黙示録講解

(第330回)


説教日:2018年4月8日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(83)

 

 先主日は2018年の復活節でしたので、黙示録からのお話はお休みしました。今日は、黙示録2章26節後半ー27節に記されている、

 

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

 

という、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた約束のみことばについてのお話に戻ります。

 今取り上げているのは27節前半に記されている、

 

 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

 

というみことばです。

 このみことばは、詩篇2篇9節に記されている、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 焼き物の器のように粉々にする。

 

というみことばを引用していますが、その際に、「打ち砕く」ということばを「治める」(第3版[第3版欄外訳と2017年版では「牧する」])に変えています。

 黙示録の中では、詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばが、ここ2章27節前半のほか、12章5節と19章15節でも引用されています。今は、19章15節に、

 

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

 

と記されていることについてお話ししています。

 ここに出てくる、

 

 この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。

 

というみことばが、詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばの「打ち砕く」ということばを「牧する」に変えて引用しています。

 19章15節に記されていることの文脈を見るために、11節ー21節に記されていることを引用しますと、そこには、

 

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

 

と記されています。

 これまで3回にわたって、11節に記されている、

 

 また、私は開かれた天を見た。

 

と記されていることについてお話ししました。

 このように、天が開かれていることが啓示されることは、黙示録の中では、ここと4章1節に記されているだけです。これは、この時から、それまでに啓示されていたことと比べると画期的に新しいことが啓示されるようになることを意味しています。

 そのことを、この19章11節に記されていることに当てはめますと、ここから、文字通り、世の終わりに起こること、その意味で「終末的なこと」が啓示されるようになったということを示しています。

 具体的には、この11節ー21節には、「白い馬」に「乗った方」として描かれている栄光のキリストが再臨されること、そして、終わりの日に現れてくる反キリストの帝国を表象的に現す「」と「にせ預言者」へのさばきが執行されることが、黙示文学的な表象によって記されています。

 これに対して、これより前の部分においては、「終末論的な意味をもっていること」が啓示されているということです。

 この「終末論的な意味をもっていること」がどのようなことかは、私たち主の契約の民にとって、大切なことですので、すでにお話ししたことを復習しながら、さらに補足したいと思います。

 イエス・キリストの十字架の死は、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をイエス・キリストが私たちに代わって受けてくださったことでした。それで、終わりの日に執行されるべき私たちの罪に対する刑罰は、すでに、イエス・キリストの十字架の死において執行されて終っています。また、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは、先主日にお話ししましたように、罪によって腐敗していない、まことの、また、本来の人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストのよみがえりです。それは、終わりの日に私たち主の民が栄光あるいのちによみがえることのさきがけです。このようにしてイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、終わりの日に起こるべきことが、今から2千年前に歴史の事実として起こっています。

 そして、栄光を受けて死者の中からよみがえられてから、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、御自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、すべてのことを治めておられます。特に、父なる神さまの右の座から、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊を注いでくださり、御霊によって、私たち主の民をご自身と一つに結んでくださり、ご自身の復活のいのちによって新しく生まれさせ、御霊によって福音のみことばを悟らせてくださり、ご自身を贖い主として信じるように導いてくださり、その信仰によって義と認めてくださり、神の子どもとして導いてくださっています。

 これらのことによって、それ以降に起こり来るすべてのことが「終末論的な」意味をもつようになっています。すべてのことが、終わりの日にメシアであるイエス・キリストがなされる、最終的なさばきを執行されることと、私たち御自身の民の救いを完成してくださること、さらには、新しい天と新しい地を再創造されることにつながっているという意味をもっているのです。

 このこととのかかわりで大切なことは、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたときの栄光は、人としての性質における栄光ですが、それは、新しい天と新しい地に属する栄光であるということです。

 イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださったときの栄光は、神さまが最初の天地創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになったときの、神のかたちとしての栄光でした。

 創世記2章8節に、

 

 神であるは東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

 

