黙示録2章26節後半ー27節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた約束のみことばについてのお話を続けます。
今取り上げているのは27節前半に記されている、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
というみことばです。
このみことばは、詩篇2篇9節に記されている、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
焼き物の器のように粉々にする。
というみことばを引用していますが、その際に「打ち砕く」ということばを「治める」(第3版[2017年版では「牧する」])に変えています。
黙示録の中では、詩篇2篇9節前半の、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
というみことばが、ここ2章27節前半のほか、12章5節と19章15節でも引用されています。今は、19章15節に、
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
と記されていることについてお話ししています。
ここに出てくる、
この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。
というみことばが、詩篇2篇9節前半の、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
というみことばの「打ち砕く」ということばを「牧する」に変えて引用しています。
19章15節に記されていることを文脈の中で見るために、11節ー21節に記されていることを引用します。そこには、
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。
と記されています。
これまでは11節に記されている、
また、私は開かれた天を見た。
と記されていることについてお話ししました。
これは、この時から、それまでに啓示されていたことと比べると画期的(エポックメイキング)に新しいことが啓示されるようになることを意味しています。このことが19章11節に記されていることは、ここから、文字通り、世の終わりに起こること、その意味で「終末的なこと」が啓示されるようになったということを示しています。
具体的には、この11節ー21節には、「白い馬」に「乗った方」として描かれている栄光のキリストが再臨されること、そして、終わりの日に現れてくる反キリストの帝国を表象的に現す「獣」と「にせ預言者」へのさばきが執行されることが、黙示文学的な表象によって記されています。これに対して、これより前の部分においては、「終末論的な意味をもっていること」が啓示されています。
*
11節では、
また、私は開かれた天を見た。
と言われた後、
見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
と言われています。
ここには「白い馬」が出てきます。「白い馬」はその当時の発想では最上の馬とされており、支配者や高官が乗る馬、さらには征服者がローマに凱旋する時に乗っていたと言われています。この場合は、「義をもってさばきをし、戦いをされる」方としてのメシアが出陣する時に乗っている「白い馬」です。14節には、
天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
と記されていて、この方に従う「天にある軍勢」も「白い馬」に乗っています。
この方は「『忠実また真実』と呼ばれる方」と言われています。[注]
[注]この部分は、写本にばらつきがあり、原本に「と呼ばれる」を表すことばがあるかどうか、その場合には、どこにあるのかという本文上の問題があります。「と呼ばれる」ということばがあるとすると「忠実また真実」は呼び方、すなわち、称号であるということになり、それがなければ「忠実また真実」はこの方自身の人格的な特質ということになります。この「忠実また真実」がこの方の称号であったとしても、それはこの方自身が「忠実また真実」な方であるからこその称号であるということになります。
この「忠実な」と訳されていることば(ピストス)は、私たちが通常用いている「忠実な」という意味に、それゆえに、「信頼できる」「信用できる」という意味合いがあります。その意味では、このことば(ピストス)は、もう一つの「真実な」に近い意味合いをもっています。実際、ヨハネの手紙第一・1章9節に、
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
と記されていますが、ここで「神は真実で正しい方です」と言われているときの「真実な」は「ピストス」です。この場合は、神さまはご自身の契約(の約束)に対して真実である(忠実である)、それゆえに、必ず、契約を守り、その約束を実現してくださるということを意味しています。
また、能動的には「信じている」という意味もあります。ガラテヤ人への手紙3章9節には、
そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
と記されています。ここではアブラハムが「信仰の人アブラハム」と言われていますが、この「信仰の人」が(ホ・ピストス[ホは冠詞でピストス「忠実な」を実体化しています])です。この「信仰の人」(ホ・ピストス「忠実な人」とも訳せますが、ここでは、その前の「信仰による人々」と符合させて「信じている人」すなわち「信仰の人」と訳されています。
