黙示録講解

(第327回)


説教日:2018年3月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:ヨハネの黙示録2章18節ー29節


 黙示録2章26節後半ー27節には、

 

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

 

という、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた約束のみことばが記されています。

 26節後半ー27節前半に記されている、

 

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

 

というみことばは、詩篇2篇8節ー9節に記されている、

 

 わたしに求めよ。

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、

 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 焼き物の器のように粉々にする。

 

というみことばを、いくつかことばを変えて引用したものです。

 そのいくつかの変更の中で、イエス・キリストの約束のみことばの理解にかかわる重要な変更は二つですが、今お話ししているのは、二つ目の変更についてです。それは、27節前半に記されている、

 

 彼は、鉄の杖をもって・・・彼らを治める。

 

というイエス・キリストの約束のみことばにおいて、詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばの「打ち砕く」ということばを「治める」に変えていることです。

 この「治める」と訳されていることば(ポイマイノー)は、「牧者」、「羊飼い」を表すことば(ポイメーン)と関連していて、基本的に「(群れの)世話をする」こと、「牧する」ことを表します。そして、比喩的に、守ったり、治めたり、導いたり、養ったり、世話をしたりすることを表すことがあります。また、敵から守るために敵を撃退したり退治したりすることを表すこともあります。

 新改訳(第3版)は、ここ黙示録2章27節で「治める」を採用して、

 

 彼は、鉄の杖をもって・・・彼らを治める。

 

と訳しています。ギリシア語には「治める」ことや「支配する」ことを表すことばは他にもいくつかありますが、このことば(ポイマイノー)の根本にあるのは、牧者(ポイメーン)が群れのお世話をするという発想です。

 

           *

 黙示録の中では、詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばが、ここのほか、12章5節と19章15節でも引用されています。

 先主日と先々主日には、12章5節に記されていることについてお話ししました。今日から、そのことを踏まえて、19章15節に記されていることについてお話しします。

 そこには、

 

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

 

と記されています。

 ここに出てくる、

 

 この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。

 

というみことばにおいて、詩篇2篇9節前半の、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

というみことばが引用されています。その際に、

 

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 

の「打ち砕く」ということばを「牧される」(ポイマイノー)に変えています。

 19章15節に記されていることを理解するために、11節ー21節に記されているみことばを見てみましょう。

 そこには、

 

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行い、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。

 

と記されています。

 11節には、

 

 また、私は開かれた天を見た。

 

と記されています。今日は、このこととのかかわりで、19章11節ー21節に記されていることを理解するための背景となっていることをいくつかお話ししたいと思います。

 黙示録では、これと同じようなことは4章1節に、

 

 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。

 

と記されています。ここで「開いた門」と訳されていることばの「開いた」は受動態で、19章11節で「開かれた天」と言われているときの「開かれた」と同じです。

 4章1節では、これに続いて、

 

また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」

 

と記されています。そして、2節ー11節に、

 

たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。

 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」

また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。

「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

 

と記されています。

 1章ー3章に記されているように、ヨハネはそれまで、アジアにある七つの教会のそれぞれに対するイエス・キリストのみことばを伝えられています。そのヨハネに示されていたのはアジアにある七つの教会の現状で、それぞれの教会がさまざまな試練にさらされていました。イエス・キリストを「主」と告白する信仰のために受ける迫害とそのための貧困、福音を曲げる誤った教えによる惑わし、豊かさのためにもたらされる問題などが現実としてありました。

 そのヨハネに、天にある開かれた門が啓示され、ヨハネは御霊によってもたらされた幻のうちに天へと引き上げられました。そして、天において「御座に着いている方」と、その御前において仕えている「二十四人の長老たち」と「四つの生き物」による礼拝の様子を示されました。さらに、引用はしませんが、5章には、「ほふられたと見える小羊」が歴史の主として、この後の歴史を御自身が成し遂げられた贖いの御業に基づき、御霊によって治めていかれる方であることが示されます。そして、「御座に着いている方」と「ほふられたと見える小羊」への礼拝が、「四つの生き物と二十四人の長老」の礼拝から始まって、「御使いたち」の礼拝、さらには「天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物」たちの礼拝へと広がっていきます。

 ヨハネは「この後、必ず起こる事」を啓示されているのですが、その時代から世の終わりに至るまでの歴史のすべての中心に「御座に着いている方」と「ほふられたと見える小羊」がおられ、「御座に着いている方」と「ほふられたと見える小羊」への礼拝があります。これは、天地創造の御業において、神さまが神のかたちとしてお造りになった人に、御自身がお造りになったこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりましたが、その歴史と文化を造る使命を果たすことの中心に造り主である神さまを礼拝することがあるということと符合しています。