とに記されているように、神である「」はエデンの園をご自身がご臨在される所として聖別され、そこに神のかたちとして造られている人を置いてくださいました。人は、そこで神である「」の栄光の御臨在の御前に住まい、「」を神として礼拝することを中心とした、「」との愛にあるいのちの交わりに生きることができました。それが、最初の創造の御業において神のかたちとして造られたときの人の栄光でした。言い換えますと、最初の創造の御業において神のかたちとして造られたときの人の栄光は、エデンの園にご臨在される神である「」の御前、「」の栄光の御臨在の御前に立つことができる栄光であったのです。

 みことばが全体として示していることは、神のかたちとしてそのような栄光の状態に造られた人が、「」を神として礼拝することを中心として、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、最後まで、「」のみこころに従いとおしたときに、その報いとして、より豊かな栄光、最初に神のかたちとして造られたときの栄光より一段と豊かな栄光の状態に入れられるということです。それが、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになったときに、人と結んでくださった契約、「創造の契約」の祝福の約束でした。

 

          *

 このことについてお話しするに当たって、「創造の契約」について一つのことをお話ししておきましょう。

 それは、神さまは人を神のかたちとしてお造りになったときに、初めから、ご自身との契約関係にあるものとしてお造りになったということです。

 そのことは、いくつかのことから考えられますが、ここでは、そのことにかかわる4つのことをお話しします。この場合、4つのことが相まって、人が初めから神さまの契約に入れていただいていることを示すことになります。

 第一に、聖書もその文化の中で記されましたが、古代オリエントの社会では、契約は、基本的に、「宗主権条約」と呼ばれる条約の形式で結ばれました。その契約は主権者の契約で、[注]主権者がその主権の下にある従属者を一方的に自分との契約関係に入れてしまうものです。その点で、契約の当事者双方の合意によって結ばれる、近代、現代の市民法における契約とは違います。

 

[注]聖書では、契約は「神の契約」あるいは「『』の契約」で、神さまはそれを「わたしの契約」(創世記9章9節、5節、17章2節、7節、19節、21節)と呼ばれます。

 

 神さまの契約もそのような契約で、神さまは(人と合意をしてではなく)一方的で、主権的な恵みによって、人をご自身との特別な関係、すなわち、ご自身との契約関係にあるものとしてお造りになったと考えられます。

 第二に、神のかたちとして造られている人の心には、初めから、神さまの律法が記されていました。人の心に、初めから、神さまの律法が記されていたことには、その名残があります。それはローマ人への手紙2章14節ー15節に、

 

――律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行いをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行いが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。――

 

と記されていることから分かります。

 また、新しい契約の下で、神のかたちとして造られている人の本来のあり方が回復されることを預言的に記しているエレミヤ書31章31節ー34節に、

 

見よ。その日が来る。――の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――の御告げ――彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――の御告げ――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――の御告げ――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 

と記されていることも、人の本来のあり方においては、神さまの律法が心に記されているということを支持します。

 ここでは、心に記されている律法とモーセ律法が対比されています。モーセ律法は外からの規制として与えられています。それは、ローマ人への手紙2章14節ー15節に記されているみことばの教えから分かりますように、もともと神さまの律法が記されている人の心が罪によって腐敗してしまったために、人の心に記されている律法も罪による腐敗の影響を受けてしまったことによっています。

 モーセ律法は、本来、人の心に記されている律法を堕落後の人の現実に合わせて適応したものです。

 たとえば、愛を本質的な特質とする神のかたちとして造れている人にとっては、人を憎み、亡き者としようとすること自体が考えられないことでした。罪を犯して堕落する前の状態にある人には、十戒の第6戒の、

 

 殺してはならない。

 

という戒めは不要なものです。ですから、

 

 殺してはならない。

 

という戒めは、堕落後の人の現実を踏まえた戒めで、罪の下にある人が他の人を憎み、亡き者としようとするような者であることを示しています。ローマ人への手紙3章20節に、

