黙示録講解

(第331回)


説教日:2018年4月15日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(84)


 今日も黙示録2章26節後半ー27節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた約束のみことばについてのお話を続けます。
 今取り上げているのは27節前半に記されている、

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

というみことばです。
 このみことばは、詩篇2篇9節に記されている、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばを引用していますが、その際に「打ち砕く」ということばを「治める」(第3版[第3版欄外訳と2017年版では「牧する」])に変えています。
 黙示録の中では、ここで「治める」と訳されていることば(ポイマイノー)は4個所に出てきます。そのうちの3個所はすでにお話ししている、ここ2章27節と12章5節と19章15節です。
 もう1箇所は、7章17節で、そこには、

なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。

と記されています。ここで、

 御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり

と言われているときの「牧者となる」と訳されていることばがポイマイノー(ここでは未来時制)です。2017年版では「牧す」となっています。
 この17節に記されていることは、黙示録に出てくる「牧する」ということばの意味合いを理解するうえで重要なものですので、もう少しお話しします。
 この17節に記されているのは、14節後半から記されている「長老のひとり」のことばの一部です。「長老のひとり」のことばを引用しますと、そこには、

彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。

と記されています。
 ここに出てくる「彼ら」は、9節に、

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

と記されている「白い衣を着て」「御座と小羊との前に立っていた」主の民のことです。説明は省きますが、これは、4節に出てくる「十四万四千人」の「イスラエルの子孫のあらゆる部族の者」のことです。
 「長老のひとり」のことばを15節後半から引用しますと、

そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。

となっています。これは基本的に未来時制で記されていて、内容の上でも、新しい天と新しい地のことを記している21章3節ー4節に、

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されていることと符合しています。この21章3節ー4節に記されていることも、基本的に未来時制で記されています。それで、7章15節後半ー17節に記されていることは、主の契約の民に与えられる主の契約に基づく永遠の祝福のことであると考えられます。そして、その永遠の祝福の中心に、

 御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり[彼らを牧して]、いのちの水の泉に導いてくださる

ということがあるのです。ちなみに、ここで「御座の正面におられる小羊」と言われているときの「正面に」と訳されていることば(アナ・メソン)は、文字通りには「中央に」「真ん中に」を表します。2017年版では「御座の中央におられる子羊」となっています。これは、22章1節と3節に出てくる「神と小羊との御座」の「御座」が単数形であることに相当することを表しています。神さまが私たちご自身の民の間にご臨在され、私たちを治めてくださることにおいて父なる神さまと「小羊」は一つとなっておられるのです。具体的には、父なる神さまが「小羊」によって私たちを治めてくださるということ、「小羊」が父なる神さまのみこころにしたがって私たちを「牧して」くださるということです。

          *
 話を戻しますが、これまで4回にわたって、2章27節前半で引用されている詩篇2篇9節前半の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

というみことばを引用している19章15節に、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

と記されていることについてお話ししています。
 ここに出てくる、

 この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。

というみことばが、詩篇2篇9節前半の、

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

というみことばの「打ち砕く」ということばを「牧する」に変えて引用しています。
 改めて、19章15節に記されていることの文脈を見るために、11節ー21節に記されていることを引用します。そこには、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

と記されています。
 これまでは11節に記されている、

 また、私は開かれた天を見た。

と記されていることについてお話ししました。これは、この時から、それまでに啓示されていたことと比べると画期的に新しいことが啓示されるようになることを意味しています。このことが19章11節に記されていることは、ここから、文字通り、世の終わりに起こること、その意味で「終末的なこと」が啓示されるようになったということを示しています。
 具体的には、この11節ー21節には、「白い馬」に「乗った方」として描かれている栄光のキリストが再臨されること、そして、終わりの日に現れてくる反キリストの帝国を表象的に現す「」と「にせ預言者」へのさばきが執行されることが、黙示文学的な表象によって記されています。
 これに対して、これより前の部分においては、「終末論的な意味をもっていること」が啓示されているということです。

          *
 このこととの関連で一つの問題をお話しします。それは、この19章11節ー21節に記されていることについて最初にお話ししたこととかかわっていますが、19章に先立って17章ー18章には「大バビロン」に対するさばきの執行が記されています。そこに記されていることを読みますと、これは終わりの日に執行されるさばきではないかと思いたくなります。けれども、そのことは、

 また、私は開かれた天を見た。

と言われていることに相当することばによって導入されてはいません。それで、そこに記されていることは、まだ「終末的なこと」ではない、終わりの日に起こることではないと考えられます
 このことを理解するために、すでにお話ししたことを、補足しながら、振り返ってみましょう。
 17章1節ー3節には、

