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説教日:2018年1月28日 |
先主日には、「主」がダビデに与えてくださった契約において、ダビデの子の「王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」と約束してくださってことの歴史的な背景には、「主」がアブラハムを召してくださったときに与えてくださった、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 という、創世記12章3節に記されている祝福の約束があるということをお話ししました。 このダビデ契約とアブラハムへの祝福の約束とのつながりを理解することは、イエス・キリストがテアテラにある教会へのみことばにおいて与えてくださっている、約束のことばを理解するうえで決定的な意味をもっています。その、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。 という約束は、一見すると、「諸国の民」にとっては「鉄の杖をもって土の器を打ち砕くように」粉砕されてしまうことのように思われます。しかし、この約束はより深いところで、「主」がアブラハムに与えてくださった祝福の約束とつながっていて、「諸国の民」の祝福にかかわっています。 このことはダビデ契約とアブラハムへの祝福の約束、さらには、その祝福の約束に基づいて結ばれたアブラハム契約との間につながりがあることを踏まえていますが、先主日は、その二つがどのようにつながっているかについてはお話ししませんでした。今日は、それについて以前お話ししたことを補足しながら、改めて確認しておきたいと思います。 そのことをお話しする前に、先主日にお話ししたもう一つのことで、これからお話しすることとかかわっていることに触れておきます。 12章3節に記されている、「主」がアブラハムに与えてくださった約束において、 地上のすべての民族は、 あなたによって祝福される。 と言われているときの「地上のすべての民族」は、この12章の前の章の11章1節ー9節に、 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。 と記されている、バベルにおいて「主」のさばきを受けて「地の全面」に散らされた「すべての民族」のことです。 今日お話しすることとかかわっていることだけに触れておきますと、4節には、 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」 と記されています。この時、人々が言った、 さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。 ということばは、直訳調に訳すと、 さあ、われわれは、われわれのために町を建て、頂が天に届く塔を建て、われわれのために名をあげよう。 となり、「われわれのために」ということばが繰り返されています。これは、この人々が「町を建て」「頂が天に届く塔」を建てたのは、自分たちを神格化して、神と対抗しようとするためであったことを意味しています。 そして、人々がそのようなことを企てたことの目的が、 われわれが全地に散らされるといけないから。 ということばに示されています。これは、天地創造の御業のことを記している1章28節に、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されており、ノアの時代の大洪水によるさばきの後のことを記している9章1節に、 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 と記されている神さまの祝福を、そして、神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命を意識的に踏みつけようとする姿勢を示しています。それは、この人々が「町を建て」「頂が天に届く塔」を建てたのは、自分たちを神格化して、神と対抗しようとするためであったことに具体的に現れています。彼らが造り出す歴史と文化はこのような特質をもっていたのです。 神さまはこのようなことを企てている人々をおさばきになって、彼らを「地の全面」に散らされました。アブラハムはそのようにして「地の全面」に散らされた「すべての民族」の祝福のために召されました。 先主日お話ししたように、バベルで「主」のさばきを招くようなことを企てたのは、引用はしませんが、さらにその前の10章の6節ー12節に記されている、ニムロデの帝国の人々でした。そして、「主」は「地の全面」に散らされた「すべての民族」の祝福のためにアブラハムを召してくださいました。さらに、後ほどお話ししますが、「主」は、アブラハムに与えられた「地上のすべての民族」の祝福の約束を実現してくださるためにダビデに契約を与えてくださいました。これらのことから、ダビデ契約に約束されている永遠の王座に着くメシアの国は、ニムロデの帝国の対極、正反対のところにあることが分かります。ニムロデの帝国は自分たちを神格化して、神と対抗しようとする歴史と文化を造り出し、メシアの国は「主」を神として礼拝することを中心とした歴史と文化を造り出します。 アブラハム契約とダビデ契約のつながりを考えるために注目したいのは、「主」がアブラハムと契約を結んでくださったことを記している創世記17章1節ー8節のみことばです。 そこには、 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。 「わたしは全能の神である。 あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。 わたしは、わたしの契約を、 わたしとあなたとの間に立てる。 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。 「わたしは、この、わたしの契約を あなたと結ぶ。 あなたは多くの国民の父となる。 あなたの名は、 もう、アブラムと呼んではならない。 あなたの名はアブラハムとなる。 わたしが、あなたを多くの国民の 父とするからである。 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」 と記されています。 今お話ししているアブラハム契約とダビデ契約のつながりを示ものとして注目したいみことばが二つあります。 一つは、6節に記されている、 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。 というみことばです。特に、 あなたから、王たちが出て来よう。 という預言的なみことばは、そのつながりを示しています。この「王」が出てくることの約束は、サラについて記している16節において、 わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。 