 実際、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の目的も、すべてのものの主であるイエス・キリストによって、父なる神さまがほめ讃えられることにあります。ピリピ人への手紙2章6節ー11節に、

 

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

と記されているとおりです。

 

          *

 このように、4章1節に、

 

 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。

 

と言われていることは、それによって画期的に新しいことが啓示されることを意味しています。

 これと同じような言い方は、19章11節に、

 

 また、私は開かれた天を見た。

 

と記されるようになるまで出てきません。

 4章1節ー19章10節にも、新しい出来事の啓示が次々と示されています。

 その中のいくつかのことを見てみましょう。

 先週と先々週お話ししました12章においては、古い契約の下の歴史と新しい契約の下の歴史をとおして存在する「」の契約の民を表象的に表している「」から古い契約の下で約束されていたメシアが誕生したこと、「大きな赤い竜」すなわちサタンが、そのメシアが生まれたら食い尽くそうとしていたにもかかわらず、メシアは天に上げられ御座に着座されたこと、そして、天における霊的な戦いにおいてサタンは敗北して地に投げ落とされたことが記されています。これは、霊的な戦いにおける決定的な戦いがなされたことを記すものです。それは、たとえて言えば、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線では、連合軍によるノルマンディ上陸作戦の成功によって、連合軍側の勝利が確実なものとなり、その後はナチス軍が敗走しながら戦いを続けるようになったということに当たります。そのような意味をもった霊的な戦いが戦われて、サタンの敗北は決定的なものとなったのですが、それでも、そのことがヨハネに啓示されるに当たって、

 

 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。

 

というような言い方はなされてはいません。

 

          *

 さらに、これも、19章11節ー21節に記されていることとかかわっていますが、12章の最後の部分である17節ー18節には、

 

すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。

 

と記されています。先主日にはお話しできませんでしたが、ここに「女の子孫の残りの者」が「」との霊的な戦いを戦うようになることが記されていることは、12章に記されていることが「最初の福音」を背景としていることの現れの一つです。

 このことを受けて、続く13章1節ー8節には、

 

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう」と言った。この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

 

と記されています。

 ここには、「」すなわちサタンが「」から上って来た「」に「自分の力と位と大きな権威」を与えたこと、その「」の働きによって人々が「」と「」を礼拝するようになること、そして、その「」が神をののしり、「」の契約の民を迫害するようになることが記されています。

 この「」は旧約聖書のダニエル書7章に記されている、ダニエルが見た幻に出てくる、バビロンから始まって地上に現れてくる四つの帝国を表象的に表している四つの獣を背景としていて、それらの表象によって表されている四つの帝国を総合するような帝国です。それは、その当時のローマ帝国をモデルとして示されている地上の帝国で、終わりの日に、反キリストの帝国として登場してくるようになります。

 また、11節ー18節には、

 

また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

 

と記されています。

 この「」から上って来た「」は「」から上って来た「」の権威をもって、人々に「」から上って来た「」を礼拝させる(そのモデルは、やはりローマ帝国の皇帝礼拝です)ように働きます。この「」から上って来た「」は、黙示録ではこの後、一貫して「にせ預言者」と呼ばれています。

 最後の18節には、

 

ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

 

と記されています。これは、その前の17節に、

 

また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

 

と記されていることを受けています。それで、その「数字」は「」から上って来た「」の「名の数字」です。それは「六百六十六」であると言われています。これが誰を指すかということで、さまざまな見方がされてきました。最もよく知られているのは、ヘブル語の文字(子音字)のそれぞれが数を表すために用いられているので、「皇帝ネロ」をヘブル語で表して、それぞれのヘブル語の文字が表す数を足すと「六百六十六」になるという理解です。けれども、これに問題がないわけではないので、いろいろな議論がなされています。どの理解を取るとしても共通しているのは、おそらく、この「666」は「6」を三つ重ねて強調するとともに「6」「6」「6」という連続性を示していて、完全数である「7」を三つ重ねて強調するとともに「7」「7」「7」という連続性を示して、常に完全である「777」に近いように思われるけれども、常に、それに足りないということを表していると考えられます。

