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説教日:2018年3月4日 |
今日も、黙示録2章26節後半ー27節に記されている、
彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
という、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られた約束のみことばについてのお話を続けます。 まず、これまでお話ししたことで今日お話しすることとかかわっていることをまとめておきます。 26節後半ー27節前半に記されている、
彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
というみことばは、詩篇2篇8節ー9節に記されている、
わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。
というみことばを、いくつかことばを変えて引用したものです。ここには人称の変更などいくつかの変更がありますが、イエス・キリストの約束のみことばの理解にかかわる重要な変更は二つです。 今お話ししているのは、二つ目の重要な変更についてです。 その二つ目の重要な変更は、27節前半に記されている、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
という約束のみことばに見られます。 この約束のみことばは、詩篇2篇9節に記されている、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。
というみことばを引用していますが、その際に、詩篇2篇9節前半で、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
と言われているときの「打ち砕き」ということばを「治める」に変えて、
彼は、鉄の杖をもって・・・彼らを治める。
としています。ギリシア語の原文では、このことばが最初に来ていて、この後に、
土の器を打ち砕くようにして
ということばが続いていますが、これは詩篇2篇9節後半の、
焼き物の器のように粉々にする。
ということばを引用しています。 このように、
彼は、鉄の杖をもって・・・彼らを治める。
というイエス・キリストの約束のみことばでは、詩篇2篇9節前半の、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
というみことばの「打ち砕き」ということばが「治める」に変わっています。 この「治める」と訳されていることば(ポイマイノー)は基本的に「(群れの)世話をする」こと、「牧する」ことを表します。そして、そこから比喩的に、守ったり、治めたり、導いたり、養ったり、世話をしたりすることを表すことがあります。また、敵から守るために敵を撃退したり退治したりすることを表すこともあります。 古代オリエントの文化の中では、王は「牧者」にたとえられて表されています。そのことは聖書にも反映しています。そして、牧者としての王の働きは「牧する」ことにたとえられるので、この「牧する」ことを表すことば(ポイマイノー)は「治める」ということをも表します。 新改訳(第3版)は、ここ黙示録2章27節で「治める」を採用して、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
と訳しています。ギリシア語には「治める」ことや「支配する」ことを表すことばは他にもいくつかありますが、このことば(ポイマイノー)の根本にあるのは、牧者が群れのお世話をするという発想です。 この、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
という約束のみことばは、詩篇2篇9節に記されている、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。
というみことば全体を引用していますが、黙示録の中では、その前半の、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
というみことばが、ここのほか、12章5節と19章15節でも引用されています。
* 先主日には、12章5節に記されていることについてお話ししました。今日はそれをさらに補足するお話をします。 まず、先主日にお話ししたことをまとめておきましょう。 12章5節には、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
と記されています。ここに出てくる、
この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧する
ということばが、詩篇2篇9節前半の、
あなたは鉄の杖で彼ら[八節の「国々」]を打ち砕き、
ということばの引用です。 ここでの引用におけることばの変更は、黙示録2章27節前半における引用と同じように、詩篇2篇9節前半の、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
ということばの「打ち砕き」が「牧する」に変えられています。ここ12章5節で「牧する」と訳されていることば(ポイマイノー)は、2章27節前半で、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
