黙示録講解

(第328回)


説教日:2018年3月18日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(81)

 黙示録2章26節後半ー27節に記されている、

 

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

 

という、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた約束のみことばについてのお話を続けます。

 今取り上げているのは26節後半ー27節前半に記されている、

 

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

 

というみことばです。このみことばは、詩篇2篇8節ー9節に記されている、

 

 わたしに求めよ。

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、

 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 焼き物の器のように粉々にする。

 

というみことばを、いくつかことばを変えて引用したものです。

 その中で重要な変更は二つありますが、今お話ししているのは、二つ目の重要な変更についてです。それは、27節前半に記されている、

 

 彼は、鉄の杖をもって・・・彼らを治める。

 

というイエス・キリストの約束のみことばにおいて、詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばの「打ち砕く」ということばを「治める」に変えていることです。

 この「治める」と訳されていることば(ポイマイノー)は、基本的に、「牧者」(ポイメーン)が「(群れの)世話をする」こと、「牧する」ことを表します。そして、比喩的に、守ったり、治めたり、導いたり、養ったり、世話をしたりすることを表すことがあります。また、敵から守るために敵を撃退したり退治したりすることを表すこともあります。

 新改訳(第3版)は、ここ黙示録2章27節で「治める」を採用して、

 

 彼は、鉄の杖をもって・・・彼らを治める。

 

と訳しています。その場合でも大切なことは、このことば(ポイマイノー)の根本には、牧者が群れのお世話をするという発想があるということです。

 

           *

 黙示録の中では、詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばが、ここ2章27節前半のほか、12章5節と19章15節でも引用されています。

 先主日から、19章15節に記されていることについてお話ししています。

 そこには、

 

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

 

と記されています。

 ここに出てくる、

 

 この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。

 

というみことばにおいて、詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばが引用されています。その際に、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

の「打ち砕く」ということばを「牧する」(ポイマイノー・ここでは敬語「牧される」)に変えています。

 19章15節に記されていることは11節ー21節に記されていることの一部です。それで11節ー21節に記されていることを見てみましょう。

 そこには、

 

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

 

と記されています。

 先主日には、11節に記されている、

 

 また、私は開かれた天を見た。

 

と記されていることについてお話ししました。

 詳しい説明を省いて、結論的なことだけをお話ししますと、このように、天が開かれていることが啓示されることは、それによって、それまでに啓示されていたことと比べると画期的に新しいことが啓示されるようになることを意味しています。

 それがどのようなことかをお話しするために、まず、終わりの日のことについて考えるうえで大切な用語の意味についてお話ししておきます。

 終わりの日についてみことばがどのようなことを啓示しているかを教理的にまとめるものを「終末論」と呼びます。終末論には個人の終末にかかわることと、人類全体の終末にかかわること、さらには、全被造物の終末にかかわることがあります。これらを時間的な面から見れば、歴史の終末にかかわることということになります。このように個人の終末、人類全体の終末、全被造物の終末というように区別されるのですが、すべては同じく終末にかかわることとして、互いに密接に関連しています。

 今お話ししていることとのかかわりでお話ししたいのは、このような区別と関係を踏まえたうえで、さらに別の面から考えられる区別と関係で、「終末的」なことと「終末論的」なことの区別と関係です。

 「終末的」なことというのは、文字通り、世の終わりに起こることを指しています。具体的なことをあげてみましょう。

 みことばは、多くの反キリストの頂点とも言うべき反キリスト、テサロニケ人への手紙第二・2章3節ー12節に記されている「不法の人、すなわち滅びの子」が現れることを示しています。テサロニケ人への手紙第二・2章3節ー4節には、

 

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

と記されています。また、先主日にお話ししました、黙示録13章1節ー10節に記されている海から上って来た獣は、反キリストの国を表す黙示文学的な表象です。

 また、次のことですが、終わりの日には、御子イエス・キリストが御父の栄光を帯びて再臨されます。マタイの福音書16章27節には、

 

人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。

 

というイエス・キリストの教えが記されていますし、24章29節ー31節には、

 

だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

 

というイエス・キリストの教えが記されています。そのほか、26章67節に記されているイエス・キリストの証しのみことばも見てください。

 再び来られるイエス・キリストは、すべての死者をよみがえらせて、最終的なさばきを執行されます。ヨハネの福音書5章27節ー29節には、

 

