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説教日:2018年2月25日 |
黙示録2章26節後半ー27節には、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばの最後の部分で語られた、
彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
という約束が記されています。 いつもは、この約束を理解するうえで大切な二つのことをまとめてからお話を進めていますが、今日は、それを省略します。 すでに繰り返しお話ししてきましたが、26節後半ー27節前半に記されている、
彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
というイエス・キリストの約束のみことばは、詩篇2篇8節ー9節に記されている、
わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。
というみことばを、いくつかことばを変えて引用したものです。 ここには、いくつかの変更がありますが、重要な変更は二つあります。 先主日と先々主日には、26節後半に記されている、
彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。
というイエス・キリストの約束のみことばに見られる変更についてお話ししました。 今日は、もう一つの重要な変更とそれにかかわることについてお話しします。その変更は、27節前半に記されている、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
という約束のみことばに見られます。 この、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
という約束のみことばは、詩篇2篇9節に記されている、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。
というみことばを引用しています。その際に、新改訳(私が用いているのは第3版ですが)の訳文では分かりにくいのですが、詩篇2篇9節で、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
と言われているときの「打ち砕き」ということばを「治める」に変えています。 少しややこしいですが、イエス・キリストのみことばの「土の器を打ち砕くようにして」の「打ち砕く」は詩篇2篇9節の「焼き物の器のように粉々にする」の「粉々にする」に当たります。 このように、イエス・キリストのみことばでは、詩篇2篇9節の「打ち砕き」ということばが「治める」に変わっています。[注]
[注]このことについては、ヨハネは七十人訳に従っていると考えられています。七十人訳はヘブル語の「打ち砕く」ということば(ラーア)の子音字を変えて「牧す」(羊の世話をする)という意味のことば(ヘブル語ラーアー)として、ギリシア語(ポイマイノー)に訳しています。
この「治める」と訳されていることば(ポイマイノー)は基本的に「(群れの)世話をする」こと、「牧する」ことを表します。そして、そこから比喩的に、守ったり、治めたり、導いたり、養ったり、世話をしたりすることを表すことがあります。また、敵から守るために敵を退治することを表すこともあります。 聖書を含めて、古代オリエントの文化の中では、王は「牧者」にたとえられて表されています。そして、牧者としての王の働きは「牧する」ことにたとえられるので、この「牧する」ことを表すことば(ポイマイノー)は「治める」ということをも表します。新改訳はここ黙示録2章27節で「治める」を採用して、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
と訳しています。
* この、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
という約束のみことばは、詩篇2篇9節に記されている、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。
というみことば全体を引用していますが、その前半の、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
というみことばは、黙示録の中では、ここのほか、12章5節と19章15節でも引用されています。 今日は、12章5節に記されていることについてお話しします。そこには、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
と記されています。 ここでは、「女」が「産んだ」「男の子」のことが、
この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。
と言われています。ここに出てくる、
この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧する
ということばは、詩篇2篇9節前半の、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
ということばの引用です。この「彼ら」は8節に出てくる「国々」のことで、
この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧する
と言われているときの「すべての国々の民」に当たります。これによって、この「女」が「産んだ」「男の子」において、詩篇2篇9節に記されていることが成就することを示しています。これは「女」が「男の子」を「産んだ」時のことを記しているので、
この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。
というように、それがやがて実現することを示しています。 ここでの引用におけることばの変更は、黙示録2章27節前半における引用と同じように、詩篇2篇9節の、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
ということばの「打ち砕き」が「牧する」に変えられています。ここ12章5節で「牧する」と訳されていることば(ポイマイノー)は、2章27節前半で、
彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。