と言われているときの「治める」と訳されていることばと同じことば(ポイマイノー)で、先ほども触れたように、基本的には、「牧する」ことを意味しています。 先主日にお話ししたことで、今日お話しすることとのかかわりで特に覚えておきたいことは、12章5節に記されている、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
ということには、創世記3章に記されていることが背景となっているということです。特に、15節に、
わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。
と記されている「蛇」すなわちサタンへのさばきのみことばとして記されている「最初の福音」と、それに続く16節の前半に記されている、
わたしは、あなたのうめきと苦しみ[「みごもりの苦しみ」]を 大いに増す。 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
という「女」へのさばきのみことばが背景となっています。この「女」へのさばきのみことばは、これだけを読むとさばきのことしか記されていませんが、その前の15節に記されている「最初の福音」とのかかわりで見るとと、「女」から「女の子孫」が生まれてくることの保証となっています。 このように、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
というみことばは「最初の福音」とかかわっています。 そして、さらに覚えておきたいことは、その「最初の福音」は「蛇」へのさばきのみことばとして記されているということです。そして、「最初の福音」においては、その時、神である「主」が直接さばきを執行しないで、「女」と「女の子孫」をとおしてさばきを執行されること、特に、「女」と「女の子孫」の「かしら」として来られる方をとおして最終的なさばきを執行されるということが示されています。これによって、「女」と「女の子孫」は霊的な戦いにおいて神である「主」の側に立つようになり、神である「主」との本来の関係を回復されるようになります。 ですから、「最初の福音」には、「女」と「女の子孫」の救いと、「蛇」と「蛇」の霊的な子孫のさばきという、二つの面があります。そして、黙示録12章5節に記されている、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
というみことばにも、「女」と「女の子孫」の救いと、「蛇」と「蛇」の霊的な子孫のさばきという、二つの面がかかわっているということになります。 今日は、この「最初の福音」とのかかわりで考えられる「救い」と「さばき」という二つの面にかかわるお話をします。
* 黙示録12章5節に、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
と記されているときの「女」については先主日にお話ししましたが、少し補足しますと、この「女」は1節ー2節で、
また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
と言われている「女」です。そして、ここで、1節で、
巨大なしるしが天に現れた。
と言われていることは、この「女」が天に属していることを示しています。それで、この「女」は古い契約の下にあった時代と新しい契約の下にある時代をとおして存在する「主」の契約の民の共同体としての教会、すなわち最も広い意味での教会を指しています。これを「最初の福音」のことばに合わせて言うと、「女」と「女の子孫」の共同体ということになります。 2節には、
この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
と記されています。これは、先主日に詳しくお話ししましたように、創世記3章16節前半に、
わたしは、あなたのうめきと苦しみ[「みごもりの苦しみ」]を 大いに増す。 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
という「女」へのさばきのみことばを背景として記されています。そして、5節には、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
と記されています。これを「最初の福音」のことばに合わせて言うと、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来られる方であるメシアが来られたことを示しています。 そして、この方は「神のみもと、その御座に引き上げられ」ました。これは、「最初の福音」において、
彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。
と預言的に記されている「蛇」へのさばきのみことばを実現してくださるためです。 もう一つ注目したいのは、1節には、
巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が・・・
と記されていて、この「女」のことを表すしるしが「巨大なしるし」と言われているということです。 これに対して、3節ー4節前半には、
また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。
