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説教日:2018年2月18日 |
黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。 今お話ししているのは26節後半ー27節に記されている、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。 という約束についてです。 これまで、この約束を理解するうえで大切な二つのことをお話ししました。いつものように、それを簡単にまとめておきます。 第一に、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。 と言われているときの「権威」は、イエス・キリストが、 わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。 と述べておられるとおり、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威です。 また、このことと調和して、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。 と言われているときの「権威」には冠詞(定冠詞)がついていません。このような場合には、この「権威」は限定的な権威であって、この「権威」を与えてくださるイエス・キリストの権威の下にある者としての「権威」であることを示しています。 そして、父なる神さまがメシアとしてお立てになったイエス・キリストにお委ねになった権威は、この世の支配者たちの権威と質的に違っています。メシアの権威は、イエス・キリストがご自身の民である私たちのために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことに明確に現されている権威です。 第二のことは、この、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 という約束のみことばからは、メシアの権威はそのようなものであるようには思えないという疑問に対する一つの答えにかかわっています。 このイエス・キリストの約束のみことばは、メシアのことを預言的に示している「メシア詩篇」の一つである詩篇2篇の8節ー9節に記されている、 わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。 というみことばを、いくつかことばを変えて引用したものです。 そして、メシア詩篇としての詩篇2篇に記されているみことばは、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、「主」がダビデに与えてくださったダビデ契約を背景として記されています。それで、サムエル記第二・7章に記されているダビデ契約にかかわるみことばも、そのダビデ契約に基づいて詩篇2篇に記されているみことばも、また、詩篇2篇8節ー9節に記されているみことばを引用している、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 というイエス・キリストの約束のみことばも、古い契約の下での「地上的なひな型」に当てはまることばで記されています。 ですから、このイエス・キリストの約束に出てくる「権威」を新しい契約の下にある私たち主の契約の民のこととして理解するときには、メシアであられるイエス・キリストの権威は、イエス・キリストがご自身の民である私たちのために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことに現されている権威であるということ、そして、それと本質的に同じ権威が私たち新しい契約の下にある主の民に約束されているということに照らして理解する必要があります。 * 先ほどお話ししましたように、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 というイエス・キリストの約束のみことばは、詩篇2篇8節ー9節に記されている、 わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、 焼き物の器のように粉々にする。 というみことばを、いくつかことばを変えて引用したものです。 いくつかの変更がありますが、重要な変更は二つあります。 先主日には、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。 というイエス・キリストの約束のみことばに見られる変更についてお話ししました。今日も、それを少し補足しながら、関連することをお話しします。 ここでイエス・キリストは、詩篇2篇8節の、 わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 というみことばの中心にある、 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える というみことばを引用しておられますが、その際に、「ゆずり」を「権威」に変えて、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。 と約束しておられます。そして、これに続いて、 わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。 より直訳調には(「支配の権威を」が原文にないので)、 わたし自身が父から受けているのと同じように あるいは、 わたしも父から受けているのと同じように と述べておられます。この場合の「受けている」(ランバノー)は、過去において起こったことあるいはその結果が現在にまで続いているという意味合いを示す、完了時制で表されています。これによって、詩篇2篇で「主」が、ご自身がお立てになったメシアに、 わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 と約束しておられることがすでに実現していて、メシアであられるイエス・キリストが、すでに、その権威を「ゆずりとして与え」られた「国々」に対して発揮しておられることが示されています。 それで、イエス・キリストが、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。 と約束しておられるときの「諸国の民を支配する権威」は、メシアの国の王であるイエス・キリストがすでに「ゆずりとして与え」られた「諸国の民」を支配しておられることに基づき、そのことから派生する「権威」です。 * すでにお話ししましたように、 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 という、メシアへの約束のみことばは、「主」がダビデに与えてくださった契約、ダビデ契約の約束に基づいています。そして、ダビデ契約の根底には、「主」がアブラハムに与えてくださった契約、アブラハム契約があります。それで、この、 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 というみことばに示されている約束を「主」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束を記している創世記22章18節の、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 というみことばに沿って言いますと、メシアは「地のすべての国々」を「ゆずりとして」与えられるようになるということです。 