また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。

 

というイエス・キリストの教えが記されています。また、コリント人への手紙第一・15章24節ー27節前半には、

 

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。

 

と記されていますし、黙示録20章7節ー15節には、

 

しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

と記されています。7節で「千年の終わりに」と言われているときの「千年」はいわゆる「千年王国」と呼ばれる期間のことです。それがどのような期間であるかについては、いくつかの理解がありますが、今は、それに触れることができませんが、いずれにしても、ここに記されていることは、世の終わりに執行される最終的なさばきのことです。

 再臨される栄光のキリストは、同時に、御自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づく恵みによって、神の子どもたちの救いを完成してくださいます。コリント人への手紙第一・15章20節ー23節には、

 

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

 

と記されており、51節ー57節には、

 

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。

 

と記されています。また、テサロニケ人への手紙第一・4章14節ー17節には、

 

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

と記されており、ヨハネの手紙第一・3章2節には、

 

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 

と記されています。これは、終わりの日に、私たち主の契約の民がイエス・キリストの復活にあずかって、栄光のからだによみがえるとき、私たちが「キリストに似た者となる」ということを示しています。それは、ローマ人への手紙8章28節ー30節に、

 

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 

と記されていることが、私たちに実現するということを意味しています。

 これらのことは、終わりの日には、主の契約の民の救いが完成するということを、主がみことばをとおして啓示してくださっているものです。

 けれども、これで終わりではありません。終わりの日に再臨される栄光のキリストは、御自身がその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づく新しい創造の御業によって、新しい天と新しい地を造り出されます。それは、ローマ人への手紙8章19節ー21節に、

 

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

 

と記されていることが実現し、全被造物が栄光化されるということです。

 それは、また、神さまが最初の創造の御業によって歴史的な世界を造り出され、神のかたちとしてお造りになった人に、その歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに示されているみこころを、サタンの働きによって、人が罪を犯して堕落してしまったにもかかわらず、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて、実現してしてくださり、全被造物を最初に造られたときの状態より栄光あるものとして完成してくださるということです。

 これらのことが、神さまがみことばをとおして啓示してくださっている「終末的」なことです。けれども、今はまだ、そのような「終末的」なことは起こってはいません。

 

          *

 これに対して「終末論的」と「論」をつけて言う、「終末論的」なことは、今ここに生きている私たちが経験していることですが、終わりの日に起こること、「終末的」なことと深くかかわっています。

 「終末論的」と言うときの「論」は、私たち人間がもつ理解の仕方、考え方のことです。それで、この「終末論的」なことには、私たちのものの見方や考え方、そして、それに基づいて生きる姿勢がかかわっています。

 私たちは、神さまがみことばをとおして啓示してくださっている「終末的」なことの実現してを信じて、望みのうちに生きています。

 具体的には、神さまが、終わりの日に、再びイエス・キリストを遣わしてくださり、イエス・キリストによって最終的なさばきを執行してくださり、すでにイエス・キリストが成し遂げておられる贖いの御業に基づく恵みによって、私たち神の子どもたちの救いの完成してくださること、そして、その贖いの御業に基づいて新しい天と新しい地を再創造してくださり、創造の御業において示されていたみこころを完全に実現してくださるということを信じています。そして、そのことを信仰によって見据えて、その実現を望みつつ、今ここでの私たちのものの見方、考え方、生き方を選び取って生きています。このようなものの見方と考え方、生き方ことを、「終末論的」な視野に基づいた、ものの見方、考え方、生き方と言います。

 今はまだ世の終わりではありませんので、私たちの経験は「終末的」ではありません。しかし、私たちは世の終わりがあることを信じていて、そのことを踏まえて、ものの見方と考え方と生き方を、それにふさわしく整えています。そのようなものの見方や考え方や生き方が「終末論的」なものの見方であり、考え方であり、生き方なのです。

 みことばの教えにもこのことが表されていますので、いくつかの例を見てみましょう。

 先ほど引用しました、ヨハネの手紙第一・3章2節には、

 

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 

と記されていました。ヨハネは、これに続く3節において、

 

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

 

と教えています。2節に記されている終わりの日には「私たちはキリストに似た者となる」という救いの完成を信じている者は、その「私たちはキリストに似た者となる」という望みにふさわしい歩みをするというのです。

