黙示録講解

(第323回)


説教日:2018年2月11日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(76)

 黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。

 今お話ししているのは、26節後半ー27節に記されている、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

というイエス・キリストの約束についてです。

 これまで、この約束を理解するうえで大切な二つのことをお話ししました。いつものように、それを簡単にまとめておきます。

 第一のことは、父なる神さまがメシアとしてお立てになったイエス・キリストにお委ねになった権威は、この世の支配者たちの権威と質的に違っているということです。メシアの権威は、イエス・キリストがご自身の民である私たちのために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことに明確に現されている権威です。

 ですから、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。

と言われているときの「権威」は、イエス・キリストが、

 わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

と述べておられるとおり、イエス・キリストが父なる神さまから委ねられている権威と本質的に同じ権威です。

 ここで、

 わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

と言われているときの「支配の権威を」は新改訳の補足で、原文にはありません。直訳調に訳すと、

 わたし自身が父から受けているのと同じように

あるいは、

 わたしも父から受けているのと同じように

となります。このことは、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。

と言われているときの「権威」が、イエス・キリストが父なる神さまから受けている権威と同質であることをより明確に示しています。そして、イエス・キリストが父なる神さまから受けている権威は、イエス・キリストがご自身の民である私たちのために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことに現されている権威です。

 第二のことは、この、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という約束のことばは、詩篇2篇8節ー9節に記されている、

 わたしに求めよ。

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、

 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばを、いくつかことばを変えて引用したものであるということです。

 そして、詩篇2篇に記されているみことばは、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という、「主」がダビデに与えてくださったダビデ契約を背景として記されています。

 それで、サムエル記第二・7章に記されているダビデ契約にかかわるみことばも、そのダビデ契約に基づいて詩篇2篇に記されているみことばも、また、詩篇2篇8節ー9節に記されているみことばを引用している、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

というイエス・キリストの約束のことばも、古い契約の下での「地上的なひな型」に当てはまることばで記されています。

 ですから、このイエス・キリストの約束を新しい契約の下にある私たちのこととして考えるときには、第一のこととしてお話しした、イエス・キリストの権威は、イエス・キリストがご自身の民である私たちのために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことに現されている権威であるということ、そして、それと本質的に同じ権威が私たち新しい契約の下にある主の民に約束されているということに照らして理解する必要があります。


 以上のことを踏まえて、また、これまで数週間にわたってお話ししてきたいくつかのことも念頭に置いて、さらにお話を進めていきます。

 先ほどお話ししましたように、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

というイエス・キリストの約束のことばは、詩篇2篇8節ー9節に記されている、

 わたしに求めよ。

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、

 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、

 焼き物の器のように粉々にする。

というみことばを、いくつかことばを変えて引用したものです。

 重要な変更は二つありますが、今日はその一つと、それに関連することについてお話ししたいと思います。

 イエス・キリストが与えてくださった、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。

という約束のみことばは、詩篇2篇8節の、

 わたしに求めよ。

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、

 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

というみことばの中心にある、

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える

というみことばを引用しています。その際に、「ゆずり」が「権威」に変えられています。

 ちなみに、この「ゆずり」ということば(ナハラー)は、基本的に、譲り渡すことができない相続財産を表しています。その意味で、これは永遠の財産です。

 また、ここで言い換えられている「権威」(エクスースィア)には冠詞[ギリシア語の冠詞は定冠詞]がついていません。このような場合には、この「権威」は限定的な権威であって、この権威を与えてくださる方の下にある者としての権威であることを示していると考えられています。これは、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。

という約束によって、私たち主の民に与えられる権威は、これを与えてくださるイエス・キリストのみこころに従って行使されるべき権威であるということを意味しています。

 このように、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。

という約束のみことばは、詩篇2篇8節の、

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与える

というみことばの「ゆずり」を「権威」に変えて引用したものです。そして、イエス・キリストは、これに続いて、

 わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

と述べておられます。これによって、詩篇2篇で「主」が、ご自身がお立てになったメシアに、

 わたしに求めよ。

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、

 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

と約束しておられることがすでに実現していて、メシアであられるイエス・キリストが、実際に、その権威を「ゆずりとして与え」られた「国々」に対して発揮しておられることが示されています。そして、その権威は、先ほどお話ししましたように、私たち、ご自身の民のために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことに明確に現されている権威です。

