黙示録講解

(第322回)


説教日:2018年2月4日
聖書箇所:ヨハネの黙示録2章18節ー29節
説教題:テアテラにある教会へのみことば(75)


 今日も、黙示録2章18節ー29節に記されている、イエス・キリストがテアテラにある教会に語られたみことばについてのお話を続けます。
 今お話ししているのは、26節ー29節に記されている二つの約束のうちの、最初の、

彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

という約束についてです。
 まず、いつものように、この約束を理解するためにわきまえておかなければならない二つのことを、簡単に振り返っておきます。
 第一のことは、父なる神さまがメシアとしてお立てになったイエス・キリストにお委ねになった権威は、この世の支配者たちの権威と質的に違っているということです。メシアの権威は、イエス・キリストがご自身の民である私たちのために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことに最も豊かに、また鮮明に現されています。
 この約束を理解するためにわきまえておかなければならない第二のことは、この、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

という約束のことばは、詩篇2篇8節ー9節に、

 わたしに求めよ。
 わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、
 地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、
 焼き物の器のように粉々にする。

と記されているみことばを、いくつかことばを変えて引用したものであるということです。
 そして、詩篇2篇に記されているみことばは、サムエル記第二・7章12節ー14節前半に記されている、

あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。

という、「」がダビデに与えてくださったダビデ契約を背景として記されています。
 それで、サムエル記第二・7章に記されているダビデ契約にかかわるみことばも、そのダビデ契約に基づいて詩篇2篇に記されているみことばも、また、詩篇2篇8節ー9節に記されているみことばを引用している、

 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。

というイエス・キリストの約束のことばも、古い契約の下での「地上的なひな型」に当てはまることばで記されています。
 ですから、このイエス・キリストの約束を新しい契約の下にあるメシアの国に当てはめて、私たちのこととして考えるときには、第一のこととしてお話しした、メシアの国の権威は、その王であるイエス・キリストがご自身の民である私たちのために十字架におかかりになって、贖いの代価としてご自身のいのちをお捨てになったことに最も豊かに、また鮮明に現されているということに照らして理解する必要があります。


 先主日と先々主日には、「」がダビデに与えてくださった契約において、ダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」と約束してくださったことの歴史的な背景には、「」がアブラハムを召してくださったときに与えてくださった、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という、創世記12章3節に記されている祝福の約束と、その祝福の約束に基づいて「」がアブラハムに与えてくださった契約、アブラハム契約があるということをお話ししました。
 そして、この、

 地上のすべての民族は、
 あなたによって祝福される。

という祝福の約束に出てくる「地上のすべての民族」は、この12章の前の11章1節ー9節に記されているバベルにおいて「」のさばきを受けて、全地に散らされていった「地上のすべての民族」であるということもお話ししました。
 「地上のすべての民族」は、「」がダビデに与えてくださった契約において「とこしえまでも堅く立て」てくださると約束してくださった「王国の王座」に着座されるまことのダビデの子によって真の意味で一つに集められ、「」の民として回復され、「」を神として礼拝することを中心として、「」の御前を歩むようになるのです。
 今日は、このことと関連して、ダビデ契約に約束された永遠の王座に着座する王としてのメシアの権威について、もう一つのことをお話しします。
 まことのダビデの子として来てくださったメシアであるイエス・キリストは、いろいろな機会に、ご自身の国がこの世の国ではないことを証ししておられます。その一つですが、ヨハネの福音書18章36節には、ユダヤの当局者によって逮捕され、ローマの総督ピラトに引き渡されて、ローマの権威を代表しているピラトの審問を受けているイエス・キリストが、ピラトに、

わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。

と証しされたことが記されています。
 ここで、イエス・キリストは

わたしの国はこの世のものではありません。・・・事実、わたしの国はこの世のものではありません。

と繰り返し証ししておられます。今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、このこととともにイエス・キリストが、ご自身の国について、

もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。

と述べておられることです。
 この時、イエス・キリストを逮捕しようとしてやって来たのは、3節に、

そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。

と記されていますように、ユダに案内された「一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たち」でした。
 彼らは「ともしびとたいまつと武器を持って」いたと言われていますが、「ともしびとたいまつ」を持っていたのは、この時が、過越の食事をした後の時で、夜だったからです。
 また、「そこに来た」と言われているときの「そこ」とは、1節に「ケデロンの川筋の向こう側に」あると記されている「」のことで、ここではその名は記されていませんが、ゲツセマネの園のことです。
 ここに出てくる「一隊の兵士」の「兵士」は補足です。この「一隊」(スペイラ)は、ローマの軍隊の部隊を表すことばの一つです。「一隊」(スペイラ)は、額面通りには、760人の歩兵と240人の騎兵を合わせて千人からなる部隊です。しかし、実際には、それぞれの部隊によって人数は異なりますが、約600人の歩兵からなる部隊のことです。そして、この「一隊」(スペイラ)は、約6千人の歩兵と付随する騎兵隊と予備隊からなる軍団(レギオーン)を10の部隊に分割したものの一つです。これを率いているのが、12節に出てくる「千人隊長」です。
 ちなみに、その「一隊」(スペイラ)は、さらに、三つの、200人の歩兵からなる部隊に分かれ、その三つのそれぞれが、さらに、二つの、100人の歩兵からなる部隊に分かれます。この100人の歩兵からなる部隊を率いているのが、聖書によく出てくる「百人隊長」です。
 ここでは、この時、「千人隊長」に率いられた部隊が出動したと言われていますが、必ずしも、その部隊、すなわち「一隊」(スペイラ)の全員が出動したとは限りません。この「一隊」と訳されていることば(スペイラ)は、さらに三つに分割された、200人の歩兵からなる部隊をも表すことがあるようですし、その場合でも、全員が出動したとは限りません。
 12節ー13節前半には、イエス・キリストが逮捕されたことが、

そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕らえて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。

と記されています。
 ここでも、先ほど引用しました3節でも、ユダヤ人の役人より前に、このローマ軍の部隊である「一隊の兵士」が出てきます。これは、ユダや当局者からの通報と要請を受けたユダヤに駐在していた総督府が、この時、イエス・キリストのことを危険分子で、ローマに対する反乱を企てる可能性があると考えていたことを示しています。しかも、そのような反乱は祭りのために、地中海世界のさまざまな地域から集まってきている群衆を扇動することによって始まる可能性がありました。この時は、過越の祭りの時ですので、そのような危険が想定されていました。
 イエス・キリストがメシアとしてのお働きをされた期間を「公生涯」と呼びますが、特に、イエス・キリストの公生涯の初期には、多くの群衆がイエス・キリストのことを自分たちが期待しているメシアであると考えて、イエス・キリストにつき従っていました。その後、イエス・キリストの教えを聞いて、失望して、イエス・キリストから離れていった人々もいました(ヨハネの福音書6章60節)。とはいえ、イエス・キリストの公生涯の終わりに近づく日々においても、イエス・キリストが神から遣わされた預言者であると信じている人々がいて、ユダヤの当局者たちはイエス・キリストを逮捕することができませんでした(マタイの福音書21章46節、マルコの福音書11章32節、12章12節)。
 このようなことは、ローマの総督府も把握していたはずです。
 そのような状況の中で、イエス・キリストは、ユダヤの当局者たちの通報と要請によって出動したローマの軍隊とユダヤ人の役人たちによって逮捕されました。
 その時のことを記している10節ー13節前半節には、

シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」そこで、一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人から送られた役人たちは、イエスを捕らえて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。

と記されています。
 イエス・キリストは、ご自身の国、メシアの国について、ローマ帝国の権威を代表するピラトに、

もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。

と述べておられますが、実際には、イエス・キリストの弟子たちは剣をもって戦おうとしました。それは、弟子たちが、イエス・キリストを王とするメシアの国のことを、この世の国の一つで、武力をもっての戦いを経て、この世の国々の権力の序列の頂点に立つようになると考えていたためです。これに対して、メシアの国の王であるイエス・キリストは、そのような戦いをやめさせました。その際に、イエス・キリストは、