と約束されていること、さらには、35章11節に記されていますが、神さまがヤコブに語られた、 わたしは全能の神である。 生めよ。ふえよ。 一つの国民、諸国の民のつどいが、 あなたから出て、 王たちがあなたの腰から出る。 という約束のみことばにも受け継がれていきます。 アブラハム契約とダビデ契約のつながりを示ものとして注目したいもう一つのみことばは、8節に記されている、 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 というみことばです。 この約束のみことばの中心は、カナンの地が与えられること自体ではありません。そうではなく、そこで、 わたしは、彼らの神となる。 という「主」の契約の祝福が実現することにあります。そのことは、その前の7節に記されている、 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 と記されているみことばにおいて、「主」がアブラハムと契約を結んでくださったことの目的が、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 と言われていることから分かります。 「主」の契約の祝福は、レビ記26章11節ー12節に記されている、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 というみことばに集約されます。 このみことばでは、「主」の契約の祝福には二つの面があることが示されています。一つは、「主」がご自身の契約の民の間にご臨在してくださり、彼らとともに歩んでくださることです。もう一つは、「主」が彼らの神となってくださり、彼らが「主」の民となるということです。そして、この二つのことは一つのことの裏表で、一つがあれば必ずもう一つがあります。 「主」がアブラハムに語られた、 わたしは、彼らの神となる。 という約束は、「主」がご自身の契約の祝福の二つの面をアブラハムの子孫たちの間に実現してくださることを示しています。そして、その前に記されているカナンの地を与えてくださるという約束は、その約束の地で、ご自身の契約の祝福を現実のものとしてくださることを示しています。 ですから わたしは、彼らの神となる。 という約束は、約束の地において、「主」がアブラハムの子孫たちのあいだにご臨在してくださって、アブラハムの子孫たちが「主」の御臨在の御前を歩み、「主」を神として礼拝することを中心として、歴史と文化を造るようになることに現れてきます。 そのためには、「主」がご臨在されるための神殿が建設されなければなりませんし、「主」のしもべとして、「主」のみこころを行う王が立てられ、その王国の主権が確立されるだけでなく、それが歴史的に継続していかなければなりません。 このような意味合いをもっているアブラハム契約に基づいて、アブラハムの子孫であるイスラエルの民は出エジプトの贖いの御業にあずかってエジプトを出てから、カナンの地に侵入して、ダビデの時代に統一王国となりました。 そして、「主」がダビデに契約を与えてくださったことを記しているサムエル記第二・7章の1節ー2節には、 王が自分の家に住み、主が周囲のすべての敵から守って、彼に安息を与えられたとき、王は預言者ナタンに言った。「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」 と記されています。「主」がダビデを用いて約束の地カナンにおいて統一王国を実現してくださったとき、ダビデは「主」のお住まいとしての神殿の建設を志しました。それは、「主」の契約の祝福である、 わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。たしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 ということが実現することを信じてのことであり、願ってのことです。そのことを受けて、先ほど触れました、 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。 という、ダビデ契約の約束が与えられました。 「主」がアブラハムに与えてくださった契約の祝福は、ダビデによってではなく、ダビデの世継ぎの子によって実現することが約束されています。そして、それはまことのダビデの子として来てくださった神の御子イエス・キリストによって実現しています。 このようなアブラハム契約とダビデ契約のつながりを念頭に置きながら、創世記17章1節ー8節に記されている、「主」がアブラハムに与えられた約束をもう少し見てみましょう。 先ほど取り上げました6節には、「主」がアブラハムに約束してくださった、 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。 と言うみことばが記されています。 前半の、 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやす という約束のみことばで「子孫をふやす」と訳されていることば(パーラー[ここではその使役語幹が用いられています])は、植物が「実を結ぶ」ことや、人や生き物が「多くの子を生む」ことを表します。 今お話ししていることとかかわりで、このことばが用いられている二つの個所を見てみたいと思います。 一つは、創世記1章28節に記されている、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 というみことばです。 ここには、神さまが創造の御業において人を神のかたちとしてお造りになって、ご自身が造られた歴史的な世界の歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが記されています。この歴史と文化を造る使命において「生めよ」と訳されているのがこのことば(パーラー[の命令形])です。ここでは、これに「ふえよ」ということば(ラーバー[の命令形])が加えられています。 もう一つは、創世記9章1節ー2節に記されている、 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、――地の上を動くすべてのもの――それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。 というみことばです。 ここには、創造の御業において神のかたちとして造られている人に委ねられた歴史と文化を造る使命が、ノアの時代に執行された大洪水によるさばきの後に、再び与えられた(更新された)ことが記されています。 ノアの時代に執行された大洪水によるさばきは、ただ、その時代の人や生き物たちを滅ぼしただけのものではありません。その時代に至るまでに人が築いてきた歴史と文化を清算してしまう、終末的なさばきでした。