黙示録19章11節では、イエス・キリストが「忠実な」方と言われているので、イエス・キリストが父なる神さまに対しては「忠実な」方であられ、私たちにとっては信頼できる方、私たちがすべてをお委ねしてよい方であることを表していると考えられます。
黙示録の中では、ここ以外には、イエス・キリストについて「忠実な」ということばが用いられているのは、1章5節でイエス・キリストのことが「忠実な証人」と呼ばれているときと、3章14節で、イエス・キリストがご自身のことを「忠実で、真実な証人」と呼んでおられるときです。
また、もう一つの「真実な」ということば(アレーシノス)が、黙示録の中で、イエス・キリストについて用いられているのは、先ほどの3章14節の「忠実で、真実な証人」と、3章7節で、イエス・キリストがご自身のことを「真実な方」と呼んでおられるときです。
この「真実な」ということば(アレーシノス)は「真理」を意味することば(アレーセイア)の関連語で、偽りのものではなく「本物の」「正真正銘の」ということを表します。
このことばは、ヨハネの福音書では9回用いられていますが、6章32節に、
しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
と記されているときの「まことの」がこのことばです。これは古い契約の下において与えられたマナの「本体」がイエス・キリストご自身であることを表しています。同じように、15章1節でイエス・キリストが、
わたしはまことのぶどうの木・・・です。
と言われるときの「まこと」もこのことばです。もう一つ挙げますと、イエス・キリストの祈りのことばを記している17章の3節で、
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
と言われているときの、「まことの神」の「まことの」がこのことばです。
*
黙示録の中では、この「真実な」ということばは、神さまについて5回、6章10節、15章3節、16章7節、19章2節、9節で用いられています。それぞれを見てみますと、6章9節ー10節には、
小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
と記されており、15章3節ー4節には、
彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。
「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。」
と記されています。また、16章7節には、
また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」
と記されており、19章1節後半ー2節には、
この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。
ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。
と記されています。そして、19章7節には、
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。
と記されています。
これら五つの用例のうち、最初の四つは、この「真実な」ということばは、神さまが真実な方であることを表すのですが、神さまがさばきを執行されることとのかかわりで用いられています。
このことは、意外に思われるかも知れません。しかし、黙示録では、(また、聖書全体においてそうなのですが)、神さまのさばきの執行は、それ自体が独立してあるのではなく、常に、もう一つの面として、主の契約の民の救いの御業と関連しています。
そのことは、先主日にもお話ししましたが、聖書における「最初の福音」が、創世記3章15節に、
わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。
と記されている、サタンに対するさばきの宣告のことばとして語られていることから始まってます。
*
「最初の福音」については、繰り返しお話ししているところですが、先主日は要点だけをお話ししましたので、もう少し、それが福音であるゆえんに注目してお話ししておきたいと思います。
「最初の福音」は、特に、「女」とのかかわりにおいて示されています。これは、「蛇」が直接的に働きかけたのが彼女であったことによっています。彼女は「蛇」の誘惑によって欺かれて、神である「主」の戒めに背き、善悪の知識の木から取って食べてしまいました。そればかりでなく、その結果、彼女自身が「蛇」の果たしていた役割を負って、夫を神である「主」の戒めに背くように誘ってしまいました。
このように、「女」はこの誘惑の出来事において、蛇との一体性をより強く表しています。これは罪による一体性です。
神である「主」は、まず、
わたしは、おまえと女との間に、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。
と言われました。神である「主」は、「おまえ」すなわち「蛇」の背後にあって働いていたサタンと、罪によってサタンと一つとなってしまっている「女」の間に「敵意」を置かれるというのです。
ここではこの「敵意」ということば(エーバー)が最初に出てきて強調されています。しかも、この「敵意」ということばの用例が示しているのは、相手を殺し、滅ぼしてしまうことにつながる「敵意」です。この「敵意」の強さは、さらに、「蛇」と「女」の間だけでなく、
また、おまえの子孫と女の子孫との間に
