黙示録講解

(第329回)


説教日:2018年3月25日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(82)


 今日も、黙示録2章26節後半ー27節に記されている、

 

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

 

という、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた約束のみことばについてのお話を続けます。

 今取り上げているのは26節後半ー27節前半に記されている、

 

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

 

というみことばです。このみことばは、詩篇2篇8節ー9節に記されている、

 

 わたしに求めよ。

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、

 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 焼き物の器のように粉々にする。

 

というみことばを、いくつかことばを変えて引用したものです。

 その中で重要な変更は二つありますが、今お話ししているのは、二つ目の重要な変更についてです。それは、詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばの「打ち砕く」ということばが、黙示録2章27節前半に記されている、イエス・キリストの約束のみことばにおいては、「治める」に変えられていることです。

 この「治める」と訳されていることば(ポイマイノー)は、基本的に、「牧者」(ポイメーン)が「(群れの)世話をする」こと、「牧する」ことを表します。そして、比喩的に、守ったり、治めたり、導いたり、養ったり、世話をしたりすることを表すことがあります。また、敵から守るために敵を撃退したり退治したりすることを表すこともあります。

 新改訳(第3版)は、ここ黙示録2章27節で「治める」を採用して、

 

 彼は、鉄の杖をもって・・・彼らを治める。

 

と訳しています。その場合でも大切なことは、このことば(ポイマイノー)の根本には、牧者が群れのお世話をするという発想があるということです。

 ちなみに、新しく出ました2017年版では「治める」に変えて、この意味合いを伝えています。

 

           *

 黙示録の中では、詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばが、ここ2章27節前半のほか、12章5節と19章15節でも引用されています。

 先々主日から、19章15節に記されていることについてお話ししています。

 そこには、

 

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

 

と記されています。

 ここに出てくる、

 

 この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。

 

というみことばが詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばを引用しています。その際に、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

の「打ち砕く」ということばを「牧する」に変えています。

 19章15節に記されていることを理解するために、11節ー21節に記されていることを見てみましょう。そこには、

 

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

 

と記されています。

 先々主日と先主日には、11節に記されている、

 

 また、私は開かれた天を見た。

 

と記されていることについてお話ししました。

 このように、天が開かれていることが啓示されることは、黙示録の中では、ここと4章1節に記されているだけです。これは、この時から、それまでに啓示されていたことと比べると画期的に新しいことが啓示されるようになることを意味しています。

 それがどのようなことかを先主日にお話ししたことに合わせて言いますと、この19章11節から、世の終わりに起こること、その意味で「終末的なこと」が啓示されるようになったということを示しています。

 今日は、受難週の主日ですので、そのことを念頭に置きつつ、先主日にお話ししたことを補足したいと思います。

 まことの神であり、無限、永遠、不変の栄光の主である御子イエス・キリストが、今から2千年前に、約束のメシアとして、人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださいました。そのさばきは、終わりの日に執行されるべき、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきでした。それで、私たちの罪に対する最終的なさばきは、今から2千年前に終っています。

 このことによって、ヨハネの福音書3章8節に、

 

 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

と記されていること、特に、

 

 御子を信じる者はさばかれない。

 

と言われていることが、私たちの現実となっています。また、同じヨハネの福音書5章24節にも、

 

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

 

というイエス・キリストの教えが記されています。

 ですから、私たちは終わりの日に執行される最後のさばきを恐れなくてよいのです。というより、御子イエス・キリストの十字架の死による贖いの完全さを信じているのですから、そのことを恐れてはならないのです。刑罰としてのさばきを恐れることと、神さまを恐れることは同じことではありません。真に神さまを恐れることには、神さまへの愛と信頼が伴っています。

 さらに、御子イエス・キリストは私たちを復活のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。これは、今から2千年前に起こったことですが、終わりの日に起こるべき、栄光へのよみがえりです。私たちはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっています。ローマ人への手紙6章3節ー5節に、

 

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 

と記されているとおりです。また、エペソ人への手紙2章4節ー9節にも、

 

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜る慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 

と記されています。

 このようにして、今から2千年前に、神の御子イエス・キリストが私たち御自身の民の罪を贖うために十字架にかかって死なれたこととと、私たちを永遠のいのちに生きるものとしてくださるために、栄光を受けて死者の中からのよみがえってくださったことは、終わりの日に起こるべきことが、歴史の事実として起こっているということを意味しています。

