました。
 この時、「」はサタンの誘惑によって欺かれて、神である「」の戒めに背き、善悪の知識の木から取って食べてしまいました。それによって、彼女は罪によってサタンと一つに結ばれてしまいました。その結果、「」は背後に退いて、彼女がサタンの思惑を実行するようになり、夫を神である「」の戒めに背くように誘ってしまいました。
 これに先立つ8節ー13節には、エデンの園にご臨在された神である「」が人とその妻に問いかけて、二人が罪を認めて悔い改める機会を与えてくださいましたが、二人は、自分たちは被害者であると主張して、自分の罪を認めて悔い改めることはありませんでしたし、できませんでした。
 神である「」は、このように罪によってサタンと一体となってしまい、自分の力で神である「」に立ち返ることができなくなっている「」とサタンとの間に「敵意」を置くと言われました。神である「」が「」とサタンの一体性を引き裂き、「」がサタンに「敵意」をもって立ち向かうようになるというのです。
 ここではこの「敵意」ということばが最初に出てきて強調されています。しかも、この「敵意」ということばの用例を見てみますと、これは相手を殺し、滅ぼしてしまうことにつながる「敵意」です。
 さらに、この「敵意」はサタンと「」の間の一代限りのことではなく、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に

と言われているように、それぞれの子孫の間にまで及ぶと言われています。
 これは二つのことを意味しています。
 一つは、神である「」が、この時に、直接的にサタンに対するさばきを執行されていたら、罪によってサタンと一つに結ばれていた人とその妻もさばきを受けて、サタンとともに滅ぼされていたことでしょう。そうなっていたら、そこで人類の歴史は終っていたことでしょう。しかし、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に

と言われているように、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体と、「」と「女の子孫」の共同体が存続して、霊的な戦いを展開していくことが示されています。そして、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されているように、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方が、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体の「かしら」であるサタンに対する最終的なさばきを執行することが示されています。
 もう一つは、神である「」がサタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行するために「」と「女の子孫」を用いられるということで、「」と「女の子孫」が神である「」のものとなるということを意味しています。言い換えますと、霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」が神である「」の側に立つようになるということで、「」と「女の子孫」の救いを意味しています。それで、この神である「」のサタンへのさばきの宣言は「最初の福音」と呼ばれます。

          *
 黙示録19章11節において、「義をもってさばきをし、戦いをされる」と格言的現在時制であかしされている、「白い馬」に「乗った方」は、この「最初の福音」において約束されていた「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方です。そして、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」としては「」から生まれるまことの人です。
 黙示録12章1節ー2節において、

また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。

と記されている「」は古い契約と新しい契約の時代をとおして存在する主の契約の民、広い意味での教会を黙示文学的な表象によって表しています。それで、これは「」と「女の子孫」の共同体です。この「」はみごもっていて、子を産もうとしています。
 そして、3節ー4節に、

また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。

と記されている「大きな赤い竜」はサタンを黙示文学的な表象によって表しています。
 この「大きな赤い竜」は「」が産もうとしている「」を「食い尽く」そうとしています。このことの背景には「最初の福音」があります。サタンとしては、自分に対する最終的なさばきを執行することになっている「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」を亡き者にしてしまえば、「最初の福音」に示されている神である「」のみこころの実現を阻止することができるということだったのです。
 しかし、続く5節には、

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。

と記されています。これを「最初の福音」に照らしてみると、この「男の子」はサタンに対する神である「」の最終的なさばきを執行することになっている方です。そして、「神のみもと」に「引き上げられ」、サタンに対する最終的なさばきを執行される主権者として(また、御許から遣わされた御霊によって救いの御業を遂行され、完成される主権者として)御座に着座されました。
 これを受けて7節ー9節には、

さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

と記されています。
 もう、神である「」が「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られた方が、霊的な戦いにおける決定的な戦いに勝利されています。後は、サタンに対する最終的なさばきが執行されるだけです。この時以来、サタンとその霊的な子孫たちは、最終的には自分たちが敗北することを知りながら、いわば、最後の抵抗を試みているだけです。
 これが「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られた御子イエス・キリストが、その十字架の死によって私たちご自身の民の罪を贖ってくださったこと、また、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことによって、私たちのために義を確立してくださるとともに、その完全な従順に対する報いとして栄光を受けて死者の中からよみがえられたこと、そして、天に上られて父なる神さまの右の座に着座されて、そこから約束の聖霊を注いでくださったことから始まって、今日に至るまで続いている霊的な戦いの状況であり、神である「」が遂行しておられる救いとさばきの御業の歴史的な状況です。
 19章11節において、格言的現在時制で、「義をもってさばきをし、戦いをされる」とあかしされている、「白い馬」に「乗った方」は、今から2千年前に、私たちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられてから今日に至るまで「義をもってさばきをし、戦いをされ」て来られました。そして、その「義をもってさばきをし、戦いをされる」ことは、終わりの日まで続き、終わりの日に、最終的なさばきがなされ、最終的な霊的な戦いがなされます。この19章11節からは、その最終的なさばきがなされ、最終的な霊的な戦いがなされることが啓示されています。
 12章5節で、霊的な戦いの決定的な戦いをされた方が、

