黙示録講解

(第333回)


説教日:2018年4月29日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(86)


 黙示録2章26節後半ー27節に記されている、イエス・キリストの約束のみことばについてのお話を続けます。
 今取り上げているのは27節前半に記されている、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

というみことばです。
 このみことばは、詩篇2篇9節に記されている、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばを引用しています。その際に「打ち砕く」ということばを「治める」(第3版)[2017年版は「牧する」]に変えています。
 黙示録の中では、詩篇2篇9節前半の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

というみことばが、ここ2章27節前半のほか、12章5節と19章15節でも引用されています。今は19章15節に、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

と記されていることについてお話ししています。
 ここに出てくる、

 この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。

というみことばが、詩篇2篇9節前半の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

というみことばの「打ち砕く」ということばを「牧する」に変えて引用しています。
 19章15節に記されていることは11節ー21節に記されていることの一部です。その全体の文脈を見るために、11節ー21節を引用します。そこには、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

と記されています。
 先主日は、おもに、11節で、

 見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、

と記されているときの、「白い馬」に「乗った方」、栄光のキリストが「『忠実また真実』と呼ばれる方」と言われていることについてお話ししました。
 この「忠実な」と訳されていることば(ピストス)は、私たちが通常用いている「忠実な」という意味に、忠実であるので「信頼できる」「信用できる」という意味合いがあります。
 この方が「信頼できる」「信用できる」のは、この方が語ることなすことが真実であるからです。先主日にお話ししたように、このことばはヨハネの手紙第一・1章9節に、

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と記されているみことばの中で、「神は真実で正しい方です」と言われているときの「真実で」と訳されていることばです。これは、神さまがご自身の契約に対して「真実で」あり、契約において約束してくださっていることを必ず実現してくださることを意味しています。その意味では、この「忠実な」と訳されていることばは、次に出てくる、「真実な」ということばと重なる意味合いをもっています。
 黙示録19章11節では、イエス・キリストが「忠実な」方と言われているので、イエス・キリストが父なる神さまに対しては「忠実な」方であられ、私たちにとっては信頼できる方、私たちがすべてをお委ねしてよい方であることを表していると考えられます。
 イエス・キリストが、父なる神さまに対しては「忠実な」方であられ、私たちにとっては信頼できる方、私たちがすべてをお委ねしてよい方であるということは、イエス・キリストが契約の主、ヤハウェなる方であり、父なる神さまのみこころにしたがって神さまの契約を実現される「忠実な」方であるとともに、次の「真実な」ということばと相まって、契約に対して真実な方であり、私たちご自身の民のために必ず契約を守られる方であることによっています。
 もう一つの「真実な」ということば(アレーシノス)は「真理」を意味することば(アレーセイア)の関連語で、偽りのものではなく「本物の」「正真正銘の」ということを表します。
 先主日は、黙示録における、この「真実な」ということばの用例をお話ししました。それをさらに分類しますと、神さまご自身については6章10節で「聖なる、真実な主」と言われていています。また、神さまにかかわることとしては15章3節で「あなたの道は正しく、真実です。」と言われており、16章7節で「あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」と言われています。さらに、19章2節で「神のさばきは真実で、正しい」と言われており、19章9節に「これは神の真実のことばです」と言われています。
 このうちの6章10節、15章3節、16章7節、19章2節では、神さまが真実な方であることを表すのですが、神さまがさばきを執行されることとのかかわりで用いられています。このことについては、先主日にお話ししました。

          *
 19章9節の、

 これは神の真実のことばです

については、少し複雑です。今日は、このことと、それに関連するいくつかのことをお話ししたいと思います。
 9節には、

 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

と記されています。この節[新改訳(3版と2017年版)の訳]だけを見ると、

 小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ

ということを指しているように思われます。しかし、この点については、見方がいくつかあります。そのような見方のほかに、「小羊の婚宴」のことが出てくる6節ー8節に記されていることを指しているとする見方、より広く、大バビロンへのさばきの執行のことと大バビロンへのさばきの執行を受けてなされている天における讃美と礼拝のことを記している17章1節ー19章8節に記されていることを指しているという見方、さらに、もっと広く、これ以前に記されていること全体を指しているという見方もあります。これは、おそらく、黙示録では、

 これは神の真実のことばです

に相当することばが、この19章9節で始めて出てくることによっているのではないかと思われます。
 黙示録の中では、

 これは神の真実のことばです

というみことばと同じようなみことばは、ここのほか、21章5節に、

すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

と記されている中に出てきますし、22章6節に、

御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

と記されている中に出てきます。
 この二つの節に出てくる、

 これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです

ということばは、まったく同じことばで表されています。そして、「信ずべきものであり、真実なのです」は、イエス・キリストのことを記している19章11節で「忠実な」と訳されていることば(ピストス)と「真実な」と訳されていることば(アレーシノス)で表されています。
 これら二つの個所に出てくる、

 これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです

ということばは、そのまま、黙示録全体に記されていることに当てはまります。それは、1章1節に、

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。

と記されているように、黙示録全体が「イエス・キリストの黙示」であり、そのイエス・キリストは19章11節で、「『忠実また真実』と呼ばれる方」であるとあかしされている方であるからです。
 そのことを踏まえたうえでお話しするのですが、この二つの個所に出てくる、

 これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです

ということばは、ともに、黙示録に記されていること全体のことを述べているという見方があります。しかし、その見方については一つの疑問が生じてきます。それは、それならどうして、この同じことばが、21章と22章という続く章に、その意味ですぐ近くに、しかも、5節と6節というように、それぞれの章の初めの部分で記されているのだろうかという疑問です。
 私の知るかぎりでは、このことについての議論は見当たらないので、私の考えをお話しするほかありません。
 このことばが出てくる二つの個所をその前の部分から見てみますと、21章1節ー5節には、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

と記されています。また、22章1節ー6節には、

御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

と記されています。
 先ほどお話ししたように、

 これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです

ということばは黙示録に記されていること全体に当てはまるのですが、特に、終わりの日における主の契約の民の救いの完成に関わることが啓示されたことを受けて記されていると考えられます。
 このことは、19章9節に出てきます「これは神の真実のことばです」という類似のことばにも当てはまります。19章9節には、

御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

と記されています。これはその前の6節ー8節に、

また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。
 「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」

と記されていることを受けて記されています。
 ここに出てくる「小羊の婚宴」は「花嫁」がまったく整えられることを待ってなされます。それは、21章2節に、

私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

と記されており、9節ー10節に、

また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。

と記されているように、新しい天と新しい地において、完全な形で実現します。その意味で、「小羊の婚宴」は、終わりの日における主の契約の民の救いの完成に関わることです。
 そうしますと、19章9節に記されている、

御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

と記されているときの、

 これは神の真実のことばです

ということも、黙示録に記されているみことばの全体に当てはまることではありますが、特に、その前の(先ほど引用しました)6節ー8節、あるいは、より広く1節ー8節に記されている、天の礼拝において讃美とともに告白されている、終わりの日における主の契約の民の救いの完成に関わるみことばに対するものであると考えられます。

          *
 このように、特に、終わりの日における主の契約の民の救いの完成に関わるみことばについて、

 これは神の真実のことばです

と言われており、

 これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです

と言われていることは、黙示録が記された目的にかなっています。黙示録は、基本的に、アジアにある七つの教会に宛てて記されているのですが、そのアジアにある七つの教会を典型として、世の終わりまで地上に存在する主の契約の民、キリストのからだである教会にかかわることを示しています。
 そして、アジアにある七つの教会も、また、それに続く時代のキリストのからだとしての教会も、黙示録12章7節ー12節に、

 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。
 「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」

と記されているように、「自分の時の短いことを知り、激しく怒って」地に下った「悪魔が」あらゆる手を尽くして働くようになったことによってもたらされる、霊的な戦いにおける厳しい状況に置かれています。すでに、アジアにある七つの教会のいくつかの教会の信徒たちは、その時代に一般的な人間の教えに従って福音の真理のみことばをねじ曲げるにせ教師、にせ預言者の働きによって欺かれていました。また、ひたすら主のみことばに従って皇帝礼拝や、職人組合の守護神とされるものを礼拝しないことによる貧困や迫害にさらされていました。その一方で、その地方の産業がもたらす富を頼みとするような誘惑など、さまざまな誘惑にもさらされていました。それは、また、それに続く時代の主の契約の民が経験してきた試練でもあります。
 その上、私たち主の契約の民が地上にある間は、自分自身のうちになおも残っている罪が、私たちを悩ませ、悲しみを深くします。そのために、お互いの間に誤解が生じたりして、交わりが断絶してしまうこともあります。さらに、罪がもたらす病に苦しむことや、罪がもたらす肉体的な死によって、愛する人と地上での別れを経験する悲しみと涙もあります。「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と呼ばれている悪魔は、そのような私たちの弱さにつけ込んで、福音を曲げたり、主の恵みを疑うように仕向けたりします。
 そのような厳しい状況にあって霊的な戦いを戦っている主の契約の民にとって、主が、

 これは神の真実のことばです

とあかししてくださり、

 これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです

とあかししてくださっているみことばをとおして約束してくださっている、終わりの日における救いの完成の確かさと、神さまが創造の御業においてお造りになった歴史的な世界にかかわる神さまのみこころが回復され、新しい天と新しい地において完成するようになることの確かさは、地上にあって歩む神の子どもたちの希望の土台となっています。
 被造物全体が私たち神の子どもたちとの一体において、栄光の自由の中に入れられるという望みのうちにあることを伝えているローマ人への手紙8章18節ー23節に続いて、24節には、