と記されています。この「大きな赤い竜」のことを表すしるしはただ「別のしるし」と言われているだけです。 この違いは、神である「主」との関係における意味、特に、創造の御業と贖いの御業を貫く神である「主」のみこころとの関係における意味の大きさ、意味の重さの違いを反映していると考えられます。言うまでもなく、この「女」の存在は、創造の御業と贖いの御業を貫く神である「主」のみこころの実現に深くかかわっており、その中心にあります。けれども、「大きな赤い竜」は、創造の御業と贖いの御業を貫く神である「主」のみこころの実現を阻止しようとして働くだけのもので、神である「主」の御前においては否定的な意味しかなく、積極的な意味はまったくありません。 この「大きな赤い竜」は、サタンを表象的に表しています。9節で、
この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇
であると説明されているとおりです。この説明は、ここに記されていることが創世記3章に記されていることを背景としていることを示すものの一つです。 ここでは、「竜」の武器である「尾」のことが、
その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。
と言われています。これについてはいくつかの解釈がありますが、おそらく、この「天の星」は御使いたちのことで、ここでは、彼らがサタンに引き寄せられて堕落したことが記されていると考えられます。そうであるとしますと、これを「最初の福音」のことばに合わせて言うと、「蛇」すなわちサタンの堕落は人類の堕落の前に起こっていますので、これによって、サタンとサタンの霊的な子孫の共同体の最初の形が形成されたということになります。 4節後半には、
また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
と記されています。 これも、「最初の福音」を踏まえてのことです。先ほど触れましたように、「最初の福音」においては、その時、神である「主」が直接、サタンとサタンの霊的な子孫に対するさばきを執行されないで、「女」と「女の子孫」をとおしてさばきを執行されること、特に、「女」と「女の子孫」の「かしら」として来られる方をとおしてサタンとサタンの霊的な子孫への最終的なさばきを執行されるというみこころが示されています。 この「最初の福音」はサタンに対するさばきの宣告として語られています。その宣告をされたサタンとしては、「女の子孫」、特に、「女の子孫」の「かしら」が生まれないようにしてしまえば、あるいは、生まれたとしても亡き者にしてしまえば、自分に対するさばきは執行されないことになるばかりでなく、その宣告をとおして示されている神である「主」のみこころを阻止することができるということになります。 このことが、神である「主」の贖いの御業の歴史においては、「女」と「女の子孫」の共同体に対する迫害となって現れてきています。また、特に、「女の子孫」の「かしら」として来られた御子イエス・キリストがお生まれになったときには、マタイの福音書2章16節に記されているように、ヘロデが「ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた」ことや、イエス・キリストの公生涯におけるお働きがなされていたときにも、特に、ヨハネの福音書8章37節、44節に記されているように、ユダヤ人たちがイエス・キリストを殺そうとして、ついには、十字架につけて殺してしまうことに現れています。 しかし、そのようなサタンのはかりごとが実現して、「女の子孫」の「かしら」として来られたイエス・キリストが十字架につけられて殺されたことをとおして、サタンの思惑をはるかに超えたことが実現しました。御子イエス・キリストの十字架の死によって「主」の民の罪が贖われ、神である「主」贖いの御業が成し遂げられました。まさに、「最初の福音」において、
彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。
と預言的に記されていたことが、実質的に、実現したのです。 そして、黙示録12章5節に、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
と記されているように、イエス・キリストは父なる神さまの右の座に着座されました。さらに、7節ー9節に、
さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
と記されているとおり、「サタンは天における霊的な戦いに敗北し、地に投げ落とされています。この意味で、5節で、
この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。
と言われていること、特に、「鉄の杖をもって・・・牧する」ということ、すなわち、「主」の民を損なおうとして働いている「敵」を撃退することが実現しています。これがサタンへの最終的なさばきの執行、より身近なことばで言うとサタンを「退治する」ことにつながっていきます。
* さらに、これ受けて13節ー14節には、「主」が私たちご自身の民を「牧して」くださること、その意味で、「最初の福音」に示されている救いの面にかかわることが記されています。 そこには、
自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
と記されています。 これについては、2年数ヶ月ほど前にお話ししたことをまとめつつ、今お話ししていることとかかわることをお話しします。 ここに記されていることは、すでに「男の子」が生まれ、天に上げられた後のことですので、13節で「竜」に追いかけられたと言われている「女」は、新しい契約の共同体としての教会を指しています。 14節で、
女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