と言われているときの「治める」と訳されていることば(ポイマイノー)と同じことばです。 ですから、同じ詩篇2篇9節の、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
というみことばを引用して、同じように「打ち砕く」ということばを同じことば(ポイマイノー)に変更しているのですが、新改訳では、このことば(ポイマイノー)が2章27節では「治める」と訳されており、12章5節では「牧する」と訳されています。この違いは、おそらく、12章5節では、
この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧する
とだけ言われているのに対して、2章27節では、原文の順序に従うと、
彼は、鉄の杖をもって彼ら[二六節の「諸国の民」]を治める
の後に、
土の器を打ち砕くようにして
ということばが続いていることによっていると思われます。
* この詩篇2篇9節に記されているみことばを引用する際に「打ち砕く」を「治める」(ポイマイノー)「牧する」(ポイマイノー)に変更していることの意味を考えるためにも、ここ12章5節に記されていることについて、もう少しお話しします。 今お話ししましたように、この「女」が「産んだ」「男の子」は、詩篇2篇9節に記されている、
あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。
というみことばに預言的に示されていたメシア、ダビデ契約において約束されていた「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されるまことのダビデの子です。 また、ここでは、
その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
と言われていて、「その子」が「神のみもと」において主権の座に着座したことが示されています。この場合は、詩篇2篇9節に記されていることが、この「女」が「産んだ」「男の子」において成就していることを示すことが目的ですので、この「男の子」すなわちイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは省略されています。この方の十字架の死と死者の中からのよみがえりはは省略されてはいますが、当然のこととして、踏まえられています。それは、この少し後の11節に、
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼[三節に出てくる「大きな赤い竜」すなわちサタン]に打ち勝った。
と記されていることからも分かります。 ここ(5節)に出てくる「男の子」すなわちメシアを産む「女」(「彼女」)は、12章1節ー2節に、
また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
と記されている「ひとりの女」(単数形の「女」)のことです。 この「女」は「太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた」と言われていて、「太陽」「月」「星」と関連づけられています。この「太陽」「月」「星」は旧約聖書やユダヤ教黙示文学などでイスラエルの民と関連づけられています。それで、この「女」は古い契約の下にあった「主」の契約の民であるイスラエル、メシアについての約束を与えられ、受け継いできたイスラエルの民を表していると考えられます。 それと同時に、5節に、
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
と記されていることに続いて、6節には、
女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。
と記されています。今お話ししていることとのかかわっていることだけをお話ししますが、この「女」は「男の子」すなわちメシアを産んだ後も存在しています。それで、この「女」は古い契約の下にあった「主」の契約の民であるイスラエルだけでなく、それが「地上的なひな型」として証ししていた、新しい契約の下にある「主」の契約の民であるキリストのからだである教会をも指しています。 「太陽」「月」「星」のうちの「星」とのかかわりですが、黙示録1章10節ー16節に記されている栄光のキリストの顕現の描写において、16節では、
また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。
と言われています。ここで、栄光のキリストの右手にあった「七つの星」については、20節で、
七つの星は七つの教会の御使いたち・・・である
と説明されていて、アジアにある七つの教会が「星」と結びつけられています。
* 12章2節では、
この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
と言われています。 これは、広く、「主」の契約に示されているメシアについての約束を信じて「主」に従って歩んできたイスラエルの民が受けてきた迫害による苦難を表していると考えられています。ここで「産みの苦しみと痛みのために」と訳されている部分は現在分詞で表されていて、新改訳のように理由を表していると考えて、直訳調に訳すと「産みの苦しみをしており、また、分娩するために痛んでいるので」というようになります。そして、前の方の「産みの苦しみをする」という動詞(オーディノー)は出産にかかわる苦しみを味わうことを表しますが、後の方の「分娩するために痛んでいる」の「痛んでいる」という動詞(バサニゾー)が基本的に試練によって痛むことを表し、迫害による苦しみを表すことがあります。それで、これはイスラエルの民が受けてきた迫害による苦難を表していると考えられているのです。 ただ、新約聖書には「痛んでいる」ということば(バサニゾー)は12回出てきますが、迫害によって苦しむことを表す用例はありません。黙示録には5回出てきますが、ここの他はすべて主のさばきによって苦しむことを表しています。 新約聖書では、このことば(バサニゾー)は病気によって苦しむこと(マタイの福音書8章6節)、社会のあり方に心を傷めて苦しむこと(ペテロの手紙第二・2章8節)、波が強くて船が進まないことに悩むこと(マタイの福音書14章24節、マルコの福音書6章48節)、主のさばきに苦しむこと(黙示録9章5節、11章10節、14章10節、20章10節、参照マルコの福音書5章7節、ルカの福音書8章28節)などを表します。