 十字架におかかりになって私たち御自身の民のために罪の贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられてから、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、御自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、すべてのことを治めておられます。ヘブル人への手紙1章3節に、

 

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 

と記されているとおりです。

 先主日にお話ししましたように、これによって、これ以降に起こり来るすべてのことが「終末論的な」意味をもつようになっています。つまり、すべてのことが、終わりの日にメシアであるイエス・キリストがなされる、最終的なさばきを執行されることと、私たち御自身の民の救いを完成してくださること、さらには、新しい天と新しい地を再創造されることにつながっているという意味をもっているのです。

 

          *

 このこととの関連で、さらに、三つのことをお話ししたいと思います。

 まず、イエス・キリストは、御自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、すべてのことを治めておられます。そのイエス・キリストが最終的なさばきを執行されるというのは、どういうことでしょうか。

 それは、先ほど引用しました、ヨハネの福音書3章8節に、

 

 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

と記されているように、御自身の民のために贖いの御業を成し遂げられたイエス・キリストを「信じない者」、すなわち、十字架で死なれたイエス・キリストのことがどんなに鮮明に、また、忍耐深くあかしされても信じようとしない人は、イエス・キリストが成し遂げられた罪の贖いにあずかることがないことによっています。

 また、イエス・キリストが最終的なさばきを執行されることについては、先ほど、ヨハネの福音書5章24節に記されている、

 

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

 

というイエス・キリストのみことばを引用しましたが、その少し後の27節ー29節に、

 

また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。

 

というイエス・キリストの教えが記されています。

 ここでは、父なる神さまが御子イエス・キリストに「さばきを行う権」をお与えになったことの理由として、

 

 子は人の子だからです。

 

と言われています。この場合の「人の子」(ヒュイオス・アンスロープー)には冠詞[ギリシア語の冠詞は定冠詞]がついていません。通常、イエス・キリストが御自身が約束のメシアであることを示すために用いておられる「人の子」(ホ・ヒュイオス・トゥー・アンスロープー)には、「」にも「人の」にも冠詞がついています。この冠詞がついている「人の子」は、ダニエル書7章13節ー14節に、

 

 私がまた、夜の幻を見ていると、

 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、

 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

 この方に、主権と光栄と国が与えられ、

 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、

 彼に仕えることになった。

 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、

 その国は滅びることがない。

 

と記されているみことばに基づいて、イエス・キリストが用いられたと考えられるものです。

 それで、この冠詞がついていない「人の子」は単純に「人」を表しているという見方があります。ことばの意味としてはそのようになります。けれども、イエス・キリストが人であるから最後のさばきを執行されるとするのには無理があります。聖書では一貫して、人を最終的にさばく方は神、あるいは「」であるとされています。

 ここでイエス・キリストが、

 

 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。

 

と教えておられるのは、ダニエル書7章13節ー14節に記されている「人の子」を踏まえつつ、イエス・キリストは約束のメシアとして御自身の民の罪を贖うために人としての性質を取って来てくださった無限、永遠、不変の栄光の「」であるから、最終的なさばきを執行される権威を授けられているということが示されていると考えられます。

 それで、このことはダニエル書7章13節ー14節に記されていることをさらに越えてさかのぼって「最初の福音」にまで行き着きます。「最初の福音」では、神である「」御自身が、その時(人が神である「」に罪を犯して堕落した時)、直だちに暗闇の主権者であるサタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきを執行されないで、「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方をとおして、そのさばきを執行されるというみこころを示されました。「」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方は「女の子孫」であるという点でまことの人でもあります。

 

          *

 次に、二つ目のことですが、御自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、すべてのことを治めておられるイエス・キリストが、終わりの日に、新しい天と新しい地を再創造されるということについても、触れておきましょう。

 それは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業が宇宙論的な意味をもっていることによっています。イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業は、神さまがお造りになったすべてのものの回復のための御業でもあるということです。コロサイ人への手紙1章17節ー20節に、

 

御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

 

と記されているとおりです。

 創造の御業において神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人が罪の力に捕らえられ、終わりの日にさばきを受けて滅ぶべきものになってしまっただけではありません。創世記3章17節ー19節には、神である「」の人へのさばきのことばが記されています。その冒頭の17節には、