その時代に至るまでに生まれて、地に増え広がっていた人々や生き物たち、さらに、歴史的な建造物、政治的、経済的、法的、芸術的、さらには軍事的な遺産などの社会的・文化的な営みによって生み出されたもののすべてが清算されてしまったのです。 また、この時に、罪を極まらせた人ばかりではなく生き物たちもが滅ぼされたことには意味があります。実は、創世記6章11節ー13節に、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。 と記されているとおり、人も生き物も「地とともに」滅ぼされたのです。それは、先ほど引用しました、創世記1章28節に、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 と記されている歴史と文化を造る使命において、生き物たちばかりでなく「地」も、神のかたちとして造られている人との一体にあるものとされているからです。 けれども、このようなさばきが執行されたことによって、天地創造の御業において、神のかたちとして造られている人に与えられた歴史と文化を造る使命が取り消されてしまったのではなく、大洪水によるさばきが執行された後の時代の初めに、改めて、更新されたのです。 神さまがノアとその息子たちに語られたみことばに出てくる、 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 という祝福のことばは、1章28節に記されている歴史と文化を造る使命に出てきたことばです。 このように、17章6節で、神さまがアブラハムに契約を与えてくださったときに語られた、 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやす というみことばに出てくる「多くの子を生む」ことを表すことば(パーラー[ここでは使役語幹で「子孫をふやす」])は、神さまが天地創造の御業の初めと、大洪水によるさばきをが執行された後の歴史の初めに、神のかたちとして造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことを記している中で用いられています。そして、どちらにおいても、新しい(意味をもっている)歴史の初めに、神さまが祝福とともに委ねてくださった歴史と文化を造る使命とかかわっています。 それで、神さまがアブラハムに契約を与えてくださったことにおいても、歴史的に新しいことが始められたということを思わせます。 確かに、ここ17章6節に記されている、 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやす というみことばには、1章28節と9章1節に記されている、 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 というみことばに出てくる「生めよ」に当たる「多くの子を生む」ことを表すことば(パーラー[「子孫をふやす」])が用いられているだけで、「ふえる」ということば(ラーバー)は用いられていません。 けれども、これに先立つ2節には、 わたしは、わたしの契約を、 わたしとあなたとの間に立てる。 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。 という「主」のみことばが記されています。この「主」のみことばにおいて、 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。 と言われているときの「ふやす」ということば(ラーバー[ここではその使役語幹が用いられています])は、1章28節と9章1節に出てくる、 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 というみばに出てくる「ふえる」ということば(ラーバー)です。 ですから、「主」がアブラハムに与えてくださった契約においては、実質的に、1章28節と9章1節に出てくる、 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。 という、新しい歴史の出発に際して神さまが与えてくださった祝福のみことばが踏まえられていると考えられます。 また、このこととの関連で注目したいのは、2節に、 わたしは、あなたをおびただしくふやそう。 と記されており、6節に、 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし と記されていることです。 ここでは「おびただしく」ということばで、2節の「ふやす」ということば(ラーバー)と、6節の「子孫をふやす」ということば(パーラー[「多くの子を生ませる」ことを表す])が強調されています。この「おびただしく」と訳されていることば(ビムオード・メオード)は「非常に」「多いに」などの強調を表すことば(副詞・メオード)を二つ重ねて、強調をさらに強調するものです。これによって、ここではアブラハムから生まれる子孫がふえることがきわめて特別なことであることが示されています。 これらのことから、「主」がアブラハムに与えてくださった契約と、それにつながっているダビデ契約が、創造の御業において神さまが神のかたちとして造られている人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命が本来の姿に回復されることにかかわっていることが分かります。 実際、詳しい説明は省きますが、ローマ人への手紙の大きな流れで見ますと、8章19節ー23節において取り扱われている万物の回復は、4章13節ー21節に出てくるアブラハム契約とのかかわりで示されています。また、ダビデ契約の約束の実現を預言的に記しているイザヤ書11章1節ー5節に続く、6節ー9節には、 狼は子羊とともに宿り、 ひょうは子やぎとともに伏し、 子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、 小さい子どもがこれを追っていく。 雌牛と熊とは共に草をはみ、 その子らは共に伏し、 獅子も牛のようにわらを食う。 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、 乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。 わたしの聖なる山のどこにおいても、 これらは害を加えず、そこなわない。 主を知ることが、 海をおおう水のように、地を満たすからである。 と記されていて、被造物世界が本来の姿に回復されることが預言的に示されています。 そして、そのような、神のかたちとして造られている人に委ねられている歴史と文化を造る使命の本来の広がりの中で、 彼に諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。 というイエス・キリストの約束が与えられています。 |
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