 それでは、「666」という名をもつ「」から上って来た「」は完全な方に近いのかという疑問が出てきます。

 このこととの関連で注目したいのですが、ここでは、「」(サタン)と「」から上って来た「」(反キリスト)と「」から上って来た「」(「にせ預言者」)が三位一体の神さまを真似して、あたかも三位一体であるかのように働いていることが示されています。「」(サタン)は父なる神さまに対応し、「」から上って来た「」(反キリスト)は御子イエス・キリストに対応し、「」から上って来た「」(「にせ預言者」)は御霊に対応しているかのように働いています。「」から上って来た「」の名の「666」は、常に完全であることをを表す「777」に相当する方の真似をして、その方のようであるように見せかけるけれども、決してその方ではないということになります。いずれにしても、この「666」は、最終的には、終わりの日に現れてくる「反キリスト」を指しています。

 ヨハネの手紙第一・2章18節には、

 

小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。

 

と記されています。すでに、ヨハネの時代に「多くの反キリスト」が現れてきていました。その時代のローマ帝国は「反キリスト」の国を予表するものですが、「多くの反キリスト」の現れの一つです。みことばは、終わりの日にはその「多くの反キリスト」の極みとも言うべき「反キリスト」が出現することを示しています。黙示録以外では、たとえば、テサロニケ人への手紙第二・2章3節ー12節に記されている「不法の人」が終わりの日に出現する「反キリスト」に当たります。3節ー4節には、

 

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

と記されており、9節ー10節には、

 

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

 

と記されています。

 このようにして、全世界を惑わして、人々が自分と「」を礼拝するようにと「にせ預言者」を用いて働くサタンは、終わりの日に至るまで地上にある「」の契約の民を惑わしたり、迫害することによって試練に会わせるようになるのですが、そのことがヨハネに啓示されたときにも、

 

 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。

 

というような言い方はなされてはいません。

 

          *

 もう一つのことに、触れておきましょう。

 一つは、19章に先立つ17章ー18章には、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名をもつ「」に対するさばきが執行されたことが記されているということです。17章1節ー6節には、

 

また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。地の王たちは、この女と不品行を行い、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン」という名であった。そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。

 

と記されています。

 3節では、この「」は「荒野」にいたと言われています。それは、先主日にお話ししたように、12章に記されている、新しい契約の下にある「」の民、すなわちキリストのからだである教会を表している「」が、「大きな赤い竜」(サタン)から逃れていった所が「荒野」であったからです。キリストのからだである教会としての「」はそこで「」の訓練と養いを受けながら、約束の地(新しい天と新しい地)に向かっての歩みを続けます。「大バビロン」はその「荒野」で教会としての「」を誘惑し、迫害を加えます。

 「大バビロン」としての「」は「緋色の獣に乗っている」と言われています。この「」は先ほど出てきた「」から上って来た「」のことで、 最終的に現れてくる「反キリスト」のことです。「大バビロン」としての「」が「大水の上にすわっている大淫婦」と言われているときの「大水」は、15節で「もろもろの民族、群衆、国民、国語」であると説明されています。そして、18節では、

 

 あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。

 

と説明されています。

 それでは、「緋色の獣に乗っている」と言われている「大バビロン」としての「」は「緋色の獣」を支配しているのかというと、そうではありません。

 16節には、

 

あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。

 

と記されています。

 ここに出てくる「十本の角」は「」に生えていたのこと角で、「十人の王たち」を表しています。13節では、この「十人の王たち」は「自分たちの力と権威とをその獣に与えます」と言われています。そして14節では、彼らは「」と心を合わせて「小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます」と言われています。これは、先ほど引用しました19章11節ー21節に記されていることを、前もって記すものです。

 16節では、その「十本の角」と「」が、

 

その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。

 

と言われているのです。これは、悪の主権者たちが覇権をめぐって、心を合わせたり、憎しみ合うようになることを意味しています。

 そして続く17節には、

 

それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ、彼ら[十本の角]が心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。

 

と記されていて、神さまは悪の主権者たちの協力や、憎しみと争いさえも用いて御自身のみこころを実現されることが示されています。ここで神さまが「みことばの成就するときまで、神のみこころを行う思いを彼らの心に起こさせ」たと言われていることは、「彼ら」が神さまのみこころを理解して、それを行おうとしているということではありません。「彼ら」は自分たちの権力欲に駆られて協力したり、憎しみ合ったり、争ったりするのですが、神さまはそれらをも用いてみこころを実現されるということです。

 このような「地上の王たちを支配する大きな都」である「大バビロン」へのさばきがヨハネに啓示されたときにも、

 

 その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。

 

というようなことは記されていません。

 これらのことから、19章11節に、

 

 また、私は開かれた天を見た。

 

と記されていることは、これまでお話ししてきたいくつかのことも含めて、これより前にヨハネに啓示されてきたことと比べて、画期的に新しいことが啓示されようとしていることを意味していると考えられます。


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