と言われていることは、古い契約の下での贖いの御業である、神である「主」による出エジプトの御業を踏まえています。 神である「主」の力強い御手によってエジプトの奴隷の状態から贖い出され、シナイの荒野にまで導かれて来て、シナイ山の麓に宿営していたイスラエルの民に「主」が語られたみことばを記している出エジプト記19章4節には、
あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
と記されています。 ここでは、古い契約の下にあった出エジプトの贖いの御業においては、「主」がイスラエルの民を「鷲の翼に載せ」て、「主」の御臨在の御許に連れて来てくださったと言われています。 これに対して黙示録12章14節では、「主」が「女」すなわち新しい契約の共同体としての教会自身に「大鷲の翼を二つ与えられた」と言われています。「主」は、彼女が自分で荒野に行くことができるようにしてくださいました。これは、古い契約の下での出エジプトの贖いの御業が、その本体としてのまことの出エジプトとしてのイエス・キリストの十字架の死による贖いの御業において発展していることを示していると考えられています。 出エジプトの時代に、神である「主」はシナイ山にご臨在されて、イスラエルの民と契約を結んでくださり、「主」がイスラエルの民の間にご臨在してくださるための聖所を与えてくださいました。そして、「主」の御臨在の御許に住まい、御前を歩む「主」の契約の民のあり方を示す律法であるモーセ律法を与えてくださいました。 さらに「主」は、実際に、イスラエルの民の間にご臨在してくださり、民が約束の地に入るまで、荒野の旅路を導いてくださいました。また「主」は、荒野を旅するイスラエルの民のためにマナを降らせてくださって、彼らを最後まで養い続けてくださいました。出エジプト記16章35節に、
イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。彼らはカナンの地の境に来るまで、マナを食べた。
と記されているとおりです。 その一方で、荒野の「四十年間」はイスラエルの民にとっては試練の時であり、不信仰に陥ったイスラエルの民が繰り返し「主」を試みた時でした。しかし、「主」はイスラエルの民を滅ぼしてしまうことはなさいませんでした。イスラエルの民の第一世代は度重なる不信仰のために荒野で滅びましたが、「主」はその子どもたちである第二世代の民を、その荒野で訓練してくださいました(参照申命記8章2節ー5節)。 黙示録12章では、このような意味をもっている「荒野」が「女」すなわち新しい契約の共同体である教会のある所であると言われています。「荒野」は霊的な戦いの状況にある、私たち「主」の契約の民が、「竜」の働きかけなどによってもたらされる試練を受ける所ですが、そこは、また、神である「主」の御臨在が常に私たち「主」の契約の民とともにあって、恵みによる備えをしてくださるとともに、それらの試練をもお用いになって、私たち「主」の契約の民を訓練し、養い育ててくださる所です。 しかし、この「荒野」は、私たち「主」の契約の民が定住する所ではなく、私たちが定住すべき約束の地に向かって歩んで行くために備えられた所です。 また、14節には、
女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。
と記されています。 ここでは、新しい契約の共同体である教会がこの「荒野」で過ごす期間は、「一時と二時と半時」であると言われています。これは、5節に、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
と記されていることに続いて、6節に、
女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。
と記されているときの「千二百六十日」と同じ期間です。「一時」を1年とし、1年を360日として数えると「一時と二時と半時」は3年半で「千二百六十日」となります。 12章14節では、「一時と二時と半時」の始まりは、イエス・キリストが贖いの御業を成し遂げられて父なる神さまの右の座に着座されて、すべてのことを父なる神さまのみこころに従って治められるようになった時です。そして、「一時と二時と半時」は、この時から始まって、イエス・キリストが終わりの日に再臨されて、最終的なさばきを執行され、ご自身の民の救いを完全に実現してくださるまでの期間を示しています。 この期間において、「竜」あるいは「蛇」と呼ばれているサタンは天における霊的な戦いに破れて、地に投げ落とされてしまっている状態にあります。 さらに、このように、新しい契約の共同体である教会がこの「荒野」で過ごす期間は「一時と二時と半時」であると言われていることによって、その霊的な戦いにおいて、「主」の民が迫害を受けて苦しむ期間は際限なく続くのではなく、「主」によって定められた期間であることが示されています。「主」はその期間に起こり来るすべてのことを治めておられます。そして、サタンの働きをも含めて、すべてのことをお用いになって、「荒野」を旅する私たちご自身の民を、父なる神さまのみこころに従って養い育ててくださり、訓練してくださいます。 これらのことにおいて、5節に、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。
と記されているときの「牧する」ということが私たち「主」の民の間に実現しています。 |
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