 

 あなたが、妻の声に聞き従い、

 食べてはならないと

 わたしが命じておいた木から食べたので、

 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

 

と記されています。ここでは、人が神である「」に罪を犯したために「土地」が「のろわれてしまった」と言われています。これは、創世記1章28節に、

 

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

と記されている、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人にお委ねになった歴史と文化を造る使命において、

 

 地を従えよ。

 

と命じられているように、「」が人の支配の下に置かれるという意味で人と一体に結び合わされていることによっていると考えられます。

 ここで、

 

 地を従えよ。

 

と言われているときの「従える」ということは、人が罪を犯して堕落してしまう前のことですので、罪によって歪められてしまった人がもっている自己中心的な支配、地を自分のために搾取するような支配のことではありません。実際、

 

 地を従えよ。

 

という使命を委ねられている人は、生き物たちのいのちが豊かに育まれるようになるために、エデンの園を耕していました。

 そして、その歴史と文化を造る使命について記している詩篇8篇5節ー6節に、

 

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、

 万物を彼の足の下に置かれました。

 

と記されています。

 このみことばに基づいて、コリント人への手紙第一・15章25節、エペソ人への手紙1章22節、ヘブル人への手紙2章5節ー10節では「万物」が人の支配の下に置かれるという意味で人と一体に結び合わされていることと、「万物」の人との一体性が損なわれてしまっていることを踏まえつつ、歴史と文化を造る使命を委ねられているまことの人として来られたイエス・キリストが、その本来のあり方を回復しておられることと、完全な形で回復されるようになることをあかししています。

 このようにして、創造の御業において神さまが神のかたちとしてお造りになった人に委ねられた歴史と文化を造る使命によって、人と一体に結ばれている「万物」は、人が神である「」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによってのろいを受け、虚無に服してしまいました。

 その「万物」が回復されるとしたら、それは、やはり、人との一体においてです。それは、まず、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、神さまとの本来の関係に回復されることから始まります。それで、ローマ人への手紙8章19節ー21節に、

 

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

 

と記されています。

 このすべては、コロサイ人への手紙1章19節ー20節に、

 

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

 

と記されている、イエス・キリストの十字架の死が人の罪の贖いばかりでなく、「万物」の回復をもたらすものであるという、宇宙論的な意味をもっていることによっています。

 

          *

 最後に、三つ目のことですが、これらのことから分かるように、イエス・キリストがお受けになった復活の栄光は、終わりの日にイエス・キリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地に属している栄光です。また、その栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストは新しい天と新しい地に属しておられます。その新しい天と新しい地も歴史的な世界です。それで、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、新しい天と新しい地に属し、新しい天と新しい地の特質をもっている歴史が始まっています。

 それによって始まった時代を「新しい時代」、「来たるべき時代」と呼びます。その「新しい時代」、「来たるべき時代」を生み出し、支え、特徴づけているのは「御霊」です。

 そして、神のかたちとして造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に造り出されている時代を「古い時代」、「この時代」と呼びます。この「古い時代」、「この時代」を生み出し、支え、特徴づけているのは「御霊」と対立している「肉」です。

 私たちイエス・キリストの血による新しい契約の民は、その「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る使命を委ねられています。ヘブル人への手紙2章5節ー10節に、

 

神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。

 「人間が何者だというので、

 これをみこころに留められるのでしょう。

 人の子が何者だというので、

 これを顧みられるのでしょう。

 あなたは、彼を、

 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、

 彼に栄光と誉れの冠を与え、

 万物をその足の下に従わせられました。」

万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

 

と記されているとおりです。

 栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストは、天に上られ、父なる神さまの右の座に着座されました。そして、最初の聖霊降臨節の日に、御霊を注いでくださいました。それは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊であり、「新しい時代」、「来たるべき時代」を生み出し、特徴づけている御霊です。イエス・キリストはこの御霊によって、私たち御自身の民を新しく生まれさせてくださり、神の子どもとして導いてくださいます。それによって、私たちを神である「」を神として礼拝することを中心とした「新しい時代」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る者としてくださっています。さらに、終わりの日には、5節で「私たちがいま話している後の世」と言われている、新しい天と新しい地を受け継がせてくださり、その歴史と文化を造る者としてくださいます。


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