 私たちは、この望みによって救われているのです。

と記されています。私たちが「望みによって」救われるということは聖書のこの他の個所にはありません。それで、2017年版の、

 私たちは、この望みとともに救われたのです。

がこの個所の意味であると考えられます。私たちは「この望み」のうちにあって、また「この望み」をもって歩む者として救われているということです。

          *
 私たちが霊的な戦いの状況にあって、なおうちに罪を宿す者として歩んでいることについて、もう一つのことをお話ししておきたいと思います。
 ローマ人への手紙8章33節ー34節には、

神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

と記されています。
 ここでパウロは、

 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。

と問いかける形で語りかけています。私たちは、それは黙示録12章10節で「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と呼ばれている悪魔であることを知っています。この場合、パウロは、罪を犯している人々を「訴えるのはだれですか」という言い方をしてはいなくて、「神に選ばれた人々」を「訴えるのはだれですか」という問いかけをしています。これは、聖書のいろいろな個所に記されていますが、代表的なエペソ人への手紙1章4節ー6節に、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されていること、神学的な用語を用いると、神さまの永遠の聖定における、イエス・キリストにある選びを私たち主の契約の民に当てはめているものです。注目したいのは4節で、父なる神さまは私たちをキリストにあって「御前で聖く、傷のない者となるようにお選びになった」(直訳)と言われていることです。このみことばは、私たちが罪に汚れた者となることを踏まえています。私たちはイエス・キリストを信じて義と認められ、神の子どもとしていただいています。けれども、その私たちのうちには罪の性質がなお残っていて、私たちは罪を犯してしまいます。そうであっても、私たちは決して絶望してしまってはならないのです。父なる神さまは私たちがそのような者であることをご存知であられて、なお、そのような私たちを愛してくださり、一方的な恵みによって、私たちをイエス・キリストにあってお選びになったのです。
 そして、その愛と恵みによって、御子イエス・キリストをとおして贖いの御業を成し遂げてくださいました。
 それでも、私たちはそのような愛と恵みに包んでいただいているのになお罪を犯してしまう、あまりにも罪深い自分が赦せなくなることがあります。微妙なことですが、私自身が自らを振り返ってみますと、そのような時、それが真実なことだと思うことがあります。そこに罪が生み出す「それほどまでに罪の深さを認めている自分は真実な者である」というような自己義認の思いが巧妙に現れてきます。
 けれども、それは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが十字架の死の苦しみをもって私たちのすべての罪を贖ってくださったこと、それゆえに、限りない赦しを私たちに示してくださっていることを、私たちの小さな心で否定してしまうことになります。それは、見せかけの、あるいは独りよがりの真実であって、真の真実ではありません。私たちはかつて契約の神である主を知らなかった頃、真実であることを神さまとは無関係なところで考えていました。しかし、私たち主の契約の民にとって、真の真実は主の御前における真実であり、福音のみことばの真理に基づいているものです。
 ある人が、こんなに罪深い自分が滅ぼされることが神さまの栄光を現すのであれば、それを受け入れよう。けれども、福音のみことばは、こんなに罪深い自分の罪を贖って赦してくださることが、もっと神さまの栄光を現すことになるとあかししていから、自分は救われるべきなのだというようなことを言ったそうです。確かに、イエス・キリストの十字架においてこそ、神さまの栄光は最も豊かに現されました。
 ローマ人への手紙3章4節に記されている、

 たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。

というみことばにそって言いますと、確かに、私たちの不真実は際限がないものです。しかし、それでもなお、

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と約束してくださっている主は絶対的に「真実な方」なのです。
 その「真実な」主は、私たちが自らのうちに罪の性質を宿しており、罪を犯して悩む者であることをご存知であられます。そして、そのような時に、自分のうちに何かよいものがあるのではないかと自分のよさ(真実さ)を探してそれに頼ろうとしないで、自分の外、十字架におかかりになって、私たちの罪に対する刑罰を私たちに代わってすべて受けてくださったイエス・キリスト、今は、「神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださる」イエス・キリストを仰ぎ見て、この「真実な方」に信頼するように導いてくださいます。
 そればかりではありません。それでもなお、どうしてよいか分からないでうめいている私たちのために助け主がおられます。ローマ人への手紙8章26節ー27節には、

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

と記されています。
 「弱い私たち」のために、天においては、イエス・キリストが「「神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていて」くださいます。そして、地にあっては「弱い私たち」のうちに宿ってくださっている「御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなして」くださっています。


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