このことから、このことば(バサニゾー)は、より広い意味で痛んだり苦しんだりすることを表すことが分かります。 また、この「痛んでいる」には「分娩するために」(「子を産むために」)という限定がついています。その意味でも、イスラエルの民が受けてきた迫害による苦難を表しているというように一般化することができるだろうかという疑問があります。さらに、それができるとするためには、イスラエルの民が迫害などの試練による苦難を味わってきたことが、特に、メシアの誕生をもたらすためのものであったということを示す必要がありますが、イスラエルの歴史からは、黙示録におけるこのことばの用例のように、背教がもたらしたさばきによる苦難の方が多いのではないでしょうか。その場合には、イスラエルはさばきを受けるべきものであったにもかかわらず、「主」がメシアにかかわる約束を果たしてくださったということになります。 いずれにしましても、この理解では、前の方の「産みの苦しみをする」ということと、後の方の「分娩するために痛んでいる」ということを区別して、それぞれ別のことを表しているということになります。この可能性をまったく否定するわけではありませんが、これには、約束のメシアである「男の子」を生み出すための苦しみの大きさを強調するために「産みの苦しみをする」ということと、後の方の「分娩するために痛んでいる」ということを重ねている可能性があります。これについては、さらに、後ほど触れます。 このことをどのように理解するとしても、この、
この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
というみことばには、より究極的な歴史的な背景があると考えられます。それは、最初の「女」を神である「主」に対して罪を犯すようにと誘惑した「蛇」へのさばきのことばを記している創世記3節15節に、
わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。
と記されているみことばと、それに続く16節の前半に記されている、
わたしは、あなたのうめきと苦しみを 大いに増す。 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
という「女」へのさばきのことばです。 新改訳第3版で、
わたしは、あなたのうめきと苦しみを 大いに増す。
と訳されている部分は、直訳では、
わたしは、あなたの苦しみとみごもりを 大いに増す。
となります。 この場合、「みごもり」を「大いに増す」ということは子どもがたくさん生まれるということで、どうして、これがさばきになるのかという問題が生じてきます。聖書の中では、アブラハムとサラの例のように、子どもが生まれないことが問題となることはありますが、子どもが多いことは神さまの祝福によることであるとされています。 それで、一般的には、これは「苦しみとみごもり」を二つのことばを接続詞(ワウ)でつないで一つの意味を表す「二詞一意法」であると理解して、「みごもりの苦しみ」を表していると理解しています(K=B、新共同訳、新国際訳、新改定標準訳、新アメリカ標準訳、新改訳第二版など)。 もう一つの理解は、二つのことばをつないている接続詞(ワウ)を強調を表すものとして、「苦しみ、特に、みごもりの苦しみ」を表しているとします[GKC 154, N.1(b)]。 このどちらもほぼ同じことを表していると考えられます。ただ、どちらを取るかということになりますと、判断が難しいのですが、17節ー19節に記されている、「人」へのさばきの宣告を見ると、土地を耕して糧を得るという「人」の生涯の核心にあることが取り上げられています。それで、16節に記されている「女」へのさばきの宣告においても、子を生むことと夫との関係という、「女」の生涯の核心にあることが取り上げられていると考えることができます。そうしますと16節前半は、
わたしは、あなたのみごもりの苦しみを 大いに増す。 あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
となります。これは、ほぼ同じことを表す、
わたしは、あなたのみごもりの苦しみを 大いに増す。
ということと、
あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
ということを重ねて強調しています。これによって、この産みの苦しみが「女」が犯した罪に対する神である「主」のさばきであることが表されています。これを「女」の側から見れば、自らの罪が痛切に感じられて、神である「主」の御前にへりくだるように導かれることになっていきます。それによって、さらに、「最初の福音」に示されている、神である「主」の一方的な恵みによって与えられた約束に頼るように導かれていきます。 なぜなら、これには、「女」へのさばきを越えた神である「主」の恵みが示されているからです。この「女」へのさばきのみことばを、それに先立つ15節に記されている、
わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。
という「蛇」へのさばきのみことば、「最初の福音」とのかかわりで受け止めると、「女」から「女の子孫」が生まれてくることの保証となっているのです。 実際に、最初の「女」エバは「最初の福音」に示されている「女の子孫」を信じていました。そのことは、4章1節に、
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。
と記されているときの彼女の、
私は、主によってひとりの男子を得た
という告白に表されています。この「男子」と訳されていることば(イーシュ)は成人の男性を表すことばで、これが乳幼児を表す事例は他にありません。この時エバは、カインが成人となること、そして、約束の「女の子孫」としての役割を果たすようになることを思い描いていたことを表していると考えられます。さらに、カインが待ち望んでいた「女の子孫」ではなかったことが明らかになった後のことを記している25節には、
アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」
と記されています。ここに出てくる「もうひとりの子」の「子」ということば(ゼラァ)は「女の子孫」の「子孫」と同じことばです。ここでは、カインを産んだ時のように「私が・・・得た」と言うのではなく、神さまが授けてくださったと告白しています。