 このこととのかかわりで、一つのことに触れておきたいと思います。

 詩篇2篇8節の、

 わたしに求めよ。

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、

 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

というみことばは、その前の7節に記されている、

 わたしはの定めについて語ろう。

 主はわたしに言われた。

 「あなたは、わたしの子。

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

というみことばを受けています。

 この、

 あなたは、わたしの子。

 きょう、わたしがあなたを生んだ。

というみことばは、先ほど引用しました、ダビデ契約において、「主」がダビデの子の王座をとこしえに堅く立ててくださることを約束してくださったことに続いて、

 わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

と言われたことを受けています。これは、ダビデ契約において約束されているまことのダビデの子が、「主」がとこしえに堅く立ててくださる王座に着座されることを預言的に示しています。

 そして、先ほどお話ししましたように、ダビデ契約において約束されているまことのダビデの子であるイエス・キリストは、すでにその王座に着座されて、メシアとしての権威を発揮しておられます。これを詩篇2篇8節の、

 わたしに求めよ。

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、

 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

というみことばに預言的に示されていることに沿って言いますと、メシアであるイエス・キリストは、「国々を・・・ゆずりとして」受け取られ、その上に権威を発揮しておられるということです。

 そして、その権威はご自身の民のために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことに明確に現されている権威であり、ご自身が十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて発揮される権威です。また、それゆえに、それは、私たちご自身の民の罪を贖い、ご自身の民を罪がもたらす死と滅びの中から贖い出し、神である「主」との本来の関係に回復してくださることがおできになる権威です。


 このことには、神である「主」の贖いの御業の歴史の背景があります。それについて、いろいろな機会にお話ししてきましたが、今お話ししていることとのかかわりで、改めてまとめておきます。

 神さまは天と地、すなわち、この全宇宙に存在するすべてのものをお造りになった方であり、すべてのものを治めておられる主です。その際に、神さまは創造の御業において、人をご自身のかたちとしてお造りになり、ご自身がお造りになった歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。

 その意味で、神のかたちとして造られている人は、神さまがお造りになったすべてのものを治める権威を委ねられています。その権威は愛を本質的な特質とする神さまのみこころに従って、神さまがお造りになったすべてのものに現れている神さまの栄光を汲み取り、神さまに栄光を帰して、神さまを礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命を果たすことにおける権威です。

 そして、創世記1章28節に、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されているとおり、神さまが神のかたちとして造られている人に、祝福とともに与えられた歴史と文化を造る使命において、

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。

という命令を与えておられます。その意味において、神さまは神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人に「」を相続させてくださったのです。

 神さまがお造りになったこの歴史的な世界の、文字通り、すべてのものを完全に治めておられるのは神である「主」です。神のかたちとして造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、この神である「主」に、存在することを初めとして、すべてを支えていただいて初めて委ねられている使命を果たすことができます。

 これが、神さまが創造された時のこの世界の本来の姿、本来のあり方です。

 しかし、このようにして神である「主」が治めておられるこの歴史的な世界において、優れた御使いとして造られて「主」に仕えていたものが、「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。これが暗闇の主権者であるサタンです。そのサタンは絶対的に堕落したものとして、考えることにおいても行うことにおいても、そのなすあらゆることにおいて、その動機と目的が神である「主」に逆らうこと、「主」のみこころに逆らうことであり、「主」のご計画の実現を阻止することにあります。

 その暗闇の主権者であるサタンは、被造物に過ぎませんので、神である「主」と直接的に戦うことはできません。それで、神さまがこの歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになった人を誘惑して、人が神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまうように画策しました。そして、そのサタンの企ては成功したのです。これによって、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに示されているみこころの実現は阻止されてしまったように思われました。創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに示されている神さまのみこころの実現をめぐる霊的な戦いにおいて、サタンが勝利したように思われたのです。