 

 律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 

と記されているように、律法によって罪が明確にされるという面がありますが、それは、このような事情によっています。

 このことは、新しい契約の下で、神さまの律法が心に記されるようになるためには、罪による本性の腐敗、罪による心の腐敗がきよめられなければならないということを意味しています。そして、「」こそが神であられ、「」のほかに神はいないということを心底知るようになる必要があります。先ほど引用したエレミヤ書31章31節ー34節の最後の34節には、

 

そのようにして、人々はもはや、『を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。――の御告げ――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。

 

と記されています。

 エレミヤ書31章31節ー34節に記されている預言のみことばは、ヘブル人への手紙8章8節ー12節にその全体が、また、10章16節と17節にその初めの部分と終わりの部分が引用されていて、それが御子イエス・キリストの血による新しい契約の下で実現していることが示されています。

 第三に、その神さまの律法は愛の律法ですが、マタイの福音書22章37節ー40節には、

 

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

 

というイエス・キリストの教えが記されています。

 この「第一の戒め」は申命記6章5節に記されている、

 

 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、を愛しなさい。

 

という戒めの引用です。それで、この「あなたの神である主」の「」は契約の神である「」(ヤハウェ)です。ここでは、この戒めを与えられている人(人々)がすでに「」との契約関係にあることが示されています。ですから、神さまの律法は神のかたちとして造られている人の神である「」との契約関係のあり方を示すものであるのです。

 しかも、ここでは、「」(ヤハウェ)が「あなたの神」と言われています。これは、「」の契約の祝福の中心にあることです。詳しい説明は省きますが、「」の契約の祝福の中心にあることはレビ記26章11節ー12節に記されている、

 

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

 

という「」のみことばに集約的に表されています。「」がご自身の契約の民の間にご臨在してくださり、彼らの神となってくださり、彼らが「」の民となるということです。それで、「第一の戒め」では「」が「あなたの神」と呼ばれているのです。

 このような愛の律法が初めから神のかたちとして造られている人の心に記されているということは、人が初めから、神さまとの契約関係にある者として造られていることを示しています。

 最後に、4つ目のことですが、神さまは無限、永遠、不変の栄光の主であり、すべてのものの造り主です。神さまと神さまによって造られたものの間には絶対的な区別があります。テモテへの手紙第一・6章15節後半ー16節には、

 

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

 

と記されています。私たち人間がそのような神さまとの愛の交わりに生きることができるためには、人間になぞらえた言い方になりますが、神さまが限りなく身を低くされ、その無限、永遠、不変の栄光を隠して、私たちにご自身を現してくださらなければなりません。そのようにして、神さまがご自身を私たちに現してくださることが、神さまの御臨在です。そして、神さまはご自身の契約に基づいて、私たちご自身の民の間にご臨在してくださいます。神さまがエデンの園にご臨在してくださったのも、ご自身の契約に基づいています。それで、そこにご臨在してくださったのは契約の神である「」です。「」がご自身の契約に基づいてご臨在してくださらなければ、神のかたちとして造られている人は、「」と出会うことも、愛の交わりに生きることもできないのです。ですから、創世記2章7節に、

 

 神であるは土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。

 

と記されていることは、神である「」がご自身の契約に基づいて、そこにご臨在してくださって、人と親しく向き合うようにして、人を形造られたことを示しています。

 

          *

 このように、神のかたちとして造られている人は初めから、神さまの一方的で主権的な愛と恵みによって、神である「」との契約関係にある者として造られていました。それで、この契約を「創造の契約」と呼びます。契約の神である「」は、この契約において、人が「」を神として愛し、礼拝することを中心として委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて、みこころに従いとおしたなら、最初に神のかたちとして造られたときの栄光より一段と豊かな栄光の状態に入れてくださることを約束してくださっていました。

 そのことは、まことの人としての性質を取って来てくださったイエス・キリストが、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことに対する報いを受けて、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことから知ることができます。それは、イエス・キリストがまことの人として、神さまとの契約関係の下にある人として来てくださったからです。