このようにして、イエス・キリストは、「国々を・・・ゆずりとして」受け取られ、「地をその果て果てまで・・・所有として」受け取って、その上に権威を揮って、すべてを治めておられます。それは、イエス・キリストが詩篇2篇の根底にあるダビデ契約において約束されているまことのダビデの子として、「主」がとこしえに堅く立てておられる王座に着座されて、メシアとしての権威をもって治めておられるということを意味しています。 そして、その権威はご自身の民のために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことに明確に現されている権威であり、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて発揮される権威です。また、それゆえに、それは、「諸国の民」の中から召されたご自身の民の罪を贖い、ご自身の民を罪がもたらす死と滅びの中から贖い出し、神である「主」との本来の関係に回復してくださることがおできになる権威です。 それで、イエス・キリストがこのような権威をもって治めておられることによって、創世記12章3節に記されている、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という、「主」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束、さらには、先ほど引用しました22章18節に記されている、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 というアブラハムへの祝福の約束が「諸国の民」の間に実現しており、私たちもこの祝福にあずかっているのです。ガラテヤ人への手紙3章13節ー14節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。 と記されているとおりです。 * このこととのかかわりで、もう一つのことを補足しておきます。 ここ黙示録2章26節後半で、イエス・キリストは詩篇2篇8節の、 わたしに求めよ。 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 というみことばの中心にある、 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える というみことばを引用しておられますが、イエス・キリストご自身が与えられているのは「国々」だけではありません。イエス・キリストは、それに続いて記されている、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 という約束のみことばに示されている「地をその果て果てまで・・・所有として」与えられています。 ここに記されている、 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 という二つの約束は別々のものではなく、一つのことを別の面から述べているものです。それで、メシアが「国々を・・・ゆずりとして」与えられるということは、「地をその果て果てまで・・・所有として」与えられるということで、メシアが「ゆずりとして」与えられる「国々」はどこかの地域に限られた「国々」ではなく、「地」の「果て果てまで」存在するすべての「国々」です。 先主日にも触れましたが、 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える というみことばに出てくる「ゆずり」ということば(ナハラー)は、基本的に、譲り渡すことができない相続財産を表します。また、その意味で永遠の財産を表します。 そして、特殊な用例として、二つのことを表します。 一つは、「主」がアロンやレビ人の「ゆずり」(ナハラー)であることを表すことがあります。アロンの場合は民数記18章20節に記されていて「割り当ての地」や「分の土地」を表すことば(ヘーレク)とともに用いられています。レビ人の場合は申命記10章9節、18章2節、ヨシュア記13章33節などに記されています。 もう一つは、今お話ししていることとのかかわりで注目すべきことですが、「主」の契約の民であるイスラエルが「主」の「相続地」(ナハラー)であることを表すこともあります。 このことは今お話ししていることとかかわっていますので、具体的に、いくつかの用例を見てみましょう。 申命記32章9節には、 主の割り当て分はご自分の民であるから、 ヤコブは主の相続地である。 と記されています。 この場合の「主の割り当て分」の「割り当て分」は、「割り当ての地」や「分の土地」を表すことば(ヘーレク)で表されており、「主の相続地」[文字通りには「彼の相続地」で「主の相続地」を示しています]の「相続地」は、先ほどの「ゆずり」ということば(ナハラー)と同じです。ただ、これには新改訳には訳出されていませんが、「(測り縄によって)測られた地域」を表すことば(へベル)がついていて、ある注解者は「特別な」と訳しています。おそらく、これがここでの意味合いでしょう。 というのは、この、 主の割り当て分はご自分の民であるから、 ヤコブは主の相続地である。 というみことばは、この前の8節に、 いと高き方が、国々に、 相続地を持たせ、 人の子らを、振り当てられたとき、 イスラエルの子らの数にしたがって、 国々の民の境を決められた。 と記されていることとのつながりで理解されることだからです。 この8節では、「いと高き方」すなわちすべての人、すべての国々、さらには、この世界のすべてのものを治めておられる主権者であられる神さまが、その摂理の御手をもって、「国々に相続地を持たせ」「人の子らを、振り当てられ」「国々の民の境を決められた」ということが述べられています。地上にあるすべての「国々」が自分たちの思いに従って勢力争いをし、領土の拡大を図って戦うことによって、それぞれの領土が決まっているように見えますが、「いと高き方」がそのすべてを越えて、いっさいのことを摂理的に治めておられるというのです。使徒の働き17章26節にも、パウロがアテネの人々に語った、 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。 というみことばが記されています。 神さまは「いと高き方」として、そのように、「国々に相続地を持たせ」「人の子らを、振り当てられ」「国々の民の境を決め」ておられる方ですが、ご自身の民であるイスラエルには、契約の「主」ヤハウェとして関わってくださり、ご自身の民を「割り当て分」(ヘーレク)とされ、「ヤコブ」すなわちイスラエルをご自身の「特別な」「相続地」としておられるというのです。これによって、イスラエルは「主」の契約の祝福にあずかり、「主」の民となり、「主」がイスラエルの神となってくださるようになったのです。 「主」がイスラエルをご自身の「特別な」「相続地」とされたことには意味があります。それは、「主」が「いと高き方」として地上にあるすべての「国々」「国々の民」を治めておられることと深くかかわっています。