 父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。

と教えられました。
 いくら、この世の国々をすべて征服して権力を掌握し、すべての人を従わせたとしても、罪に縛られている人を一人でも罪から解放し、罪がもたらす死と滅びから救い出して、神さまとの本来の関係に回復することはできません。イエス・キリストは、父なる神さまのみこころに従って、ご自身が十字架におかかりになって、私たちご自身の民の罪の贖いを成し遂げようとしておられたのです。それによって、私たちを神さまとの本来の関係に回復してくださるためです。
 ピラトは、イエス・キリストが逮捕された時にどのようなことがあったかについての報告を受けていたはずです。そして、実際に、直接的にイエス・キリストを尋問してみて、イエス・キリストが武装蜂起してローマに対して反乱を企てようとしているのではないことを認めました。ヨハネの福音書18章38節には、

 私は、あの人には罪を認めません。

というピラトのことばが記されています。ピラトはユダヤにおけるローマの総督として任命されたほどの人物で、政治的、軍事的な判断力を備えていました。これは、そのピラトの判断です。

 このこととのかかわりで、さらに、もう一つのことに触れておきたいと思います。
 同じくイエス・キリストが逮捕された時のことを記しているマタイの福音書26章51節ー54節には、

すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。

と記されています。
 この「イエスといっしょにいた者のひとり」はペテロであったことが、先ほど引用しましたヨハネの福音書18章10節に記されています。
 改めて注目したいのは、この時、ペテロは武装蜂起をしようと考えていたということです。その原因は、先ほどお話ししましたように、ペテロがメシアの国をこの世の国々の一つのように考えていたことがありますが、これにはもう一つのことがかかわっていたと考えられます。
 それは、このマタイの福音書26章51節ー54節の少し前の31節ー32節において、イエス・キリストが、

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

と語られて、弟子たちがつまずくことを予告されたことです。
 これに対して、ペテロがどのように反応したかは、33節ー35節に記されていますが、それについては、いったんおいておいて、まずは、このイエス・キリストの予告のみことばに注目したいと思います。
 ここでイエス・キリストが引用しておられる、

 わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる

というみことばは、ゼカリヤ書13章7節に記されている、

 剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、
 わたしの仲間の者を攻めよ。
 ――万軍のの御告げ――
 牧者を打ち殺せ。
 そうすれば、羊は散って行き、
 わたしは、この手を子どもたちに向ける。

という預言的なみことばです。
 少し分かりにくいですが、ここに出てくる「牧者」は(また「仲間の者」も)単数で、「」は複数です。この「牧者」は、「」が「わたしの牧者」と呼んでおられることから分かりますが、「」のしもべとしての「牧者」です。旧約聖書にも見られることですが、古代オリエントの文化では、王が「牧者」と呼ばれていました。ですから、これは南王国ユダにとっては、ダビデの子として王座に着いている王です。その意味で、ここに記されていることはダビデ契約にかかわっています。
 ここでは、そのような「」のしもべとしての「牧者」が打たれると言われています。新改訳は、

 牧者を打ち殺せ。

となっていますが、「打ち殺せ」と訳されていることば(ナーカー)は、基本的に、「打つ」ことを表していますので、このことば自体からは「牧者」が殺されるかどうかはっきりしません。しかし、文脈からは、「牧者」が殺されることが示されていると考えられます。その文脈については、後ほどお話しします。
 ここでは「」のしもべとしての「牧者」、ダビデの子として永遠の王座に着座されるべき王が打ち殺されることが示されていますが、この預言のみことばは絶望で終わってはいません。続く8節ー9節には、

 全地はこうなる。
 ――の御告げ――
 その三分の二は断たれ、死に絶え、
 三分の一がそこに残る。
 わたしは、その三分の一を火の中に入れ、
 銀を練るように彼らを練り、
 金をためすように彼らをためす。
 彼らはわたしの名を呼び、
 わたしは彼らに答える。
 わたしは「これはわたしの民」と言い、
 彼らは「は私の神」と言う。