と言われていますように、それぞれの子孫の間にまで及ぶと言われていることによっても示されています。
ここで大切なことは、サタンとその子孫に対する「敵意」は、わずかであっても、神である「主」に罪を犯してサタンと一つになってしまっている「女」から出てくることはありません。まして、このような強さと持続性をもっている「敵意」は人から出るものではありません。ここでは、この「敵意」ということばに続いて、「わたしは・・・置く」(アーシート)ということばが出てきますが、「敵意」を置くのは神である「主」のお働きによるものです。
このことに、すでに、福音としての特質があります。
このように、ここでは、神である「主」が、サタンと「女」の間に、互いに相手を滅ぼしてしまうようになるほどの強い「敵意」を置かれると言われました。これは、「蛇」と「女」が互いに共存することのできないものとなるということを意味しています。「蛇」か「女」のどちらかが、今ある罪とそれがもたらす暗やみの状態、神である「主」に敵対している状態から、それと相容れない状態になるということです。この場合は、このことが、「蛇」に対するさばきの宣言として語られていますので、「蛇」ではなく、「女」の方が、神である「主」に敵対している状態から、そうではない状態に変えられるということを意味しています。これは、霊的な戦いにおいて「女」と「女の子孫」が神である「主」の側に立つようになるということで、「女」と「女の子孫」の救いを意味しています。それで、この神である「主」のサタンへのさばきの宣言は「最初の福音」と呼ばれます。
サタンは、すでに、「女」を誘惑するようになる前に、神である「主」に対して罪を犯して、神である「主」に敵対している状態にありました。それで、サタンは「女」を誘惑する前に、すでに、のろわれたものとして存在しており、神である「主」のさばきに服すべきものでした。そのサタンが、人とその妻を神である「主」に背くように誘惑したのは、創造の御業において示されている神さまのみこころの実現を阻止しようとしたからです。神さまはこの世界を歴史的な世界としてお造りになり、その歴史と文化を造る使命を人にお委ねになりました。サタンはその神さまのみこころの実現を阻止しようとしていたのです。そして、サタンとしては、その企てが成功したとしか思えませんでした。
もし神である「主」が、この時に、直接的に「おまえ」すなわちサタンに対する最終的なさばきを執行しておられたとしたら、罪によってサタンと一体となってしまっている人とその妻は、サタンとともにさばきを受けて滅ぼされてしまっていたことでしょう。そうなっていたら、創造の御業において示されている神さまのみこころ、人を神のかたちとしてお造りになって、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されているみこころの実現は阻止されてしまっていたことでしょう。そうなると、霊的な戦いにおいては、サタンが勝利することになります。
そのような状態にあったサタンに告げられたさばきの宣告において、神である「主」は「女」と「女の子孫」がご自身の側に立って、サタンとその霊的な子孫に対する霊的な戦いを展開するようになることを示されました。このことは、神である「主」がサタンとその霊的な子孫にさばきを執行することにおいて、「女」と「女の子孫」をご自身のしもべとしてお用いになるということを意味しています。このことは、この時、直ちに、サタンに対するさばきが執行されるのではなく、人の歴史がこの後も続いていき、その歴史をとおして変わることなく、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体と、「女」と「女の子孫」の共同体の間に霊的な戦いが展開されていくことを意味しています。そして、その霊的な戦いは、神さまが神のかたちとして造られている人にこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに示されているみこころの実現をめぐる戦いです。
これによって、神である「主」の贖いの御業の歴史をとおして、「女」と「女の子孫」が神である「主」の側に立って、すなわち、「主」が備えてくださる贖いの恵みにあずかって「主」の民となり、サタンとその霊的な子孫との霊的な戦いを展開していくようになります。これは、サタンに、
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。
と宣告されているように、必ず、「女」と「女の子孫」の勝利に至ります。ローマ人への手紙16章20節に、
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。
と記されているとおりです。
また、聖書では、共同体には「かしら」がいます。この場合も、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体には「かしら」がいます。それは「おまえ」すなわちサタンです。そうであれば、「女」と「女の子孫」の共同体にも「かしらが」います。それは「女」ではなく、「女の子孫」の側にいます。それが、「女の子孫」の「かしら」として来られる方です。この方は、
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく。
という神である「主」のさばきの宣告を最終的に執行されます。
そのことは黙示録12章7節ー9節に、
さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
と記されていることにおいて、決定的なこととなりました。この少し後の12節に、
それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。
と記されているように、「悪魔が自分の時の短いことを知って」います。
そして、終わりの日には、栄光のキリストが再臨されて、最終的なさばきを執行されることが、今取り上げている19章11節以下、20章15節までに記されています。
しかし、暗闇の主権者であるサタンとその霊的な子孫がさばかれて滅びることが霊的な戦いのすべてではありません。むしろ、それは霊的な戦いの消極的な面です。なぜなら、霊的な戦いは創造の御業において示されている神さまのみこころ、人を神のかたちとしてお造りになって、人にご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに表されているみこころの実現をめぐる戦いだからです。
それで、霊的な戦いの勝利は、積極的には、神である「主」が、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られた方によって備えてくださった贖いの恵みにあずかった「主」の民が、神である「主」を神として礼拝することを中心とした「主」との愛の交わりと、「主」の契約の民としての愛にあるお互いの交わりに生きることをとおして、歴史的な世界にあって、歴史と文化を造る使命を果たしていくようになることにおいて実現します。
そのことが、最終的には、栄光のキリストがご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地において、完全な形で実現することが、21章ー22章に記されています。
終わりの日に至までは、霊的な戦いの状況にあって、「自分の時の短いことを知って」いる悪魔が、激しい怒りをもって働いています。地上にある「主」の契約の民は、さまざまな形での迫害や誘惑にさらされますし、自分の罪の深さに悩まなければなりません。そのような、悲しみや苦しみや叫びや涙とともに歴史と文化を造る使命を果たさなければなりません。
しかし、新しい天と新しい地のことを記している、21章1節ー4節に、
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。
と記されているように、新しい天と新しい地においては、もはや霊的な戦いの状況はありません。「主」の契約の民はまったき祝福の中で、歴史と文化を造る使命を果たしていくことになります。
*
このこととの関連で、一つのことに触れておきます。
黙示録中では、19章11節に出てくる「忠実な」ということば(ピストス)と「真実な」ということば(アレーシノス)の組み合せがイエス・キリストについて用いられている他、黙示録に記されているみことばについて、21章5節に、
すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
と記されているときの「信ずべきものであり、真実である」に用いられていますし、22章6節に、
御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです」と言った。
と記されているときの「信ずべきものであり、真実なのです」に用いられています。これは、黙示録に記されているみことばは、1章1節冒頭に、
イエス・キリストの黙示。
と記されているように、「忠実また真実」な方であるイエス・キリストが示してくださったものであるからです。「忠実また真実」な方のみことばは、「忠実な」(ピストス「信頼できる」「信ずべき」)ものであり、「真実な」ものなのです。
そればかりではありません。黙示録に記されているみことばが「信ずべきものであり、真実である」のは、それを語ってくださっている「忠実また真実」な方であるイエス・キリストが、必ず、語ってくださったことを実現してくださるからです。
先ほど、ヨハネの手紙第一・1章9節のみことばを引用して、「ピストス」も「真実な」と訳すことができるということをお話ししました。それで、この「ピストス」と「アレーシノス」の組み合せは、その真実であることを強調するものです。そして、これは、契約に対する真実さで、「忠実また真実」な方であるイエス・キリストが、ご自身の契約において示してくださったこと、約束してくださったことを必ず実現してくださるということを意味しています。
イエス・キリストはご自身のことを、
わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。
とあかししておられます。これはメリスムスという表現法で、イエス・キリストが、いっさいのことを始められた方であり、終わらせる方であること、また、その間に起こり来るすべてのことを治めておられる方であることを示しています。また、この、
わたしは・・・初めであり、終わりである。
ということばは、イザヤ書に繰り返し出てくる、「主」ヤハウェのみことば(41章4節、44章6節、46章10節、48章12節)に相当するものです。それで、このことばは、イエス・キリストが契約の神である「主」ヤハウェであり、歴史の主であることを示していますす。
イエス・キリストは「忠実また真実」な方として、創世記に記されている「最初の福音」から黙示録の終わりに至るまでに記されているご自身の契約のみことばを実現してこられた方ですし、さらに、終わりの日に至るまで、必ず、実現される歴史の主、契約の神である「主」ヤハウェです。
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