また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。

と記されています。
 ここに出てくる「大水の上にすわっている大淫婦」と呼ばれている「」について、5節に、

その[彼女の]額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名であった。

と記されているように「大バビロン」です。彼女が「大水の上にすわっている」と言われているときの「大水」は、15節で「もろもろの民族、群衆、国民、国語」であると説明されています。ここでは「民族」「群衆」「国民」「国語」(すべて複数形、「もろもろの」ということばはありません)という4つのことばが重ねられて全世界のすべての民を表しています。これと同じように4つのことばを重ねて全世界のすべての民を表わすことは、黙示録には繰り返し出てきます。その一つは、先ほど引用しました、7章9節に、

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

と記されている中に見られます。この場合は、創世記12章3節に、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

と記されている「」がアブラハムに与えられた祝福にあずかって「」の契約の民とされた「地上のすべての民族」のことを指しています。そのことは、黙示録7章では同じ「」の民を表す「十四万四千人」が「イスラエルの子孫のあらゆる部族の者」として表されていることからも分かります。
 「」がアブラハムに与えられた、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福は、創世記12章に記されていますが、これは、その前の11章1節ー9節に記されている、バベルにおける「」のさばきの執行を受けています。9節には、

それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

と記されています。そのようにして、「」がバベルにおいてさばきを執行されて、「人々をそこから地の全面に散ら」されたことによって人類はさまざまな「国民、部族、民族、国語」に分裂していきました。このことを受けて、アブラハムに、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福の約束が与えられたのです。
 その一方で、後に、そのバベルにおいてバビロンという大帝国が建設されるようになっていきます。そして、そのバビロンが黙示録の「大バビロン」という名の由来になっています。新約聖書の時代には、ローマ帝国が「大バビロン」のモデルになっていて、この「大バビロン」が歴史に現れた一つの特定の帝国ではないこと、堕落後の人類の歴史に次々と現れてきた帝国を含んでいることを示しています。
 この「大バビロン」は「大水の上にすわっている大淫婦」と呼ばれており、2節では、

地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。

と言われています。これは15節で「もろもろの民族、群衆、国民、国語」であると説明されている「大水」すなわち、地上にある、この世のあらゆる国々が「大バビロン」がもっている政治的、経済的、社会的、宗教的に腐敗した特質に倣っている状態を示していると考えられます。
 それは、天地創造の御業において神さまが人を神のかたちとしてお造りになって、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったときの、造り主である神さまの栄光を現す、本来の歴史と文化とはかけ離れた歴史と文化を造り出すものです。それは、権力が濫用され人々が抑圧され、貧しい人々がますます貧困に陥れられ、義が曲げられて社会が混乱し、偶像礼拝がはびこり、主の民が迫害にさらされているという、今日の時代状況にも当てはまると思われます。
 続く3節には、

それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。

と記されています。
 この「大バビロン」と呼ばれている「」は「荒野」にいたと言われています。それは、12章13節ー14節に、

自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。

とに記されているように、新しい契約の下にある「」の民、すなわちキリストのからだである教会を表している「」が、天における霊的な戦いに破れて、地に投げ落とされた「大きな赤い竜」すなわちサタンから逃れていった所が「荒野」であったからです。キリストのからだである教会としての「」はその「荒野」で「」の訓練と養いを受けながら、約束の地、すなわち、新しい天と新しい地に向かっての歩みを続けます。
 17章3節では、「大バビロン」と呼ばれている「」はその「荒野」にいるのですが、「緋色の獣に乗っている」と言われています。これは13章に出てくる海から上って来た獣のことで、最終的には、終わりの日に現れてくる「反キリスト」(の帝国)のことです。ヨハネの手紙第一・2章18節に、

小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。

と記されているように、すでにヨハネの時代に「多くの反キリスト」が現れてきていましたが、終わりの日にその最終的な形の「反キリスト」が現れてきます。
 13章2節に、

 竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。

と記されているように、獣は「大きな赤い竜」すなわちサタンから「力と位と大きな権威」を委ねられています。「大バビロン」と呼ばれている「」はこの「緋色の獣」と一つになって、「荒野」にいる教会としての「」を誘惑し、迫害を加えて、「」を神さまから引き離そうとします。そのようにして、最終的には「大きな赤い竜」であるサタンの思惑が実現するように働くことになります。
 もちろん、「大バビロン」と呼ばれている「」は自分が乗っている「緋色の獣」の背後にあって働いている「大きな赤い竜」であるサタンとサタンと一つになって働く「緋色の獣」によって欺かれていることを知りません。しかし、やがてそのことが現れてくるようになります。
 16節には、

あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。

と記されています。
 ここに出てくる「十本の角」は3節に、

 その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。

記されている「緋色の獣」に生えていた「十本の角」のことで、12節ー13節に、

あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。

と記されているように、「十人の王たち」を表しています。
 13節では、この「十人の王たち」は「自分たちの力と権威とをその獣に与えます」と言われています。そして14節に、

この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。

と記されているように、「十人の王たち」は「」と心を合わせて「小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます」。これは、先ほど引用しました19章11節ー21節に記されていることを、前もって記すものです。
 そして、先ほど引用しました16節には、

あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。

と言われています。
 これは、サタンと一つになって働く「緋色の獣」によって欺かれて、サタンの思惑の実現のために働いている「大バビロン」と呼ばれている「」が、実は、サタンと獣に欺かれて、利用されているだけであること、「大バビロン」が表している地上の帝国の権力者たちが覇権をめぐって、心を合わせたり、憎しみ合うようになって、自らを滅ぼすようになることを意味しています。
 そして続く17節には、

それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ、彼ら[十本の角]が心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。

と記されていて、神さまは悪の主権者たちの協力や、憎しみと争いさえも用いてご自身のみこころを実現されることが示されています。ここで神さまが「みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ」たと言われていることは、「彼ら」が神さまのみこころを理解して、それを行おうとしているということではありません。「彼ら」は自分たちの権力欲に駆られて協力したり、憎しみ合ったり、争ったりするのですが、神さまはそれらをも用いてみこころを実現されるということです。
 実際に、「大バビロン」と呼ばれている「」のモデルとなっている旧約聖書の時代のバベルやバビロンも、また、ヨハネの時代のローマ帝国もそのような形で滅び去っていきましたし、それ以外のこの世の支配者たちも同様の道を進んでいきました。

          *
 以上が、「大バビロン」と呼ばれている「」へのさばきの概要です。これが、「終末的なこと」として描かれていないのには、わけがあります。それは、先ほど引用しました、16節ー17節に、

あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。

と記されているように、確かに、「大バビロン」と呼ばれている「」へのさばきは執行されているのですが、それは、いわば末端のことでしかありません。その「本丸」とも言うべき、「大きな赤い竜」であるサタンと、サタンと一つになって働く「獣」(海から上って来た獣)と「にせ預言者」(地から上って来た獣)に対するさばきはまだ執行されてはいません。
 これを、創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されている「最初の福音」、「」の背後にあって働いていたサタンへの、神である「」のさばきの宣告のみことばに照らして見ると分かりやすいかも知れません。
 神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、創造の御業において現された神さまのみこころの実現は阻止されてしまったように見えます。もし神である「」が、この時に、直接的にサタンとサタンの霊的な子孫(罪によってサタンと一つになっている人とその妻も含まれます)へのさばきを執行されたとしたら、それで歴史は終ってしまい、神さまのみこころの実現は、サタンによって阻止されてしまっていたことでしょう。それは、神である「」に対して罪を犯したサタンと人とその妻の滅びを意味していますが、霊的な戦いにおいてはサタンの「肉を切らせて骨を断つ」というような形での勝利となります。しかし、神である「」は、この時、直接的にさばきを執行されないで、「」と「女の子孫」の共同体をとおしてさばきを執行されるというみこころをお示しになりました。そして、最終的には、「」と呼ばれている「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」によって「おまえ」と呼ばれているサタンへの最終的なさばきを執行されると言われています。
 「大バビロン」と呼ばれている「」へのさばきは、まだ、「おまえの子孫」と呼ばれているサタンの霊的な子孫の共同体へのさばきでしかなく、「おまえ」と呼ばれているサタンとサタンと一つとなって働く「獣」と「にせ預言者」への最終的なさばきの執行は、「」と呼ばれている「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」、すなわち、黙示録19章11節ー21節に記されている、終わりの日に再臨される「白い馬」に「乗った方」によって執行されます。
 また、これを「最初の福音」との関わり見ますと、このさばきの執行は、霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」の共同体が「」の側に立つようになることを意味しており、「」と「女の子孫」の共同体の救いを意味しています。
 言うまでもなく、この「」と「女の子孫」の共同体の救いによって創造の御業において現されている神さまのみこころが回復し完成することの方が、サタンと「獣」と「にせ預言者」や、サタンの霊的な子孫たちへのさばきが執行されることよりはるかに大きな意味をもっています。そして、」と「女の子孫」の共同体の救いによって創造の御業において現されている神さまのみこころが回復し完成することは、最初にお話ししました、黙示録7章17節に記されている「小羊」が私たち主の契約の民を「牧して」くださることによっています。


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