「主」はただ地上にあるすべての「国々」「国々の民」を治めておられるだけではありませんし、イスラエルをご自身の「特別な」「相続地」とされたのではありません。「主」はこれによって、ご自身がアブラハムに与えてくださった、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という祝福の約束、さらには、 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。 という祝福の約束を、地上にあるすべての「国々」「国々の民」の間に実現してくださるのです。イスラエルは、「主」が父祖アブラハムにお与えになった祝福の約束を実現してくださるために祭司の国として召されています(出エジプト記19章4節ー6節参照)。 そして、ダビデ契約に基づいている詩篇2篇8節に記されている、 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 というメシアへの約束では、イスラエルの民の枠を越えて、地上のすべての「国々」がメシアの「ゆずり」(ナハラー「相続地」)となると言われています。 * 「主」の契約の民であるイスラエルが「主」の「相続地」(ナハラー)であることを表す事例としてさらに取り上げたいのは、詩篇78篇70節ー71節に記されていることです。そこには、 主はまた、しもべダビデを選び、 羊のおりから彼を召し、 乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、 御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを 牧するようにされた。 と記されています。 ここで「ご自分のものであるイスラエル」と言われているときの「もの」と訳されていることばが、先ほどの「ゆずり」ということば(ナハラー「相続地」)です。ここでは「主」がご自身の「ゆずり」(ナハラー「相続地」)であるイスラエルの牧者として、ご自身の「しもべダビデ」をお選びになって、立てられたことが記されています。聖書を含めて、古代オリエントの文化の中では王が牧者と呼ばれ、王が支配することを「牧する」と言い表すことがありました。 「主」がイスラエルの牧者として、ご自身の「しもべダビデ」をお選びになって、立てられたことが原型になって、ダビデ契約において、「主」がまことのダビデの子の王座をとこしえに堅く立てられることが約束されるようになります。そして、詩篇2篇8節に記されている、 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 というメシアへの約束で地上のすべての「国々」がメシアの「ゆずり」(ナハラー「相続地」)となると言われています。当然、地上のすべての「国々」を「ゆずり」(ナハラー「相続地」)として与えられるメシアは、地上のすべての「国々」の牧者として立てられており、地上のすべての「国々」を牧するようになります。 このことは、黙示録2章27節前半に記されている、 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 というイエス・キリストの約束のみことばとかかわっていますが、それについては、このイエス・キリストのみことばを取り上げる時にお話しします。 * 「主」の契約の民であるイスラエルが「主」の「相続地」(ナハラー)であることを表す事例としてもう一つ取り上げたいのは、イザヤ書19章25節に記されている、 万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」 というみことばです。ここで「わたしのものである民イスラエル」と言われているときの「もの」と訳されていることばが、先ほどの「ゆずり」ということば(ナハラー「相続地」)です。ここでも、イスラエルの民が「主」の「ゆずり」(ナハラー「相続地」)であると言われています。 注目したいのは、その前で「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ」が「わたしのもの(ナハラー「相続地」)である民イスラエル」と並べられて、同じように祝福を受けているということです。 この25節は19章の最後の節ですが、19章は大きく二つに分けられます。1節ー15節には、エジプトに対するさばきが預言的に記されています。そして、続く16節ー25節には、「主」のさばきを受けるエジプトに「主」への恐れの心が与えられ(16節ー17節)、エジプトが救われることが預言的に記されています。 19節から引用しますと、そこには、 その日、エジプトの国の真ん中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真ん中で祝福を受ける。万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」 と記されています。 エジプトはかつてイスラエルの民を奴隷として苦しめ、「主」のさばきを受けた国です。また、モーセ律法では、王がイスラエルの民をエジプトに帰らせてはならないと戒められていますし、二度とエジプトに帰ってはならないと戒められています(申命記17章16節)。しかし、ここでは、「主」のさばきを受けて「主」への恐れを抱くようになるエジプト人が、「主」に立ち返って癒されるようになることが記されています。 その際に、アッシリア人のことが記されているのは、イザヤが預言していた当時、エジプトとアッシリアが覇権を争って、国々を征服していたからです。北王国イスラエルはそのアッシリアに滅ぼされてしまい、南王国ユダの首都エルサレムもアッシリア軍に包囲されてしまいました。 そのようなことを歴史的な背景として、「主」のさばきに服すべきこの世の国々の代表として取り上げられているエジプトとアッシリアですが、「その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ」ると言われています。これは、エジプトとアッシリアの間に和解が生まれ、二つの国が交わりをもつことを示しています。そして、それが「主」にあってのことであることが、 エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。 と言われています。 ここでは、エジプトは「わたしの民エジプト」と呼ばれ、アッシリアは「わたしの手でつくった(「わたしの手の作品」)アッシリヤ」と呼ばれています。「主」はイスラエルを「わたしの民」と呼ばれ(出エジプト記だけでも17回ほど出てきます)、「わたしの手の作品」と呼ばれました(イザヤ書45章11節、60章21節、64章8節、エレミヤ書18章6節)。ここでは、それがエジプトとアッシリアに当てはめられています。 これも、「主」がアブラハムに与えられた、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という祝福の約束の実現を示していますし、詩篇2篇8節に記されている、 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。 というメシアへの約束が実現して、地上のすべての「国々」がメシアの「ゆずり」(ナハラー「相続地」)となるということを指し示しています。 |
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