 これに対して、神である「主」はサタンに対するさばきを宣告されました。それが創世記3章14節ー15節に記されています。

 神である「主」のさばきの宣告の中心である15節には、

 わたしは、おまえと女との間に、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、

 敵意を置く。

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、

 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています。

 神である「主」は、まず、

 わたしは、おまえと女との間に、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、

 敵意を置く。

と言われました。

 神である「主」は、サタンと、罪によってサタンと一つとなってしまっている「」との間に「敵意」を置くと言われました。この「敵意」ということば(エーバー)の用例から、このことばが示す「敵意」は、相手を滅ぼしてしまうようになるほど強いものであることが分かります。しかも、ここ15節の冒頭で、

 敵意を、わたしは置く

 おまえと女との間に

と言われていて、この「敵意」ということばが最初に出てきて強調されています。

 ここではさらに、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に

と言われていて、この「敵意」がサタンと「」との間においてだけでなく、それぞれの子孫の間にまで受け継がれていくことが示されています。

 このような「敵意」の強さと持続性は人から出るものではありません。ここでは、

 わたしは置く

と言われていて、この「敵意」が神である「主」が置いてくださるものであることが示されています。神である「主」に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、罪によるサタンとの一体性にあります。そのような状態にある人は自分の力で罪を悔い改めて、サタンとの一体性の絆を断ち切り、神である「主」に立ち返ることはできません。

 ここでは、最初の人とその妻がこのような状況にあった時に、神である「主」が、サタンと「」の間に「敵意」を置いてくださって、その罪による一体性を断ち切ってくださると言われています。しかも、それは、サタンと「」の間のことで終わるのではなく、サタンの霊的な子孫と「女の子孫」の間にまで及ぶと言われています。

 ですから、このすべては、神である「主」が、その一方的な恵みによってなしてくださることです。

 ここでは、神である「主」が、ご自身に敵対して働いているサタン対するさばきを宣告しておられます。その宣告の中で、「女」と「女の子孫」が、「おまえ」と呼ばれているサタンとサタンの霊的な子孫に、神である「主」が置いてくださる「敵意」をもって立ち向かうようになると言われています。これは、霊的な戦いにおいて、「女」と「女の子孫」が神である「主」の側に立つようになることを意味しています。このことに、「」と「女の子孫」が救われて、「主」のものとなることが示されています。

 しかも、そのすべては、神である「主」がその一方的な恵みによってなしてくださることです。それで、この神である「主」のサタンとその霊的な子孫に対するさばきの宣告は「最初の福音」と呼ばれます。

 このことから、「」と「女の子孫」が救われて、「主」のものとなるのは、神である「主」が「」と「女の子孫」をとおして、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行されるからであることが分かります。

 また、この神である「主」のサタンとその霊的な子孫に対するさばきの宣告では、この時、直ちに、神である「主」がサタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行しないで、「」と「女の子孫」をとおして、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行されるということが示されています。これによって、サタンとその霊的な子孫に対するさばきの執行は、後の時代まで引き延ばされることになりました。

 もし、この時、直ちに、神である「主」がサタンに対するさばきを執行されたとしたら、この時は、罪によってサタンと一体になってしまっている人とその妻も、サタンとともにさばきを受けて滅ぼされていたことでしょう。そうなると、確かに、サタンはさばかれて滅びることになりますが、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに示されているみこころの実現は阻止されてしまうことになります。

 絶対的に堕落していて、そのなすことのすべてにおいて、神さまに逆らい、神さまのみこころとご計画の実現を阻止することを動機とし目的としているサタンとしては、その動機と目的が果たされるなら、自分が滅ぼされることもいとわないのです。その意味で、サタンは、私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださって、いわば、地獄の苦しみを味わわれてなお、父なる神さまのみこころが成し遂げられることを喜びとされた私たちの主イエス・キリストと正反対のところに立っています。


 このようにして、サタンとその霊的な子孫に対するさばきの執行は、後の時代まで引き延ばされています。それは、神である「主」が、直接的に、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行されないで、「」と「女の子孫」をとおして、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行されることによっています。そのことを示す、神である「主」のサタンに対するさばきの宣告の前半において