 ガラテヤ人への手紙4章4節ー6節には、

 

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

 

と記されています。

 イエス・キリストは人として「律法の下にある者」となられました。その律法は人の神である「」との関係のあり方を示すものです。イエス・キリストは十字架にかかって私たちご自身の民を律法ののろいの下から贖い出してくださっただけではありません。「その結果、私たちが子としての身分を受けるように」してくださったのです。それで、私たちは「御子の御霊」によって、父なる神さまに向かって個人的に「アバ、父」と呼びかけることができるまでに父なる神さまとの親しい交わりの中に入れていただいています。

 これは、最初に神のかたちとして造られた状態のアダムにも与えられていない特権です。というのは、これは、本来、神の御子であられるイエス・キリストの権利であり、私たちはイエス・キリストの復活の栄光にあずかって、養子という形で神の子どもとしていただいているからです。それで、私たちは、本来父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼びかける御子イエス・キリストの御霊、「御子の御霊」によって、父なる神さまに向かって「アバ、父」と呼びかけることができるのです。

 ローマ人への手紙8章15節には、

 

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

 

と記されています。ここで「子としてくださる御霊」と言われているときの「子としてくださる」ということば(ヒュイオセシア)は、文字通りには「養子としてくださる」ということです。そして、その当時の法ではローマ法でもヘブル法でも養子には実子と同じ権利が与えられていました。

 最初に神のかたちとして造られた状態のアダムには神さまに向かって個人的に「アバ、父」と呼びかける特権が与えられていなかったことは、また、ヘブル人への手紙2章7節において、最初に造られた状態の人のことが、詩篇8篇5節の七十人訳を引用して、

 

 あなたは、彼を、

 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、

 彼に栄光と誉れの冠を与え、

 

と記されていることからも分かります。御使いたちは神さまのことを「主」と呼ぶことはできますが、御子とは違って個人的に「アバ、父」と呼ぶことはできません。そして、ここでは、最初に造られた状態の人は、その御使いたちより「しばらくの間、低いもの」として造られたと言われています。しかし、それは「しばらくの間」のことであるとも言われています。これは、やがて人が御使いたちよりも優る栄光を与えられること、すなわち、神さまの栄光のご臨在により近づくことができる栄光を与えられることを意味しています。

 さらに、このこととは大切なことを示しています。御使いたちは忠実に神さまに仕え続けています。そうではあっても、御使いたちには一段と高い栄光の状態に入ることが約束されているわけではありません。

 さらに、ルカの福音書17章9節ー10節には、

 

しもべが言いつけられたことをしたからといって、[主人が]そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。

 

というイエス・キリストの教えが記されています。これは、神のかたちとして造られている人にも御使いにも当てはまります。人も御使いも造り主である神さまのみこころに従うことは、当然のことです。その当然のことをすることによって、特別な報いを受ける権利を持っているわけではありません。神さまが神のかたちとして造られている人に、歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて神さまのみこころに従いとおしたときに、それに対する報いとして一段と豊かな栄光に入れてくださることを約束してくださったのは当然のことではなく、人の権利でもなく、神さまの一方的な愛と恵みから出たことです。

 しかし、それも、人が神さまのみこころに従いとおしたらのことです。

 実際には、人は神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、当然、罪に対する刑罰を受けるべきものとなってしまいました。神さまはそのような状態にあった私たちを、なおも、一段と豊かな栄光に入れてくださいました。そのために、ご自身の御子に私たちの罪に対する刑罰を下されることをもいとわれなかったのです。私たちは今すでに、神の子どもとしていただいて、そのような神さまの愛と恵みに包まれています。しかし、それがどれほどの愛であり、恵みであるかを私たちは永遠に知り尽くすことはできません。また、それゆえに、神さまの愛と恵みは、永遠に、常に新たな愛と恵みとなって私たちを包んでくださいます。


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