と記されています。
 ここでは、「」の恵みとあわれみによって残される残りの者たちの回復が預言されています。特に、

 彼らはわたしの名を呼び、
 わたしは彼らに答える。
 わたしは「これはわたしの民」と言い、
 彼らは「は私の神」と言う。

というみことばは、「彼ら」残りの者が「」の契約の祝福にあずかっていることを示しています。
 これを7節からの流れで見ますと、その残りの者の回復は、「」のしもべとしての「牧者」、ダビデ契約に約束されているダビデの子としての王が打ち殺されることによっていることが示されています。その意味で、この「牧者」はイザヤ書52章13節ー53章12節に記されている「」のしもべ、一般に「苦難のしもべ」と呼ばれている方に相当します。イザヤ書53章5節には、その「」のしもべのことが、

 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

と記されています。
 このゼカリヤ書13章7節の、

 剣よ。目をさましてわたしの牧者を攻め、
 わたしの仲間の者を攻めよ。
 ――万軍のの御告げ――
 牧者を打ち殺せ。
 そうすれば、羊は散って行き、
 わたしは、この手を子どもたちに向ける。

というみことばは、この前の12章10節に、

わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。

と記されているときの、「自分たちが突き刺した者」が、この「牧者」であることを示しています。また、この12章10節に記されているみことばも「ダビデの家とエルサレムの住民」について語っていて、ダビデ契約と深くかかわっています。
 そして、ここでは「ダビデの家とエルサレムの住民」が、「自分たちが突き刺した者」、すなわち、13章7節の「牧者」のために、「ひとり子を失って嘆くように」嘆き、「初子を失って激しく泣くように」激しく泣くと言われています。このことから、13章7節では、この「牧者」はただ打たれるだけではなく、打ち殺されることが示されていると考えられます。これが先ほど触れました、13章7節で「牧者」が打たれると言われていることの文脈が示すことです。
 また、「ダビデの家とエルサレムの住民」が、「自分たちが突き刺した者」、すなわち、打ち殺された「牧者」のために、嘆き、激しく泣くということは、彼らが「自分たちが突き刺した者」のことで、真実に、悔い改めるようになることを意味しています。
 そして新約聖書は、この「自分たちが突き刺した者」が十字架につけられたイエス・キリストであることを証ししています(ヨハネの福音書19章37節、黙示録1章7節)。
 これらのことから、マタイの福音書26章31節ー32節において、イエス・キリストが、

そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」

と語られて、弟子たちがつまずくことを予告されたことは、単なる予告ではありません。また、運命的にどうしようもないことを示しているのでもありません。イエス・キリストは、それが「」のみこころとして旧約聖書に預言されていたことであるということとともに、つまずいてしまう弟子たちが、また、同じようにつまずくであろう「」の民たちが、「」の恵みとあわれみによって残され、回復されることをも示しておられるのです。
 引用したみことばの最後にある、

 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。

というイエス・キリストのみことばは、この回復とかかわっています。
 けれども、ペテロも他の弟子たちも、このように恵みとあわれみに満ちたイエス・キリストのみことばを理解し、受け止めることはできませんでした。これに続く33節ー35節には、

すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。

と記されています。
 自らのうちにある理解の不備に気づかないままに、主のみことばを歪めて受け止めてしまった弟子たちの問題は、また、私たちの内に潜んでいる問題でもあることを心に刻みたいと思います。

 51節ー53節に戻りますが、このような強い自信を示し、それとしての覚悟をしていた、ペテロとしては、イエス・キリストが逮捕されようとしていた時、「千人隊長」に率いられたことまでは知らなかったでしょうが、その武装の仕方から分かるローマの部隊がいたとしても、ひるむことなく剣で切りかかったということでしょう。ここで自分たちが剣をもって戦いを始めれば、イエス・キリストがメシアとしての権威を発揮して、ローマ帝国を初めとして国々を打ち破り、メシアの国がすべての国々を支配するようになるというような思いをもってのことだったのでしょう。
 この時、イエス・キリストはペテロに、

それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。

と語りかけました。
 ここに「十二軍団」が出てきますが、この「軍団」は、先ほど触れたレギオーンで、ローマ軍においては、約6千人の歩兵と付随する騎兵隊と予備隊からなる軍団を指しています。これが「十二軍団」であることは、ユダを除く12弟子、11人とイエス・キリストで12人となり、一人当たり1軍団であるという見方があります。
 しかも、それは、人の軍団ではなく、御使いの軍団です。
 このことは、一つのことを思い起こさせます。列王記第二・19章35節には、ヒゼキヤ王の時代に、エルサレムを包囲していたアッシリア軍のことが、

その夜、の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。

と記されています。この場合の「の使い」は単数ですが、旧約聖書にしばしば見られる、肉体を取って来てくださる前の御子の栄光の顕現(クリストファニー)である可能性があります。そうではないとしても、その方は、お一人で、一夜のうちに、アッシリア軍をおさばきになり、「十八万五千人」のアッシリア軍の兵士を「打ち殺した」のです。
 いずれにしましても、イエス・キリストは「十二軍団よりも多くの御使い」を率いることができる主、旧約聖書のことばで言えば「万軍の」、ヤハウェです。
 実際、イエス・キリストが逮捕された時のことを記している、ヨハネの福音書18章3節ー6節には、

そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか」と彼らに言われた。彼らは、「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「それはわたしです」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた。イエスが彼らに、「それはわたしです」と言われたとき、彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストが、ご自身を逮捕しにやって来た人々に、

 それはわたしです

と言われた時、

 彼らはあとずさりし、そして地に倒れた。

と記されています。この不思議な出来事を理解する鍵は、イエス・キリストが言われた、

 それはわたしです

ということばが、強調形の一人称現在時制のエゴー・エイミであるということです。このことばは、私たちが普通に言う、

 それはわたしです

を意味することがありますが、ここで、起こったことに照らして見ますと、イエス・キリストが契約の神である「」、歴史の支配者であるヤハウェであられることをお示しになったものであると考えられます。
 その意味で、イエス・キリストが言われた、

 それはわたしです

ということばは、イザヤ書41章4節に、

 わたし、こそ初めであり、
 また終わりとともにある。わたしがそれだ。

と記されており、48章12節に、

 わたしがそれだ。
 わたしは初めであり、また、終わりである。

と記されているときの、

 わたしがそれだ。(アニー・フー)

に相当します。
 武装して、イエス・キリストを逮捕しようとしてきた人々は、突然、「万軍の」ヤハウェであられる方が、ご自身がどなたであるかを表された御声を聞いてしまったのです。もちろん、彼らは何が起こったかを十分に理解できたわけではありません。しかし、彼らが我に返ることができたのは、続く7節に、

そこで、イエスがもう一度、「だれを捜すのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「それはわたしだと、あなたがたに言ったでしょう。もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい。」

と記されているように、イエス・キリストがもう一度語りかけてくださったことによっています。
 ここでイエス・キリストが言われた、
 それはわたしだ
もエゴー・エイミですが、これは私たちも使う「それは私です」に当たります。イエス・キリストがこのように語りかけ、ご自身を「差し出して」くださったので、「一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たち」はイエス・キリストを逮捕することができたのです。
 このように、イエス・キリストは「十二軍団よりも多くの御使い」を率いることができる「万軍の」ヤハウェです。そうなさろうと思われれば、たちまちのうちに、ローマ帝国の全軍を打ち倒すこともおできになります。しかし、それはイエス・キリストのみこころではありませんでした。イエス・キリストが、

だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。

と教えておられるように、イエス・キリストが求めておられるのは、父なる神さまのみこころであり、その父なる神さまのみこころは、すでに、旧約聖書において、預言的に示されていたことです。
 イエス・キリストはご自身の民の罪を贖うために、父なる神さまによって遣わされました。それで、この時、捕らえられ、十字架につけられて殺される道を選び取っておられます。
 ヨハネの福音書10章18節に、

だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

と記されているように、イエス・キリストは父なる神さまのみこころにしたがってご自身のいのちをお捨てになることにおいて、ダビデ契約に約束されている永遠の王座に着座されるメシアとしてのご自身の権威を発揮しておられます。


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