 わたしは、おまえと女との間に、

 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、

 敵意を置く。

と言われているときの「おまえ」はサタンで、「」は罪によってサタンと一体になってしまっている最初の女性であるエバです。そして、「おまえの子孫」と「女の子孫」は単数形ですが、集合名詞として集合体を表しています。それは「おまえ」と「おまえの子孫」が歴史的に継続しており、「」と「女の子孫」も歴史的に継続しているように、それぞれの集合体を構成しているものたちが子々孫々歴史的に継続していきます。そして、この二つの集合体が、神である「主」が置いてくださる「敵意」によって霊的な戦いを戦うようになると言われています。当然、この霊的な戦いも子々孫々と歴史的に継続していきます。

 そして、神である「主」のサタンに対するさばきの宣告の後半においては、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、

 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と言われています。これによって、この霊的な戦いは最終的には、「」と「女の子孫」の勝利に終ることが示されています。

 ここでは、「」と呼ばれている「女の子孫」が「おまえ」と呼ばれているサタンの「頭を踏み砕く」と言われています。

 この「」をどのように理解したらいいのかについては、いろいろな見方があります。結論的に言いますと、これには二重の意味があると考えられます。

 まず、ここに出てくる「女の子孫」と「おまえの子孫」は集合名詞として集合体(共同体)を表していました。それで、この「」も集合名詞としての「女の子孫」を指していると考えられます。そして、この「」と「女の子孫」の共同体が霊的な戦いにおいて勝利することは、ローマ人への手紙16章20節に、

  平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。

と記されています。

 けれども、これにはもう一つの面があります。聖書の中では、それぞれの共同体に「かしら」がいます。この場合も、「おまえの子孫」と呼ばれている集合体(共同体)には「かしら」があります。言うまでもなく、それは「おまえ」と呼ばれているサタンです。そうであれば、「女の子孫」と呼ばれている集合体(共同体)にも「かしら」があるはずです。それは「」ではなく、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、

と言われている「」です。

 このように、この「」には二重の意味があって、集合名詞としての「女の子孫」を指しつつ、「」と「女の子孫」の共同体のかしらをも指していると考えられます。

 ですから、神である「主」は最終的には、この「女の子孫」のかしらをとおして、サタンへのさばきを執行され、サタンを滅ぼしてしまわれます。そして、この「女の子孫」のかしらが、アブラハム契約において約束されていた、まことのアブラハムの子、ダビデ契約において約束されていた、まことのダビデの子として来てくださったメシアであられるイエス・キリストです。

 けれども、ここには忘れてはならないことがあります。

 それは、サタンがさばかれて滅びることになっても、また、主の民が死と滅びから救い出されても、神さまが創造の御業において、人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに示されているみこころの実現が阻止されてしまったままでは、霊的な戦いにおいては、サタンが勝利したことになってしまうということです。

 ですから、「最初の福音」を人の罪による堕落によってもたらされた、人類の死と滅びとのかかわりだけで考えて、そのことへの解決を示していると考えると、より広くて大切な、造り主である神さまの創造の御業において示されているみこころの実現という神さまの栄光にかかわる問題が見失われてしまいます。「最初の福音」は、創造の御業において神さまが人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに示されているみこころとのかかわりで理解しなければなりません。

 霊的な戦いにおいて「」と「女の子孫」が神である「主」の側に立つようになって救われるということは、最終的には、それによって、創造の御業において神さまが人を神のかたちとしてお造りになって、人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに示されているみこころが実現するようになるためのことです。

 詩篇2篇8節の、

 わたしに求めよ。

 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、

 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。

というみことばに預言的に示されていることが実現して、イエス・キリストが「国々を・・・ゆずりとして」受け取られ、「地をその果て果てまで・・・所有として」受け取られて、その上に権威を発揮しておられるのは、最終的には、それよって、神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命を「」と「女の子孫」の共同体において、また、「」と「女の子孫」の共同体をとおして、実現してくださるためです。そして、私たちが、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。

と言われている「権威」を受けるのも、最終的には、私たちを治めてくださるイエス・キリスト導きによって、私たちが神さまが創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命を実現していくためです。そして、それは新しい天と新しい地において、その歴史と文化を造ることにおいて完全な形で実現します(ヘブル人への手紙2章5節参照)。


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