* このようにして、「女」は産みの苦しみをして子を産むことになりますが、それによって、「女」と「女の子孫」の共同体が形成されていくようになります。そして、神である「主」が「女」と「女の子孫」の共同体と、「おまえ」と呼ばれている「蛇」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体との間に置かれた「敵意」によって、霊的な戦いを展開していくようになります。この霊的な戦いにおいて、「女」と「女の子孫」の共同体は、神である「主」に敵対している「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体と戦うようになります。それは、「女」と「女の子孫」の共同体が神である「主」の側に立つようになることを意味していて、「女」と「女の子孫」の共同体の救いを意味しています。 この霊的な戦いは、
彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。
と言われているように、「女」と「女の子孫」の共同体の勝利に終ります。ローマ人への手紙16章20節に、
平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。
と記されているとおりです。 同時に、「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体には「かしら」がいます。それは「おまえ」すなわちサタンです。当然、「女」と「女の子孫」の共同体にも「かしら」がいます。それは「女」ではなく「女の子孫」の中にいます。その方こそが約束のメシアです。この方は、最終的に、
彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。
と言われているように、「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体の「かしら」であるサタンへのさばきを執行され、その「頭を踏み砕」くようになります。 黙示録12章2節で、
この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために[直訳「産みの苦しみをしており、また、分娩するために痛んでいるので」]、叫び声をあげた。
と言われているときの「女」は、「最初の福音」のことばで言えば、「女」と「女の子孫」の共同体を指しています。それは古い契約と新しい契約の下にある「主」の契約の民です。そして、「産みの苦しみと痛みのために」の直訳で「産みの苦しみをしており、また、分娩するために痛んでいるので」というように、産みの苦しみにかかわることばを重ねて強調していることは、創世記3章16節前半において、ほぼ同じことを表す、
わたしは、あなたのみごもりの苦しみを 大いに増す。
ということと、
あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
ということを重ねて強調していることを思い起こさせます。 この創世記3章16節前半に出てくる「あなたのみごもりの苦しみ」の「苦しみ」ということば(イッツアーボーン)と「苦しんで[直訳「苦しみのうちに」]子を産まなければならない」の「苦しみ」ということば(エツェブ[イッツアーボーンの同族語])は広い意味での苦しみを表します。この点は、黙示録12章2節で「分娩するために痛んでいる」と言われているときの「痛んでいる」ということばが広い意味で痛むことや苦しむことを表していることと符合します。ちなみに、最初の「苦しみ」ということば(イッツアーボーン)は、人へのさばきを記している17節で、
あなたは、一生、 苦しんで[直訳「苦しみのうちに」]食を得なければならない。
と言われているときに出てきます。 また、黙示録12章2節で、
この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
と言われていることの歴史的な背景に創世記3章15節に記されている「蛇」すなわちサタンへのさばきのことばと、「女」へのさばきのことばがあることは、同じ12章の7節ー9節に、
さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。
と記されていることによっても支持されます。 ここでは、「竜」という表象によって表されてきたサタンが「全世界を惑わす、あの古い蛇」であると説明されています。この「全世界を惑わす、あの古い蛇」は、創世記3章に記されている最初の「女」エバを誘惑した「蛇」を指しています。 そして、この「全世界を惑わす、あの古い蛇」が「彼の使いども」とともに天から地上に投げ落とされたということは、「最初の福音」において示されていたように、「おまえ」すなわちサタンとその霊的な子孫の共同体の「かしら」であるサタンの権威が失墜したことを示しています。 ここ黙示録12章に記されている霊的な戦いのことを、「最初の福音」とのかかわりで理解することは大切なことです。 「最初の福音」が示していることは、霊的な戦いにおいて「女」と「女の子孫」の共同体が神である「主」の民とされるとともに、「女」と「女の子孫」の共同体の「かしら」として来てくださる方にあって、必ず、霊的な戦いに勝利するということです。 そして、ここ黙示録12章では、そのことが、サタンの権威の失墜とともに、私たち新しい契約の下にある「主」の民の間で、少なくとも原理的に、実現しているということが示されています。先ほども一部を引用しました、9節の、
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼[サタン]に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。
というみことばも、このことを証ししています。 この場合、「原理的に実現している」ということは、すでに、サタンとその使いたちへの最終的なさばきを執行するための準備はできていて、後は、その執行がなされることを待っている状態にあるということを意味しています。 そのようなわけで、黙示録12章5節で詩篇2篇9節のみことばを引用して、
この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。
と記されていることのさらに奥には「最初の福音」があり、そのことが福音とかかわっている、ということを銘記したいと思います。 |
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