 天地創造の御業以来の歴史の中で、人として神さまの栄光を最も豊かに表したのは、人としての性質を取って来てくださった御子イエス・キリストです。私たちは終わりの日には、そのイエス・キリストに「似た者となる」というのです。

 私たちは今は、自分たちのうちに罪の性質を残しているために、罪を犯してしまいます。そのために、神さまの栄光を現すことにはほど遠い者でしかないことを痛感しないではいられません。そして、そのような私たちを、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった罪の贖いにあずからせてくださっていることに、父なる神さまの愛と恵みに満ちた栄光が現れるようにしてくださっていることに、深い慰めをいただいています。それでも、私たち自身の現実にはうめきが消えません。

 しかし、終わりの日には、私たちはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、「キリストに似た者となる」と言われています。その日には、私たちが愛と恵みに満ちた父なる神さまの栄光をより豊かに現す者に造り変えられるというのです。私たちはこの望みの中に歩んでいます。そして、

 

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

 

と言われているように、その望みが今の私たちの歩みを導く指標になっています。

 もう一つの例を見てみましょう。先ほどテサロニケ人への手紙第一・4章14節ー17節に記されているみことばを引用しました。16節ー17節には、

 

主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 

と記されていました。

 パウロはただ終わりの日に起こることを伝えているのではありません。これに先立って、13節において、

 

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。

 

と述べています。

 これも、私たち主の契約の民の終わりの日における救いの完成に対する望みが、私たちの肉体的な死についての考え方と感じ方を「他の望みのない人々」とは違って、望みに満ちたものとしていることを示しています。

 ここで大切なことは、私たち主の契約の民の終わりの日における救いの完成に対する望みは決して希望的観測ではなく、その望みには、確かな根拠があるということです。

 その根拠は、今から2千年前に、今、私たちが生きているのと同じ歴史の中で、神の御子イエス・キリストが、旧約聖書に約束されていた贖い主となるために、人としての性質を取って来てくださり、十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださったことと、私たちを復活のいのちに生きる者としてくださるために、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことにあります。言い換えますと、御子イエス・キリストが、歴史的な事実として、贖いの御業を成し遂げてくださったことにあります。

 それでは、どうして、今から2千年前に成し遂げられた贖いの御業、遠い過去に起こったことが、終わりの日に、私たち主の民の救いが完成することの根拠になるのでしょうか。

 それは、御子イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべて受けてくださった時のさばきは、終わりの日に執行されるべき、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきであったからです。そして、私たちを復活のいのちに生きる者としてくださるために、死者の中からよみがえってくださったことも、単なる蘇生ではなく、終わりの日に起こるべき、栄光のからだへのよみがえりであったからです。

 御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、終わりの日に起こるべきことが、今から2千年前に歴史の事実として起こっているということを意味しています。

 そして、十字架におかかりになって私たち御自身の民のために罪の贖いを成し遂げられ、栄光を受けて死者の中からよみがえられてから、天に上り、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、御自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、すべてのことを治めておられます。それによって、それ以降に起こり来るすべてのことが「終末論的な」意味をもつようになっているのです。すべてのことが、終わりの日にメシアであるイエス・キリストがなされる、最終的なさばきを執行されることと、私たち御自身の民の救いを完成してくださること、さらには、新しい天と新しい地を再創造されることにつながっているという意味をもっているのです。

 このように、今私たちが経験しているすべてのことが「終末論的な」意味をもっているのですが、私たち主の民は、みことばの教えの光の下で、その「終末論的な」意味を汲み取って、すべてのことを理解し、受け止めて、生きています。それで、私たちのものの見方、考え方、生き方が、「終末論的な」ものの見方、考え方、生き方になっているのです。

 

          *

 最初にお話ししたように、黙示録19章11節に、

 

 また、私は開かれた天を見た。

 

と記されていることは、それまでヨハネに啓示されてきたことに比べて、画期的に新しいことが啓示されようとしていることを示しています。

 これを、これまでお話ししてきた「終末的なこと」と「終末論的なこと」の区別と関係に沿って言いますと、これまで(19章10節まで)、主はヨハネに「終末論的」な意味をもっていることについて啓示してこられたのですが、この時から、「終末的」なことについて啓示されるようになったということ、その意味で画期的に新しいことを啓示されるようになったということを示しています。


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