 この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。

と言われており、19章15節で、霊的な戦いの最終的な戦いと最終的なさばきを執行される方が、

 この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。

と言われているというつながりがあります。

          *
 そのサタンとサタンの霊的な子孫に対する最終的な霊的な戦いがなされ、最終的なさばきが執行される終わりの日がいつであるかは、父なる神さまが決めておられることです。終わりの日についてのイエス・キリストの教えを記している、マタイの福音書24章36節に、

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

と記されているとおりです。[注]

[注]仮にその日が2050年1月1日であるとしましょう、その場合、「イエス・キリストは2050年1月1日」ということは、主の民であればだれでも分かります。これを知るのに特殊な能力が必要なわけではありません。これは、私が量子力学について説明されても、それを理解する能力がないので分からないというのとは違います。これは神さまの贖いの御業における(人間になぞらえて言いますが)「役割分担」において、終わりの日がいつであるかを定めておられるのは父なる神さまであるということで、私たちと一つとなるために人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストはそのような役割を担っておられないということです。

 とはいえ、イエス・キリストは、終わりの日についていくつかのことを示しておられます。
 ここでは、同じマタイの福音書24章で、終わりの日についてのイエス・キリストの一般的な教えを記している、4節ー14節を引用しておきましょう。そこには、

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

と記されています。
 ここに記されていることは、かつては、いくつかの限られた地域や時代に見られるものでしたが、グローバル化の時代と呼ばれる今日では、これは、世界の至るところで現実となってきています。しかし、イエス・キリストは、いくつかのことを注意するよう戒めておられます。まず、冒頭の4節で、

 人に惑わされないように気をつけなさい。

と言われてから、5節で、

わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすでしょう。

と教えておられます。続く、6節では、

また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

というように、「戦争」(複数形)という最も人を恐れさせることであろうことを聞いても、

 気をつけて、あわてないようにしなさい。

と戒めるとともに、

 これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

と教えておられます。そして、7節で、

 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

と教えておられます。これは、6節の「戦争」を受けていると考えられますが、それが、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」というように、その広がりの大きさを示しています。この場合は、「立ち上がり」と訳されていることばが最初に来て強調されていますが、受動態で表されています。民族や国がお互いに敵対して立ち上がらなければならないような状況が生まれて、その流れに飲み込まれていくことが示されている可能性があります。そして、争いによる荒廃がもたらす飢饉だけでなく、自然界の混乱による「ききんと地震」のことにも触れられています。その上で、イエス・キリストは、8節で、

 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。

と教えておられます。
 9節では、

そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

と言われています。これは「そのとき」と言われていますように、これに先立つ4節ー8節に記されていることが起こっている時に、「あなたがた」と言われているイエス・キリストの弟子たちに起こることです。これは、私たちをも含めて、終わりの日に至るまでの時代においてイエス・キリストに従う人々に起こることです。
 そして、10節では、

また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。

と言われています。ここに記されていることも「そのとき」ということば(トテ)で導入されているので、9節に記されていること、さらには、4節ー8節に記されていることと同じ時に起こると考えられます。
 ここで目立つのは「多くの人々」「多くのにせ預言者」です(10節の「人々が大ぜい」も「多くの人々が」)。10節で、

 人々が大ぜいつまずき

と言われていることは、信じている人々に起こることです。この場合は、おもに9節で、

そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。

と言われている状況に置かれた人々が、つまずいて、信仰を捨ててしまうようになることであると考えられています。けれども、そればかりでなく、4節ー8節に記されている、人々を不安に陥れるような状況、それがもたらすさまざまな悲惨なことなどによっても、つまずきがもたらされると考えられます。そして、そのようにしてつまずいた「多くの人々」の間で「互いに裏切り、憎み合います」ということが起こると考えられます。
 そうであるとしますと、11節ー12節に、

また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

と記されていることも、おもに、信じている人々の間で起こることであると考えられます。このことは、13節で、

 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

と教えられていることによっても支持されます。
 特に注目したいのは、最後の14節に、

 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

と記されていることです。
 これまでお話ししてきましたように、このような困難な状況に陥ることは、イエス・キリストの教えを直接聞いた弟子たちを初めとして終わりの日に至るまでのすべての時代のイエス・キリストの民に起こります。そうではあっても、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ」るようになります。それは、今日まで、福音のみことばはさまざまな攻撃にさらされながらも、絶えることなくあかしされ続けてきました。
 これは、創世記12章3節に記されている、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、「」がアブラハムを召してくださったときに示してくださった祝福の約束を受けています。神である「」はアブラハムに与えてくださった祝福の約束に対して真実であられ、終わりの日に至るまで、福音のみことばが「全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ」るように、ご自身の民を支え、導いてくださっています。これは、新しい契約の下では、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身民のための贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストが、その贖いの御業に基づいて、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

と命じられ、約束してくださっていることが現実になっているということです。
 また、これは、黙示録19章11節で、格言的現在時制で、「義をもってさばきをし、戦いをされる」とあかしされている方が、終わりの日に至るまで、「義をもってさばきをし、戦いをされる」ことの中心にあることです。サタンとの霊的な戦いのことを記している黙示録12章11節に、

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼[サタン]に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

と記されています。これは、先ほど引用しましたマタイの福音書24章4節ー13節に記されている困難な状況にあって、「最後まで耐え忍ぶ者」と言われている主の民の姿です。


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